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灰燼の神話 〜神殺しの副産物〜  作者: NN
三人の仲間

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17/28

三秒

「リーナさん!! 石柱! 中央の石柱を見てください!」


俺は叫んだ。


「なに!?」


「傷が塞がるのと、同じ拍で光ってます!」


リーナが振り返った。一瞬だけだった。空になった矢筒を放り出し、彼女は空き地の中央へ目をやった。そして、動きが止まった。


「——嘘」


「読めますか」


「読める。読めるけど——」彼女の声が掠れた。「これ、結界よ。森全体に張ってある。しかもこの規模、里の大結界と同じ格。人間の術師に組めるものじゃない」


「その結界が、あいつに力を渡してるってことですか」


「渡してるんじゃない」リーナが首を振った。「守ってるの。誰でもじゃない。結界に根づいたものを保つ術式なの。あいつがいつからいるかは、わからない。でも、この土の古さと結界の規模を見るかぎり、千年近くは守られてきたはずよ。育ったというより、守られ続けてきたの。傷が塞がるのは——結界が『内側に根づいたものを保つ』からよ」


  *


「ガルド! 石柱を壊せ!」


リーナが叫んだ。ガルドは返事もしなかった。片膝を跳ね上げるように立って、走った。肋が折れているはずの体で、二十歩を六歩で詰めた。


鎚が、上から落ちた。九十二年ぶんの膂力が、石柱のてっぺんに叩き込まれる。


弾かれた。金属が石を打つ音ではなかった。もっと硬い、もっと乾いた音だった。鎚の頭が跳ね上がり、ガルドの体ごと後ろへ持っていかれる。


「効かねえ!」


彼は着地して、もう一度打った。同じだった。石は傷ひとつない。刻まれた線が、打たれるたびに一度だけ強く光る。守っているのだ。石そのものを、術式が。


「駄目だ! 触れねえ!」


  *


俺は走っていた。考えてから走ったのではない。下水を思い出したのが先で、体が動いたのがその次だった。


術式には、届かない。石板のときもそうだった。掌を当てても、線をなぞっても、何も返ってこなかった。


でも——術式だけで足りるなら、鎖はいらない。


俺は石柱の根元に膝をついて、土を掻いた。爪が割れた。構わなかった。落ち葉と腐葉土をどけると、その下から石柱の基部が出てきた。四角い石が、地面に埋まっている。その周りを——


「あった」


縄が、巻いてあった。石柱の根元をぐるりと三周して、四方に伸びて、地面に打たれた木の杭に留めてある。


縄は古びていた。だが、千年ものではない。苔の付き方から見て、せいぜい数十年。誰かが、そう遠くない昔に、この結界を物理的に留め直している。下水の石板と、同じ手口だった。


「セイン、何やってんの!!」


「留め具です!」俺は叫び返した。「術式は俺には触れません! でも、これは触れます!」


「それ、術式と関係ないでしょ!?」


「関係あります!」


たぶん、と心の中で付け足した。確証はなかった。あるのは、この三か月で溜めた実感だけだ。錠には鍵があり、封は鉛で留められ、結界には——たぶん、留め具がある。魔法だけで千年もつなら、誰も鎖なんてかけない。


指を、縄に当てた。ある。はっきりと、ある。


四方に伸びた縄が、それぞれ杭で留められている。四つの結びが、互いを引き合って、輪を保っている。一つだけ、支点になっているものがある。北側。そこを逃がせば、残りは自分の張力でほどける。


俺は、その結び目に爪をかけた。


三秒。わかった。錠なら一秒。封鉛なら二秒。この結びは、三秒だ。三秒あれば、解ける。三秒の間、俺は動けない。


  *


顔を上げた。大角狼が、こちらを向いていた。濁った白い目が、俺を見ていた。見えていないはずなのに、見ている。獣は前脚を上げて、こちらへ体を向けた。


間に合わない。距離は十五歩。あの脚なら、二歩だ。


「三秒!!」俺は叫んでいた。自分の声とは思えないくらい、大きい声が出た。「三秒ください!! 三秒あれば解けます!!」


灰褐色が、間に入った。フェンリスだった。左腕は下がったまま。肩から胸にかけての傷は、まだ塞がっていない。走るたびに、赤いものが落ち葉に散った。


彼は俺の前に立って、右手の爪を構えた。


「——三秒だな」


「はい」


「作ってやる」


  *


一秒目。大角狼が突っ込んできた。フェンリスは避けなかった。避ければ後ろの俺に届く。彼は真正面から、右腕一本で角を受けた。


受けきれるわけがない。体が浮いた。浮きながら、彼は爪を獣の鼻面に叩き込んだ。獣が、初めて顔を振った。


俺の爪が、縄の一本目に入る。


二秒目。フェンリスが落ちた。膝が笑っている。それでも立った。


「まだだ」彼は言った。誰に言ったのかわからない。たぶん自分にだ。


大角狼の角が横に薙いだ。フェンリスがしゃがんだ。しゃがみながら、前へ出た。獣の顎の下に潜り込んで、喉に爪を立てた。血が噴いた。彼の頭から被った。


赤い。俺の視界の端で、それが見えた。見えたが、手は止めなかった。止めたら三秒がやり直しになる。縄の繊維が、一本、逃げた。


三秒目。


「セイン!!」ガルドの声。「まだか!!」


「いま——」


大角狼が、前脚を上げた。フェンリスの上に、それが落ちる。彼は、避けなかった。避ければ、その勢いのまま俺に届く。だから彼は、その場に踏みとどまった。


ああ。同じだ。ガルドが盾で受けたときと、同じ判断だった。


俺の指が、支点を、逃がした。


  *


ぱん、と音がした。縄が、四方へ弾け飛んだ。杭が二本、地面から抜けて宙を舞った。石柱の刻線が、一度だけ強く光って——消えた。


森が、鳴った。音ではない。空気が変わった。ずっと張っていたものが、緩んだ。


前脚が、フェンリスの上に落ちた。彼は転がって、それを紙一重で外した。土が跳ねた。


そして、大角狼の首から噴き出していた血が、止まらなくなった。


「塞がらねえ!」ガルドが叫んだ。「傷が塞がってねえぞ!!」


獣が、初めて足をもつれさせた。さっきまで踏みしめていた地面が、急に頼りなくなったように、前脚がずるりと滑った。首の傷から、赤いものが流れ続けている。


千年。俺は、その巨体を見上げながら、なぜかそんなことを思った。千年、この森はこいつを守り続けていた。守られ続けたものは、守られなくなった瞬間に、ただの獣に戻る。


「フェンリス!!」ガルドが吼えた。「首だ!!」


灰褐色が、跳んだ。血まみれの体が、俺の頭の上を越えた。右手一本。爪が、さっき自分がつけた傷に、深く入った。


そこから先は、あまり覚えていない。覚えているのは、音だ。何かが裂ける音と、巨大なものが倒れる音と、地面が最後にもう一度跳ねた感触。それから、静けさ。


鳥の声はまだしなかった。だが、風が戻ってきた。


  *


俺は、石柱の根元に座り込んでいた。指が痛い。爪が二枚割れている。土と血で、両手が真っ黒だった。


ガルドは、折れた盾を足元に置き、石柱に背を預けていた。肋を痛めたらしく、息を吐くたびに顔をしかめている。それでも、鎚は手放さなかった。リーナは空になった矢筒を脇に置き、弓を杖のようにして立っていた。肩を大きく上下させているが、意識ははっきりしている。


フェンリスが、こちらへ歩いてきた。歩いてきた、というより、倒れないように前へ進んできた、という感じだった。彼は俺の前で膝をつくと、そのまま尻から落ちた。


「……いってえ」


「フェンリスさん」


「フェンリスでいい」


「フェンリス。傷を」


「あとでいい」


彼は仰向けに転がった。葉の隙間から、空が見えた。しばらく、二人とも黙っていた。


「セイン」


「はい」


「三秒って言ったな」


「言いました」


「ちょうど三秒だった」


「はい」


「……おい」


フェンリスは顔だけこちらに向けた。血で赤黒くなった顔の中で、金色の目だけが、はっきりしていた。


そして、彼は言った。


「お前、使えるじゃねえか」


  *


俺は、返事をしなかった。できなかった、というほうが近い。


十五年。前世を足せば四十七年。その間に、俺は「優しい」と言われた。「器用ですね」と言われた。「便利屋」と呼ばれた。「助かった」とも言われた。


「使える」と言われたのは、初めてだった。


たぶん、褒め言葉としては、かなり雑な部類だと思う。前世の職場で言われたら、少し傷つく類のやつだ。なのに、喉の奥が詰まった。


俺は、地面を見た。割れた爪と、黒い手と、弾け飛んだ縄の切れ端が、そこにあった。


「……どうも」


やっと、それだけ言った。


フェンリスは、もう返事をしなかった。気を失っていた。血まみれのまま、荒い息をいびきのように鳴らしている。


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