四人の食卓
フェンリスの傷は、十七針だった。
縫ったのはガルドだ。九十二年生きていると縫合もできるらしい。「鍛冶と同じだ」と彼は言った。「割れたもんを合わせて留めるだけだ」。
その理屈で人間を縫われている当人は、酒袋を咥えて黙っていた。
「痛いなら言いなさいよ」
「言ったら早く終わるのか」
「終わらないわ」
「じゃあ言わねえ」
リーナが呆れた顔をした。俺は湯を沸かす係だった。適材適所である。
*
野営地は、空き地から少し離れた沢のそばに取った。倒れた大角狼のそばで寝る気には、誰もならなかった。
ガルドは、それでも一度だけ戻って、角の先を切り取ってきた。手のひらほどの欠片が二つ。
「これ、いくらになるんですか」
「金貨で八枚だな」
俺は湯をこぼしそうになった。金貨八枚。銀貨に直すと八十枚。銅貨だと——計算する気にもならない。俺の三か月の稼ぎを全部足しても、まだ届かない。
「四人で割るぞ」
「え、俺もですか」
「お前が一番働いた」ガルドは当たり前のように言った。「俺は盾を割っただけだ。犬っころは血を流しただけだ。嬢ちゃんは矢を全部失くしただけだ。あいつを殺したのはお前の三秒だよ」
「そんな、俺は」
「議論はしねえ。等分だ」
*
「ねえ」リーナが火をつつきながら言った。「ギルドには、報告しないほうがいいと思うの」
「なんでだ」
「わたしたち、討伐依頼を受けてないもの。無許可の狩りよ。それに——」彼女は少し言い淀んだ。「結界を、壊したわ」
火が爆ぜた。
「あの結界、誰かが手を入れてた。セインが見つけた縄、あれ数十年前のものよ。誰かが定期的に補修してるってことは、誰かがあの結界を『あってほしい』と思ってるってこと」
「その誰かに、目をつけられるってことか」
「わたしはそう思う」
ガルドは腕を組んだ。しばらく考えて、頷いた。
「同意だ。角は売る。話はしねえ」
「セインは?」
俺は、湯を注ぐ手を止めた。
「……報告しないことに、賛成です」
「理由は」
「下水と同じ手口だったので」
三人が、俺を見た。
「ハルグの下水にも、同じ形の封印がありました。術式が刻んであって、その下を鎖と封鉛で留めてある。石板そのものは二百年ぶんの汚れをかぶっていたのに、鎖と封鉛はそこまで古くなかった。あれも数十年前に、誰かがあとから手を入れた細工でした。古い封印を、物理的な留め具で補修していたんです」
「町の下水と、千年前の森の結界が」
「同じ人が留め直してるかは、わかりません。でも、同じやり方です」
リーナが革筒に手を伸ばした。炭筆が走る音が、しばらく続いた。
*
飯は、干し肉と豆と、リーナが摘んできた野草の粥だった。ガルドが煮た。相変わらず旨い。九十二年ぶんの技術は、ここでも遺憾なく発揮される。
「なあ、鍛冶屋」フェンリスが匙を咥えたまま言った。「あんた、なんでこの仕事受けたんだ」
「聞くのが遅えな。三日目だぞ」
「三日目に聞きたくなったんだよ」
ガルドは鍋をかき混ぜて、しばらく黙った。
「昔、相棒がいた」
「ほう」
「そいつと一緒に、あるものを作ろうとした。作れなかった」
「それで?」
「それだけだ」
「それだけかよ」
「それだけだ」
ガルドは椀を差し出した。会話を終わらせるときの、この人特有のやり方だ。俺は椀を受け取った。指のことは、聞かなかった。左手の欠けた二本と、作れなかった何かが繋がっているのは、たぶん誰でもわかる。誰でもわかることを、わざわざ聞く必要はない。
「エルフの嬢ちゃんはどうなんだ」ガルドが振った。「あの遺跡だ。四回目で、こんな目に遭ってる。なんでそこまでする」
リーナは椀を両手で包んだ。
「祖母がね」
「祖母?」
「千二百歳なの。大戦を生きてる。実際に見てるの」
フェンリスが顔を上げた。「千二百」
「エルフでも長いほうよ。……その祖母に、わたしは百二十七年、同じことを聞いてる。『あのとき何があったの』って」
「答えは?」
「『まだ早い』」
彼女は笑った。まったく笑っていない笑い方だった。
「百二十七年。同じ四文字。わたしが五歳のときも、五十歳のときも、去年も」
「……そりゃ、腹も立つな」
「腹は立たないの。もう」リーナは粥をすすった。「ただ、あの人が死ぬ前に、わたしが自分で見つけたいだけ。それだけよ」
「犬っころは」
「犬っころ言うな」
「フェンリスは」
「……十六年前に、部族を出た」彼は仰向けのまま言った。傷のせいで、まともに座れないのだ。「出たっていうか、追い出された」
「なにをやった」
「壊した」
「なにを」
「祭壇」
火が鳴った。リーナの手が止まった。俺も止まった。ガルドだけが、平然と鍋をかき混ぜていた。
「妹がいてな」フェンリスは、空を見たまま言った。葉の隙間から、星が少し見えていた。「そのときは、まだ小せえかった」
「妹さんは」
「無事だ」
「いまも?」
「たぶんな。……十六年、会ってねえ」
彼はそこで口を閉じた。俺たちも、それ以上聞かなかった。
*
会話が途切れた。火が小さくなって、ガルドが薪を足した。沢の水音が、急に大きく聞こえるようになった。
俺は、椀の底に残った粥を見ていた。
三人が、それぞれ何かを話した。作れなかったもの。百二十七年の四文字。壊した祭壇。三人とも、全部は話していない。核心は懐にしまったままだ。それでも、輪郭は出した。ここに座っている自分がどういう形をしているかを、三人はそれぞれ、少しだけ差し出した。
俺は、何も出していない。灰鱗のことも。二晩の夢のことも。胸の奥にある、解けない結び目のことも。
「セイン」フェンリスが、仰向けのまま言った。
「はい」
「お前、前に言ったよな。こわいまま行っても変わらねえって」
「……言いましたっけ」
「エルフから聞いた」
リーナが「言ってないわ」という顔をした。言っている。
「あれ、どういう意味だ」
俺は、少し考えた。
「そのままの意味です」
「そのままの意味って?」
「こわいから行かない、を続けると、何も起きないので」
「経験談か」
「まあ」
「いつの」
——前世です。三十二年ぶんです。
そう言えばよかった。そこで言えば、たぶん、何かが少し変わった。三人は驚くだろうが、追い出しはしないだろう。この三人はそういう連中だ。今日それがよくわかった。
でも、俺の喉は動かなかった。
「……昔のことです」
「昔って、お前まだ十五だろ」
「はい」
「変な奴だな」
「よく言われます」
フェンリスは、それ以上聞かなかった。追及されなかったことに、俺は安心して、そのあとすぐ、安心した自分に少しうんざりした。
*
その夜、俺は最後の見張りだった。三人の寝息を聞きながら、火を見ていた。ガルドは深く。フェンリスは浅く、時々うなされている。リーナはほとんど聞こえない。
三日前は、この三人の名前も知らなかった。いまは、寝息の違いがわかる。
悪くないな。そう思って、それから、自分の胸に手を当てた。
結び目は、そこにある。三か月前に見つけて以来、一度も動いていない。
俺は誰にも言っていない。言えばいい。言ってしまえばいい。フェンリスは「変な奴だな」で済ませるだろうし、ガルドは「そうか」で済ませるだろうし、リーナに至っては目を輝かせて記録を取り出すだろう。
わかっている。わかっているのに、言わない。
言わないまま、俺は三人の話を聞いて、頷いて、粥をよそって、それで一日が終わる。上手にやれている。三人とも、俺のことを「聞き上手な奴」だと思っているはずだ。前世でも、そう思われていた。
思われていて、それで、誰も俺のことを知らないまま、俺は死んだ。
火が、また小さくなった。俺は薪を足して、膝を抱えた。
三人とも、自分の話をした。俺だけが、何も話さなかった。
——それが俺の、一番古い癖だった。




