大角狼
三十歩、下がった。そこまでは、うまくいっていた。
三十一歩目で、ガルドの踵が枯れ枝を踏んだ。乾いた、小さな音だった。町なら誰も振り向かない程度の音だ。
森が、応えた。
地面が鳴った。一度ではない。連続して、こちらへ向かってくる。
「走れ!!」
ガルドが吼えた。俺たちは走った。走りながら、俺は自分の脚が思ったより動くことに驚いていた。荷運びで鍛えた成果か、恐怖の作用か。たぶん後者だ。
背後で、木が折れる音がした。避けているのではない。折りながら来ている。
「駄目だ、逃げ切れねえ!」フェンリスが叫んだ。「速さが違う! 一回止まって迎え撃つしかねえ!」
「どこでだ!」
「あそこ、開けてる!」
*
飛び出したのは、円形の空き地だった。直径二十歩ほど。木が生えていない。地面が硬く、下生えもない。不自然なくらい、きれいに開けていた。
その中央に、石柱が立っていた。俺の背丈ほどの、四角い石の柱。てっぺんが欠けている。表面には、下水の石板で見たのと似た線が刻まれていた。
術式。一瞬だけ、そう思った。思っただけで、次の瞬間には忘れた。森の奥から、それが出てきたからだ。
最初に見えたのは、角だった。木の枝だと思った。灰白色の枝が、上に向かって何本も伸びている。そこに苔がむし、蔦が絡んでいた。何年もそこに生えていた木の枝だ、と俺の目は判断した。
その枝が、動いた。
木々を押し分けて、体が出てきた。
大きい。大きい、という言葉では足りない。俺の目線の高さに、その獣の前脚の肘があった。頭は、俺が見上げても首が痛くなる位置にある。
灰白色の毛は長く、房になって垂れ下がっていた。房の間から、乾いた土と、腐った葉と、それより古い何かのにおいがした。
目は、白かった。濁った白だ。瞳孔が見えない。見えていないのかもしれない、と俺は思った。なのに、こっちを見ている。
「Bじゃねえな、こりゃ」ガルドが低く言った。「Aだ」
*
「布陣!」
ガルドが背中の大盾を外して、前に構えた。彼が正面。フェンリスが左へ回り込む。リーナが後ろへ下がって弓を引く。俺は——
「坊主! 十歩下がれ! 木の後ろだ!」
「はい!」
俺は走って、太い木の陰に入った。情けない話だが、この配置が最適だという判断は正しい。俺がいて役に立つ場面は、いまのところ、この戦いのどこにもない。
大角狼が、前脚を上げた。そして、踏み下ろした。
地面が跳ねた。比喩ではない。俺の足元の土が、実際に浮いた。木の陰にいた俺が尻餅をつくくらいの震動だった。
「来るぞ!!」
*
突進は、速かった。あれだけの質量が、あの速度で動く理屈が、俺にはわからない。前世で電車が入線してくるのを見たときの感覚に近い。あれと同じものが、土を蹴って走ってくる。
ガルドが盾を構えた。膝を落とし、体を斜めにし、盾の縁を地面に食い込ませる。九十二年ぶんの経験が、その一瞬に凝縮されていた。
受けるのか。俺は目を疑った。避けるべきだ。誰が見てもそう思う。だがガルドは動かなかった。避ければ、後ろのリーナに直進するからだ。
衝突した。音は、聞こえなかった。聞こえたのは、そのあとだった。金属が裂ける音と、木が折れる音が同時に来た。
ガルドの体が、三歩ぶん後ろへ滑った。盾が、割れていた。正面から、真っ二つに。鉄の縁がめくれ上がり、内側の木が飛び散っている。
それでも、彼は立っていた。
「ぐ、……ぉ」
「ガルド!」
「立ってる! 撃て!!」
リーナの矢が飛んだ。一本目が首に刺さった。二本目が肩に刺さった。三本目が、角に弾かれた。大角狼は、止まらなかった。
*
そこからは、目まぐるしかった。
フェンリスが横から爪を入れる。毛皮が厚い。爪が滑る。それでも二度目で肉に届いて、赤いものが噴いた。大角狼が首を振る。角が薙ぐ。フェンリスが跳ぶ。
ガルドが割れた盾を捨てて、鎚を両手で握る。前脚の関節を狙って打つ。骨に当たる音がした。獣が体勢を崩す。リーナの矢が、崩れた瞬間の首に入る。
いける? 一瞬、そう思った。思った直後に、それが甘いとわかった。首に刺さった一本目の矢が、押し出されていた。
見間違いではなかった。刺さった矢が、じわじわと外へ押し出されて、ぽとりと落ちた。そのあとに残った穴が、閉じていく。肉が寄って、毛が被さって、数える間もなく消えた。
「治ってる」俺は、木の陰から声を上げていた。「傷が、塞がってます!」
「見えてる!」ガルドが怒鳴り返した。「知ってるが、他にやりようがねえ!!」
*
それでも、三人は削り続けた。削って、塞がって、また削る。十分ほど続いた。十分というのは、戦っている側にとっては永遠だろうと思う。見ているだけの俺ですら、喉が渇いて仕方がなかった。
そして、均衡が壊れた。
大角狼が、また突進の姿勢を取った。今度の狙いは、ガルドではなかった。矢を番えていた、リーナだった。
「リーナ!!」
彼女は反応した。反応して、跳んだ。跳んだ先が、悪かった。木の根に足を取られて、体勢が崩れた。角が、彼女の頭上に落ちてくる。
間に、灰褐色が入った。フェンリスだった。彼は跳んだ。リーナを突き飛ばす形で、その位置に入った。
角が、彼の左肩から胸にかけて、真横に抜けた。
音は、思ったより小さかった。布を裂くような音がして、それから、彼の体が横に飛んだ。二回転して、落ち葉の上に落ちた。
「フェンリス!!」リーナが叫んだ。
彼は、すぐに起き上がった。起き上がったが、左腕が下がっていた。肩から胸にかけて、毛が一直線に消えている。その下から、赤いものが幅広く溢れていた。
「……いってえ」彼は言った。「久しぶりだな、これ」
「動かないで!」
「動かねえと死ぬ」
彼は右手だけで、地面を掻いた。
*
俺は、木の陰から走り出していた。自分でも、なぜ走ったのかわからない。行っても何もできない。それは証明済みだ。
三歩。今度は、出た。出たが、そこまでだった。
フェンリスの横に膝をついて、俺は自分の腰の袋から布を出した。それを傷に当てた。それしかできなかった。
「押さえてろ」フェンリスが言った。
「え」
「押さえてろって言ってんだ。強く」
俺は、両手で押さえた。温かかった。想像していたより、ずっと温かかった。血というのは、こんなに熱いものなのか。
「セイン」
「はい」
「震えてんぞ」
「すみません」
「謝んな。押さえろ」
*
「矢が——!」リーナの声が飛んだ。「矢が、ない!」
俺は顔を上げた。彼女は矢筒を逆さにして振っていた。何も落ちてこない。地面に散らばった何本かを目で探しているが、大角狼との間に落ちている。取りに行けば、届く前に踏まれる。
ガルドは片膝をついていた。盾はない。鎚は持っている。だが、さっきから同じ場所を庇うようにして立っている。肋が折れているのかもしれない。
フェンリスは、俺の手の下で血を流している。
十分だ。十分で、こうなった。
俺は、木の陰から出てきたことを後悔していなかった。ただ、出てきたところで押さえることしかできない自分の手を、はっきりと理解していた。
大角狼が、四本の脚で立ち直った。首を振る。刺さっていた矢が、また一本、押し出されて落ちた。穴が塞がる。
なんで、塞がるんだ。
そのとき、俺の視界の隅で、何かが光った。
空き地の中央。てっぺんの欠けた、四角い石柱。刻まれた線が、獣の傷が塞がるのと、まったく同じ拍で、かすかに明滅していた。




