第4章 信じたい真実
高橋との接触からさらに数日が過ぎた。
警察が動かないという現実の前に、ネット上の熱狂は徐々に燃料を失い、ただの不満のくすぶりへと変わりつつあるように思えた。
きっと大衆は新しい刺激を求めている。
彼らが振り上げた正義の拳を振り下ろすためのわかりやすい標的を。
環境に変化がないまま、あのデマ騒動の夜からちょうど一週間が経った深夜。
俺が薄暗い部屋のパソコンの前で高橋の残した「木島結城」という言葉の意味を思いなやみながら無意識にタイムラインの更新を手動で繰り返していた時のことだ。
俺は背筋を伸ばし、新しく現れた投稿に目を走らせた。
作られたばかりの匿名の分かりやすい捨てアカウントからの投稿。
そこに添付されていたのは、一枚のスクリーンショットだった。
それは、神崎リナのInstagramの「親しい友人」限定のストーリー画面に見せかけたものだった。
黒い背景に、白い文字で短いテキストだけが打たれている。
『ずっと前に終わったはずなのに、また家の近くにいる。おっかない』
ふと時間をみる時計の針は、またしても午前二時十七分を指していた。
俺は息を呑んだ。
出所不明の怪しい画像、そして午前二時十七分。
大衆も普通なら真っ先に偽造を疑っていただろう。
だが、一ヶ月間の沈黙と、熱狂のやり場を失っていた大衆にとって、これは喉から手が出るほど欲しかった「隠された真実」だった。
『これ、リナちゃんの裏垢!?』
『やっぱりストーカーがいたんだ!』
『ずっと前に終わったってことは、元カレ?』
停滞していたタイムラインが、再び爆発的な勢いで動き始めた。
俺は画面を見つめながら全身が鳥肌を立つのを感じた。
またしても午前二時十七分というあの不気味なメッセージと投稿時間が同じだ。
高橋が俺に告げた「元カレ」という言葉と、今流出した「終わったはずなのに」というテキスト。
見えない何者かが、大衆の感情をコントロールする劇薬をここぞというタイミングで投下した。
彼女が本当にどうなったのかは大衆にとってもう問題ではないのだ。
大衆は分かりやすい証拠を与えられるよりも、自分たちの知恵を使って「隠された真実」を暴き出した瞬間こそ最もアドレナリンを分泌させ、その結論を絶対の事実だと狂信する。
ネットの群衆は今、誰かが用意した偽物のパンくずを喜んで拾い集め、自らの知恵で暴き出したと勘違いしながら、用意された「元カレ」という生け贄のもとへと向かって暴走を始めている。
ふと、手元に置いていたスマートフォンの画面に残っている通知アイコンに目が留まった。
ダイレクトメッセージの受信。
俺が今流出したスクリーンショットを凝視し、大衆の暴走を目の当たりにしている、まさにその瞬間に届いたものだった。
画面を開く前から、俺にはその送信時刻がなんとなく予測できていた。
午前二時十七分。
あの捨てアカウントが画像を投下したのと、まったく同じ時刻だ。
恐る恐るメッセージのアプリを開く。
そこには、たった一言だけ、こう書かれていた。
『信じてくれた?』
俺は画面を睨みつけ、奥歯を強く噛み締めた。
恐怖を、無理やり怒りで塗り潰す。
数日前、高橋が俺に対峙した際、あえて口にした「木島結城」という名前。
正式な退職手続きを済ませた元マネージャーが、外部のライターに漏らした過去の男の存在。
そして今、午前二時十七分という奇妙に符合する時間に流出したスクショと、このメッセージ。
偶然であるはすがない。
見えない送り主は、高橋の言葉を俺がどう受け止めたかを確認し、さらにこのタイムラインの暴走を特等席で見せつけるためにこの言葉を送りつけてきたのではないか。
俺というライターが、彼らの敷いたレールの上を走らされているような底冷えする実感が全身を駆け巡っていた。
翌日の、午後一時半。
俺は冷たい冬の風に当たりながら目黒の裏路地を歩き、人通りの少ない古びた喫茶店に逃げ込むように入った。
昨夜の午前二時十七分に突如として投下された、ストーリーを装った不気味なスクリーンショットと、俺の元に届いたダイレクトメッセージの余波は、夜が明けても全く衰えることを知らなかった。
今朝の午前中、俺は神崎リナの所属事務所がある隣駅の恵比寿へと足を運んでいた。
昨夜のあのスクショ流出とメッセージを受けて、ネットの動向を一度整理するため、俺は朝早くから目黒のファストフード店に入ってタイムラインを監視していた。
そして午前十時半にその店を出た後、そのまま恵比寿へと向かったのだ。
高橋という男からは、今のままではまともな証言が得られないのなら、これ以上彼を直接問い詰めても意味はない。
だから、事務所の他のスタッフから情報を引き出すしかないと考えた。
事務所の人間なら、彼女の沈黙が始まった一ヶ月前の不自然な動きや、高橋の退職についても何か知っているかもしれない。
それに昨夜のスクリーンショット流出を受けて、事務所側が何らかの動きを見せるかもしれないという期待もあった。
だが、事務所が入るビル周辺は、殺到した週刊誌の記者やゴシップ系ネットメディア、そして騒ぎに便乗する動画配信者や野次馬たちで溢れ返っており、関係者に到底近づける状況ではなかった。
だがやはり大手のテレビ局のカメラや腕章をつけた新聞記者の姿はなかった。
だが、その代わりにネットの狂乱そのものをコンテンツにして金に換えようとするハイエナたちが、スマートフォンや小型カメラを高く掲げてビルの出入り口を完全に包囲しているという、言葉を選ばずに言えば異様な光景だった。
俺は少し離れた歩道橋の上から、その群衆の動きを静かに観察していた。
彼らは神崎リナの身に何が起きたのか、その確かな真実を求めて集まっているわけではないように見えた。
ただ、ネット空間で起きている巨大な祭りの熱気を現実の物理的な空間でも共有したいという、どこか動物的な欲求に従っているだけのように思える。
誰かがスマホを事務所の窓に向ければ、隣の人間も内容を確かめずに同じようにカメラを向ける。
そこには個人の深い思考は存在せず、ただ群れとしての反射運動があるだけのようだった。
スマホのカメラを掲げる彼らの顔には、純粋な怒りや悲しみといった明確な感情の起伏はあまり見当たらない。
あるのは、自分が今、世間を揺るがす巨大な出来事の最前線に立ち、隠された真実を暴く正義の側に加担しているという、どこか薄っぺらな高揚感だけのように見えた。
俺は少し離れた歩道橋の上から、その群衆の動きを静かに観察していた。
きっと彼らは神崎リナの身に何が起きたのか、その確かな真実を求めて集まっているわけではないんだろう。
ただ、ネット空間で起きている巨大な祭りの熱気を、現実の物理的な空間でも共有したいという、どこか動物的な欲求に従っているだけのように思える。
誰かがスマホを事務所の窓に向ければ、隣の人間も内容を確かめずに同じようにカメラを向ける。
そこには個人の深い思考は存在せず、ただ群れとしての反射運動があるだけのようだった。
スマホのカメラを掲げる彼らの顔には、純粋な怒りや悲しみといった明確な感情の起伏はあまり見当たらない。
あるのは、自分が今、世間を揺るがす巨大な出来事の最前線に立ち、隠された真実を暴く正義の側に加担しているという、どこか薄っぺらな高揚感だけのように見えた。
画面の中で完結していたはずの無責任な熱狂が、今や現実の路上にまで物理的な質量を伴って溢れ出している。
彼らは自分たちが現実の空間でどれほどの暴力を振るっているのか、おそらく考えていないのだろう。
数日前、見えないネットの向こう側にいたはずの顔のない連中が、今こうして生身の群衆となって目の前のビルを包囲している。
その事実がたまらなく不気味だった。
昨夜のスクショによって「元カレ」という分かりやすい悪役の候補を見つけたことで、彼らの正義感は完全にタガが外れてしまったというわけか。
世間の常識や道徳という言葉を隠れ蓑にすれば、他人の日常を現実世界で壊す行為すら、正当なスリルに変わる。
モニター越しに感じていたあの狂気は、もはや画面を飛び越えて、俺たちの立つ現実の社会を完全に侵食しようとしていた。
ビルの裏口を張り込み、関係者の影を追うこと数時間。
そして結局、出入りするスタッフには誰一人として接触できず、俺は自分の無力さと徒労感だけを抱えて、聞き込みを諦めてこうして目黒の街の喫茶店に戻ってきたのだ。
店内にお客は少なく、カウンターの奥で初老のマスターがゆっくりとコーヒーを淹れている。
炒られた古い豆の香りと、壁に掛けられた振り子時計の規則正しいカチ、カチという音が、この空間を静かに満たしていた。
窓の外では、昼休みのサラリーマンや買い物袋を提げた主婦が何事もないかのように歩いている。
誰もが自分の日常という当たり前の現実を生きている。
カウンターの端に置かれた小さな液晶テレビからは、のどかな温泉地のグルメ特集が低い音量で流れていた。
「お待たせしました。ホットコーヒーです」
初老のマスターが、湯気を立てるカップを俺のテーブルにコトッと置いた。
マスターはそのままカウンターの内側にある高い椅子に腰を下ろすと、エプロンのポケットから自分のスマートフォンを取り出し、ふうと小さくため息をついた。
「お客さんも、スマホでニュース見たりしますか? 今、ネットで大変な騒ぎになってるみたいですね」
「ええ、まあ、仕事柄少し」
俺が曖昧に答えると、マスターはスマホの画面を指先でなぞりながら言葉を続けた。
「一ヶ月前までキラキラしてた子が消えたままで、急にこんなことになるなんてね。昨日夜中に出回った画像のせいで、付き合ってたっていう元カレの男が怪しいって、もうすっかり犯人扱いみたいで。テレビのニュースも警察の発表がないせいか、これっぽっちも触れませんけど、ネットの人たちはすごい勢いでその男の過去を暴き出そうとしてるみたいですね。こういう時はネットの人達の方が動きが早いみたいですね」
マスターの言葉には、何の悪意もなかった。
ただ、警察の発表を気にして報道しないテレビよりも、ネットの連中が勝手に作り上げた「元カレへの疑惑」という分かりやすい物語の方を、疑うことなくそのまま受け入れているだけの、ごく普通の善良な市民の感想だった。
「そうですね。便利ですけど、でも恐ろしい時代ですよね」
俺は愛想笑いひとつ浮かべずにそう返し、マスターがカウンターの奥へ戻っていくのを見送った。
平和なテレビ番組の音声とマスターが語るおぞましいネットの噂。
そのちぐはぐな空間が、今の社会の歪みをそのまま表しているようだった。
善良な一般市民の目には、ネットの群衆が悪を暴く正義の味方に見えているらしい。
こうして、何者かが仕掛けたであろう不確かなシナリオは、テレビや新聞が正式に報じるよりも早く、普通の人間たちの頭の中にまで確実に浸透していく。
マスターのその何気ない感想こそが、ネット上の狂気が現実社会を少しずつ侵食しつつある何よりの証拠のように思えた。
けれど、俺の目の前にあるノートパソコンの画面の中では、その当たり前の現実が、恐ろしいほどの情報の波によって音を立てて崩れ去ろうとしていた。
パソコンの画面にはいつもと同じようにいくつかの窓が並べられている。
ネットの書き込みをリアルタイムで追う画面と、自分の頭の中を整理するためのメモ画面。
俺は頼んだホットコーヒーを一口切り、キーボードの上に両手を置いた。
高橋との会話の後に懸念していた通り、ネットの空気は完全に次の段階へと進んでいた。
昨夜、正確には今日の午前二時十七分。
何者かが投下した一枚のスクリーンショット。
神崎リナの「親しい友人」限定のストーリーの、「ずっと前に終わったはずなのに、また家の近くにいる。おっかない」という短い言葉。
それが起爆剤となり、大衆の怒りの矛先は完全に「元カレ」という見えない標的へと向いた。
そして今、ネットの世界で起きているのは、その「彼が怪しい」という思い込みをさらに強固にするための、大衆による証拠の大量生産だった。
何者かが仕掛けた一つの劇薬に触発された大衆が、今度は自分たちの手で勝手に燃料を作り出し、互いに与え合っているのだ。
俺は、ここ数日の間に猛烈な勢いで拡散され、俺が調査を進める過程で目にするようになった、いくつかの不気味な投稿を拾い上げ、メモ画面に整理した。
一つ目。一般人を名乗るアカウントによる考察の投稿。
『神崎リナさんの件、気になって整理してみた。
1 約一ヶ月前に突然の更新停止(最後の投稿の表情が明らかに暗い)
2 その数日後に仲良しインフルエンサーたちがリナさんへの言及を一斉にやめた
3 事務所公式アカウントも無言のまま
4 スポンサー数社のサイトから静かに画像が消えた。これは全部偶然ですか?絶対に裏で何かが起きてる』
二つ目。別の一般人アカウントからの投稿。
『リナさん今日で更新止まって30日と少し。毎日見てた人間としてはほんとに怖い。最後の投稿のコメントに返信もなくなって、ストーリーも止まって。インフルエンサーがここまで完全に止まるなんて普通じゃない。』
これらの投稿が、まるで真実のパズルのピースであるかのように扱われ、まとめサイトがこぞって記事にしている。
だが、調査ライターとして俺の目から見れば、これらはすべて論理的な欠陥を抱えた粗悪な思い込みや、便乗しただけのデマ、あるいは出所不明の噂話に過ぎなかった。
一般人の考察はただの状況の羅列であり、そこに事件性を結びつける客観的な根拠は一つもない。
関係者を名乗るアカウントに至ってはただの捨てアカウントだ。
だが、問題なのはその事実ではない。
大衆は、これらの情報の真偽など全く求めていないということだ。
彼らは「彼女の身に何か恐ろしいことが起きた」「元カレが関わっている」という自分たちの出した結論を補強してくれる材料であれば、それがどれほど粗悪なものであっても喜んで消費し、拡散する。
彼らにとってこれは、正義の捜査ごっこを続けるためのエンターテインメントに過ぎないのかもしれない。
その時、テーブルの上に置いていた俺のスマートフォンが震えた。
画面には木崎の名前が表示されている。
俺はイヤホンマイクを耳に押し込み、通話ボタンを押した。
「朝倉か。状況がとんでもない方向に動き出してるな」
電話越しでもわかるほど木崎の声は切羽詰まっていた。
編集部の怒号のような喧騒も今朝よりはるかに大きくなっているのがわかる。
「元カレのことですよね。ネットで完全に標的にされていますが」
「ああ、だがそれどころじゃない。ネットの特定班の連中が、その元カレである木島って男の現在の住所を完全に割り出しやがった。いま、面白半分の動画配信者や、正義感に駆られた野次馬たちが、木島の自宅アパートに向かって移動を始めているらしい。このままじゃ実際に何かおきるかもしれないぞ。」
現実が、ネットの熱狂に完全に追い詰められている。
俺はパソコンの画面を見つめながら、静かに答えた。
「木崎さん、これはまだ僕の考えですが、今ネットに出回っている証拠らしきものは、すべて大衆の推測や作り物です。それに、昨夜投下されたあの裏アカウントのスクリーンショットですが、あれも何か引っかかるんですよね」
「どういうことだ」
「タイミングが妙だと思うんです。神崎リナが一ヶ月前に沈黙する直前にした最後の投稿も、昨夜のスクショが投下された時間も、どちらも午前二時十七分なんです。この騒ぎに、誰かの明確な意図を感じるんですよ」
俺は、自分の裏アカウントにメッセージが届いている事実については、あえて口にしなかった。
電話の向こうで、木崎が息を呑む音が聞こえた。
「おい。なんだそれは。じゃあ、この一ヶ月の沈黙も、今の木島への攻撃も、全部誰かが裏で計画した通りに動いてるって言いたいのか」
耳元から聞こえる木崎の声には、単なる驚きだけでなく、にわかには信じがたい仮説を突きつけられた戸惑いが混じっていた。
「そう考えてしまうんです。神崎リナの身に何かが起きたという物語を、社会に行き渡らせるための思惑のようにも見えます」
「いやまてまて、朝倉。たった二つの投稿が同じ時間だったからって、流石に深読みしすぎじゃないか。ネットの世界じゃ、そんな奇妙な偶然なんていくらでもあるだろう」
木崎の指摘は、メディアの人間として極めてまっとうなものだった。日々無数のデマや偶然の炎上を見ている彼からすれば、たった二つの数字の一致だけで巨大な仕掛け人の存在を疑うのは、あまりにも飛躍しているように思えるのだろう。
だが、木崎は知らない。
俺の頭の中には、彼に伝えていないもう一要素が存在していた。
あの騒動の夜に届いた「見てる?」という言葉と、昨夜のスクショと同時に送りつけられた「信じてくれた?」という、あの二回のダイレクトメッセージだ。
それらもすべて、午前二時十七分という同じ時間に、俺個人を狙い撃ちにするようにして届いている。
自分だけにしか見えていないその不気味な足跡があるからこそ、俺は木崎からすれば少し強引とも受け取れるこの仮説を、決して単なる深読みだとは捨てきれずにいた。
「時間だけなら、ただの偶然かもしれません。ですが、数日前に高橋に接触した際、俺に対してわざわざ木島という名前を出した。その直後にこのスクショが流出したんです。まるで、高橋の言葉を本物だと大衆に信じ込ませるために、あらかじめ用意されていたかのように。その二つが重なったからこそ、誰かが意図的に大衆の視線を木島へ向けようとしているのではないか、と疑ってしまうんです」
「仮にだお前が言うことが事実だとしたら、それはまるで自分の失踪劇を自分でプロデュースしてるみたいじゃないか」
「ええ。彼女自身が計画したのか、あるいは別の誰かが彼女の不在を利用してシナリオを書いているのか、まだ断定はできません。ですがどちらにせよ、大衆の正義感を意図的に暴走させる、悪趣味な劇場であることだけは確かです」
俺は低く同意した。
もしこれが誰かの仕組んだ劇なのだとすれば、今は用意された悪役が大衆の前に引きずり出され、石を投げられる第一幕のクライマックスといったところだろう。
だが、俺の頭の中にはもう一つ、別の大きな疑問が渦巻いていた。
「木崎さん。木島本人は、今の状況に対して何かアクションを起こしていますか。自身のSNSで反論するとか、メディアに無実を訴えるとか」
「いや、それが全くないんだ。奴のアカウントは完全に沈黙している。部屋の電気も消えたままで、出てくる気配がないらしい」
俺は眉をひそめ、頭の中で状況を整理した。
木島が本当に何らかの事態に関わっている当事者であれば、これほどまでに情報がネット上に溢れ返り、自宅まで特定された時点で、
自宅を暴徒のような野次馬に囲まれれば、恐怖で部屋の電気を消し、息を潜めて外に出られなくなるのは自然な対応だろう。
だが、物理的に外に出られないこととネット上でも完全に口を閉ざすことは別のはずだ。
自分の人生が理不尽な思い込みによって完全に破壊されようとしているのだ。
たった一言でも「自分はやっていない」と、反論の投稿をすることをしてもいいのではないか。
いや、むしろ必死に無実を訴える言葉の一つくらいはあってもおかしくはない。
なのに、彼のアカウントは死んだように沈黙し、一切のアクションを起こしていない。
何かに関わっていても、完全に無実であっても、木島のこの「完全な沈黙」には、まるで嵐が過ぎ去るのをただ待つような同じく不気味な違和感があった。
俺は木崎との通話を切り、再度パソコンの画面に向き合った。
情報の波を作る仕掛け人がいるなら、その波をさらに大きくするスピーカーの役割を果たしている人間が必ずいるはずだ。
画面を遡り、情報を勢いよく広めている中心的なアカウントを探り当てる。
最も影響力を持っているのは、「みゆ」という名前の熱狂的なファンアカウントだった。
プロフィールには「リナちゃんは私の生きる希望」と書かれている。
フォロワー数は数千人だが、彼女の呟きは常に数万回も共有され、今のネットの空気を実質的に支配していた。
みゆの投稿を時間順に追っていく。
午前三時。
『嘘だよね。誰か嘘だって言って。お願いだから姿を見せて。』
午前十時。
『絶対に許さない。リナちゃんを傷つけた何かを、私たちが絶対に見つけ出す』
午後一時。
『みんな、情報を集めよう。私たちが彼女の無念を晴らすしかない。彼女の生きた証を、絶対に消させない。』
悲しみから怒りへ、そして標的探しという正義への誘導。
俺はマウスを持ったまま画面の文字列を見つめた。
彼女の身に何が起きたのか真相はまだ闇の中だ。
事件に巻き込まれたのか自らの意志で消えたのか、あるいは自殺なのか、それすらも確定はしていない。
だが一つだけ確かなことは、この熱狂的なファンたちは、彼女のために動いているつもりで、実は彼女が社会から姿を消すための準備を結果的に手伝わされているに過ぎないのではないか、ということだ。
社会の全員が彼女の失踪や事態を信じ込み、彼女についての物語を語り尽くして初めて、インフルエンサーとしての彼女の存在は過去のものとして完全に固まる。
人間の善意も、正義感も、すべてが計算されているのだとしたら。
俺はネットの画面を静かに閉じた。
もう、この作られたデジタルの世界に長くいる必要はない。
これ以上ネットの海を漂い、大衆が作り出した不確かな証拠や推測を精査し続けても真実には絶対に辿り着けない。
ネットの世界での神崎リナの物語はもう完成間近のように思える。
数百万人の思い込みによって彼女の存在はすでに社会的に塗り替えられようとしている。
ならば次に俺が探るべきは、彼女が現実の物理的な世界から、どのようにして消え去ったのかという痕跡だ。
企業の素早い契約終了。
企業の素早い広告の取り下げ。
マネージャーの高橋は、それを企業として当然のリスク管理だと言い放った。
だが、何千万という金が動く大企業の広告が、単なるネットの不穏な噂を理由に、土日の深夜に数時間のうちに処理されるというのも考えにくい。
会社という組織は本来すごく臆病な生き物のはずだ。
ネットで出所不明のデマが出ただけですぐに数千万円の広告塔を見切るなんておかしい。
もし噂が嘘だったら、今度は会社側がタレントを見捨てた冷酷な企業として叩かれるリスクがあるからだ。
なのに、今回は異常なスピードで神崎リナの広告を消し去った。
つまり、会社側は最初から何らかの事情を知っていたと考えるのが自然だ。
誰かが裏に回って、企業とあらかじめ手を打っていたのではないか。
もし彼女が計画的に自分の存在を消そうとしているのなら、必ず事前に誰かが手続きを済ませているはずだ。
そして、実際に動いた人間の痕跡がどこかに残っている可能性がある。
冷めたコーヒーの代金をテーブルに置き席を立つ。
次に向かうべき場所が決まった。
彼女がプロデュースするブランドの最大の出資者であり、広告塔としてのメインスポンサーである大手化粧品メーカー。
その本社は、港区の南青山にある。
店の外に出ると、午後特有の少し気の抜けたような日差しが街を照らしていた。
車が走り、人がすれ違い、風が吹いている。
情報という名の不確かな要素で作り上げられた、この実体のない騒動。
俺は、彼女が社会から姿を消すために残したであろう足跡を探るため、南青山へと向かって歩き出した。




