森の主
三つ目の丘の頂上に立ったとき、リーナが指を差した。
「あそこ」
丘の向こうは、森だった。思っていたより広い。稜線から稜線まで、深い緑が敷き詰められている。手前の二つの丘が草地だったぶん、その黒々とした色が唐突に見えた。
「森を抜けて、半日。開けた場所に出るの。遺跡はそこ」
「森は、どれくらいですか」
「歩いて四時間。道はないけど、迷うほどの広さじゃないわ。三回とも問題なく抜けた」
ガルドが目の上に手をかざした。
「あれが、あの森か」
「知ってるの?」
「聞いたことがある程度だ」
彼はそれ以上言わなかった。この人はいつもこうだ。知っていることの半分を口にして、残り半分を懐にしまう。
*
森に入ったのは、昼を少し過ぎたころだった。最初の三十歩で、フェンリスが立ち止まった。
「おい」
「どうしたの」
「静かすぎる」
言われて、俺も気づいた。音がない。いや、正確には、音はある。風が葉を鳴らす音。俺たちの足が落ち葉を踏む音。それだけだ。
鳥の声がしない。虫の音もしない。
森狼のときと同じだ、と思った瞬間、鳩尾のあたりが冷たくなった。
「リーナさん。前に来たときも、こうでしたか」
彼女は答えるのに、少し時間をかけた。
「……ううん」周囲を見回しながら、彼女は言った。「違うわ。全然違う。前は、うるさいくらいだった。鳥が多くて、記録を取るのに苦労したのを覚えてる」
「いつです」
「去年の秋。それから、今年の春に二回」
「半年で、こうなったってことですか」
リーナは答えなかった。
*
ガルドが鎚を背から下ろした。
「進むか、戻るか、決めるぞ」
「進むわ」
「即答か」
「三回来て三回入れなかったのよ。四回目で引き返せると思う?」
「思わねえな」ガルドは苦笑した。「だが嬢ちゃん、ひとつ言っとく。森ってのは、獣がいるから静かじゃねえんだ。獣がいなくなると静かになる」
「知ってるわ」
「獣がいなくなる理由は、二つしかねえ」彼は指を二本立てた。「一つ、餌がなくなった。二つ——」
「もっとでかいのが来た」フェンリスが、ガルドの言葉を引き継いだ。
*
俺たちは、隊列を変えた。先頭がフェンリス、次にガルド、その後ろに俺、最後尾がリーナ。俺が真ん中なのは、俺を守る配置だからだ。異議はない。異議を唱えられる立場でもない。
一時間ほど歩いた。森は、深くなっていくというより、古くなっていった。木が太い。下生えが少ない。落ち葉の層が厚く、歩くたびに足がふかりと沈んだ。
「変ね」リーナが言った。
「なにがですか」
「この森、若いはずなの。木の太さから言って、二百年くらい。それにしては——」彼女は太い幹に手を当てた。「土が古すぎる」
「土に古い新しいがあるんですか」
「あるわよ。落ち葉が腐って土になるのに、何百年もかかるの。この厚さは、二百年ぶんじゃない」
「じゃあ、何年ぶんですか」
リーナは足元を見た。
「……千年、くらい」
千年。その数字が出た瞬間、四人の足並みが、ほんの少しだけ乱れた。誰も何も言わなかった。言わなかったが、たぶん全員が同じことを考えた。昨日の夜、丘の上で凍りついた会話のことを。
千年前。大戦の時代。このあたりで、何かがあったんじゃないか。
俺は口に出さなかった。出せば、また二人が黙る。それがわかっていて口を開くほど、俺は勇者じゃない。
*
異変に最初に気づいたのは、やはりフェンリスだった。彼が片手を上げて、全員を止めた。
「止まれ」
「どうした」
「……これは」
彼は膝をついて、落ち葉を払った。そこに、窪みがあった。
最初、俺にはそれが何かわからなかった。落ち葉の下の土が、なだらかに沈んでいる。水たまりの跡か何かだと思った。
フェンリスが、その縁をなぞった。
「足跡だ」
俺は、もう一度その窪みを見た。足跡? 窪みは、俺が両膝をついて座れるくらいの大きさがあった。前世で言えば、ちょうど風呂桶の底くらいだ。深さは、指を三本立てて余る。周囲の土が、外側に向かって盛り上がっている。踏んだ重さで、押し出されたのだ。
「……これ、一歩ぶんですか」
「一歩ぶんだ」フェンリスの声が、少し掠れていた。「見ろ。四つある」
彼が示した先に、同じ窪みが並んでいた。前足二つ、後ろ足二つ。四つで一組。歩幅は——俺が三歩で届くかどうか。
「四足獣だ。狼型」
「なんでわかるの」
「爪の跡の入り方だ。前足の先が食い込んでる。走ってはいねえ。歩いてる」
「歩いて、これ?」
「歩いて、これだ」
*
ガルドが、俺の横に並んだ。彼は鎚の柄を握り直して、窪みをじっと見ていた。
「グレイヴホーンだな」
「知ってるんですか」
「見たことはねえ。話に聞いただけだ」彼は言った。「大角狼。森が古くなると出る。狼の形をしてるが、狼じゃねえ。角が生える」
「角?」
「頭に。枝みたいなのが、上に向かって伸びる」
俺は、その姿を想像しようとした。風呂桶ほどの足で地面を歩く、角の生えた狼。想像しきれなかった。想像できるのは、せいぜい馬くらいの大きさまでだ。それ以上になると、頭の中で像が結ばない。
「ガルド」リーナが言った。「討伐対象になるレベルは?」
「Bだ」
「……B」
「Bだな」
俺たちの内訳は、Fがひとり、Eがひとり、あとの二人は登録すらしていない。
「戻るぞ」ガルドが言った。今度は苦笑ではなかった。「これは無理だ。装備が足りねえ。人数も足りねえ。ギルドに報告して、討伐隊を組んでもらえ」
「待って」リーナが食い下がった。「遺跡はもうすぐなのよ。あと二時間よ」
「二時間、こいつの庭を歩くのか」
「……」
「嬢ちゃん。俺は嘘が下手だ。だから正直に言う」ガルドは彼女を見た。「俺一人なら行く。俺一人なら、死んでも俺のぶんだけだ。だが四人だと、俺が死ぬと三人が死ぬ」
リーナは、しばらく黙っていた。それから、革筒を握りしめて、小さく頷いた。
「……わかったわ」
*
引き返そうとした、そのときだった。
フェンリスの耳が、ぴん、と立った。裂けたほうの耳も、残ったほうの耳も、同じ方向を向いた。
「動くな」彼は囁くように言った。「全員、動くな」
俺は、その場で凍りついた。風が止まっていた。葉が、鳴らなかった。
見られている。そう感じた。理屈ではなかった。背中の皮膚が、勝手にそう判断した。前世でも、今世でも、俺は誰かに注目された経験がほとんどない。それでも、これはわかった。人間には、見られていることを知る仕組みが、どこかに残っているらしい。
森の奥。俺たちが進む予定だった方向。木々の隙間の、その向こう。暗い。暗いだけだ。何も見えない。なのに、そこに何かがいることだけは、はっきりとわかった。
「……ガルド」
「言うな」ガルドが小声で遮った。「振り返るな。走るな。ゆっくり下がれ」
俺たちは、一歩ずつ後ろへ下がった。一歩、二歩。落ち葉が、かさりと鳴った。
その音に応えるように——森の奥で、地面が、鳴った。
重い音だった。太鼓ではない。もっと低い。腹の底に直接来る音だ。一度。それから、少し間を置いて、もう一度。
足音だった。
近づいては、こなかった。ただ、二歩ぶん、こちらを向いた。それだけだった。
それだけで、俺の膝は、笑うのをやめてくれなかった。




