牙
彼女は、名前を言わなかった。
「名前は?」とリーナが聞くと、少女はしばらく黙ってから、こう答えた。
「レクス」
「レクス。それが名前?」
「そう呼ばれてた」
呼ばれてた、という言い方が引っかかったが、俺たちはそれ以上聞かなかった。
彼女は、俺の三歩後ろを歩いた。なぜ俺の後ろなのかは、わからない。リーナが並ぼうとすると距離を取り、ガルドが近づくと重心を落とした。フェンリスに至っては、近づく前に彼のほうが引いた。「あの匂いの近くだと落ち着かねえ」らしい。俺の後ろだけが、彼女にとって許容できる位置だった。
「どうしてですか」
一度だけ聞いてみた。
「あなたが、いちばん弱い」
「はい」
「だから、いい」
俺の存在意義は、この数日で急速に確立されつつある。方向性に問題があるだけだ。
*
待ち伏せに遭ったのは、街道に戻って半日後だった。
前方の岩場から、七人。振り返ると、後方の茂みから六人。左右の斜面に、あと二人ずつ。
「十七」フェンリスが低く言った。「囲まれてる」
「灰喰いか?」
「装備が同じだ。……頭目がいる」
前方の七人の中央に、一人だけ、体格の違う男が立っていた。長身。革鎧の上に鎖帷子。手に持っているのは、幅の広い曲刀だった。
「昨日、野営地にいなかった連中ね」リーナが囁いた。「別働隊よ。仲間が全滅したのを知って——」
「追ってきたわけだ」ガルドが鎚を下ろした。
「よお」頭目が言った。声が、意外なほど落ち着いていた。「うちの若いのを、二十人ばかり片づけたのは、お前らか」
「違うわ」リーナが答えた。「あんたらが到着したのは、そのあとだって聞いた。ギルドの連中がそう言ってた」
「じゃあ、なんで聞くの」
「確認だ」
男は曲刀の先で、俺たちを順になぞった。そして、俺の後ろで止まった。
「そこの、白い髪の」
レクスは、答えなかった。
「野営地に足跡が残ってた。小せえ足でな。裸足に近い。血を踏んで、丘のほうへ歩いてった」
足跡。俺は、自分の甘さを思い知った。俺たちが目録に載せまいとして黙ったところで、痕跡そのものは残っている。追える人間は追う。当たり前の話だった。
「頼みがある」頭目は言った。「そいつを置いてけ。あとの四人は通していい」
嘘だ、と思った。嘘だとわかる程度には、俺もこの三か月で少し賢くなった。ここで四人を通す理由がない。目撃者を残す盗賊は、長生きしない。
「断る」ガルドが言った。
「そうか」男は、あっさり頷いた。「じゃあ、全部だ」
*
始まった。
前方から七人。ガルドが正面で受けた。後方の六人には、フェンリスが飛び込んだ。彼の速度は、狭い場所ほど生きる。リーナが斜面の弓兵を撃ち落とす。一人。二人。
俺は、走った。道の脇へ。低木の陰へ。持ってきた縄を出しながら。
縄を張るつもりだった。十七人を四人で捌くのは無理だ。だが、後方の六人を足止めできれば、フェンリスが前へ回れる。大角狼のときと同じだ。地形を使って、数を割る。
俺は太い木の根に縄を回して、結んだ。低く、膝の高さに張った。
来い。盗賊の一人が、こちらへ走ってきた。そして——跨いだ。
「……え」
跨がれた。見ればわかるのだ、当たり前だが。昼間で、視界は良好で、縄は黒くもなく、隠す落ち葉もない。獣なら足を取られる。人間は跨ぐ。
二人目も跨いだ。三人目は縄を見て笑った。
俺は、その場に立ち尽くした。
考えろ。他に何がある。鎖はない。錠もない。封鉛もない。術式も、結界も、この場のどこにもない。盗賊たちが着ているのは、革と鉄だ。留め具は金具で、紐は太い。解いたところで、鎧が少し緩むだけだ。それで死ぬ人間はいない。彼らの武器は、鉄の塊だ。誰も結んでいない。ただ鍛えて、削って、研いだだけのもの。
何も、ない。俺の指が触れられるものが、この戦場のどこにも、ひとつもなかった。
森狼のときは、動けなかった。大角狼のときは、動いた。動いて、結界の留め具を見つけた。だから三秒で足りた。今回は、動いている。走って、探して、目を凝らして、それでも——ない。
これは、恐怖とは違うものだった。もっと静かで、もっと徹底的だった。
「坊主!! 下がれ!!」
ガルドの怒声で、我に返った。顔を上げると、盗賊が一人、俺のほうへ走ってきていた。剣が振りかぶられていた。
避けられなかった。いや、避けようとはした。体を捻った。左肩が持っていかれる、と思った。
その盗賊が、消えた。消えた、というのは、俺の目の処理が追いつかなかっただけだ。実際には、二つに分かれて、左右に倒れた。
*
俺の視界の端に、白いものが見えた。レクスの手だった。
いや——手ではない。手の甲から、白いものが伸びていた。手首を覆うように、層になって、指の外側を通って、そのまま前へ。前腕ほどの長さで、先が三日月に湾曲している。
骨に似ていた。象牙にも似ていた。だがどちらでもない。表面に、細かい鱗のような紋が走っている。
光っていなかった。音もしなかった。魔力の気配すらなかった。リーナが精霊を呼ぶときのような、あの空気が張る感じが、まったくない。ただ、そこにある。両手に、一対ずつ。
彼女が、動いた。俺の目には、ほとんど映らなかった。映ったのは、結果だけだ。
二人目が分かれた。三人目が分かれた。四人目は、逃げようとして背を向けて、背を向けたまま分かれた。
抵抗がない。それが、いちばん恐ろしかった。
刃物というのは、必ず引っかかる。骨に当たれば止まるし、鎧に当たれば弾かれる。ガルドが言ったとおりだ。押し切るものだから、跡が残る。
レクスの牙は、引っかからなかった。鎖帷子も、革鎧も、骨も、まるでそこに何もないみたいに、通り抜けた。
十秒。たぶん、それくらいだった。前方の七人が、五人になり、三人になり、頭目だけになった。
男は、曲刀を構えていた。構えてはいたが、その顔は、もう戦う人間の顔ではなかった。
「……なんだ、それは。なんだ、その手は」
レクスは、答えなかった。彼女は歩いた。歩きながら、両手を下げていた。構えてもいなかった。
頭目が、曲刀を振った。上段から、正確に、速く。レクスは避けなかった。左の牙を上げた。曲刀が、根元から分かれた。そして、そのまま——
音がして、静かになった。俺は、それを最後まで見ていた。目を逸らせなかった。
*
残っていた盗賊のうち、四人が逃げた。そのうち二人が、斜面を回り込んで、リーナの背後に出た。
「リーナ!!」
俺が叫んだときには、レクスが動いていた。一度、消していた牙を、また形成した。
二度目だ。なぜかそれを数えていた。数えても意味はないのに、俺の頭は勝手に数えていた。
二人が分かれた。残りの二人は、そのまま逃げた。追わなかった。
終わった。道に、十三人が倒れていた。そのうち十一人が、レクスの手によるものだった。ガルドが一人、フェンリスが一人。リーナの矢は、逃げた者に当たっただけで致命傷にはなっていない。
俺は、ゼロだった。縄を一本、無駄に張っただけだ。
*
レクスが、こちらへ歩いてきた。牙は、もう消えていた。いつ消えたのかは、わからない。伸びるところも消えるところも、俺の目は捉えられなかった。ただ、彼女の両手は、いま、ただの手だった。
小さい手だった。指が細くて、爪が短くて、あちこちに古い傷がある、子どもの手。
「……怪我、してない」
彼女が言った。俺のことだった。
「はい」
「よかった」
そう言って、彼女は俺の三歩後ろに戻った。いつもの位置に。
その言葉に、俺が何か返す前に、背後で金属が地面に落ちる音がした。
振り返った。ガルドだった。鎚を、落としていた。
九十二年、あの鎚を握ってきた男が、握力を失っていた。彼は落ちた鎚を見ていなかった。レクスを見ていた。正確には、いま牙が消えたばかりの、彼女の両手を見ていた。顔から、血の気が引いていた。
「ガルド?」リーナが声をかけた。「ガルド、どうしたの」
彼は、答えなかった。唇が動いていた。声になっていなかった。
俺は、一歩近づいた。そして、聞こえた。
「……竜人族だ」
ガルドは言った。震えていた。彼の左手が——指の二本欠けたほうの手が、握ったり開いたりを繰り返していた。
「あれは、竜人族だ」




