祈る場所がない
丘は、思ったより急だった。
ハルグを出て半日。二つ目の丘の中腹で、俺の脚は早くも他人のものになりつつあった。荷運びで鍛えたはずの体が、坂には別の理屈があると教えてくる。
「坊主、荷を寄越せ」
「大丈夫です」
「顔が大丈夫じゃねえ」
ガルドは俺の背嚢から水袋を二つ抜き取って、自分の腰に下げた。彼の荷は、もともと俺の倍ある。それでいて息が乱れていない。ドワーフの脚というのは、坂を上るために組まれているらしい。
「ドワーフは山の民だからな」
「山がない土地では?」
「不便だ」
前を歩くフェンリスは、そもそも荷を持っていなかった。持たないのではなく、持たせてもらえなかった。「お前は先を見ろ」とガルドが言い、実際、彼は先を見ていた。
そのフェンリスが、突然しゃがんだ。
「来るぞ。四つ」
「え」
「右の藪」
言い終わる前に、藪が鳴った。
*
野犬だった。
大きい。魔物と呼ぶほどではないが、家畜を襲うには十分な体格をしている。それが四頭、俺たちを半円に囲んだ。
森狼のときの記憶が、勝手に戻ってきた。
金色の目。土のにおい。動かなかった三歩。
——今度は。
俺は短剣に手をかけた。
かけた時点で、終わっていた。
一頭目がフェンリスの爪で沈み、二頭目がガルドの鎚で吹き飛び、三頭目にリーナの矢が刺さり、四頭目が逃げた。
八秒くらいだったと思う。
俺は短剣を抜いてすらいなかった。
「……終わりですか」
「終わりだ」
ガルドが鎚を肩に担ぎ直した。
「坊主、抜くな」
「はい」
「抜いても振れねえだろ。振れねえもんを抜くと、味方の邪魔になる」
正論だった。
しかも、優しい言い方をしようとして失敗した正論だった。ガルドは嘘が下手なだけでなく、たぶん、慰めも下手だ。
「セイン」
リーナが矢を回収しながら言った。
「気にしないで。わたしも最初はそうだったわ」
「最初っていつですか」
「八十年くらい前」
「……」
「あ」
エルフは、時々こうなる。
*
その日は、二つ目の丘を越えたところで野営になった。
火を熾し、干し肉を炙り、粥を煮る。ガルドの飯は旨かった。九十二年生きていると、そういう技術も自然に溜まるらしい。
腹が満ちると、話が緩む。
「なあ、エルフの嬢ちゃん」フェンリスが串を咥えたまま言った。「お前、里を出て何年だ」
「三十年よ」
「三十年帰ってねえのか」
「五年に一度は帰るわ。帰るたびに喧嘩して出てくるけど」
「よくやるな」
「あなたは?」
フェンリスの手が、少しだけ止まった。
「十六年」
「帰ってないの?」
「帰れねえ」
それきり、彼は串を火に近づけた。
リーナも、それ以上聞かなかった。俺も聞かなかった。ガルドは最初から聞いていない。
——聞かない、で回る集団だな。
そう思って、俺は少しおかしくなった。傷を持った人間が四人集まると、こういう均衡になる。誰も踏み込まないので、誰も転ばない。かわりに、誰も近づかない。
*
だから、たぶん、油断していたのだと思う。
粥をよそいながら、俺は何気なく言った。
「この丘って、昔は何かあったんですかね」
「何かって?」
「いえ、遺跡があるくらいだから、昔は人が住んでたのかなと。……そういえば」
そこで、口が滑った。
本当に、何も考えていなかった。
「この地方の守護神って、なんていう神だったんですか」
*
火の音だけが、残った。
薪が爆ぜる。
その音が、やけに大きく聞こえた。
ガルドが、酒袋に手を伸ばした。無言だった。栓を抜いて、呷って、また栓をした。動作が異様に丁寧だった。
フェンリスは、動かなかった。
咥えていた串を、そっと下ろした。それから、喉の奥で低い音を出した。唸り声だ。俺に向けたものではない。彼自身も、たぶん出しているつもりがない。
首の後ろの毛が、逆立っていた。
俺は、匙を持ったまま固まった。
——なんだ、これ。
「……ねえ」
リーナだった。
彼女だけが、身を乗り出していた。
「二人とも。いま、なんで黙ったの」
「嬢ちゃん」
「答えて。わたし、ずっとこれを聞いて回ってるの。三十年よ。誰に聞いても同じ顔をされる。でも、あなたたちは仲間でしょう。ここは里じゃないし、人間の町でもない。丘の上よ。誰も聞いてない」
「やめろ」
低い声だった。
フェンリスだ。
「やめろ、エルフ」
「なんで」
「わからねえ」
彼は自分の膝を掴んでいた。指が、深く食い込んでいた。
「わからねえんだよ。……その話になると、腹の底が冷える。誰に教わったわけでもねえ。理由もねえ。ただ、こうなる」
「それ、おかしいと思わない?」
「思うさ」
フェンリスは顔を上げた。
金色の目が、火に照らされていた。
「思うから、余計に気持ちが悪い」
*
ガルドは、最後まで何も言わなかった。
彼は焚き火に薪を足して、鎚の柄を布で拭いて、それから毛布を被った。
「見張りは坊主からだ。次が俺、その次が犬っころ、最後が嬢ちゃん」
「犬っころ言うな」
「順番は変えねえ」
それで、その夜の会話は終わった。
*
見張りは、静かだった。
丘の上は風が通る。火が横に流れて、そのたびに影が動く。三人の寝息は、それぞれ違う音がした。ガルドは深く、フェンリスは浅く、リーナはほとんど聞こえない。
俺は膝を抱えて、火を見ていた。
考えていたのは、さっきの二人の顔だった。
ガルドの丁寧すぎる動作。フェンリスの逆立った毛。
あれは「話したくない」ではない。
「話したくない」なら、あんな顔にはならない。あれは、話そうとした瞬間に体が勝手に止まる顔だった。ハルドがそうだった。役所の連中は、質問の意味すら理解しなかった。フェンリスに至っては、理由がないことを本人が自覚したうえで、それでも止まっている。
——おかしいのは、みんなの反応じゃない。
俺は、そこでようやく、順序が逆だったことに気づいた。
みんなが黙っているから、この世界には神の話がないのではない。
この世界に神の話がないから、みんなが黙るのだ。
*
考えを進めてみた。
俺は、この十五年で「神」という言葉を何度も聞いている。
学問所で習った。「大戦の前には神々がいた」。物語にも出てくる。年寄りの口癖にも出てくる。「神も仏もあるものか」に相当する言い回しは、この世界にもある。
つまり、概念は残っている。
じゃあ、何が消えているのか。
——名前だ。
固有名詞が、ひとつも出てこない。
「神々」はある。「守護神」もある。だが、その神が何という名前だったのかを、俺は一度も聞いたことがない。学問所の教科書にも書いていなかった。あのとき俺は、書いていないことに気づきさえしなかった。
そして、もうひとつ。
町外れの祠を思い出す。石積みに結わえられた布切れ。旅の無事を祈って、病が治るようにと願って、通りがかりの人間が結んでいくもの。
あれは、誰に向けて結んでいるんだ。
誰も言わない。「昔からそうしている」としか言わない。
成人の儀もそうだった。父が言葉を述べ、俺が礼をして、終わり。誰に向かって述べたのか、誰も口にしない。
——宛先がない。
そこまで考えて、俺は背中に鳥肌が立つのを感じた。
祈る行為は、残っている。
願う気持ちも、残っている。
宛先だけが、世界中から、きれいに抜き取られている。
抜き取ったあとの穴を、誰も見ないようにしている。見ないようにしているという自覚すら、もう誰も持っていない。
俺は焚き火を見た。
火が、風で横に流れた。
——誰が。
いつ。
なんのために。
背中の後ろで、丘の草が鳴った。
俺は振り返った。誰もいない。眠っている三人と、暗い斜面と、星があるだけだった。
胸の奥で、あの結び目が、ほんの少しだけ疼いた気がした。
気のせいだと思った。
思うことにした。




