第1章 トレンド「#RIP神崎リナ」
午前二時十七分。
換気扇の低い唸り音と遠くの幹線道路を走る深夜の大型トラックの重い地響きだけが淀んだ六畳半の空気を震わせていた。
俺、朝倉恒一は、マグカップの底にこびりついた冷え切ったコーヒーの残りを胃に流し込みながら、スマートフォンの画面を無意識の反復動作で上へ上へと弾いていた。
フリーの調査ライターという肩書きは、名刺の上のインクとしてはそれほど聞こえの悪いものではない。
だが、その実態はインターネットの底なしの掃き溜めを這いずり回る清掃員のようなものだ。
いや清掃員ならまだいい、ゴミを片付けて環境を綺麗にするという社会的な意義がある。
だが俺がやっているのは、炎上、デマ、個人情報の特定、そして私刑といった、日々量産される悪意と承認欲求の残骸を拾い集め、それに適当な文脈という名の包装紙を巻いて新たな消費物として記事に仕立て上げるだけの作業だ。
今夜も、とある地下アイドルの裏アカウント流出騒動に関する原稿を書き終えたばかりだった。
誰が誰を裏切っただの、誰がパパ活をしているだの、明日になれば誰も覚えていないような下世話なスキャンダル。
そんなものを文字にまとめるために何十時間も画面に張り付いていたせいで頭の芯が白く霞み、文字の羅列が意味を持たない無機質な記号に見え始めている。
惰性で眺めるタイムラインはいつも通り無価値な情報の濁流だった。
どこかの誰かが食べた高級な寿司の写真、匿名という安全な盾の裏から放たれる政治への薄っぺらな怒り、原型を留めないほど加工されすぎた自撮り、そして見え透いた嘘で塗り固められた成功譚。
どれもが等しく軽く、指先で弾かれる数秒後にはまた別の新しい情報に押し流されて永遠に消えていく。
人間が一生かかっても処理しきれない量の言葉が、一秒間に何百万回も生み出されては消滅していく狂気の空間。
『その水に馴染めない魚だけが、その水の事を考える。』
昔、誰かが言ったその言葉が、ひどく疲労した脳裏にふと浮かび上がった。
濁流の中で気持ちよく泳いでいる大多数の人間は、自分がどのような水質の中にいるのか、その水流がどこへ向かっているのかを疑うことはない。
彼らはただ、周囲の魚と同じ方向へ泳いでいるという安心感の中だけで生きている。
水に弾き出され、息を止めながら外側からその流れを観察している異端の魚だけが、この狂騒が自然の川ではなく、人工的に造られた水路であることに気づくことができる。
そんなデジタルな排泄物の海の中で、ふと俺の親指が止まった。
視線が、画面の隅に表示されたトレンド欄に吸い寄せられる。
最上段。他のくだらないワードをすべて下へと押しやり、その文字列は無機質に、だが圧倒的な存在感でそこに居座っていた。
「#RIP神崎リナ」
一瞬、脳がその文字列の意味を処理するのを拒んだ。
RIP(安らかに眠れ)神崎リナ。
その名前に聞き覚えがないはずはない。
ネットの底を漁る人間でなくても、現代の日本のSNSに触れている者であれば一度はその名前と顔を目にしたことがあるはずだ。
フォロワ百五十万人を抱える、現在進行形でトップクラスのインフルエンサー。
神崎リナ。
コスメのレビューや、洗練されつつも嫌味のない日常のルーティン動画で、二十代から三十代の女性を中心に絶大な支持を集めている女性だ。
彼女の最大の武器は、圧倒的な美貌や他を寄せ付けない圧倒的な才能ではない。「共感」だ。
少し頑張れば手が届きそうに見える絶妙に計算され、精密に作られた「等身大」。
それこそが彼女の最大のコンテンツだった。
高価すぎるブランド物ばかりを見せびらかすわけではなく、かといって貧乏くさいわけでもない。
休日の朝には少し寝坊し、失敗した手料理を笑い飛ばしながらも肌の手入れだけは怠らない。
そんな、どこにでもいそうで、どこにもいない理想の自分を、彼女は寸分の狂いもなく見せていた。
仕事柄、俺は過去に彼女の周辺で起きた小さな炎上ボヤ騒ぎやアンチアカウントの動向をリサーチしたことが何度かある。
その時の俺の彼女に対する評価は、「セルフプロデュース能力が異常に高く、全く隙がない女」というものだった。
大衆が何を求め、何に嫉妬し、何に共感するのか。
彼女はそれを本能ではなく、極めて冷徹な計算によって弾き出しているように見えた。
発信する言葉の端々、写真の構図、動画の編集のテンポに至るまで、すべてが「他者からどう認識されるか」という一点に向けて最適化されていた。
その完璧な自己管理能力を持つ彼女に対して、『安らかに眠れ』という言葉が投げかけられている。
現実感のない疑問が脳裏に浮かんだのとほぼ同時に、握りしめていたスマートフォンが手のひらの中で小刻みに震え始めた。
通知の嵐だ。
タイムラインの更新通知が目まぐるしい速さでカウントを増やしていく。
俺はトレンドの文字列をタップし、何が起きているのかを確認するためにその濁流の真っ只中へと飛び込んだ。
まるでダムが決壊したかのような滝の勢いで新しい投稿が画面に流れ込んでくる。
凄惨な事件の決定的な映像や所属事務所からの公式な訃報発表があるのかと思った。
だが、タイムラインの最上部に固定され、猛烈な勢いで拡散されていたのはそんな明確な「事実」ではなかった。
そこにあったのは、無数のファンの戸惑いと憶測、邪推、そして不気味な噂の集積だった。
その噂の数々を確認していくと異変の始まりは、約一ヶ月前だった。
神崎リナのすべてのSNSアカウントの更新がある夜を境に突如として完全に途絶えたのだ。
毎日欠かさずストーリーを上げ、数日おきに動画を投稿していた彼女が、何のアナウンスもなく一瞬にして表舞台から姿を消した。
最初の数日間、ファンたちは『少し遅めの冬休みだろう』とか『体調を崩して静養しているのではないか』と楽観的に捉えていたようだ。
しかし、一週間が過ぎ、二週間が過ぎても、彼女のアカウントは微動だにしない。
いいね欄も動かず、生存を証明するデジタルな足跡が完全に途絶えてしまった。
インフルエンサーにとって、一ヶ月の沈黙は死を意味する。
フォロワーの関心は常に新しい刺激へと移り変わるため、発信を止めることは自らの価値をドブに捨てるようなものだ。
ましてや百五十万人超えのファンを抱え、多数の企業案件を抱えている彼女が事前の告知もなくこれほどの長期間、音信不通になるなど明らかに不自然だった。
この一ヶ月という沈黙の重みが、ファンたちの間にじわじわと、だが確実に不気味な不安の種を植え付けていた。
タイムラインには、彼女の安否を気遣うファンの悲痛な書き込みが溢れている。
そして、更新が途絶えて三十日が経過したという事実だけが冷酷な現実として共有されていた。
インフルエンサーがここまで完全に気配を消すなんて不自然だ、何かが起きているに違いないという恐怖がネットの空気をじわじわと侵食していったのだ。
タイムラインの熱狂の起点を探ると、数時間前に投稿され、すでに数万回リポストされている一つの切り抜き動画に行き着いた。
更新停止からちょうど三十日目という節目に、その行き場のない不安の薪の山にある無責任な男が火を放ったのだ。
登録者数は数十万人規模だが、深夜のゲリラ配信にもかかわらず常に数万人の同時接続を集める暴露系のライブ配信者だ。
彼は今夜の生配信のタイトルを『神崎リナ、失踪三十日。最悪の真実』と題し、画面の向こうで待ち構える熱狂的な野次馬たちに向けてこう煽り立てたのだ。
「一ヶ月もSNSが止まるなんてあり得ない。俺のところに入ってきてる裏情報だと、彼女、どうやら相当ヤバいトラブルに巻き込まれているとか」
切り取られた数十秒の動画を見る限り、確たる証拠が提示されているわけではなかった。
ネットの掃き溜めを這いずり回ってきた俺のから言わせてもらえば、十中八九ただ再生回数と投げ銭を稼ぐための悪質な想像とデマだろう。
だが、大衆の持つ「分かりやすい物語を消費したい」という強烈な集団心理は、このデマを劇薬として飲み込んでしまっているようだ。
一ヶ月間、不安を溜め込んでいたファンたちと陰謀論を好む野次馬たちが一斉に反応し、爆発的な拡散を記録したのだ。
死体も見つかっていなければ、事件の発生が証明されたわけでもない。
配信者の戯言だ。
にもかかわらず、ネット空間の何万、何百万という脳髄が、一斉に「神崎リナはもうこの世界にいない」という最悪の結論を事実として受け入れてしまっている。
誰もが、自分こそが彼女を一番心配し、その悲劇の真相を憂いているのだとアピールするかのように、追悼のハッシュタグを免罪符にして大量の言葉を吐き出し続けている。
彼女を死に追いやったという見えない犯人への怒りや、いまだに沈黙を貫く事務所の対応の遅さを非難する声が上がり、文字の羅列がひとつの狂暴な生き物のようにうねりながら増殖していく。
こうして、事実の確認もないままに「#RIP神崎リナ」という実体のないお葬式がトレンドのトップに躍り出たのだった。
俺はスマートフォンの画面を切り替え、複数の大手ニュースサイトや事件事故の速報を扱う掲示板、さらには警察の公式発表などを確認した。
これほどの大騒ぎになり、個人の名前がトレンドを独占しているのだ。
もし本当に事件性があるのならどこかのメディアが裏取りをして速報を打っているはずだと考えた。
だが、画面には虚しいほど何も表示されなかった。
大手マスコミはどこも、この件について一行すら報じていない。
一部の質の低いゴシップサイトが「人気インフルエンサー、SNS更新停止でネット騒然」という腰の引けた記事を掲載しているだけだ。
俺は眉をひそめ、薄暗い部屋の中で一人、画面を睨みつけた。
なぜ、マスコミは沈黙しているのか。
これだけネット上が騒乱状態に陥り、個人の名前がトレンドを独占しているのだ。
もし本当に彼女の身に何かが起きているのなら、どこかのメディアが裏取りをして、短い速報だけでも打っていてもおかしくはない。
ただ単に夜中で事実確認が間に合っていないからか。
それとも、事務所が強硬な報道規制を敷いているからか。
あるいは、ネットの連中が騒いでいるだけで、事件性を裏付けるような確たる証拠が今のところ何一つないからなのか。
マスコミが沈黙しているという事実すらも、今のネットの住人たちにとっては「何か巨大な力が働いて真実が隠蔽されている」という新たな陰謀論の燃料として消費されている。
俺は直感的に、ライターとしての奇妙な違和感を覚えていた。
指先にじわりと冷たい汗が滲むのを感じた。
過去の、脳の奥底に張り付いて剥がれない忌まわしい記憶が冷たいトゲとなって蘇ってくる。
情報が現実を追い越し、捏造された虚像が本物の人生を社会の底へと引きずり下ろしていく瞬間。
俺はその悪魔的な流れのすべてを知っていた。
五年前のあの時も、大衆は真実など求めていなかった。
ただ、叩きやすい明確な悪役、自分たちの退屈な日常に刺激を与えてくれるドラマチックな悲劇を求めていただけだ。
今回のこれは、あの時と全く同じ匂いがする。
一ヶ月にわたる神崎リナの不可解な沈黙と、その空白を埋めるように絶妙な間隔で投下され続けた不穏な噂話。
自然に起きた騒ぎにしては、どこか不気味な流れを感じる。
何か目に見えない悪意の気配。
俺は素早くノートパソコンを起動した。
仕事用の表アカウントではなく、ネット上の情報をこっそりと集めるために運用している、ごく一部の人間にしか教えていない裏のアカウントを開く。
経験上、こういう炎上のきっかけになった投稿やアカウントは、騒ぎが大きくなると通報されて凍結されたり、投稿した本人が怖くなって突然アカウントごと消して逃げてしまうことが多い。
後で冷静に、何がどう繋がっているのかを分析するためには、今この大騒ぎの最中にある生の情報を手元に残しておく必要がある。
それが、このインターネットという掃き溜めで、他人の人生の断片を拾い集めながら生き延びてきた俺の唯一の仕事のやり方だった。
俺は神崎リナの公式アカウントの過去の投稿、そして今夜タイムラインに溢れかえっているファンの書き込みや、噂を広めているアカウントの画面を次々とスクリーンショットで撮影しフォルダへと保存していった。
保存した画像を並べ、感情的な書き込みや大衆の叫びをすべて削ぎ落とし客観的な事実と数字、そして投稿時間だけを抽出してテキストに書き出していく。
事実と思い込みを完全に切り離し、冷徹な視点で物事を整理していく作業。
その奇妙な胸騒ぎに背中を押されるようにして、俺がさらにデータを整理しようとしたまさにその直後だった。
画面の右上に小さな通知が光った。
ダイレクトメッセージの受信。
差出人は、一見して使い捨ての捨てアカウントと分かる無機質な英数字の羅列だった。
アイコンは初期設定のまま。
俺は一瞬、マウスを動かす指を躊躇わせた。
この深夜の大騒ぎの最中に、俺の、それもごく限られた情報源しか知らないはずの裏アカウントにメッセージを送ってくる人間など心当たりがなかったからだ。
だが、不気味な予感に背中を押されるようにして俺はクリックしていた。
画面には、たった一言だけが記されていた。
『見てる?』
心臓が、ドクンと大きく跳ね上がるのがわかった。
部屋の空気が一瞬で凍りついたかのような強烈な圧迫感が喉元を締め付ける。
誰が、何のために送ってきたのか。
俺がこの時間にタイムラインを監視し、神崎リナの炎上を分析していることを見透かした上で送ってきたのか。
そうした違和感を覚えながら俺はある一つの数字に目が留まった。
メッセージの送信時間。
『午前二時十七分』
俺は少しだけ眉をひそめ、画面上に表示されたその数字を見つめた。
『十七分』
どこかで見た数字だ。
俺はマウスを動かし、先ほど時系列順に整理して保存したばかりの画像フォルダを開いた。
そして、一つのスクリーンショットを引っ張り出す。
神崎リナが、一ヶ月前に最後に自分の公式アカウントで投稿を行った画面だ。
ただの偶然の一致だ。
人間がスマホを操作して投稿する以上、何時何分という数字に深い意味があることなど基本的にはありえないはずだ。
だが、なぜかその十七分という数字が頭の奥に小さな引っかかりを残した。
俺は画像の隅に小さく記された投稿時刻を確認し、息を呑んだ。
『午前二時十七分』
あの神崎リナの一ヶ月前の最後の投稿と今俺の裏アカウントに届いたばかりのメッセージの時間が、分単位まで不気味なほど完璧に一致していた。
部屋の空気が急激に冷え込んだような錯覚に陥り、俺はパソコンの画面から思わず目を背けた。
一ヶ月という長いブランクを経て、全く同じ時間に俺の元へ届いた短い問いかけ。
それはまるで、今ネット上で起きているこの巨大な炎上騒ぎそのものが、見えない誰かによってあらかじめ決められたスケジュール通りに進められていると告げられているようだった。
情報の海に潜む得体の知れない何者かが、暗闇の中から俺の首元に冷たい刃を突き立てているような感覚。
俺は無意識に止まっていた息を深く吐き出し、無理やり論理的な思考を起動させた。
事実と思い込みを切り離せ。
ただの偶然やイタズラの可能性だってまだある。
だが、もし単なる偶然なのだとすれば、なぜ俺の、それもごく限られた情報源しか知らないはずの裏アカウントに、この完璧なタイミングでメッセージが届いたのか。
誰かが俺という人間を明確に認識し、俺がこの時間にタイムラインを監視し、神崎リナの炎上を分析していることを見透かして送ってきたのだとしたら。
神崎リナはどこへ消えたのか。
ただひとつ確かなのは、今この瞬間にも神崎リナという一人の人間の存在が、大衆の身勝手な噂という暴力によって、社会的に完全に殺されようとしているということだ。
そして俺は、その流れを作った何者かによってこの不気味な出来事の観客として名指しで引きずり出されてしまったらしい。
俺は机の上の冷めきったコーヒーを一気に飲み干した。
不快な苦味だけが口の中に広がる。
調べてやる。
この一ヶ月の沈黙の意味、不気味に符合した十七分という数字の謎、そしてこのメッセージの意味。
事実と、そこから導き出される因果関係の糸を一本ずつ手繰り寄せ、大衆が踊らされているその物語の裏側にある本物の真実を必ず俺の手で暴き出してやる。




