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灰燼の神話 〜神殺しの副産物〜  作者: NN
三人の仲間

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16/26

大角狼

三十歩、下がった。そこまでは、うまくいっていた。


三十一歩目で、ガルドの踵が枯れ枝を踏んだ。乾いた、小さな音だった。町なら誰も振り向かない程度の音だ。


森が、応えた。


地面が鳴った。一度ではない。連続して、こちらへ向かってくる。


「走れ!!」


ガルドが吼えた。俺たちは走った。走りながら、俺は自分の脚が思ったより動くことに驚いていた。荷運びで鍛えた成果か、恐怖の作用か。たぶん後者だ。


背後で、木が折れる音がした。避けているのではない。折りながら来ている。


「駄目だ、逃げ切れねえ!」フェンリスが叫んだ。「速さが違う! 一回止まって迎え撃つしかねえ!」


「どこでだ!」


「あそこ、開けてる!」


  *


飛び出したのは、円形の空き地だった。直径二十歩ほど。木が生えていない。地面が硬く、下生えもない。不自然なくらい、きれいに開けていた。


その中央に、石柱が立っていた。俺の背丈ほどの、四角い石の柱。てっぺんが欠けている。表面には、下水の石板で見たのと似た線が刻まれていた。


術式。一瞬だけ、そう思った。思っただけで、次の瞬間には忘れた。森の奥から、それが出てきたからだ。


最初に見えたのは、角だった。木の枝だと思った。灰白色の枝が、上に向かって何本も伸びている。そこに苔がむし、蔦が絡んでいた。何年もそこに生えていた木の枝だ、と俺の目は判断した。


その枝が、動いた。


木々を押し分けて、体が出てきた。


大きい。大きい、という言葉では足りない。俺の目線の高さに、その獣の前脚の肘があった。頭は、俺が見上げても首が痛くなる位置にある。


灰白色の毛は長く、房になって垂れ下がっていた。房の間から、乾いた土と、腐った葉と、それより古い何かのにおいがした。


目は、白かった。濁った白だ。瞳孔が見えない。見えていないのかもしれない、と俺は思った。なのに、こっちを見ている。


「Bじゃねえな、こりゃ」ガルドが低く言った。「Aだ」


  *


「布陣!」


ガルドが背中の大盾を外して、前に構えた。彼が正面。フェンリスが左へ回り込む。リーナが後ろへ下がって弓を引く。俺は——


「坊主! 十歩下がれ! 木の後ろだ!」


「はい!」


俺は走って、太い木の陰に入った。情けない話だが、この配置が最適だという判断は正しい。俺がいて役に立つ場面は、いまのところ、この戦いのどこにもない。


大角狼が、前脚を上げた。そして、踏み下ろした。


地面が跳ねた。比喩ではない。俺の足元の土が、実際に浮いた。木の陰にいた俺が尻餅をつくくらいの震動だった。


「来るぞ!!」


  *


突進は、速かった。あれだけの質量が、あの速度で動く理屈が、俺にはわからない。前世で電車が入線してくるのを見たときの感覚に近い。あれと同じものが、土を蹴って走ってくる。


ガルドが盾を構えた。膝を落とし、体を斜めにし、盾の縁を地面に食い込ませる。九十二年ぶんの経験が、その一瞬に凝縮されていた。


受けるのか。俺は目を疑った。避けるべきだ。誰が見てもそう思う。だがガルドは動かなかった。避ければ、後ろのリーナに直進するからだ。


衝突した。音は、聞こえなかった。聞こえたのは、そのあとだった。金属が裂ける音と、木が折れる音が同時に来た。


ガルドの体が、三歩ぶん後ろへ滑った。盾が、割れていた。正面から、真っ二つに。鉄の縁がめくれ上がり、内側の木が飛び散っている。


それでも、彼は立っていた。


「ぐ、……ぉ」


「ガルド!」


「立ってる! 撃て!!」


リーナの矢が飛んだ。一本目が首に刺さった。二本目が肩に刺さった。三本目が、角に弾かれた。大角狼は、止まらなかった。


  *


そこからは、目まぐるしかった。


フェンリスが横から爪を入れる。毛皮が厚い。爪が滑る。それでも二度目で肉に届いて、赤いものが噴いた。大角狼が首を振る。角が薙ぐ。フェンリスが跳ぶ。


ガルドが割れた盾を捨てて、鎚を両手で握る。前脚の関節を狙って打つ。骨に当たる音がした。獣が体勢を崩す。リーナの矢が、崩れた瞬間の首に入る。


いける? 一瞬、そう思った。思った直後に、それが甘いとわかった。首に刺さった一本目の矢が、押し出されていた。


見間違いではなかった。刺さった矢が、じわじわと外へ押し出されて、ぽとりと落ちた。そのあとに残った穴が、閉じていく。肉が寄って、毛が被さって、数える間もなく消えた。


「治ってる」俺は、木の陰から声を上げていた。「傷が、塞がってます!」


「見えてる!」ガルドが怒鳴り返した。「知ってるが、他にやりようがねえ!!」


  *


それでも、三人は削り続けた。削って、塞がって、また削る。十分ほど続いた。十分というのは、戦っている側にとっては永遠だろうと思う。見ているだけの俺ですら、喉が渇いて仕方がなかった。


そして、均衡が壊れた。


大角狼が、また突進の姿勢を取った。今度の狙いは、ガルドではなかった。矢を番えていた、リーナだった。


「リーナ!!」


彼女は反応した。反応して、跳んだ。跳んだ先が、悪かった。木の根に足を取られて、体勢が崩れた。角が、彼女の頭上に落ちてくる。


間に、灰褐色が入った。フェンリスだった。彼は跳んだ。リーナを突き飛ばす形で、その位置に入った。


角が、彼の左肩から胸にかけて、真横に抜けた。


音は、思ったより小さかった。布を裂くような音がして、それから、彼の体が横に飛んだ。二回転して、落ち葉の上に落ちた。


「フェンリス!!」リーナが叫んだ。


彼は、すぐに起き上がった。起き上がったが、左腕が下がっていた。肩から胸にかけて、毛が一直線に消えている。その下から、赤いものが幅広く溢れていた。


「……いってえ」彼は言った。「久しぶりだな、これ」


「動かないで!」


「動かねえと死ぬ」


彼は右手だけで、地面を掻いた。


  *


俺は、木の陰から走り出していた。自分でも、なぜ走ったのかわからない。行っても何もできない。それは証明済みだ。


三歩。今度は、出た。出たが、そこまでだった。


フェンリスの横に膝をついて、俺は自分の腰の袋から布を出した。それを傷に当てた。それしかできなかった。


「押さえてろ」フェンリスが言った。


「え」


「押さえてろって言ってんだ。強く」


俺は、両手で押さえた。温かかった。想像していたより、ずっと温かかった。血というのは、こんなに熱いものなのか。


「セイン」


「はい」


「震えてんぞ」


「すみません」


「謝んな。押さえろ」


  *


「矢が——!」リーナの声が飛んだ。「矢が、ない!」


俺は顔を上げた。彼女は矢筒を逆さにして振っていた。何も落ちてこない。地面に散らばった何本かを目で探しているが、大角狼との間に落ちている。取りに行けば、届く前に踏まれる。


ガルドは片膝をついていた。盾はない。鎚は持っている。だが、さっきから同じ場所を庇うようにして立っている。肋が折れているのかもしれない。


フェンリスは、俺の手の下で血を流している。


十分だ。十分で、こうなった。


俺は、木の陰から出てきたことを後悔していなかった。ただ、出てきたところで押さえることしかできない自分の手を、はっきりと理解していた。


大角狼が、四本の脚で立ち直った。首を振る。刺さっていた矢が、また一本、押し出されて落ちた。穴が塞がる。


なんで、塞がるんだ。


そのとき、俺の視界の隅で、何かが光った。


空き地の中央。てっぺんの欠けた、四角い石柱。刻まれた線が、獣の傷が塞がるのと、まったく同じ拍で、かすかに明滅していた。


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