第5章 存在の清算
午後三時頃。
俺は地下鉄の表参道駅で降り、南青山にある大手化粧品メーカーの本社ビルへと向かった。
休日のオフィス街は人通りが少なく、冬の冷たい風がビル風となって吹き抜けていく。
向かう先は神崎リナが広告塔を務めていた最大のスポンサー企業だ。
神崎リナはこのスポンサーのメインのモデルを務めていた。
駅の看板や、ネットの広告動画など、至る所で彼女の透明感のある笑顔が使われていたはずだ。
企業にとって、彼女の清潔で誠実なイメージは商品の売り上げを左右する重要な要素だった。
だからこそ、あの暴露系配信者のデマ騒動が起きた直後、深夜にもかかわらず彼女の画像や名前が企業の公式ホームページから綺麗さっぱり消え去ったことは、ネットの連中にとって彼女の「黒い噂」を裏付ける何よりの証拠として扱われてしまった。
マネージャーの高橋が言うように、企業というものは炎上に対して極めて敏感で、炎上などがあればリスク管理として広告を下げるのが今の時代というのも何となく理解はできる。
だがやはり、何千万円という金が動く大企業の広告契約の解除が、ネットの噂だけで処理されることにどうしても違和感があった。
目的の企業のビルを見つけ、正面玄関から広々としたロビーへと足を踏み入れた。
ロビーではスーツ姿の社員や来客たちが絶え間なく行き交う、ごく当たり前の日常的な企業の風景が広がっていた。
ネットの狂騒とは無縁の冷ややかなほど平穏な現実の空間だ。
俺は迷わず受付へと向かい、女性スタッフに自分がフリーライターの朝倉だと名乗り、神崎リナの件で広報の担当者と直接話がしたいとお願いをした。
女性スタッフは怪訝な顔を隠しきれないまま内線をかけたが、短いやり取りの後、申し訳なさそうな作り笑いを浮かべて受話器を置いた。
「申し訳ございません。取材は一切お答えできなきためお断りするようにとのことです」
予想通りのの反応だ。
だが、ここで引き下がるわけにもいかない。
俺は声を一段低くして、簡潔に告げた。
「では一言『騒動が起きる前に、すでに広告を削除する手はずが整っていた事実についてお話しをお聞きしたい』とお伝えください」
女性スタッフは俺の言葉の圧に一瞬ためらった後、再び内線をかけた。
きっと今の電話の向こうにいる担当者は、また厄介なマスコミが来たと舌打ちをしていることだろう。
だが、俺が提示した「騒動の前に広告削除の手はずが整っていた」という言葉は、企業にとって絶対に無視できない毒を持っている。
もしこれがネットの特定班や大手の週刊誌に嗅ぎつけられれば、「この企業は神崎リナの失踪騒動を事前に知っていたのか」「炎上の片棒を担いだのではないか」という新たな大炎上を生み出しかねないからだ。
企業にとって一番怖いのは、真実がどうかではなく、世間からどう見られるかだ。
俺は担当者が必ず顔を出してくると確信しながら、大理石の冷たい床を見つめて待った。
今度は少し長く話し込んでいるようだったが、やがて電話を切り、「少々お待ちください」とだけ言った。
その数分後、受付の奥のドアが開き、スーツ姿の疲労しきった様子の男性が顔を出した。
足取りには明らかな焦りが滲んでいる。
「朝倉さんですね。私は担当の中村と申します。ここではなんですから、応接室へどうぞ」
応接室に通されると、中村は冷たいお茶を出してくれた。
無機質な白い壁に囲まれた応接室には、重苦しい空気が漂っていた。
この人の目の下には濃いクマができ、ネクタイの結び目も少し緩んでいる。
おそらくあの騒動が起きてからの数日間、鳴り止まないクレームの電話や問い合わせ対応に追われ、まともに眠れていないのだろう。
同情する気持ちはあったが、俺が欲しいのは彼の愚痴ではなく、この企業の中にある冷酷な事実だけだ。
俺は名刺を差し出し、早速本題を切り出した。
「本日お伺いしたのは神崎リナさんの失踪疑惑についてです」
中村は少し迷ったような表情を見せた後、名刺を受け取った。
「……それで、受付で仰っていた『事前の手はず』というのは、一体どこで聞いた話ですか。うちとしては、あの広告取り下げはシステムによるものだと既に発表はしていますが」
言葉の端々に、厄介な事実を握られているのではないかという焦りが滲んでいる。
俺はそのささやかな動揺を見逃さず、企業の建前という薄い盾を容赦なく叩き割った。
「単刀直入に言います。御社が騒動の『前』から広告を消す準備を進めていたのではないかと考えています。もしこのまま沈黙を貫かれるなら、私は手元にある情報だけで『御社も失踪に関係している』という推測記事を出さざるを得ません」
中村は数秒間、苦虫を噛み潰したような顔で沈黙していたが、やがて完全に観念したように深く息を吐き出し、ゆっくりと首を縦に振った。
「わかりました。公式な取材としてはお受けできませんが、推測での記事を書かれるくらいなら……今僕がお話できる事実のみをお伝えします」
中村は応接室のテーブルに置かれた冷たいお茶に視線を落とし、重々しい口調で語り始めた。
「実は、一ヶ月前……彼女のSNSの更新が途絶える直前の段階で、あちら側から突然、契約の途中解除の申し入れがあったんです。理由は本人の深刻な体調不良ということでした。本来であれば、契約期間中の自己都合による解除は多額の違約金が発生します。ですので我々も引き留めましたが、驚いたことに、後日、彼女自身の口座から違約金が全額一括で振り込まれてきたんです。これ以上話し合いの余地はないという強硬な態度でした」
俺はペンを走らせる手を止めた。
事実の整理。
「違約金は、かなりの金額になりますよね。それを即日振り込めるというのは、相当な準備があったということですかね」
「ええ。我々も驚きました。そして契約解除の条件として、炎上が発覚後すぐにすべての広告素材をウェブ上から完全に削除するという取り決めが交わされたんです。だからそのタイミングに合わせて、取り決めの通りに削除しました」
彼女は、違約金という莫大なコストを支払ってでも広告契約を解除し、それがウェブ上から消え去る先月末というゴールをあらかじめ設定していた。
企業側は単に契約通りに広告を下げただけ。
だが神崎リナは、その企業の動きにタイミングを合わせるようにネットの熱狂が頂点に達するよう裏でコントロールしていたということか。
「貴重な情報をありがとうございました。御社には決して迷惑がかからないようにいたしますので」
俺は中村に深く頭を下げ、足早に会社を後にした。
応接室での会話を反芻しながら、冬の冷たい風が吹く通りを歩く。
一ヶ月前に違約金を自ら支払い、何らかの騒動が起きた時点で広告を削除するという異様な取り決めを交わしていた。
この完璧なスケジューリングは、彼女が自らの社会的な死を周到に準備していた何よりの証拠だ。
ならば、生活の拠点だった彼女の自宅はどうなっているのか。
木崎さんの言う通り警察は事件性がないとして全く動いていない。
ネットの連中も元恋人を標的にして群がっており、彼女の自宅にまで考えが及んでいる様子はなかった。
俺はそのまま山手線に乗り、木崎さんから送られてきた彼女の自宅マンションがある目黒へと向かった。
警察の捜査が入っていない以上、あの部屋にはまだ彼女が隠れている可能性もゼロではない。
だが、もし本当に計画的な失踪なら生活の痕跡すらもすでに消し去られているはずだ。
駅から十分ほど歩き、黒を基調とした高級賃貸マンションの前に到着する。
エントランスには厳重なオートロックと複数の防犯カメラが設置されている。
俺は向かいのコインパーキングの陰に立ち、建物の出入り口を監視した。
冬の傾きかけた太陽は冷たく、日陰に立っていると足元からじわじわと体温が奪われていく。
コートの襟を立てて寒さをしのぎながら、誰かマンションの住人が出てこないかひたすら待ち続けた。
張り込みという作業は、ライターの仕事の中でも一番地味で退屈な時間だ。
だが、この現実の足で稼いだ泥臭い情報だけが、ネットの海に溢れる無数の嘘を切り裂く唯一の武器になる。
午後四時。
エントランスの自動ドアが開き、作業着姿の初老の男性が出てきた。
手には清掃用の用具が入ったバケツを持っている。マンションの巡回清掃員のようだ。
俺は歩み出ると、男性が建物の裏手にある従業員用の駐輪場に向かうタイミングを見計らって声をかけた。
「お疲れ様です。少しだけお話を伺えませんか」
男性は足を止め、不審そうに俺の顔を覗き込んだ。
「なんやあんた。ここの人か?」
俺は胸元のポケットから名刺を取り出し、男性に差し出した。
「フリーライターの朝倉と申します。十階の部屋に住んでいた女性のことでお話をききたくて。実は、彼女が家賃を滞納して夜逃げしたんじゃないかという噂が出ており、取材に来たんです」
男性は俺の言葉を聞いて何を言うとるんやと呆れたように鼻で笑った。
「夜逃げ? あんたらの業界はほんまに大げさやな。全然違うで」
「違うんですか?」
「ああ。あの姉ちゃん、数日前にちゃんとした引っ越し業者のトラック呼んで、ベッドから冷蔵庫まで全部綺麗に運び出しとったわ。わし、ちょうどエントランスの掃除しとったしよう覚えとる。管理人にも挨拶して立会いも済ませとったし、夜逃げどころか、えらいキッチリして出て行っとったわ」
人は、相手が間違った情報を持っていると、自分が知っている正しい事実を教え、訂正してやりたくなる生き物だ。
案の定、男性はすんなりと話してくれた。
「なんだそうだったんですか。ネットじゃ事件だ夜逃げだと大騒ぎになってたもので」
「ネット? なんやそれ。わしはそんなもん見んから知らんけど、現場の人間が一番よう分かっとるんや。だいたいこのマンション、解約の予告は二ヶ月前やで。急に出ていく言うても、手続きはだいぶ前に終わっとったはずや」
「そうですよね、現場の確かな情報、助かりました。ありがとうございます」
俺は男性に軽く頭を下げ、その場を離れた。
近くの目黒川沿いのベンチに座り、冷え切った両手をこすり合わせる。
これまでに分かったすべての事実を、頭の中で並べていく。
1 一ヶ月前、スポンサー企業との広告契約を解除し、違約金を一括で支払う。
2 おそらく同時期に、マンションの退去予告を管理会社に提出。
3 最初の騒動の数日前、マンションの退去立会いを行い部屋を完全に空にする。
4 騒動が起きた直後、企業の担当者が事前の取り決め通りに広告を削除する。
5 そして昨夜の午前二時十七分、ストーカー被害を思わせるストーリーのスクリーンショットをネットに投下。
警察が動いていないのも当然だ。
彼女は事件に巻き込まれたのではなく、法的にも手続きをすべて終えた上で、自分の意志でこの社会から消え去った。
大衆の感情をコントロールする劇薬を正確なタイミングで投稿を投下し、彼女が悲劇のヒロインとして消えるための舞台を丁寧に整えていた。
そして、この規則的な仕込みに引きずられるようにして、ネット上には真偽不明の業界の噂や関係者を名乗る便乗投稿が現れ、彼女が事務所と揉めて追い詰められていたというストーリーやストーカーに付きまとわれていたというストーリーを大衆が勝手に作り上げていった。
「完璧な情報操作だな」
誰もいない目黒川の水面に向かって呟いた。
血も流れない事件。
死体もない虚構。
だが、俺はここで一つの巨大な疑問にぶつかった。
これほど完璧な情報操作と物理的な撤収を、本当に神崎リナという一人のインフルエンサーが自力で計画し実行できるものだろうか。
あるいは彼女の背後には協力者がいるのか。
高橋というマネージャーが仮に手引きしているにしても、数千万円の違約金の支払いやマンションの退去手配、そしてネット上の緻密な誘導まで、手際が良すぎるし資金もかかりすぎている。
今の段階では、これ以上の推論は危険だ。
事実と思い込みが混ざってしまう。
ただ一つ確かなことは、マンションを引き払いこれまでの社会的な繋がりをすべて絶った人間がこの社会で生き延びるためには、新しい住居を借り、新しい生活を始めるための身分が絶対に必要になるということだ。
これまでの普通の人生を捨てて別人として暮らすためには、住む場所を借りるための偽名の身分証や、足のつかない携帯電話が絶対に必要になる。
俺はスマートフォンを操作し、連絡先の一番奥底に眠っている一つの番号を呼び出した。
これほど完璧に整えられたシナリオだからこそ、人間の生々しい感情や綻びがどこかに隠されているはずだ。
その突破口を開くためには、メディアの光が届かない場所を探るしかない。
数回の呼び出し音の後、低くしゃがれた男の声が応答した。
「なんだ、朝倉か。お前からの電話はいつもろくな話じゃねえな」
「ご無沙汰しています、亀井さん。相変わらず錦糸町のビルにいるんですか」
「用件を言え」
亀井、表社会には決して出ない、裏の事情や噂にやたらと詳しい情報屋だ。
数年前に俺が裏社会の資金洗浄の記事を書いた時からの腐れ縁だった。
「調べてもらいたい金と戸籍の動きがあるんです。ここ一ヶ月の間に、若い女の新しい身分証が裏で手配された形跡がないか」
電話の向こうで亀井が短く鼻で笑う音が聞こえた。
「電話で話す内容じゃねえな。今日の夜、事務所に来い。ただし、手ぶらじゃねえだろうな」
「ああ。もちろん」
「九時だ。遅れるなよ」
通話が切れ、再び冬の風の音だけが耳に残った。
俺はベンチから立ち上がった。
ネットの噂を追う段階は完全に終わった。
これほどまでに用意周到で、ここまでは非の打ち所がない完璧な計画。
俺は、情報という虚構の海から完全に抜け出し、この街の泥臭い現実の裏側へと歩みを進めた。




