第2章 死体はない
夜が明け、薄汚れたカーテンの隙間から白々とした朝の光が部屋に差し込んでくる。
換気扇の低い唸り音は相変わらずだが、遠くの幹線道路を走る深夜の大型トラックの地響きは、いつの間にか始発を待つ通勤電車の規則正しい走行音へと変わっていた。
灰皿には吸い殻が山のように積まれ、マグカップの底に残った安物のコーヒーはとうの昔に泥水のような冷たさに変わっている。
俺は一睡もすることなく、ノートパソコンの青白い光と向き合い続けていた。
午前七時。
世間が目を覚まし、本格的な社会活動を始める時間だ。
だが、俺の目の前にある二つのモニターが映し出している世界は完全にかけ離れていた。
右のモニターにはネットの書き込みと情報収集の画面が表示されている。
RIP神崎リナのハッシュタグは、夜通し勢いを落とすことなく、むしろ起きてきた一般の人たちを巻き込んでさらに巨大な波へと成長していた。
投稿数はすでに数百万件を突破している。
まとめサイトはこぞって『人気インフルエンサー失踪の真相』、『神崎リナ死亡説の謎』、といった人の気を引くタイトルの記事を乱造し、広告収入狙いのハイエナたちが群がっている。
ネットの世界における彼女の死は、もはや疑いようのない確定した事実として消費されていた。
一方で、左のモニターには各テレビ局の朝のニュース番組を同時に流しているサイトの画面が並んでいる。
ただ、ネット上では数百万人が「彼女に何かが起きた」と熱狂し、悲鳴を上げ、トレンドを完全に独占しているにもかかわらず、テレビのキャスターたちは誰一人として神崎リナの名前を口にしていなかった。
政治の裏金問題、海外の紛争、そしてのどかなローカル線の旅特集。
大手マスコミは、昨夜から続くこの巨大な狂騒を、まるで存在しないかのように完全に黙殺しているのだ。
数百万人の脳内だけで発生している大事件とそれに一切触れない現実の報道。
その圧倒的な断絶が、このインターネットという空間の密室性と不気味さをより一層際立たせていた。
俺は乾いた目をこすり、スマートフォンを手に取った。
連絡帳をスクロールし、木崎の名前をタップする。
木崎は、ネットの噂話を扱うメディアの編集長を務める男だ。
俺がフリーランスになる前、ひどい労働環境の編集会社でこき使われていた頃の先輩であり、今でも俺から情報と引き換えに小銭を恵んでくれる貴重な相手でもある。
彼は独自の警察や裏社会との人脈を持っており、特に今回のようなネットと現実の境界で起きた騒動に関しては頼りになる男だ。
呼び出し音は三回で途切れた。
「よう、朝倉。早いな。いやそうか、寝てないのか」
電話の向こうから、タバコの煙と一緒に吐き出されたようなしゃがれた声が聞こえた。
周囲が騒がしい。すでに編集部で怒鳴り声を上げながら立ち回っているのだろう。
「木崎さん、神崎リナの件です」
挨拶を返すだけの時間さえ惜しかった。
俺はつながったばかりの電話の向こうに向けて、単刀直入に核心だけを突いた。
「だろうな。だと思ったよ」
「裏は取れましたか」
俺の真っ直ぐな問いに、木崎は短く舌打ちをした。
「取れねえよ。というより、取るものが何もない」
「どういうことです?」
「警視庁の番記者に何人か当たったんだがな。返ってきたのはあきれるほど事務的な回答だけだ」
木崎の声のトーンが一段と下がる。
周囲の騒ぎから少し離れたのか、彼の息遣いがはっきりと聞こえるようになった。
「昨夜、あの暴露系配信者が流した直後から、ネットの信者どもが一斉に一一〇番通報を入れ始めたらしい。管轄署の対応窓口も一時的にその処理に追われたそうだが、警察の対応はいたって淡々としたものだったみたいだ」
「警察は動いたんですか」
「動くわけがないだろ」
木崎は呆れたように鼻で笑った。
「失踪届も出ていない。証拠があるわけでもなく、あの配信者が言っていたトラブルを示す確たる裏付けもない。ただネットの連中が、一ヶ月のSNSの更新停止と無責任なデマを勝手に繋ぎ合わせて殺されたと騒いでいるだけだ。警察としては決定的な事件の証拠がゼロである以上、単なるネットの妄想として完全に静観する構えだ」
俺は唇を噛んだ。
警察が動かない。それはつまり、この騒ぎが現実の事件として扱われることはないということだ。
「マスコミも同じだ。警察が動かない以上、テレビや新聞はこれを事件として報じることはできない。せいぜい週刊誌のWEB版が、人気インフルエンサーのSNSが止まってファンが騒いでいるという腰の引けた記事を出すのが関の山だ」
「なるほど。わかりました。情報ありがとうございます」
「おい、朝倉。お前、この記事書く気か?」
電話を切ろうとした俺を、木崎の声が引き留めた。
「どういう意味ですか」
「いやな、この件、触らない方がいいような気がしてるんだ。俺の勘だがな。ただの配信者のデマによる暴走にしては少し違和感がある気がしてな。うちの広告部からの情報なんだが、神崎リナと契約していた化粧品やアパレルの企業が、さっき同時に一斉に彼女の広告をホームページから消し始めたらしい。まるで初めからこうなることが計画されていたかのように異常な手際でな」
俺の頭の片隅でも一つの引っ掛かりが生まれた。
現実の対応の早さだ。
企業という巨大な組織は普通、土日の深夜に起きたネット上の根拠のない騒動に対して、ここまで早く動くことは通常では考えにくい。
担当者が上司に報告し、法務がリスクを精査し、役員が最終決断を下す。
どれだけ急いだところで、すぐに対応できないのが組織のはずだ。
それが、なぜ朝一に終わっているのか。
「情報、助かります。少し調べてみますよ」
「無理はするなよ。お前、また昔みたいに……」
木崎が何かを言いかけたが、俺は失礼しますと被せて通話を切った。
昔みたいに。
その言葉が、俺の心の奥底にある黒い泥のような記憶をかき混ぜる。
記事で人を追い詰め、社会的な死へと追いやった過去。
正義を振りかざし、事実の欠片を繋ぎ合わせて作った論理の刃で、一人の人間の逃げ場を完全に奪ったあの事件。
その結果どうなったかは今でも夢に見る。
俺は頭を振り、思考を現在の事件へと引き戻した。
右のモニターに視線を戻す。
午前八時を回った頃から、ネットの空気に明らかな変化が起き始めていた。
警察は動いていない。
テレビの報道もこの件には一切触れていない。
その事実が、徐々にネットの連中の間にも広まり始めたのだ。
普通なら、ここでただのデマだったのかと冷静さを取り戻すはずだ。
だが一ヶ月もの間、不安という名の乾いた薪を溜め込み、昨夜の暴露系配信者のデマで完全に火がついてしまった大衆の心理は別の方向へと暴走を始めた。
『なぜテレビは報道しないんだ。』
『警察が動かないのはおかしい。何か巨大な力が裏で事実を隠蔽しているんじゃないか。』
『リナちゃんは絶対に誰かに消されたんだ。私たちが真相を暴かないと。』
陰謀論への飛躍。
俺は、文字の並びが色を変え、より攻撃的な正義感へと変質していく様子を冷ややかに見つめていた。
これが大衆だ。
彼らにとって重要なのは、客観的な事実や警察の公式発表ではなかった。
自分が隠された真実を見抜く側に立ち、安全な場所から見えない悪を裁くという快楽だけだ。
彼女が自ら消えたのなら、誰かが彼女を追い詰めて消えたことにすればいい。
事故だったなら、誰かのせいにすればいい。
大衆は、神崎リナを悲劇のヒロインとして完成させるために、どうしても彼女を不幸へと突き落とした凶悪な「何か」を必要としていた。
俺はモニターから目を離し、背もたれに深く寄りかかった。
天井の染みを見つめながら、頭の中で情報を整理する。
世間の大半は、見えない「何か」を探して、誰も止められない疑心暗鬼の渦へと飲み込まれていった。
彼らは、彼女がどこかで生きている可能性や、自らの意志で全てを捨てて去ったという可能性を、今の高揚感の邪魔になるものとして無意識のうちに排除しているのかもしれない。
彼らは何かの真実を求めて集まっているわけではないのだろう。
画面の向こう側の熱狂を見ていると、ただネット空間で起きている巨大な祭りの熱気を共有したいという欲求に従っているようにしか見えない。
そこには個人の思考は存在せず、ただ群れとしての反射運動があるように思えた。
言葉の羅列を見る限り、純粋な怒りや悲しみというより、世間を揺るがす巨大な事件の最前線に立ち、真実を暴く正義の側に加担しているという高揚感に酔っているのではないか。
誰かが声を上げれば、それに同調して声を上げる。
誰かが石を投げれば、自分も安全な場所から小石を投げる。
俺はその光景に、五年前に自分が引き起こした佐々木事件の炎上を重ね合わせずにはいられなかった。あの時もそうだった。
彼らは自分たちの行動が孕む暴力性や、その結果生じる将来的なリスクなど深くは考えていないだろう。
目の前にある叩きやすい標的に向かって、ただ無責任な正義の石を投げ続けていた。
彼らが本当に知りたいのは、神崎リナの死の真相なのだろうか。
神崎リナという悲劇のヒロインを消費し、見えない何かを探し出して処刑するまでの過程を、一つのエンターテインメントとして楽しもうとしているように思えてならない。
世間の常識や道徳という言葉を隠れ蓑にすれば、他人の人生を破壊する行為すら正当化されてしまう。
スマホの画面越しなら、人はどこまでも残酷になれる。
五年前に俺が記事で追い詰めた佐々木という男も、こういう顔のない連中にすべてを焼かれた。俺が火をつけ、彼らが面白半分で油を注いだ。
その結果、彼は死んだ。
今の連中も、この件が収まれば神崎リナのことなんて忘れて、また別の誰かを叩いて笑うんだろう。
俺はその無責任な熱気がたまらなく恐ろしかったし、同時に、そんな狂った仕組みを利用して生計を立ててきた自分自身にひどい吐き気がした。
俺はモニターから目を離し、背もたれに深く寄りかかった。
天井の染みを見つめながら頭の中で情報を整理する。
世間の大半は、見えない何かを探す終わりのない攻撃へと移行している。
だが俺の直感は、この狂騒の裏に何者かの意図が介入しているのではないかと考えた。
単なるデマから派生した自然発生的な暴走にしては少し出来すぎていると感じた。
そう疑わざるを得ない理由がいくつかあった。
第一に、やはり木崎の情報にあったスポンサー企業の動きだ。
神崎リナは、すでにトップに上り詰めたインフルエンサーだ。
大企業の広告塔を務め、自分でプロデュースしたブランドも順調に売り上げを伸ばしている。
企業が土日の深夜に起きたネット上の騒動に対して、これほど早く動くことは不思議だ。
それが、なぜ夜明けと共に終わっているのか。
まるで、初めからこうなることが計画されており、企業側も事前にそのことを知らされていたかのような手際だった。
第二に、期間と時間だ。
俺はパソコンのキーボードを叩き、昨夜のうちに抜き出しておいた神崎リナの過去の投稿と、今夜俺の裏アカウントに届いたメッセージの記録を並べた。
神崎リナのSNSは、一ヶ月前の夜を最後に完全に沈黙している。
一見すると、何かのトラブルで突然更新が途絶えたようにも見える。
だが、俺が最も引っ掛かっているのは、この空白の期間と、奇妙な時間の一致だ。
神崎リナが一ヶ月前に最後に投稿を行った時刻。
二時十七分。
そして、今夜俺の裏アカウントに『見てる?』というメッセージが届いた時刻。
二時十七分。
俺は息を呑んだ。
一ヶ月という巨大な空白の期間を挟んで、二つの数字が不気味に符合している。
これを単なる偶然だと片付けていいのだろうか。
もし、これが突発的な失踪や配信者のデマによる事故ではないとしたら。
誰かが意図的に一ヶ月間という長い時間をかけて神崎リナを沈黙させ、ファンの不安を極限まで培養したという仮説も成り立つ。
そして、不安が臨界点に達した昨夜、暴露系の配信者がデマを流すという偶発的な出来事すらも利用し、一番効果的なタイミングで大衆の感情を爆発させたのではないか。
一ヶ月の沈黙が、彼女が消えるための準備期間であると同時に、今夜のこの爆発的な私刑の嵐を生み出すための緻密な助走だったと考えれば、様々な事象の辻褄が合う。
「まてまて、ただ単に、いくつかの偶然が重なっただけってこともある」
俺は思わず声に出し、小さく首を振った。
ただの炎上デマであれば、こんな手の込んだ工作をする意味がわからない。
それになぜ、俺のような日陰のライターに、メッセージを送ってくる必要があるのか。
このアカウントは俺が過去の炎上事件を調べる時に使っている裏のアカウントだ。
表向きはただ見ているだけで俺の正体と結びつく情報は一切出していない。
「俺の正体を知っていて、かつ、俺がこの時間にこの事件を見ていることを確信している人間。そんな人間が神崎リナの周りにいるのか。」
独り言が、狭い部屋に空しく響いた。
もしそうだとしたら、相手は俺の思考パターンすら読んでいることになる。
警察が事件ではないと判断し、マスコミが沈黙することすら見越して、深入りしてくることを前提に、パンくずを落としているのだとしたら。
これは罠かもしれない。
だが、俺のライターとしての、いや、単なる好奇心に突き動かされた狂気が、この謎を解き明かしたいと強く渇望していた。
現実の事件の痕跡がないなら、探す場所を変えればいい。
物理的な被害が存在しないのであれば、彼女の存在が社会的に殺されていく過程を追うしかない。
企業が契約を打ち切るスピード。
警察が事件ではないと決めつける筋書き。
それらすべてが、異常な早さで進んでいるように見える。
まるで、誰かが用意周到に根回しをし彼女の存在を社会から消し去るためのレールを敷き終わっていたかのように。
誰が、それをやっているのか。
俺がまず接触すべきは、彼女の最も近くにいた人間。
彼女のスケジュールを管理し、仕事関係の調整を行い、彼女の作られた等身大を裏側から支えていた人物。
神崎リナの担当マネージャーだ。
俺は再びパソコンの前に座り、過去の調査資料を引っ張り出した。
以前、別のタレントの取材でこの事務所周辺の人物を調べたことがあった。
神崎リナが所属する事務所は都内にある中堅のプロダクションだ。
担当マネージャーの名前は、確か。
資料のデータを検索し、一つの名前に辿り着く。
高橋。四十代くらいの男性マネージャー。
業界内での評判は悪くない。
手堅く仕事を進め、担当タレントのメンタルケアにも長けているという評価だった。
彼なら、今のこの状況に対して何らかの対応を迫られているはずだ。
そして、あの異常なまでの企業の契約解除の早さ。あれはマネージャーの耳に入っていないわけがない。
俺はスマートフォンを手に取り事務所の代表電話の番号を打ち込んだ。
今は午前九時。そろそろ業務が始まっている時間だろう。
呼び出し音が鳴る。
一度、二度、三度。
なかなか出ない。電話が殺到しているのだろうか。
「はい、株式会社フリークプロダクションです」
ようやく繋がったのは疲れ切ったような若い女性の声だった。
「お忙しいところ恐れ入ります。フリーライターの朝倉と申します。神崎リナさんの件で、担当の高橋さんにお話を伺いたいのですが」
相手は一瞬息を呑んだような間を置いた。
「申し訳ございません。現在、担当の者は席を外しておりまして」
「いつお戻りになりますか。急ぎの確認事項がありまして」
「それが、その」
受付の女性は、明らかに言葉を濁していた。
マニュアル通りの対応ではない。
何か、想定外の事態が起きている時の動揺が伝わってくる。
「何かあったんですか」
俺は少し声を潜め、探りを入れるように問いかけた。
「申し訳ございません。高橋に関するお問い合わせについては、現在、お答えできることはできません」
受付の女性はそう言い捨て一方的に通話を切った。
俺はスマートフォンをデスクに放り投げた。
当然の反応だ。個人情報保護とリスク管理が何より優先される大企業やプロダクションなら、電話一本で社員の動向を漏らすはずがない。
だが、あの受付の女性の「動揺」だけは本物だった。
高橋という男が、今、組織にとって「触れてはいけない爆弾」であることは間違いないらしい。
俺は木崎に電話をかけ直した。
「木崎さん。何度も申し訳ないです。高橋について、何か掴んでませんか。事務所に電話しても『現在、お答えできることはできません』の一言で電話を切られました」
「そりゃそうだろ。……俺のツテで聞いた話しなんだが、高橋は先月末で事務所を退職したって話だ」
「退職? 本当か」
「ああ。どうも、この騒動が燻り始める直前に、静かに辞めてるらしい」
「事務所も、高橋が辞めたことを公にしたくない理由があるんだろうな」
マネージャーの退職。
これもまた、計画の一部なのだろうか。
俺は手帳を開き、ボールペンを走らせた。
・警察とマスコミ:事件の証拠がないため完全な不介入。
・世間の反応:隠蔽を疑う陰謀論と見えない何かへの攻撃。
・企業:異常な速度での広告削除。
・時間:一ヶ月前の最後の投稿と今朝のDMが共に十七分。
・高橋:一ヶ月前の沈黙開始と同時に退職済み。
書き出した事実の欠片を眺める。
これらはバラバラに見えて一つの目的に向かって集まっているようにも思える。
その目的とは何か。
もし、誰かが意図的にこの状況を演出しているのだとしたら。
神崎リナという一人の存在を、ネット世界から消し去ろうとする計画。
警察の捜査という公式の手続きを介さず、大衆の想像力だけを焚きつけて事実を塗り替え、存在自体を曖昧にしていくような、そんな底知れない意図。
そんな絵図を描いている人間が存在するとしたら、その目的は何だ。
誰にも認識されなくなった時、人は本当に死ぬ。
それは俺が過去、誰かを社会的に殺した時と同じ構造だ。
もし高橋という男がこの件に関係しているのだとしたら。
「木崎さん、最後にもう一つお聞きしたいことが……。高橋と神崎リナの住所を知ってたりしますか?」
木崎の声が、少しだけ低くなる。
「今は手元にない。だが、俺のツテを使えば調べられないこともない。だが、ただじゃやらねえぞ。その代わり、この件が片付いた後でいい。お前が過去に調べてボツにした、あの『芸能事務所と暴力団の癒着』、あれの再調査をうちでやらせろ」
俺は一瞬、眉をひそめた。
それは、俺が数年かけて温めてきた業界を揺るがすかもしれない隠し玉だった。
「……わかりました。出し惜しみはしません」
「いい返事だ。少し時間がかかるかもしれない。数日待ってくれ。わかったら連絡する。だがあまり深入りするなよ、朝倉。今回の火種は、お前の想像以上にデカいかもしれないぞ」
木崎との通話を切った後、俺は薄暗い部屋で一人、パソコンの画面と向き合い続けた。
木崎からの連絡を待つ数日間、ただ手をこまねいて待っているわけにもいかない。
俺は独自のルートを使って、神崎リナの過去の投稿、スポンサー企業との契約について、そして高橋というマネージャーが過去に関わったタレントの情報を片っ端から洗い出していった。
だが、調べれば調べるほど、彼らの痕跡は不自然なほど綺麗に消し去られていた。
高橋の経歴には空白があり、神崎リナの過去の足跡もネット上に残された作られた等身大の彼女の姿以外、現実のプライベートを裏付けるような客観的な情報はほとんど見つからない。
それはまるで、最初から現実の世界に存在していなかったかのように。
一方、ネットの世界では、警察が動かないという事実の前に大衆の熱狂は少しずつ変化を見せ始めていた。
決定的な新しい証拠が出ないことに苛立ち始めた彼らは、過去の配信の切り抜きや、彼女と関わりのあった人間たちのSNSを血眼になって掘り返し、見えない何かを探す終わりのない攻撃を続けている。
だが、その熱もいつかは冷める。
新しい燃料が投下されなければ、ネットの群衆はすぐに飽きて次の標的へと移っていく。
このまま彼女の存在は、解決しないネットの都市伝説として曖昧に消費されていくのか。
そんな焦りがピークに達しようとしていた、騒動から数日後の朝。
俺のスマートフォンが短く振動した。
木崎からのメッセージだった。
そこには、目黒区内にあるマンションの住所がピンポイントで記されていた。
あの日から数日間、いくらネットの海を漁っても、どれだけ過去の資料を洗っても、煙を掴むような空振りばかりが続いていた。
世間の熱も冷めかけ、このまま謎が風化してしまうのではないかという焦りが、胸の奥でじわじわと広がっていた。
だからこそ、画面に表示されたその具体的な数字と文字列を見た瞬間、停滞していた時間が一気に動き出したかのような、強烈な緊張感が全身を駆け巡った。
俺は開いていた手帳を閉じ、ジャケットを強く引き寄せた。
ここにいてもラチが明かない、なら直接足を運ぶしかない。
少しでも現実の神崎リナを知る人間に直接会って証言を引き出す必要がある。
見上げる空は抜けるように青く、人々はいつもと同じように足早に地下鉄の駅へと向かっている。
誰一人として、ネットの狂乱など気にしていないかのように。
俺はその圧倒的な断絶の中心点に向かって、一歩を踏み出した。
これは殺人事件と呼べるのかもしれない。
死体が存在しない、しかし確実に一人の人間の存在を消し去るための、完璧に設計された殺人事件に。
そして俺は、その共犯者として招待されたのではないか。
ポケットの中で、スマートフォンが重く感じられた。
あの『見てる?』というメッセージの送り主が、今も俺の行動を監視しているような気がしてならなかった。




