追放者フェンリス
出発は三日後と決まった。
その三日で、俺たちは準備をした。準備というのは主に買い物のことで、買い物というのは主に揉め事のことだった。
「革の胸当てなんて要らないわ。動きが鈍る」
「鈍るのはお前が非力だからだ、嬢ちゃん」
「エルフの機動力を舐めないで」
「舐めてねえよ。一発もらったら終わりだと言ってるんだ」
エルフとドワーフというのは、本当に噛み合わない。学問所では「両種族は伝統的に折り合いが悪い」と一行だけ習った。一行で片づけていい話ではなかった。二人が同じ露店の前に立つと、商品の是非から歴史の解釈まで、話が三段階で拡張する。
俺の仕事は、その横で荷物を持つことだった。適材適所だと思う。
*
三日目の夜、俺たちは酒場で最後の打ち合わせをした。地図を広げ、行程を確認し、水と食料の量を決める。リーナが記録を取り、ガルドが実務を詰め、俺が頷く。
「日程は三日」ガルドが指で地図を叩いた。「一日目で丘二つ。二日目で三つ目を越えて、遺跡。三日目で戻る」
「四日ぶんの食料を持ちましょう」
「五日ぶんだ」
「重くなるわ」
「重いのは俺が持つ」
「……それは、まあ」
リーナが言葉に詰まった。ガルドはこういうところで妙に隙がない。喧嘩っ早いくせに、揉めた末に自分が損をする案に落ち着ける。九十二年生きているというのは、そういうことなのかもしれない。
打ち合わせが終わって、俺たちは店を出た。裏路地を抜けようとしたところで、リーナが足を止めた。
「……なにあれ」
*
酒場の裏手、荷車置き場の柱に、人が縛られていた。
獣人だった。灰褐色の毛並み。狼系だ。背は高い。俺より頭ひとつぶん上で、肩幅もある。そんな体が、太い縄で柱に括りつけられていた。腕を後ろに回されて、胴を三重に。
顔を上げた。片方の耳が、根元から先まで裂けていた。古い傷だ。血は止まっている。ずっと前のものだとわかる。
金色の目が、俺たちを見た。
「見世物じゃねえぞ」
低い声だった。リーナが眉を寄せた。
「何があったの」
「見りゃわかんだろ」
「わからないから聞いてるの」
獣人は舌打ちをして、そっぽを向いた。代わりに答えたのは、荷車置き場の隅で煙草を吸っていた老人だった。酒場の下働きらしい。
「そいつは酒場で暴れたんだよ。客に絡んで、卓をひっくり返した。衛兵が来て、そのざまだ」
「それで、なんで縛りっぱなしなの」
「明日の朝まで置いとけって。見せしめだと」
老人は煙を吐いて、店の中へ戻っていった。
*
「行くぞ」ガルドが言った。「明日は早い」
「待って」リーナが動かなかった。「ねえ、あなた。本当に暴れたの? 先に手を出したのは、どっち」
獣人は答えなかった。
「答えて」
しばらく間があった。
「向こうだ」獣人は言った。「席に座ったら、犬っころが人間の椅子に座るなと言われた。無視した。次に頭から酒をかけられた。それも無視した。三度目に妹の話をされた」
「妹?」
「そこで、卓をひっくり返した」
リーナが息を呑んだ。
俺は、なんとなく事情を察した。三度目まで我慢したというのは、この人が普段からそういうことに慣れているということだ。慣れていて、慣れているぶんだけ、どこで限界が来るかも自分で知っている。
「衛兵は、相手も縛ったの」
「まさか」獣人は笑った。笑い方が、ひどく雑だった。「人間の町だぞ。獣人が一人縛られてりゃ、それで話は片づく」
*
俺は、彼の後ろに回った。
「おい坊主、やめとけ」ガルドが低く言った。「衛兵の仕事に手を出すな。面倒になる」
「はい」
「わかってんなら離れろ」
「はい」
俺は縄に手を伸ばした。
「わかってねえだろが!」
わかってはいた。ガルドの言うことは正しい。町の衛兵の処置に手を出せば、俺たちが咎められる。明日の出発が潰れる可能性もある。
ただ、この夜の俺は、なぜか手が先に動いた。
指先が、縄に触れる。ある。胴の三重巻き。手首の八の字。柱の環に通した部分。三つの結びが、互いに支え合っている。うまい結び方だった。もがけばもがくほど締まる。衛兵は慣れている。何度もやっているのだろう。
ここだ。手首のほう。一箇所だけ、支点になっている噛み込みがある。そこを、ほんの少し逃がしてやれば、あとは全部、自分の重みでほどける。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
「——お?」
縄が、落ちた。
*
獣人は、しばらく動かなかった。自由になった腕を、不思議そうに見ていた。それから、ゆっくりと肩を回して、立ち上がった。
大きい。近くで見ると、なおさら大きい。彼は俺を見下ろした。
「お前がやったのか」
「はい」
「どうやって」
「ほどきました」
「切ってねえな。刃物の跡がねえ」
「はい」
「……ふうん」
彼は足元の縄を拾い上げて、結び目のあたりを指でつまんだ。しばらく検分してから、放った。そして、俺の顔をまっすぐ見た。金色の目が、俺の目のあたりから、少しずつ下へ動いた。
「お前、笑い方が下手くそだな」
俺は、自分が笑っていたことに、そこで気づいた。
無意識だった。人と向き合ったときに、まず口の端を上げる。それが俺の初期動作になっている。二回ぶんの人生で磨いた技術だ。
「誰かに合わせてる顔だ、それ」彼は言った。「腹立つほど覚えがある」
「……そうですか」
「そうだよ」
*
「フェンリスだ」彼は名乗った。「名乗るのは礼だ。縄の礼な。それ以上の意味はねえ」
「セインです」
「セインな。……で、そこのエルフとドワーフは連れか」
「はい」
「妙な組み合わせだな」
そう言って、フェンリスは鼻を鳴らした。鳴らした、というのは正確ではない。彼は、匂いを嗅いだ。あからさまにではない。ほんのわずかに顎を引いて、空気を吸っただけだ。獣人がそれをやるのを、俺は初めて見た。
そして、その動きが止まった。
「……なんだ、これ」
「え」
「お前、変な匂いがする」
俺は、思わず自分の袖を嗅いだ。
「下水の仕事をしていたので」
「そういうんじゃねえ」フェンリスは、少しだけ体を引いた。警戒とも、興味とも違う顔だった。強いて言えば、聞き覚えのない音を遠くで聞いたときの顔に近い。
「古い」彼は言った。「お前、若いのに、匂いが古い」
「……はあ」
「言葉にできねえ。……悪い。忘れてくれ」
彼は首を振って、話を切った。俺も、それ以上聞かなかった。聞かなかったのは癖のせいだが、このときは少しだけ、聞くのがこわかったからでもある。胸の奥に、解けない結び目がある。そのことを、俺はまだ誰にも話していない。
*
「ねえ」リーナが言った。「あなた、明日の予定は?」
「予定?」
「町を出るわ、わたしたち。東の丘の遺跡。護衛が足りないの」
フェンリスが片眉を上げた。
「報酬は」
「安いわよ」
「どれくらい」
「銀貨三枚」
「安すぎるだろ」
「安すぎるわね」リーナは悪びれもしなかった。「でも、あなた、明日の朝までここに縛られてる予定だったのよね。それに比べたら」
フェンリスが、今度は本気で笑った。さっきの雑な笑い方とは違う、腹から出た声だった。
「エルフってのは、みんなお前みたいなのか」
「わたしは変わり者だと言われてるわ」
「だろうな」
彼は縄の落ちた地面を一瞥して、それから俺のほうを見た。
「行くよ。どうせ、この町にいても居場所はねえ」
*
こうして、四人になった。エルフの記録者と、気に入った相手にしか武器を打たない鍛冶師と、追放された獣人と、Fランクの便利屋。
宿へ帰る道すがら、ガルドが俺の横に並んで、小さく言った。
「坊主」
「はい」
「さっきのは、褒めてねえぞ」
「知ってます」
「衛兵に見つかってたら、明日は牢の中だ」
「はい」
「……ただな」ガルドは前を向いたまま続けた。「悪くはなかった」
俺は、返事をしなかった。代わりに、口の端が勝手に上がりそうになるのを、少しだけ我慢した。
下手くそだと言われたばかりだ。練習が要る。




