第3章 見えない掌の上で
午前九時三十分。
あの一ヶ月の沈黙を破るデマ騒動から、数日が経過した平日の朝。
東京都目黒区の静かな住宅街。
その裏通りにひっそりと建つ、建物は古いがセキュリティだけは異常に厳しい単身用マンションの前に俺は立っていた。
空は雲ひとつなく晴れ渡り、どこかの家の庭から微かに金木犀の甘い香りが漂ってくる。
ランドセルを背負った小学生の集団が笑い声を上げながら通り過ぎ、初老の女性がのんびりと犬の散歩をしている。
ごくありふれた平穏な平日の朝の風景だった。
けれど、俺のコートのポケットに入っているスマートフォンの画面の中では、神崎リナという一人の人間の安否をめぐって、何百万人もの人間が狂ったように騒ぎ立てている。
目の前にある静かな現実と、ネット上の異常な熱気。
そのひどい温度差が俺の神経をじわじわと苛立たせていた。
冷たい風を顔に受けながら頭の中をもう一度整理する。
いま確実にわかっていることは三つある。
第一の事実。
一ヶ月前からSNSの更新が途絶えていた彼女について、昨夜、無責任な暴露系配信者が根拠のないデマを流し、それが起爆剤となってネット上が暴走していること。
第二の事実。
警察は事件性を裏付ける物理的な証拠が何一つないため、この騒ぎを単なるネットの噂として完全に静観していること。そして、誰からの失踪届も出されていない。
第三の事実。
彼女の担当マネージャーだった高橋という男が、彼女のSNSが沈黙し始めた一ヶ月前のタイミングで、すでに事務所を自己都合で退職していること。
俺の仕事は、事実と思い込みをはっきりと分けることだ。
現段階で、彼女が事件に巻き込まれたのか、それとも自ら姿を消したのか、あるいは別の理由でただたんに休んでいるだけなのか、確かなことは何一つ分かっていない。
ネットの連中が騒いでいる「死」という結末は、あくまで彼らの頭の中で作り上げられた最悪の想像に過ぎない。
ただ、高橋という男の動きだけは明らかに違和感があった。
もし自分の担当タレントが本当に深刻なトラブルを抱えていたのなら、マネージャーは会社に残って対応に追われているはずだ。
それが、彼女の沈黙と時を同じくして突然会社を去っている。
彼が本当に偶然、一ヶ月前に自己都合で辞めただけならそれでいい。
だが、もし彼が彼女の沈黙とネットの暴走の裏側にいる何者かと繋がっているのだとしたら。
俺が知りたいのは大衆が騒ぐような猟奇的なスキャンダルではない。
この不気味な空白の一ヶ月と、企業の異常な対応の早さ、そして俺の裏アカウントに届いた『見てる?』というあのメッセージの本当の意図だ。
俺はただ、知りたい、そして見たい。
本当に今回の件に裏があるのだとしたら俺自身のこの目で真実を確かめたい。
俺はマンションの入り口から少し離れた電柱の陰に寄りかかり自動ドアを見つめたまま待った。
今この建物の中にいる確証はどこにもないが、他に接触する手立てもない以上、まずはここを張るしかない。
午前十時三十分。
入り口の自動ドアが開き、一人の男が姿を現した。
グレーのスウェットの上下に黒い帽子を深く被り、白いマスクをしている。
木崎さんが送ってくれた顔写真と照らし合わせようにも、目元しか見えない。
だが、平日の朝の住宅街で、二台のスマートフォンを両手で同時に操作し続けるその異質な手つきが、気になり考えるより体が動いていた。
俺は電柱の陰から歩み出ると、彼が向かおうとしていた行き先の道を塞ぐように立ち塞がった。
「高橋さんですね。フリーライターの朝倉と申します。少しだけ、お話を伺えませんか」
高橋は立ち止まった。
俺は彼のわずかな反応も見逃さないよう、マスクの上の目元をじっと見つめた。
自分が担当していた人気タレントが最悪の事態に巻き込まれたのではないかと世間が大騒ぎしている翌朝に、自宅前で見知らぬライターに声をかけられる。
普通なら、驚きや警戒、あるいは怒りといった感情が顔に出るはずだ。
だが、高橋の目は、ひどく静かだった。
感情の揺れがまったくない。
「ライターさんですか。私はすでに事務所を退職した身です。神崎の件については何もお話しできることはありません。道を空けていただけますか」
声の調子も平坦だった。
怒りもなければ、焦りもない。
高橋はそのまま俺の肩を押し除け、無理やり前に進もうとした。
俺は腕を伸ばし、その胸元を軽く制止する。
「高橋さんあなたは何も知らないんですか? 彼女が一ヶ月も音信不通になっているんですよ。警察は事件ではないと動いていませんが、ネットでは取り返しのつかない騒ぎになっている」
「警察が動いていないなら、それが全てでしょう。失礼します」
高橋が再び歩き出そうとした瞬間、俺はさらに一歩踏み込み、完全に退路を塞いだ。
「なら、俺の裏アカウントに送られてきたダイレクトメッセージについて説明してもらえますか」
高橋の足が、ピタリと止まった。
だが、彼はすぐに首を振る。
「何のことですか。見当もつきません」
「とぼけないでください。昨夜の午前二時十七分。あの暴露系配信者がデマを流して炎上が爆発した絶妙なタイミングで、『見てる?』というメッセージが俺に届いた。ただのイタズラじゃない。俺というライター個人を名指しで巻き込もうとしている人間がいる。あなたが彼女の失踪と一ヶ月前の退職について何も答えないなら、事務所が組織的に事実を隠蔽し、俺に妙な工作を仕掛けているという前提で記事の構成を練ることになりますよ」
これはハッタリだ。
だが、声には無意識のうちに力が入っていた。
高橋はゆっくりとこちらに向き直り、俺の顔をじっと見つめた。
その視線には、これまでの事務的な冷たさとは違う、俺の価値を品定めするような色が混じっていた。
彼は小さく舌打ちをした後、周囲を見回した。
「いいでしょう、少しだけお話にお付き合いしましょう」
「答える気になりましたか」
高橋は短く息を吐き、腕時計に目を落とした。
「立ち話もなんですから、この先の角を曲がったところに、この時間ならあまり人の来ない小さな公園があります。そこへ行きましょう」
高橋は俺の返事も待たずに歩き出した。
迷路のような住宅街を抜け、高橋は生垣に囲まれた小さな公園へ俺を導いた。
遊具も古びており、この時間でも子供の姿はない。周囲の喧騒から切り離されたような、ひどく静かな場所だった。
高橋は公園の入り口にある自動販売機の前に立ち止まると迷うことなく小銭を投入し、ブラックの缶コーヒーを一本買った。
ベンチに座ると、高橋は買ったばかりの缶コーヒーのプルタブを開けた。
俺は手帳とペンを取り出し、膝の上に置いた。
「録音はしないでください。あくまで、ここだけの話ということでお願いします」
「構いません。事実関係だけを確認させてください。まず、神崎リナさんは今どこにいるんですか。生きているんですか、それとも本当に何かの事件に巻き込まれたんですか」
俺の真っ直ぐな質問に対し、高橋は缶コーヒーを一口飲み、遠くのブランコを見つめながら答えた。
「わかりません。一ヶ月前に私が事務所を辞めて以降、本人とは一切連絡を取っていませんから」
高橋は本人と連絡が取れていないと言っている。これはひとまず彼の主張として受け取る。
「では、なぜあなたは一ヶ月前に突然事務所を辞めたんですか。彼女のSNSの更新が途絶えた時期と完全に一致している。僕には単なる偶然にしては出来すぎていると考えています」
俺が畳みかけると、高橋は面倒くさそうに首を振った。
「偶然ですよ。私は体調を崩し、少し前から退職の準備を進めていました。それに彼女の更新が止まったのは、私が現場を離れてからのことです」
「ネットでは大騒ぎになっています。スポンサー企業も一斉に広告を取り下げている。あなたが何も知らないと言うなら、なぜ企業はあんなに早く動けたんですか」
「朝倉さん、企業というものは炎上に対して極めて敏感なんですよ。ネットで不穏な噂が広まれば、リスク管理として広告を下げるのは今の時代、当然の危機管理です。それ以上のことは、すでに部外者である私にはわかりません」
高橋は一切の関与を否定しつつ、どこか他人事のように事実として語っている。
俺は手帳を握りしめ、冷ややかな視線を彼にぶつけた。
「高橋さん。あなたの態度は、自分が手塩にかけて育てたタレントが最悪の事態に巻き込まれているかもしれないと心配している人間のそれではありません。すべてがどこか他人事のようだ。あなた彼女が安否が心配にはならないんですか」
俺の挑発的な言葉に対しても、高橋は動じなかった。
彼は俺の目を見据え、ひどく静かな声で言った。
「心配、ですか。もちろんしていますよ。ですが、私にできることはもうありません。彼女はもう、ここにはいないんですから」
「ここにはいない? それは、死んだという意味ですか」
「アカウントの更新が完全に止まっています。彼女にとって、ネットの世界こそが現実です。その更新が一ヶ月も止まったということは、世間的に見て、彼女はもういなくなったのと同じです。消えちゃったんですよ」
背筋に冷たいものが走った。
「消えちゃった……ですか」
人が一人行方不明になっているかもしれない状況で出る言葉ではない。
それはまるで、ゲームのデータが消去されたかのようなひどく冷たい表現だった。
俺は少し角度を変えて質問を投げた。
「彼女、最近誰かにつきまとわれているとか、事務所と揉めていたとか、トラブルを抱えていませんでしたか?」
「……なんでそんなことを聞くんですか?」
「ネットの暴走ですよ。配信者のデマを真に受けた連中が、見えない犯人をでっち上げようと血眼になっている。彼女の人間関係も、過去の交際相手も、これからどんどん掘り返されていくはずだ。もし彼女が本当に失踪したのだとすれば、その引き金になるようなトラブルがあったんじゃないかと思って」
高橋はふっと息を吐き、視線を少しだけ泳がせた。
「……木島結城」
「えっ?」
「神崎の元彼ですよ。もう半年以上前に別れたはずなんですが、最近また彼女の住んでいるマンションの周辺で見かけたって本人がこぼしていたことがあって。……まあ、ネットの連中が探している『原因』があるとすれば、僕には彼くらいしか思い当たらない」
俺は高橋の目を見つめた。
言葉自体は曖昧だが、その視線は明らかに木島という人間に疑いを向けさせようとしていた。
すでに退職しているとはいえ、元担当マネージャーが確証もない元恋人の名前を初対面の外部のライターにあっさりと漏らした。
「それが事実なら、なぜ事前に警察に相談しなかったんですか」
「推測では警察は動きませんよ。それに、今の時代は警察が動くよりも、世間が勝手に裁いてくれるんじゃないですか。ネットの連中の執念は凄まじい。少しでも餌を与えれば、彼らは勝手に見えない悪役を作り上げてくれますから」
高橋は立ち上がり、空になった缶コーヒーをゴミ箱に捨てた。
背を向けたまま数歩歩いてから、ふと足を止めて顔だけを振り返った。
その目は、マスク越しでもわかるほど冷たく細められていた。
「あなたも、せいぜい気をつけて記事を書いてくださいね。真実なんてものは、世間が信じたいと思ったものが真実になるんですから」
それが純粋な忠告なのか、それとも明確な脅しなのか。
判断する隙も与えず、高橋は今度こそ振り返ることなく足早に去っていった。
一人残された公園の冷え込みが急に体に堪え始めた。
「木島結城」
高橋が残したその名前が、頭の中で不気味な警鐘のように鳴り響いている。
自宅まで戻る時間は惜しかった。
俺は一刻も早くこの名前の裏を取るため、足早に公園を出て、目黒駅前の騒がしいファストフード店へと駆け込んだ。
油の匂いと、高校生たちの笑い声が充満する店内。
さっきまでの冷え切った空気とは正反対の、生々しい現実の騒音の中に身を置きたかったというのもある。
窮屈なカウンター席に座り、コップのホットコーヒーをテーブルに置く。
手が小さく震えていることに気づき、両手でコップを包み込むように握りしめた。
ノートパソコンを開き、店のフリーWi-Fiに繋ぐ。
俺は冷静に分析しているつもりだった。
だが、高橋がわざとらしく「木島結城」という名前を出したことで、俺の中に一つの不気味な疑念が膨らみ始めていた。
彼は本当にうっかり口を滑らせたのか。
それとも、俺に木島の周辺を調べさせネットの連中と同じように木島へと疑いの目を向けさせるための「誘導」だったのではないか。
俺は検索窓に「木島結城」と打ち込み、徹底的に情報を洗い出し始めた。
過去のSNSアカウント、バンド時代のブログ、掲示板のログ。
神崎リナの周辺情報との接点。
だが、三十分ほど血眼になって画面に張り付いて得られた結果は、ひどく拍子抜けするものだった。
出てきたのは、売れないインディーズバンドの過去の活動記録くらいだ。
現在は音楽を辞めているようだった。
粗暴な振る舞いやストーカー行為を裏付けるような客観的な事実は何一つ見当たらない。
俺は最後に、現在のネットのタイムラインで「木島」という単語がどう扱われているかを検索した。
だがまだ誰も、この男の存在には気づいていなかった。
もし高橋の狙いが俺に木島の過去を洗わせ、「彼が怪しい」という記事を書かせることだとしたら。
防御力を持たない一般人の木島は、見えない犯人を求めて暴走する百五十万人の大衆にとって、この上なく叩きやすい極上のサンドバッグになる。
高橋は俺というライターの思考回路すらも、何者かの掌の上でコントロールされていることになるが、第一印象としては高橋がそこまで狡猾な人間だとも思えなかった。
だが自分が、得体の知れない悪意の流れに利用されようとしているかもしれない恐怖が、じわじわと全身を侵食していく。
まだ彼女がどうなったのか真相は全くわからない。
ただ、誰かが明確な意図を持って「木島結城」という人物をスケープゴートとして盤上に引きずり出そうとしている気配だけがひどく濃厚に漂っている。
そう考えると吐き気がした。
五年ほど前。
俺がまだ無名のライターだった頃の記憶が、強烈なフラッシュバックとなって脳裏を埋め尽くす。
俺はあの時、児童支援NPO法人の代表に対し、いくつかの断片的な事実と怪しい状況だけを悪意で繋ぎ合わせ、寄付金を横領する悪党に仕立て上げた記事を公開した。
読者が求めているわかりやすい悪役を作り上げるために。
結果として、法人は活動停止に追い込まれ、代表は社会的な信用を完全に失い、自ら命を絶った。
嘘は書いていなかった。
だが後になって、彼がその行動で守ろうとしていた真実が別にあったことがわかった。
「っ……」
無意識のうちに手が動き、コップを倒してしまった。
熱いコーヒーがテーブルの上に広がる。
俺は慌てて紙ナプキンを大量に引き抜き、乱暴に拭き取った。
呼吸が荒くなり、心臓が耳元でうるさく鳴っている。
俺は自分の書いた文章で、一人の人間の現実の人生をこの世から消し去った。
今、目の前の画面で起きていることは、あの時俺がやったことと根本的には何も変わらない。
俺は冷静に分析しているつもりだった。
だが、俺が木島の情報を調べ、高橋の言葉の裏を読もうとしているこの行動自体が、すでに彼らが敷いたレールの上を走らされているだけなのではないか。
高橋が俺に木島の名前を出したのは、俺に木島の過去を調べさせ、世間と同じように「彼が犯人だ」と思い込ませるためで、俺というライターの思考回路すらも計算されている。
自分が完全に利用されているという恐怖が、じわじわと全身を侵食していく。
「物語は現実より強い」
いつか読んだ、神崎リナのインタビュー記事の言葉が再び頭の中で響いた。
彼女は、世間の人間が事実よりも物語を愛していることを知っている。
事実がなくても、完璧な物語さえ用意すれば世間は自ら喜んで彼女の死を成立させてくれると確信しているのだ。
俺はパソコンを閉じ、深く息を吐き出した。
震える両手を強く組み合わせ、無理やり落ち着かせる。
俺は絶対に彼らの用意したレールの上には乗る訳にはいかない。
それにまだ記事は書けない。
木島を犯人だと決めつけるような真似は絶対にしない。
俺はただ、この不気味な空白の一ヶ月と、彼らが大衆をどうやってコントロールしようとしているのか、その手口を外側から冷静に観察し、見極める。
そして俺は、その流れを特等席で見届けるよう仕向けられているという事実だけを、胸の奥に冷たく刻み込んだ。
これ以上、騒がしい店内に留まっている気力は残っていなかった。
俺はノートパソコンを乱暴に鞄に押し込み席を立った。
店を出ると、昼下がりの目黒の街は相変わらず平凡な日常を営んでいた。
駅の改札を抜け、山手線に乗り込む。
窓の外を流れる東京の景色を眺めながらも、頭の中では高橋の冷え切った目元と、五年前に自分が追い詰めた佐々木の顔が交互に浮かんでは消えていた。
夕方前には、這いずるようにして自分の薄暗い部屋へと帰り着いた。
鍵を閉め、コートも脱がずに万年床へと倒れ込む。換気扇の低い唸り音だけが響く部屋は、まるで世界の終わりに取り残されたかのように静まり返っていた。




