第10話:誰も撃っていないのに、コンビニから唐揚げが消えた日
月の横に真っ黒な宇宙船が現れてから、十ヶ月が経過した。
あの生放送特番での葵の叫びは、一時的には世間の目を覚まさせたかに見えた。
だが――人間の「怠惰」と「見栄」というのは、俺たちが思っていた以上に根深いものだったらしい。
十ヶ月目に入ったある月曜日の朝。
俺は出社前に、テレビ局の向かいにあるいつものコンビニへと足を踏み入れ、そのまま入り口で立ち尽くした。
「……おいおい。嘘だろ、これ」
店内の商品棚が、まるで台風の上陸前夜のように、見事なまでにスッカラカンだったのだ。
おにぎりも、サンドイッチも、弁当もない。
レジ横のホットスナックのケースは電源が落とされ、ノアの好物である『揚げたての鶏の唐揚げ』も、俺が地球を救うために買い続けてきた『新作の濃厚プリン』も、ただの一つも並んでいなかった。
「あ、佐伯先輩! おはようございま……って、うわぁ。こっちの店舗も空っぽですか」
後ろから入ってきた葵が、空の棚を見て深いため息をついた。
「葵、お前の家の近くのスーパーもダメだったのか?」
「はい……。ここ一週間で、急激に物流が止まっちゃいましたね」
葵が空っぽのスイーツ棚を見つめながら、やるせない声で呟いた。
原因は、宇宙人の攻撃ではない。
あの黒い箱は、十ヶ月間、相変わらず空の上でピクリとも動いていないのだ。
それなのに、なぜ東京のコンビニから食べ物が消えたのかというと――。
まず、運送業界や工場の若手スタッフたちの間で、『恭順派(ウェルカム派)』の思想が暴走した。
『どうせもうすぐ宇宙人様が降りてきて、全人類にベーシックインカムを配って養ってくれるんだから、今さら汗水垂らしてトラックの運転なんかやってられるか!』と、勝手に仕事を辞める人間が続出したのである。
さらに、それに激怒した『徹底抗戦派』の団体が、斜め上の暴走を始めた。
『宇宙人に媚びる軟弱な恭順派の社長が経営している食品メーカーや、恭順派が運んだコンビニ弁当など、非国民の食い物だ! 不買運動だ!』と叫び、あちこちの物流センターの前でデモ行進をしてトラックを止めてしまったのだ。
「……なんか、笑えないですよね」
葵が、ガランとした店内でぽつりと言った。
「宇宙人は、最初から今日まで、本当に指一本動かしてないんですよ? ビームも撃ってないし、脅迫もしてない。……それなのに、人間が勝手に深読みして、勝手にサボって、勝手にボイコットして……自分たちの首を絞めて社会を止めてるんですから」
そこにあったのは、SF映画のような派手なパニックではなく、真綿でじわじわと首を絞められるような、妙にリアルで息苦しい「絶望」だった。
***
だが、俺にとっての本当の絶望は、会社に出社した直後に待ち受けていた。
「……う、うぅ……さ、佐伯さん……」
制作フロアのデスクで、新人ADの美少女・星野ノアが、まるで砂漠で行き倒れた旅人のように机に突っ伏していたのだ。
その美しい銀色がかった黒髪からはツヤが失われ、頭頂部のアホ毛がヘナヘナと萎れている。
「おいノア! 大丈夫か!? しっかりしろ!」
「か、カラアゲが……コンビニのプリンが、どこに行っても入手できません……。糖分と鶏肉の脂質エネルギーが枯渇して、私の生体リアクターの出力が低下していますぅ……」
『完全に禁断症状を起こしてるじゃねえか!! 餌付けしすぎたせいで、地球のジャンクフードがないと生きられない身体になっちまってるぞ!!』
俺が顔を青くしてノアの肩を揺さぶっていると、フロアの入り口の扉がバンッと乱暴に開いた。
「――ちょっと佐伯ディレクター! これは一体どういう『バグ』なの!?」
現れたのは、いつもなら完璧なモデル歩きで登場するはずの黒崎レイナだった。
しかし今日の彼女は、高級スーツの襟元がわずかに乱れ、切れ長の美しい瞳が血走っている。
「く、黒崎さん!? どうされたんですか、そんなに慌てて!」
「慌ててなどいないわ! ただ、私が毎朝のルーティンとしてネット通販で取り寄せている『北海道限定・濃厚生キャラメルロールケーキ』と、火曜日の『焼きたてメロンパンの移動販売車』が、物流の停止によってすべてキャンセルになったのよ!」
『お前もすっかり地球のスイーツ中毒になってるじゃねえか!!』
レイナはギリギリと奥歯を噛み締めながら、周囲の社員たちに聞こえるように(本人はクールな広報担当のつもりで)叫んだ。
「最近の地球の物流は、あまりにも『ラグい』わね! このまま私から糖分を取り上げるというのなら、スポンサーとして私のメンタルが『発狂』し、この番組そのものを『ちゃぶ台返し』で物理的に消去することになるわよ!」
「あ、あはは……! 黒崎さん、今日もネットスラングを交えたユニークな激励、ありがとうございます……!」
鬼塚部長が引きつった笑顔で拍手をする。
だが、レイナはそのまま俺とノアのデスクへと歩み寄ると、葵が電話応対で後ろを向いた隙に、ノアの耳元へ顔を近づけた。
その声は、これまでで最も冷たく、そして決定的な響きを持っていた。
「(……ノア。どうやら冗談を言っていられる時間は終わったわよ)」
「(え……? レ、レイナ監査官……?)」
レイナがスーツの内ポケットから、わずかに「黒い石板」を覗かせる。
そこには、ノアやレイナが操作したわけではない、宇宙船のメインコンピューターからの『赤色の一斉通達』が点滅していた。
「(今朝、母船のメインコンピューターが、地球の物流網および経済活動の麻痺を検知したわ。……外敵からの攻撃を一切受けていないにもかかわらず、種族内の無意味な対立によって生存インフラを自ら停止させたため、【地球文明は自滅による機能不全に陥った】と自動判定されたの)」
『……な、なんだって!?』
俺の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
レイナは感情の読めない瞳で、窓の外――曇り空の向こうに浮かぶ宇宙船を見上げた。
「(これ以上の現地調査は無意味よ。一週間後、私たちが地球に降りてからちょうど一年になる日をもって、調査任務は打ち切られるわ。……私たちが母船へ帰還すると同時に、地球表面の『更地化プログラム』が自動承認されるわよ)」
「(そ、そんな……! じゃあ、もうカラアゲもプリンも、佐伯さんやアオイ先輩も、全部消えちゃうんですか……!?)」
ノアが悲痛な声を漏らす。
だが、俺にはどうすることもできなかった。
これまでは、人間がどれだけバカなことをして減点されても、地球が誇る『美味しい食べ物』を差し出すことでなんとかスコアを繋ぎ止めてきた。
しかし今、人間自身の愚かなボイコットと怠慢のせいで、その最後の命綱である「コンビニスイーツ」も「居酒屋の唐揚げ」も、街から消え失せてしまったのだ。
『……くそっ! ここまで来て、本当に人間が勝手に自滅して終わるのかよ……!?』
俺は空っぽになったコンビニのビニール袋を握りしめ、唇を噛み締めるしかなかった。




