第二話:特級監査官
第二話
泥のように深い眠りだった。
いつも視界の端にこびりついていた、あの赤黒い熱の残像がない。
朝の光が、開け放たれた窓から遠慮なく差し込んでいる。
零治は、ゆっくりと上半身を起こした。
ベッドの脇に足を下ろす。
床に触れた足の裏から、いつもなら伝わってくるはずの、あのじっとりとした「痺れ」が綺麗に消えていた。
(軽い……)
肺の隅々まで、遮るものなく空気が行き渡る。
呼吸をするたびに、胸の奥で燻っていた不快な摩擦音が、完全に消失していることに気づく。
長年、舞花の暴発する魔力負荷をその身に引き受け続けた結果、彼の魔力神経は慢性的な過負荷でボロボロだった。
医師からは「これ以上の肩代わりは命に関わる」とまで宣告されていたはずだ。
それが、同期デバイスを外してわずか十数時間。
縛り付けられていた呪縛から解放されたことで、彼のボロボロだった魔力回路は、驚異的な速度で自己治癒を始めていた。
本来の、超高密度な魔力処理能力が、静かに身体の奥底で目を覚ましていく。
零治は自分の両手を見つめた。
指先の震えが止まっている。
肌に浮き出ていた青紫色の血管の怒張も、嘘のように引いていた。
「……本当に、終わったんだな」
ぽつりと呟いた声は、自分でも驚くほど澄んでいた。
もう、誰も守る必要はない。
自分の身体を削って、傲慢な少女の身代わりに脳を焼き焦がす日々は、昨日で完全に幕を閉じたのだ。
身支度を整えるために、零治は色褪せたパーカーを羽織り、アパートの階段を下りた。
コンビニへでも行って、久しぶりにまともな食事を買おう。
そう思いながらエントランスの自動ドアを抜けた瞬間、彼の足が止まった。
アスファルトの照り返しの中に、異様な存在感を放つ一台の車が停まっている。
黒塗りの、政府公用車。
国章が刻印されたフロントグリルが、朝日に鈍く光っていた。
その傍ら、後部座席のドアが開く。
カチリ、と硬質なヒールの音が静まり返った住宅街に響いた。
車内から姿を現したのは、一人の女性だった。
フレームレスの眼鏡。
仕立ての良い漆黒のパンツスーツ。
無駄な肉を削ぎ落としたような、冷徹で知的な美貌。
その佇まいは、周囲の空気を一瞬で数度下げるような、圧倒的な威圧感を放っている。
彼女は迷いのない足取りで、まっすぐに零治の前へと歩み寄ってきた。
「ようやく見つけたわ。国家グリッドの異常バグを、たった一人で相殺し続けていた『神の接地士』」
鈴の音を転がしたような、だが酷く冷徹な声。
零治は目を瞬かせた。
「……どちら様ですか」
「挨拶が遅れたわね」
女性は胸元から、警察手帳に似た、しかしそれよりも遙かに重々しい漆黒の身分証を提示した。
「国家ダンジョン監査局・査察第一課。特級インフラ監査官、九条院紗季よ」
監査局。
ダンジョンが社会インフラ化したこの国において、国家の魔力コントロールグリッドを監視し、違法なエネルギー行使を取り締まる最高権力機関。
その中でも「特級」の肩書きを持つ者は、一国の経済すら左右する権限を持つと言われている。
紗季は手元の透明な端末を操作し、ホログラムの画面を空中に展開した。
そこに映し出されたのは、無数の折れ線グラフ。
それも、異常なまでのスパイク(急上昇)を繰り返す、血の滲んだような真っ赤な波形だった。
「これを見て」
紗季の細い指先が、その波形の一つを指し示す。
「大手配信ギルド『白銀の翼』。彼らの過去3年間のダンジョン内における魔力流動ログよ。見ての通り、メインストリーマーである白銀舞花の『アーク・レイ』は、国家グリッドへ深刻な過負荷を与え続けている。普通なら、発動の瞬間にシステムエラーで魔法が不発に終わるか、あるいは彼女自身の脳が焼き切れているはずの数値」
「……」
「でも、現実には何事も起きなかった。それどころか、過負荷のデータは、グリッドに到達する『ミリ秒手前』で、完全に相殺され、どこかへ消えていた。国税および魔力監査局は、何者かが『未申請のエーテル過剰行使』を行っていると睨んでいたわ。けれど、いくら探しても立件できなかった」
紗季はホログラムを消し、眼鏡の奥の鋭い瞳で、真っ直ぐに零治を見据えた。
「理由が分かったわ。ログを極限まで解析した結果、そのすべての負荷が、システムではなく、あなたという『個人』のバイパスにアースされていたからよ」
彼女の言葉には、確信が満ちていた。
「驚いたわ。10年前の『第一次ダンジョン崩落事故』の生存者。固有スキル『アース・シンク』。国家の巨大なエネルギーインフラが引き起こす歪みを、たった一人の人間の脳で受け止めていたなんて。そんな神業、現代のどんな最新スーパーコンピューターでも不可能よ」
零治は、静かに視線を落とす。
「終わったことです。俺はもう、あのギルドをクビになりましたから」
「ええ、知っているわ。昨日の生配信、私たちの部署でもリアルタイムで監視していたから」
紗季の唇が、酷く冷ややかな形に歪んだ。
それは、零治に向けられたものではなく、彼を切り捨てた愚者たちへの、底知れない蔑みだった。
「あの愚かな少女は、あなたの命を削りながら魔力を脱税していたのね」
脱税。
その単語が、零治の胸に重く落ちる。
「魔法は国家のインフラよ。行使するならミリ秒単位で正確な申請が必要。それを怠り、他人に負荷を押し付けて派手に見せるだけの配信なんて、ただの違法行為でしかないわ」
紗季は一歩、零治との距離を詰めた。
高級な香水の香りが、鼻腔をくすぐる。
彼女の手が、そっと零治の、まだ少し傷の残る手の甲に触れた。
その触れ方は、驚くほど優しく、そしていたわるような熱を帯びていた。
「レイジ。あなたのその自己犠牲的な生き方を、私はあまりに非合理的で、美しく、そして痛ましいと思う」
「九条院、さん……」
「もう、あんな底浅い承認欲求の道具として、自分の命をすり減らすのはやめなさい。あなたの技術、あなたの価値は、もっと公的に、圧倒的な形で評価されるべきよ」
紗季は、懐から一通の書類を取り出した。
金色の国章が押された、最高格の辞令書。
「国家特級インフラ監査補佐として、私と共に働きなさい。あなたの実力を、国庫年俸3000万と国家権力をもって、私が世界に証明してあげる」
国庫年俸3000万。
『白銀の翼』で荷物持ち扱いされていた頃の、十倍以上の金額。
いや、それ以上に、目の前の「氷の監査官」と呼ばれる女性の瞳の奥にある、狂おしいほどの敬意と情熱が、零治の凍りついていた心を強く揺さぶった。
「……俺に、何ができますか」
「いつも通り、ただ画面の裏で数値を睨んでいればいいわ。ただし今度は、私の後ろでね。不当に搾取されていた本物の技術者が、どれほど恐ろしい存在か……あの傲慢な子供たちに教えてあげましょう」
紗季は、妖艶とも言える笑みを浮かべ、車のドアを開けて見せた。
零治は、振り返らなかった。
あのみ窄らしいアパートにも、過去の未練にも。
「……分かりました。行きましょう、九条院さん」
「紗季、と呼びなさい。私の専属バディになるのだから」
零治は彼女の手を取り、黒塗りの公用車へと乗り込んだ。
静かに閉まるドアの音。
車内での移動中、紗季は端末を開き、冷徹な声で部下たちへ指示を飛ばし始めた。
「査察第一課、全機へ通達。『白銀の翼』が計画している、深層ダンジョン『アビス・ゲート』のミリオンビュー記念配信。あれのリアルタイム立ち入り監査の準備を進めなさい」
眼鏡の奥の瞳が、獲物を定めた猛禽のように爛々と輝く。
「法と、数式と、国家の力。それをもって、徹底的に『最適化』してあげるわ」
隣に座る零治は、手渡された最新の監査局用端末に指を滑らせた。
画面に映る、舞花のきらびやかなアイコン。
その裏で動く、あまりにも杜撰で脆弱な魔力流動の構成。
(舞花、言ったはずだ。魔力流動方程式の第4項を忘れるな、と)
零治の指先が、ミリ秒単位で監査局のコントロールグリッドと同期していく。
かつて彼を縛っていた熱は、今や彼の手元で、悪を裁くための冷徹な牙へと姿を変えようとしていた




