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灰燼の神話 〜神殺しの副産物〜  作者: NN
三人の仲間

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14/32

祈る場所がない

丘は、思ったより急だった。


ハルグを出て半日。二つ目の丘の中腹で、俺の脚は早くも他人のものになりつつあった。荷運びで鍛えたはずの体が、坂には別の理屈があると教えてくる。


「坊主、荷を寄越せ」


「大丈夫です」


「顔が大丈夫じゃねえ」


ガルドは俺の背嚢から水袋を二つ抜き取って、自分の腰に下げた。彼の荷は、もともと俺の倍ある。それでいて息が乱れていない。ドワーフの脚というのは、坂を上るために組まれているらしい。


「ドワーフは山の民だからな」


「山がない土地では?」


「不便だ」


前を歩くフェンリスは、そもそも荷を持っていなかった。持たないのではなく、持たせてもらえなかった。「お前は先を見ろ」とガルドが言い、実際、彼は先を見ていた。


そのフェンリスが、突然しゃがんだ。


「来るぞ。四つ」


「え」


「右の藪」


言い終わる前に、藪が鳴った。


  *


野犬だった。


大きい。魔物と呼ぶほどではないが、家畜を襲うには十分な体格をしている。それが四頭、俺たちを半円に囲んだ。


森狼のときの記憶が、勝手に戻ってきた。


金色の目。土のにおい。動かなかった三歩。


——今度は。


俺は短剣に手をかけた。


かけた時点で、終わっていた。


一頭目がフェンリスの爪で沈み、二頭目がガルドの鎚で吹き飛び、三頭目にリーナの矢が刺さり、四頭目が逃げた。


八秒くらいだったと思う。


俺は短剣を抜いてすらいなかった。


「……終わりですか」


「終わりだ」


ガルドが鎚を肩に担ぎ直した。


「坊主、抜くな」


「はい」


「抜いても振れねえだろ。振れねえもんを抜くと、味方の邪魔になる」


正論だった。


しかも、優しい言い方をしようとして失敗した正論だった。ガルドは嘘が下手なだけでなく、たぶん、慰めも下手だ。


「セイン」


リーナが矢を回収しながら言った。


「気にしないで。わたしも最初はそうだったわ」


「最初っていつですか」


「八十年くらい前」


「……」


「あ」


エルフは、時々こうなる。


  *


その日は、二つ目の丘を越えたところで野営になった。


火を熾し、干し肉を炙り、粥を煮る。ガルドの飯は旨かった。九十二年生きていると、そういう技術も自然に溜まるらしい。


腹が満ちると、話が緩む。


「なあ、エルフの嬢ちゃん」フェンリスが串を咥えたまま言った。「お前、里を出て何年だ」


「三十年よ」


「三十年帰ってねえのか」


「五年に一度は帰るわ。帰るたびに喧嘩して出てくるけど」


「よくやるな」


「あなたは?」


フェンリスの手が、少しだけ止まった。


「十六年」


「帰ってないの?」


「帰れねえ」


それきり、彼は串を火に近づけた。


リーナも、それ以上聞かなかった。俺も聞かなかった。ガルドは最初から聞いていない。


——聞かない、で回る集団だな。


そう思って、俺は少しおかしくなった。傷を持った人間が四人集まると、こういう均衡になる。誰も踏み込まないので、誰も転ばない。かわりに、誰も近づかない。


  *


だから、たぶん、油断していたのだと思う。


粥をよそいながら、俺は何気なく言った。


「この丘って、昔は何かあったんですかね」


「何かって?」


「いえ、遺跡があるくらいだから、昔は人が住んでたのかなと。……そういえば」


そこで、口が滑った。


本当に、何も考えていなかった。


「この地方の守護神って、なんていう神だったんですか」


  *


火の音だけが、残った。


薪が爆ぜる。


その音が、やけに大きく聞こえた。


ガルドが、酒袋に手を伸ばした。無言だった。栓を抜いて、呷って、また栓をした。動作が異様に丁寧だった。


フェンリスは、動かなかった。


咥えていた串を、そっと下ろした。それから、喉の奥で低い音を出した。唸り声だ。俺に向けたものではない。彼自身も、たぶん出しているつもりがない。


首の後ろの毛が、逆立っていた。


俺は、匙を持ったまま固まった。


——なんだ、これ。


「……ねえ」


リーナだった。


彼女だけが、身を乗り出していた。


「二人とも。いま、なんで黙ったの」


「嬢ちゃん」


「答えて。わたし、ずっとこれを聞いて回ってるの。三十年よ。誰に聞いても同じ顔をされる。でも、あなたたちは仲間でしょう。ここは里じゃないし、人間の町でもない。丘の上よ。誰も聞いてない」


「やめろ」


低い声だった。


フェンリスだ。


「やめろ、エルフ」


「なんで」


「わからねえ」


彼は自分の膝を掴んでいた。指が、深く食い込んでいた。


「わからねえんだよ。……その話になると、腹の底が冷える。誰に教わったわけでもねえ。理由もねえ。ただ、こうなる」


「それ、おかしいと思わない?」


「思うさ」


フェンリスは顔を上げた。


金色の目が、火に照らされていた。


「思うから、余計に気持ちが悪い」


  *


ガルドは、最後まで何も言わなかった。


彼は焚き火に薪を足して、鎚の柄を布で拭いて、それから毛布を被った。


「見張りは坊主からだ。次が俺、その次が犬っころ、最後が嬢ちゃん」


「犬っころ言うな」


「順番は変えねえ」


それで、その夜の会話は終わった。


  *


見張りは、静かだった。


丘の上は風が通る。火が横に流れて、そのたびに影が動く。三人の寝息は、それぞれ違う音がした。ガルドは深く、フェンリスは浅く、リーナはほとんど聞こえない。


俺は膝を抱えて、火を見ていた。


考えていたのは、さっきの二人の顔だった。


ガルドの丁寧すぎる動作。フェンリスの逆立った毛。


あれは「話したくない」ではない。


「話したくない」なら、あんな顔にはならない。あれは、話そうとした瞬間に体が勝手に止まる顔だった。ハルドがそうだった。役所の連中は、質問の意味すら理解しなかった。フェンリスに至っては、理由がないことを本人が自覚したうえで、それでも止まっている。


——おかしいのは、みんなの反応じゃない。


俺は、そこでようやく、順序が逆だったことに気づいた。


みんなが黙っているから、この世界には神の話がないのではない。


この世界に神の話がないから、みんなが黙るのだ。


  *


考えを進めてみた。


俺は、この十五年で「神」という言葉を何度も聞いている。


学問所で習った。「大戦の前には神々がいた」。物語にも出てくる。年寄りの口癖にも出てくる。「神も仏もあるものか」に相当する言い回しは、この世界にもある。


つまり、概念は残っている。


じゃあ、何が消えているのか。


——名前だ。


固有名詞が、ひとつも出てこない。


「神々」はある。「守護神」もある。だが、その神が何という名前だったのかを、俺は一度も聞いたことがない。学問所の教科書にも書いていなかった。あのとき俺は、書いていないことに気づきさえしなかった。


そして、もうひとつ。


町外れの祠を思い出す。石積みに結わえられた布切れ。旅の無事を祈って、病が治るようにと願って、通りがかりの人間が結んでいくもの。


あれは、誰に向けて結んでいるんだ。


誰も言わない。「昔からそうしている」としか言わない。


成人の儀もそうだった。父が言葉を述べ、俺が礼をして、終わり。誰に向かって述べたのか、誰も口にしない。


——宛先がない。


そこまで考えて、俺は背中に鳥肌が立つのを感じた。


祈る行為は、残っている。


願う気持ちも、残っている。


宛先だけが、世界中から、きれいに抜き取られている。


抜き取ったあとの穴を、誰も見ないようにしている。見ないようにしているという自覚すら、もう誰も持っていない。


俺は焚き火を見た。


火が、風で横に流れた。


——誰が。


いつ。


なんのために。


背中の後ろで、丘の草が鳴った。


俺は振り返った。誰もいない。眠っている三人と、暗い斜面と、星があるだけだった。


胸の奥で、あの結び目が、ほんの少しだけ疼いた気がした。


気のせいだと思った。


思うことにした。


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