第6章 裏側のインフラ
午後九時。
冬の日は短く、南青山の街から総武線に揺られて到着した錦糸町の駅前は、すでに深い紺色の闇に包まれていた。
ネオンがけばけばしく光る裏通りは、昼間の喧騒とは打って変わって、怪しげな活気と冷たい空気が出入り口を行き交う人々を包み込んでいる。
高級ブランドの路面店が並んでいた表参道とは違い、ここには剥き出しの生存競争と、社会の綺麗事からはみ出た人間の気配が色濃く充満していた。
俺は歩きながら、スマートフォンの中で燃え盛る狂騒を思い返していた。
今、ネット上で起きている神崎リナの死を巡る私刑の嵐は、五年前に俺自身が引き起こしたあの忌まわしい事件と全く同じ構造だった。
無実の人間を、大衆が求めるわかりやすい悪役に仕立て上げ、正義という名目で社会的に抹殺する。
ネットの匿名集団は真実など求めていない。
ただ反撃してこない生け贄を求めているだけだ。
だが、決定的に違う点が一つある。
あの時の俺は小銭に目が眩んだだけの三流ライターだったが、今回は何かが違う。
誰かは、大衆のその残酷な性質を完全に理解した上で、木島というわかりやすい悪役を意図的に盤上に配置した。
この巨大な炎上をコントロールしているように思える。
情報の暴力によって無実の人間を生け贄にし、世界を騙し切ろうとする彼女のその冷酷な計画を俺はどうしても見過ごすことができなかった。
過去の贖罪などという安い感傷ではない。
ただ、同じ手口で世界が回るのが許せないだけだ。
向かったのは、周囲の華やかさから完全に取り残された築四十年の古びた雑居ビルだ。
一階にはシャッターが降りたままの古本屋があり、二階より上はどの窓にも明かりが灯っていない。
壁面を這う配管は赤茶色に錆びつき、冬の乾燥した風が吹くたびに低い軋み音を立てている。
俺は錆びついた外付けの非常階段を上り、三階の一番奥にある表札のないスチール製のドアの前に立った。
手のひらは、コートのポケットに突っ込んでいるにもかかわらずじっとりと冷たい汗をかいていた。
俺は意を決して、氷のように冷たい金属製のドアを三回、等間隔で叩いた。
しばらくの沈黙の後、ドアの向こうで複数の鍵が外れる重い金属音が響いた。
ガチャリ、という音とともにわずかに開いた隙間から、安物の紙巻き煙草のヤニの匂いと、それを誤魔化すための強烈な柑橘系の芳香剤の香りが混ざり合って漏れてくる。
部屋の奥から顔を出したのは、死んだ魚のような、感情の抜け落ちた目をした痩せこけた男だった。
それが亀井だ。
年齢は四十代後半のはずだが、光の当たらない不健康な生活のせいか白髪が目立ち、実年齢よりも十歳は老けて見える。
亀井は俺の顔を見るなり、フンと鼻で笑った。
「本当に来やがったか。電話で言っていた、若い女の身分証の話だな。手ぶらじゃねえだろうなと言ったはずだぞ、朝倉」
「ああ、もちろん」
俺はコンビニで買ってきた少し高めのウイスキーのボトルを無言で差し出した。
亀井はそれを受け取ると、あごで部屋の奥をしゃくった。
「入れよ。立ち話で話せる内容じゃない」
事務所の中は、耳鳴りがしそうなほど不自然に静かだった。
窓には厚手の黒い遮光カーテンが隙間なく引かれ、部屋の中央には昭和の時代から使われているようなスチール製の事務机が二つ、向かい合わせに置かれている。
亀井はウイスキーのボトルを開けると、デスクの引き出しから曇ったプラスチックのコップを取り出し、なみなみと注いで一気に煽った。
喉を鳴らしながら、彼は俺を睨みつけるように言った。
「電話の時点で、最近特上の器が動いた形跡がないか探れって言ってたがな。お前、裏の戸籍や身分証の手配をなんだと思ってるんだ。コンビニで弁当を買うのとはわけが違う。俺は裏の事情や噂を売り買いするただの情報屋だ。実際に他人の戸籍を売買するような危ねえ連中と直接つるんでいるわけじゃない。そういうプロの裏稼業の連中は、絶対に尻尾を出さないように動くんだ。悪いが、そう簡単には教えられないね」
「お前の商売なのは理解している。だが、あんたの耳なら何か引っかかるはずだ。この数ヶ月の間に、大金が動いて、若い女の新しい身分証が裏で手配されていると俺は考えている。どんなに完璧な計画でも、人間が動いて金が流れる以上、必ずどこかに痕跡が残る。それはお前が1番分かっているんじにないのか」
亀井はウイスキーをもう一口口に含み、品定めするようにつまらなそうな目を向けた。
「お前がどれだけ熱くなろうが、俺には関係のない話だ。俺のシノギを危険にさらしてまで、タダで情報を渡すバカがどこにいる」
「もちよんタダじゃないさ。これと引き換えだ」
俺はコートのポケットからスマートフォンを取り出し、画面にあるデータを表示させて亀井の目の前に突きつけた。
画面に並んでいたのは、大量の銀行口座の番号と、それを使用している名義人の羅列だった。
「……おい、なんだこれは」
亀井の顔から、余裕のあった薄笑いが一瞬で消え去った。
「あんたが最近、詐欺をやっている半グレグループに手配した、飛ばし口座の全リストだ。俺が過去に命がけである組織の裏を突いた時に、偶然手に入れた独自のデータさ。まだどこにも出さずに俺の手元だけで握っている。もしあんたが協力を拒むなら、俺は明日の朝一番で、このリストを使うことになる。そうなれば、口座が一斉に凍結されて資金を引き出せなくなった半グレ共が、一体誰のところに責任追及に押し寄せるか……想像できるよな」
決定的な脅しを突きつけられ、退路を完全に塞がれた亀井は、額に青筋を浮かべて俺を猛烈に睨みつけた。
激しい沈黙が部屋を支配し、彼の荒い鼻息だけが響く。
自己保身のためには、他人の取引情報など安い切り札に過ぎないことを、この男は誰よりも知っているはずだ。
やがて、亀井は忌々しそうに深く大きな舌打ちをした。 「……前とは少し変わったか、あの青臭かった頃より、ヤクザより質の悪いライターになっているなお前は。わかったよ。お前の勝ちだ。だがな、朝倉。本当にすぐには詳細までは分からないんだ。買い手の代理人は異常なほど神経質で、すべては海外の暗号資産と秘匿通信のアプリでやり取りされていて、足のつく現物の接触は一度もなかったと聞いている。その手配をしたブローカーの動向を掴むまでは最低でも数日は待て。情報がまとまり次第、こっちから連絡する。それまでお前は大人しくしてろ。変に動き回って、俺の調査の邪魔をするなよ」
俺は亀井の目をじっと見つめ、彼が取り引きを呑んだことを確認した。
「わかった。待つよ。だが、あまり長引くようなら、例のリストの件はどうなるかわからないぞ」
俺はそう言い残し、煙草の匂いが染み付いた事務所を後にした。
亀井からの連絡を待つ数日間、亀井の指示通りに俺もただ手をこまねいて待っているわけにはいかない。
俺にできることは、裏のインフラが明らかになるまでの間、表のルート、つまりネットの海から彼らの計画の綻びを見つけ出すことだった。
冷え切った自室のデスクに座り、ノートパソコンの画面と睨み合う。
神崎リナが沈黙を始めた一ヶ月前から、あのデマ騒動が爆発するまでの期間。
その空白のタイムラインに何が起きていたのかを、改めて徹底的に洗い直す作業だ。
俺は数百万件にも及ぶ関連投稿の中から、ノイズを弾き、不自然な流れを作り出している火種のアカウントを抽出していった。
そして、いくつか気になる書き込みを時系列順に並べた時、俺の背筋に冷たいものが走った。
そこには、冷静に見ると大衆の心理をじわじわと追い詰めていくための、背筋が凍るような仕込みの足跡が、まるで正確なメトロノームのように刻まれているようだった。
一週間に一回、必ず午前二時十七分という、普通なら誰も狙わないような奇妙に中途端な時間に、出所不明の匿名の捨てアカウントから、大衆の不安を静かに煽るような燃料が投下されていた。
一週目の午前二時十七分。匿名の特定班を装ったアカウントからの投稿。
『失踪直前のリナの最後のいくつかの投稿について、絵文字の使い方と改行の癖が普段と全く違う。誰か別人が打っているのでは?』
二週目の午前二時十七分。不気味な目撃情報。
『先月末に渋谷で神崎リナっぽい人を見かけた。一人でぼーっと立ってて声をかけようとしたら急に人混みに消えた。いつもの雰囲気と全然違ってて、なんか怖かった。今もSNS止まってるし気になって仕方がない』
三週目の午前二時十七分。業界の裏事情を匂わせる投稿。
『業界の端っこにいる人間として書く。神崎リナさんのこと、事務所と最近かなり揉めてたって話が流れてきてるって聞いたけど本当かどうかはわからない。』
四週目の午前二時十七分。過去の映像の掘り起こし。
『半年前の神崎リナのライブ配信、誰か録画してる人いない?『自分が本当に何者なのかもうわからない』『消えてしまいたい気持ちがある』って話してたやつ。当時はただの弱音だと思ってたけど、今見返すと全然違う意味に聞こえる。』
そして五週目、騒動の直前の午前二時十七分。
『神崎リナのスポンサーのHPから彼女の画像がいつの間にか消えてる。一社じゃなくて複数。炎上でもないのに企業が動いてるって、事前に何か話が通ってたってことじゃないの。本人が消えた理由に絶対つながってると思う。』
この五つの投稿、すべてが午前二時十七分に投下されている。
今はまだ分からないその誰かが、用意したと思われる、大衆の感情をコントロールするための完全な仕込み見えなくもない投稿。
一ヶ月かけて少しずつ薪をくべ、大衆の疑心暗鬼を極限まで膨らませたところで、あの暴露系配信者のデマという火を放ったのだ。
なぜ、どの投稿もきっちり午前二時十七分なのか。俺の裏アカウントに「見てる?」というメッセージが届いたのも、あの木島を陥れるストーリーのスクリーンショットが流出したのも、すべて同じ時刻だ。
そして、高橋が蒔いたこの緻密な火種に釣られるようにして、承認欲求に飢えた業界関係者やスタッフたちが、次々と便乗の投稿を始めていた。
俺が監視している間にも、さらに新しい書き込みが事実のように拡散されていく。
業界関係者を名乗るアカウントによる暴露。
『リナちゃんが1ヶ月前の収録を飛んでから誰も連絡が取れていないらしい』仕事の関係者による投稿。
『以前お仕事でご一緒したことがある者ですが、気になって投稿します。最後にお会いした時のリナさんが全然いつもと違っていて、目が虚ろで『もう全部やめたい』ってぼそっと言ってたのをずっと覚えてます。今も無事でいてくれることを祈るばかりです。』
別の業界関係者によるもっともらしい噂話。
『あまり具体的には言えないけど、神崎リナさん、事務所と本人の間で相当揉めてたのは業界では知られた話になってきてる。』
自らSNSを止めたのか、止めさせられたのかもわからない状態らしい。表に出てくる情報がなさすぎて関係者もみんな困惑してる。
誰も真実なんて知りはしない。
ただ「自分は関係者だ」「特別なことを知っている」と世間にアピールしたいだけの連中が、結果的に高橋たちの描いた「悲劇のヒロインの失踪」というシナリオを完璧なものに補強してしまっている。
嘘が嘘を呼び、誰もが彼女の消滅を信じて疑わない。
気味が悪いほどの情報操作のように思えて仕方がなかった。
俺がネットの狂気に当てられそうになっていた四日後の夜、亀井から電話が入った。
「裏が取れたぞ。今すぐ来い」 俺は急いでコートを羽織り、再び錦糸町の古い雑居ビルへと向かった。
事務所のドアを開けると、亀井は疲れ切った顔でデスクの前に座っていた。
彼は重い腰を上げて部屋の隅にある耐火性の古い金庫へ向かった。
ダイヤルを回すカチッ、カチッという音が、静かな部屋に無機質に響く。
亀井は金庫の中から茶色い封筒を取り出し、俺の目の前に放り投げた。
「一ヶ月前だ。俺の手にはとても負えない特大の案件だが、都内の別の業者に妙なオーダーが入ったっていう証拠を抜いてきた。依頼主の条件は異常なほど細かかったらしい。単に年齢が近いだけじゃない。身長一六○センチ前後、痩せ型、そして何より、十年以上親族と音信不通で、なおかつここ数年、病院にも通わず行政サービスを一切利用していない、完全に社会から忘れ去られた女を指定してきた」 「顔の造作までは指定しなかったのか」 「今の時代、骨格さえ近ければ顔はどうとでもなる。それよりも買い手が異常に執着したのは、その女が生きてきた背景の白さだ。借金がなく、犯罪歴もなく、それでいて世間に誰もその女の近況を知る者がいないこと。その条件に完璧に合致したのが、長谷川由香という女だった。価格は、言い値で二千万円」
二千万円。 神崎リナがスポンサー企業へ即日振り込んだ億単位の違約金に比べれば、端金のような金額だ。
だが、身分証一つの価格としては異常なほどの高値なんだろう。
それはつまり、神崎リナが自分という物語を完全に終わらせるために、最高のキャンバスを金で買ったということだ。
「長谷川由香。六年前から行方が分からなくなっていた、元派遣社員の女だ。親はすでに他界し、兄弟もいない。警察には捜索願すら出されていない。まさに、最初から誰かが消えるために用意されていたような、空白の人生だよ」
長谷川由香。その名前が、俺の脳内に深く、冷たい事実として刻み込まれた。
神崎リナは、単に余っている名義を拾ったのではない。
無数の消えた人々のリストの中から、自分の体格に合い、かつ最もリスクの低い器を、まるでカタログから選ぶようにシステム的に選別したのだ。
机の上に長谷川由香の経歴書がコピーされた薄いクリアファイルを投げ出しながら、亀井は意地悪く口の端を歪めた。
「だがな、朝倉。俺から言わせれば、その完璧すぎる条件指定こそが、買い手の最大の隙だ。合理的というより、病的だ。新しく生き直す自分の人生に、他人の汚れが少しでも混ざることを極端に嫌悪している。完璧に消えたいと願いながら、自分が何者でもなくなることには恐怖を抱いている。機械的なランダムじゃなく、そこには買い手の異常なまでの強迫観念がべったりと張り付いている。そういう人間は、必ずどこかでボロを出す。これは俺の経験則だ」
亀井の言葉は、俺の思考の死角を突いていた。
完璧なシステムを構築した冷徹な知能犯。
俺は彼女をそう評価していたが、その根底にあるのは、過去の自分を消し去りたいという狂気じみた執着と、新しい自分に対する歪んだ潔癖症だ。
それは、論理を超えた感情の領域であり、だからこそ、そこから彼女を崩せるかもしれない。
「亀井さん、その調達を実際行ったのは誰なんだ?俺はこんなことを神崎リナ、1人でできるとは想像でにない」
「さすがに、そこまでは知らなない。だが、買い手の代理人は異常なほど神経質で、システムに精通していたとは聞いている。受け渡しはすべて海外の暗号資産と秘匿通信のアプリで行われ、足のつく現物の接触は一度もなかったそうだ」
俺は亀井からクリアファイルを受け取り、息苦しい事務所を出た。
外はさらに冷え込み、吐き出す息が真っ白に染まる。
長谷川由香という具体的な名前を手に入れた以上、次にするべきことは一つか。
俺は近くの街灯の下でファイルを開いた。
俺のような一介のライターが個人情報のデータベースに直接アクセスすることは不可能だが、この手のグレーな情報屋の商売では、こうして個人情報が紙の束として物理的に取引されている。
その書類の端に、彼女が六年前に最後に住民票を置いていた住所が記載されていた。
江戸川区の平井。
マップで調べたところ、荒川沿いの都心からは物理的にも心理的にも隔絶されたエリアに建つ古い木造アパートだった。
午後八時。
俺は平井駅を降り、川沿いの暗い道を歩いていた。
都心とは違い、街灯の数は極端に少なく、冬の冷たい川風が容赦なく体温を奪っていく。
目的のアパートは、周囲の新しい戸建て住宅から完全に取り残されたように、ぽつんと暗闇の中に建っていた。
二階建てで全八室、外壁のモルタルはひび割れ、階段の鉄骨は赤く錆びている。
入り口にある集合郵便受けの半分は、すでに不要なチラシが溢れ返っているか、ガムテープで乱暴に塞がれていた。
一階の角部屋、そこが長谷川由香の最後の住所だ。
俺は部屋の前に立ち、スマートフォンのライトを頼りに周囲の状況を注意深く観察した。
なぜ彼女は、これほど不便で古い場所にある戸籍を選んだのか。
その理由は、周囲を見渡せばすぐに理解できた。
このエリアは地主が高齢化し、管理の行き届かない古い借家が放置されている。
隣近所の住人も単身の高齢者が多く、他人の生活に干渉する気力も関心もない。
このアパート自体も、もはや取り壊しを待つだけの墓標のように冷え切っている。
つまり、ここなら偽装工作をしていても誰も気に留めない。
情報の空白地帯。
それが平井を選んだ合理的な理由なのか。
ドアの隙間や足元のコンクリートを照らすと、他の空き部屋の前にはうっすらと土埃や枯れ葉が積もっているのにこの角部屋の前だけ、最近誰かがほうきで掃き清めたような不自然な跡がある。
それに、ドアの鍵穴の周辺だけ油を差したように黒光りしていた。
誰かが最近、間違いなくここに出入りした痕跡だ。俺は隣の部屋、わずかにテレビの音が漏れているドアのチャイムを鳴らした。
三度目でようやくガチャリとチェーン越しに白髪の老女が顔を出した。
警戒心に満ちた目が、俺の顔を下から上へと舐め回す。
「夜分遅くに申し訳ありません。隣の長谷川さんのことについて、少しお話を伺えませんか」
「長谷川さんなんて人、もう何年も前から住んでないわよ。大家さんが数年前に、部屋に残ってた荷物も全部処分しちゃったし。家賃もずっと滞納してたみたいだからね」
「では最近、誰かが隣の部屋に出入りしているのを見かけませんでしたか。例えば、見慣れない若い女性や、スーツを着た男性など」
老女は少し考える素振りを見せた後、チェーンをかけたまま面倒くさそうに口を開いた。
「そういえば先週の昼間、見慣れない男の人が大家さんと一緒に来てたわね。部屋の中の配管を確認したいとかで。親戚の人か、不動産屋かと思ったけど」
「どんな特徴の男性でしたか、思い出せる範囲で大丈夫ですので」
「帽子を深く被ってマスクをしてたから、顔はよく見えなかったわ。でも、やけに手際よく、スマホを二台もいじってたのが印象に残ってるわね。こんな古いアパートには似合わない、パリッとした服を着てたわ」
「ありがとうございます」
俺は深く礼を言って、アパートを離れた。
事実が、また一つ強固に繋がった。
マスク姿で二台のスマホを操る、パリッとした服の男。
その男はきっと亀井が言っていた、システムに精通した神経質な買い手の代理人きっと、それはあの高橋に違いない。
彼は長谷川由香の戸籍を手に入れた後、実際にこの場所を訪れ、大家の懐に金をねじ込んで長谷川由香はまだここに住んでいるという既成事実を維持させたのかもしれない。
郵便物の転送設定を更新や、たまに明かりを灯すことで、金融機関や役所の調査をやり過ごす。
すべては、神崎リナを長谷川由香として現実に成り立たせるための、完璧なインフラ整備だ。
そして同時に、長谷川由香という一人の女性が、誰にも気づかれないままこの世界から消去され、他人に人生を売り渡されたという残酷な事実でもある。
俺は総武線と山手線を乗り継ぎ、再び目黒方面へと向かい、そのまま南青山へと足を伸ばした。
冷え切った体を温めるため、そして次に向かうべき場所を絞り込むためだ。 神崎リナがインフルエンサーという仮面を脱ぎ、一人の感情を持つ女として過ごしていた時間の残滓がある場所。
それは、以前調査の過程で調べがついていた、彼女の自宅マンションから少し離れた場所にある、南青山の会員制のバー。
今、ネットの特定班たちは犯人とされた木島の素性や居場所を暴くことに熱狂しており、被害者である彼女の孤独な足跡になど誰も関心を持っていないようだった。
大衆の目は常にわかりやすい悪を叩くことにしか向かないものだ。
俺がこの店を割り出した方法は、魔法のようなハッキングでも特別なデータベースでもない。
ただの泥臭い執念だ。
彼女の過去の投稿の隅にわずかに見切れていた、特徴的なオーク材のカウンターとグラスのカット。
俺はその特徴と彼女の自宅からの距離を手がかりに、SNSの海を何日もかけて手作業で這いずり回った。 結果、承認欲求を満たすために会員制の隠れ家の画像をこっそりアップしていた、見知らぬ港区女子の裏アカウントに辿り着き、そこに偶然映り込んでいたマッチ箱のロゴからこの店を特定したのだ。
ネットの掃き溜めには、誰かの自己顕示欲という形で常に致命的なヒントが落ちている。
場所の特定は俺の仕事だ。
だが、会員制の壁を越えるため、俺はいくつかの出版関係者のツテを利用して、その重いオーク材の扉を開けた。
中には外の冷たさとは無縁の別世界があった。
静かに流れるジャズの調べと、葉巻の香り、そして現実の人間たちが吐き出す温かな呼吸の音が満ちている。
俺はカウンターの端に座り、バーテンダーに軽く会釈をした。
「ジンを一つ。それと、神崎リナのことについて少し聞きたいことがある。昔、一度取材をしたことがあるライターの朝倉だ」
初老のバーテンダーは、警戒したように氷を砕く手を止めた。
俺が神崎リナの名前を出すと、静かに目を伏せ、首を横に振った。
「申し訳ありませんが、お客様のプライベートはお話しできません。ご理解ください」
「頼む。ネットの連中は犯人探しに血眼だが、俺は違う。彼女の心境の変化を追っている。最悪の結末を迎える前に、彼女がここで何を考えていたのかを知りたいんだ」
俺が慎重に言葉を選びながら食い下がると、バーテンダーはグラスを磨く手を止め、小さくため息をついた。
彼女が生きているという俺の推測を漏らすわけにはいかない。
だが、凄惨な炎上騒動の結末に、彼自身も行き場のない後悔を抱えているようだった。
「ネットの騒ぎは……もちろん私も知っています。彼女があんな最期を迎えたなんて、未だに信じられません。あんなに明るくて、いつも周りに気を配る方だったのに」
「では事件の直前、ここで何か変わった様子を見せていませんでしたか」
バーテンダーは周囲の客に聞こえないよう、カウンター越しに少しだけ身を乗り出し、低い声で語り始めた。
「一ヶ月ほど前です。彼女は珍しく一人で来て、ひどく酔っていました。放置されたグラスを見つめながら、ポツリとこぼしたんです。名前も顔も、全部脱ぎ捨てるには、どれくらいのお金がかかるのかなって」
「名前を捨てる……」
「ええ。誰も私のことを知らない遠い場所で、ただの風景になりたい、と。いつもの彼女らしくない、ひどく疲れた、消え入りそうな声でした。私はただの酔った冗談だと思って、聞き流してしまったんですが……」
俺は自分のグラスの中で溶けゆく氷をじっと見つめ、感情を表に出さないよう努めた。
風景になるためのコスト。
それが、亀井が言っていた二千万円の戸籍なのか。彼女は木島の暴力から衝動的に逃げたのではない。自分の明確な意志で、完璧な計画のもとに自らの存在を消去した。
今ネットで燃え盛っている大衆の怒りや悲しみすらも、彼女にとっては自分の輪郭を消すためのただの煙幕に過ぎないのだろう。
だが、その完璧な計画の裏には、自分という存在が消費され続けることへの底知れぬ恐怖と、誰かに本当の自分を見つけてほしいという矛盾した承認欲求が渦巻いている。
ポケットの中で、スマートフォンのバイブレーションが短く鳴った。
取り出してみると、またしてもあの見知らぬアカウントからのメッセージだった。
送信時刻は、午後十時十七分。
そこには、たった一言、こう記されていた。
『もうすぐ、完成だよ』
俺は画面を睨みつけ、指の関節が白くなるほどスマートフォンを強く握りしめた。
もし彼女が本当に社会から完全に消え去りたいだけなら、俺に接触してくる必要など全くない。
完璧な犯罪を成し遂げた芸術家が、誰にも気づかれないことに耐えられず、あえてサインを残すような矛盾。
透明になりたいと願いながら、同時に誰かに自分の存在を証明してほしいという、人間の抱える業の深さ。
亀井が指摘した通り、彼女はシステムとしては完璧だが、人間としては致命的なまでに歪んでいる。
俺は、その矛盾を突く。
長谷川由香という新しい名前を手に入れた彼女が、今どこで、どんな顔をしてこの物語の結末を望んでいるのか。
その居場所を、泥にまみれてでも必ず引きずり出してみせる。
俺自身の過去に決着をつけるためにも。




