中編:巨大ダイヤモンドが消えました!
「……なんて綺麗なの!」
エレオノーラは、ガラスケースの前で思わず両手を組んだ。
深い青色のビロードの上に置かれた巨大なダイヤモンドは、幾重にも磨き上げられた面に燭台の光を映し、まるで小さな星を閉じ込めたように輝いていた。
角度を変えるたび、白い光の中に淡い青や虹色の煌めきが浮かぶ。
「月光の雫……。素敵な名前ねえ」
エレオノーラは、うっとりと溜息をついた。
「私、こんなに大きなダイヤモンドを見るのは初めてだわ!」
「……そうか」
隣から聞こえた低い声に、エレオノーラは振り返った。
そこには、レオンハルト・グレイヴェルが立っていた。
「…………!」
心臓が、どきんと跳ねる。
い、いつの間に!?
さっきまで少し離れたところにいらっしゃったのに!
「どうした?」
「い、いえ! 何でもありません!」
エレオノーラは慌てて背筋を伸ばした。
せっかくお姉様に、淑女らしく振る舞うよう言われたのだ。
ここは落ち着いて、上品に会話をしなくては。
「レオンハルト様は、宝石がお好きですか?」
よし。
我ながら、なかなか自然な質問だわ!
「特には」
「…………」
会話が終わった。
早い。
早すぎる。
エレオノーラは内心で頭を抱えた。
もう少し、こう……何かないのかしら!?
好きな宝石の種類とか!
色とか!
指輪とか!
……指輪?
エレオノーラの脳裏に、突然、輝く婚約指輪が浮かんだ。
そして、その指輪を自分の左手にはめてくれるレオンハルトの姿が……。
「……ふふ」
「ウィンデルフォード嬢?」
「はっ!」
エレオノーラは慌てて首を振った。
危ない。
今、完全に違う世界へ旅立っていたわ!
レオンハルトは、そんな彼女を不思議そうに眺めていた。
「……宝石そのものには、あまり興味がない」
「そ、そうなんですね!」
「だが、これほどの品となれば話は別だ」
「まあ!」
エレオノーラは目を輝かせた。
「やっぱり、綺麗だからですか?」
「いや。盗難の危険が高い」
「…………」
そうだった。
この方は、王室直属の特別捜査官だった。
「……お仕事熱心なんですね」
「職業柄、気になるだけだ」
レオンハルトは展示ケースへ視線を向けた。
「今夜は招待客も多い。警備が十分でも、油断はできないだろう」
「そうですね!」
エレオノーラは大きく頷いた。
「でも、何かあったら私もお手伝いします!」
「……君が?」
「はい! 私、探偵ですから!」
レオンハルトは一瞬だけ黙った。
それから、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……頼もしいな」
「…………!」
褒められた。
また褒められた。
しかも、今度はちゃんと笑ってくださった!
エレオノーラの頬が、みるみる赤くなる。
「い、いえ! そんな! 私なんて、まだまだですけれど!」
「自覚はあるんだな」
「えっ?」
レオンハルトの表情は、すでにいつもの落ち着いたものに戻っていた。
……今の、冗談?
もしかして、冗談をおっしゃったの!?
エレオノーラは胸を押さえた。
どうしよう。
レオンハルト様、意外とお茶目なのかもしれない。
ますます素敵だわ……!
そのとき、背後から涼やかな声が響いた。
「まあ、レオンハルト様」
エレオノーラの肩が、ぴくりと動いた。
振り返ると、深紅のドレスに身を包んだヴィクトリア・フェルンウィックが立っていた。
「こちらにいらしたのですね」
ヴィクトリアは優雅に微笑み、レオンハルトへ一礼した。
「先ほどからお姿をお探ししておりましたの」
「何か用か?」
「いいえ。ただ、せっかくの晩餐会ですもの。少しお話しできればと思いまして」
ヴィクトリアは、ちらりとエレオノーラへ視線を向けた。
「……ウィンデルフォードさんも、ご一緒でしたのね」
「はい!」
エレオノーラは元気よく答えた。
「ダイヤモンドを見ていたんです!」
「それは見れば分かりますわ」
「…………」
どうしてこの方は、普通の会話でもちょっと意地悪なのかしら。
ヴィクトリアは展示ケースを眺め、感心したように息をついた。
「それにしても、見事な宝石ですこと。これほどの大きさで、ほとんど濁りも見られないなんて」
「本当に綺麗ですよね!」
「ええ。もっとも、美しいものほど扱いには慎重さが必要ですけれど」
ヴィクトリアは扇を広げた。
「宝石も、人間関係も」
「……?」
エレオノーラは首を傾げた。
今の、どういう意味かしら?
隣でレオンハルトが静かにグラスを置いた。
「私は少し失礼する」
「まあ、もうですの?」
ヴィクトリアが残念そうに眉を下げる。
「伯爵に挨拶がまだだったのでな」
「そうでしたのね」
レオンハルトは二人へ軽く会釈すると、会場の奥へ歩いていった。
エレオノーラは、その背中を名残惜しそうに見送った。
……もう少しお話ししたかったなあ。
「ウィンデルフォードさん」
「はい?」
「あなた、ずいぶん楽しそうでしたわね」
ヴィクトリアは扇の向こうから、じっとこちらを見ていた。
「そ、そうですか?」
「ええ。お顔が真っ赤でしたもの」
「そ、それは!」
エレオノーラは慌てて両頬を押さえた。
「会場が少し暑くて!」
「まあ。そうでしたの」
ヴィクトリアは、にっこり微笑んだ。
「わたくしには、ちょうどよい温度ですけれど」
「…………」
絶対に分かって言ってるわ!
⸻
やがて、展示室の前方に、一人の男性が進み出た。
五十代ほどの、恰幅のよい紳士である。
丁寧に整えられた灰色の口髭と、上質な黒い礼服。
胸元には、宝石商組合の徽章が輝いていた。
「皆様。本日は、このような素晴らしい機会をいただき、誠に光栄に存じます」
男は深々と頭を下げた。
「私は宝石商のアーネスト・ベルモンドと申します」
ウィンデルフォード伯爵家と長年取引を続けている宝石商だった。
「今夜ご覧いただく『月光の雫』は、北方の鉱山で発見された極めて珍しいダイヤモンドでございます」
招待客たちが、興味深そうに耳を傾ける。
「その大きさもさることながら、特筆すべきは、この澄み切った輝きです。これほどの品は、私も長い商人人生で数えるほどしか目にしたことがございません」
「まあ……」
「素晴らしいわね」
貴婦人たちの感嘆の声が広がる。
エレオノーラも、真剣な顔で頷いていた。
「……すごいわねえ」
肩に乗ったノワールが、小さく呟く。
「……お前、値段の話になったら目を回すんじゃねえか」
「失礼ね!」
「お嬢様?」
近くにいた給仕が振り返った。
「……あっ!」
エレオノーラは慌てて咳払いをした。
「い、いえ! 何でもありません!」
給仕は不思議そうな顔をしたが、すぐに一礼して立ち去った。
ノワールは、知らん顔で前脚を舐めている。
……この猫、絶対に楽しんでるわ。
アーネストは説明を続けた。
「なお、宝石の安全を確保するため、展示ケースは特別に製作したものでございます」
彼はガラスケースの縁へ手を添えた。
「厚いガラスと堅牢な錠前を備え、開閉には専用の鍵を必要といたします」
エレオノーラは、思わず身を乗り出した。
「へえ……!」
「お嬢様」
隣に立っていたセシリアが、小声で注意した。
「背伸びをなさらないで」
「だって、よく見えないんだもの!」
「あなたは先ほどから十分に見ていますわ」
「……はーい」
エレオノーラは大人しく踵を下ろした。
そのとき、少し離れた場所で、警備員の一人が別の警備員に何かを囁いているのが見えた。
二人は展示室の入口を確認すると、それぞれ持ち場へ戻っていく。
今夜は警備が厳重なのね。
エレオノーラは、何となく感心した。
「それでは皆様、どうぞ間近でご覧くださいませ」
アーネストの言葉に、招待客たちがゆっくりと展示ケースへ近づいた。
⸻
「ねえ、ノワール」
エレオノーラは、展示室の隅にある小さな椅子へ腰掛けた。
「さっきのダイヤモンド、本当に綺麗だったわね」
「……ああ」
ノワールは隣の椅子に飛び乗り、尻尾を揺らした。
「でも、お前が一番嬉しそうだったのは、公爵と喋ってた時だろ」
「そ、そんなことないわよ!」
「顔が赤かったぞ」
「それは会場が暑かったから!」
「さっきの女も同じこと言ってたな」
「…………」
エレオノーラは、そっと頬を押さえた。
「……そんなに分かりやすいかしら」
「分かりやすすぎる」
「もう!」
ノワールは、呆れたように欠伸をした。
「で、あの公爵のどこがいいんだ?」
「えっ?」
エレオノーラは目を丸くした。
「どこって……」
少し考える。
「まず、お顔が素敵でしょう?」
「……ああ」
「背が高いでしょう?」
「……ああ」
「それから、声が落ち着いていて、立ち姿が綺麗で、いつも冷静で……」
「……まだ続くのか?」
「もちろんよ!」
エレオノーラは両手を組んだ。
「それにね、ちゃんと人の話を聞いてくださるの!」
ノワールの耳が、ぴくりと動いた。
「……へえ」
「私が探偵だって言っても、笑わないでしょう?」
エレオノーラは、少しだけ声を落とした。
「最初は驚いていらしたけど、事件のことをちゃんと聞いてくださったのよ」
ノワールは黙って彼女を見つめた。
「……なるほどな」
「だから、素敵な方だと思うの」
エレオノーラは、嬉しそうに微笑んだ。
「……まあ、まだ全然、私のことなんて意識してくださってないと思うけど」
「そりゃそうだろ」
「ちょっと!」
「事実だ」
「もう少し夢を見させてくれてもいいじゃない!」
そのとき、背後から声がした。
「何の夢だ?」
「ひゃあっ!?」
エレオノーラは椅子から飛び上がりそうになった。
振り返ると、レオンハルトが立っていた。
「レ、レオンハルト様!?」
「……驚かせたか?」
「い、いえ! 全然!」
心臓が壊れそうなほど鳴っている。
聞かれた!?
どこから!?
お顔が素敵ってところから!?
それとも、声が落ち着いていてってところ!?
エレオノーラは必死に平静を装った。
「な、何かご用でしょうか!」
「いや。伯爵から、君がこちらにいると聞いた」
「お父様が?」
「ああ。客人に紹介したかったようだが、姿が見えなかったのでな」
「まあ!」
エレオノーラは慌てて立ち上がった。
「す、すぐ参ります!」
その拍子に、ドレスの裾が椅子の脚に引っ掛かった。
「きゃっ!」
身体が前へ傾く。
転ぶ!
そう思った瞬間。
「危ない」
レオンハルトが、すっと腕を伸ばした。
エレオノーラの身体が、彼の腕に支えられる。
「…………!」
近い。
とても近い。
レオンハルトの礼服から、ほのかに清潔な石鹸の香りがした。
「大丈夫か?」
「…………」
「ウィンデルフォード嬢?」
「……は、はい!」
エレオノーラは、ようやく声を絞り出した。
「だ、大丈夫です!」
「そうか」
レオンハルトは、彼女がしっかり立ったことを確認してから、そっと手を離した。
「足元には気をつけることだ」
「……はい」
エレオノーラは、真っ赤になった顔を隠すように俯いた。
……どうしよう。
今、支えてくださった。
しかも、すごく自然に。
まるで小説の王子様みたいだったわ……!
ノワールが、椅子の上から冷ややかに見ていた。
「……椅子に負ける探偵って、どうなんだ」
エレオノーラは、笑顔のまま猫を睨んだ。
⸻
それからしばらくして。
晩餐会の料理が運ばれ始め、会場は再び賑やかになっていた。
焼きたての肉料理。
香草を添えた魚料理。
色とりどりの野菜。
そして、甘い香りを漂わせる焼き菓子の数々。
エレオノーラは、目を輝かせた。
「まあ! 美味しそう!」
「エレオノーラ」
セシリアが静かに声を掛けた。
「落ち着きなさい」
「……はい」
エレオノーラは、背筋を伸ばして椅子に座った。
その隣では、ヴィクトリアが優雅にナイフとフォークを動かしている。
「ウィンデルフォードさん」
「はい?」
「先ほど、レオンハルト様とずいぶん親しそうにお話ししていらしたわね」
エレオノーラは、危うくスープをこぼしそうになった。
「そ、そうですか!?」
「ええ」
ヴィクトリアは、何でもないことのように続けた。
「ですが、あの方はどなたに対しても礼儀正しい方ですもの。勘違いなさらない方がよろしいですわよ」
「……勘違い?」
「ええ。親切にされたからといって、特別な意味があるとは限りませんもの」
エレオノーラは、少しだけ眉を下げた。
……それは、分かっているわ。
でも。
「……私、勘違いなんてしてません」
エレオノーラは、静かに答えた。
「ただ、素敵な方だと思っているだけです」
ヴィクトリアは、一瞬だけ目を丸くした。
「……そう」
そして、ゆっくりと扇を閉じた。
「それなら、よろしいですわ」
二人の間に、何とも言えない沈黙が流れた。
……気まずい。
エレオノーラは、そっとスープを口に運んだ。
そのとき。
「……あら?」
会場の照明が、わずかに揺れた。
シャンデリアの灯りが、一瞬だけ暗くなる。
「……?」
エレオノーラは天井を見上げた。
すぐに、元の明るさへ戻る。
気のせいかしら。
近くの給仕も、少しだけ天井を見上げていた。
だが、誰も特に気にする様子はない。
エレオノーラも、すぐに料理へ視線を戻した。
⸻
食事が一段落すると、招待客たちは再び展示室へ向かい始めた。
「もう一度、あのダイヤモンドを見たいわ!」
エレオノーラは、嬉しそうに歩き出した。
「さっき見ただろ」
ノワールが肩の上で呟く。
「何度見ても綺麗なものは綺麗なのよ!」
「……そうかよ」
展示室の入口では、警備員たちが招待客を案内していた。
「どうぞ、足元にお気をつけください」
その声に、エレオノーラは顔を上げた。
「あっ!」
見覚えのある若い警備員だった。
昼間、廊下で話した青年である。
「こんにちは!」
青年は、少しだけ驚いたように顔を上げた。
「……これは、お嬢様」
「また会ったわね!」
「ええ。今夜は何かとご縁があるようですね」
エレオノーラは、にっこり笑った。
「警備のお仕事、お疲れ様!」
「ありがとうございます」
青年は丁寧に一礼した。
「ダイヤモンドは、もうご覧になりましたか?」
「ええ! とっても綺麗だったわ!」
「それは何よりです」
「あなたは見た?」
「……ええ。少しだけ」
「綺麗でしょう!」
「確かに、見事な宝石ですね」
青年は穏やかに微笑んだ。
「ですが、私はこうして皆様が楽しそうにしていらっしゃる方が、ずっと嬉しいですよ」
「まあ!」
エレオノーラは感心した。
「本当に素敵な警備員さんね!」
青年は、小さく笑った。
「光栄です」
ノワールは、エレオノーラの肩の上で静かに青年を見つめていた。
やがて、青年は一歩横へ退いた。
「どうぞ、お楽しみください」
「ありがとう!」
エレオノーラは元気よく答え、展示室へ入っていった。
⸻
展示室には、すでに多くの招待客が集まっていた。
ガラスケースの中では、『月光の雫』が変わらぬ輝きを放っている。
エレオノーラは、うっとりと眺めた。
「……やっぱり綺麗ねえ」
「お前、何回言うんだ」
「だって、本当に綺麗なんだもの!」
そのとき。
ぱちっ。
小さな音がした。
「……え?」
天井の灯りが、わずかに揺れた。
そして。
ふっ。
突然、展示室が暗闇に包まれた。
「きゃあっ!」
「何事だ!?」
「灯りが!」
あちこちから悲鳴が上がる。
エレオノーラは、思わずノワールを抱きしめた。
「ノワール!?」
「落ち着け、エリー!」
「だ、だって真っ暗よ!」
「分かってる!」
暗闇の中で、何かが小さく擦れるような音がした。
続いて、誰かの靴音。
「皆様、その場を動かないでください!」
警備員の声が響いた。
「すぐに灯りを戻します!」
エレオノーラは、息を潜めた。
一秒。
二秒。
三秒。
そして。
ぱっ!
天井の灯りが、再び点いた。
「……ああ!」
招待客たちが、安堵の息を漏らす。
エレオノーラも、ほっと胸を撫で下ろした。
「びっくりしたわ……」
「……ああ」
ノワールは、腕の中から周囲を見回していた。
そのときだった。
「……な、ない!」
誰かの震える声が響いた。
「ダイヤモンドが……!」
エレオノーラは、はっと顔を上げた。
展示ケースの前で、宝石商のアーネストが青ざめている。
「……月光の雫が、ない!」
「……え?」
エレオノーラは、ガラスケースを見た。
そこには。
青いビロードの台座だけが残されていた。
先ほどまで眩い光を放っていた巨大なダイヤモンドが、跡形もなく消えていたのである。
「…………!」
展示室が、騒然となった。
「盗まれたのか!?」
「そんな馬鹿な!」
「誰か、扉を確認しろ!」
警備員たちが慌ただしく動き始める。
しかし、展示ケースの鍵は、しっかりと掛かったままだった。
ガラスにも、傷一つない。
「……どういうこと?」
エレオノーラは、呆然と呟いた。
「鍵が掛かっているのに……」
ノワールが、低い声で答えた。
「……妙だな」
そのとき、展示室の入口から、レオンハルトが姿を現した。
「何があった?」
「レオンハルト様!」
エレオノーラは、思わず駆け寄った。
「ダイヤモンドが消えたんです!」
レオンハルトは、すぐに展示ケースへ視線を向けた。
「……なるほど」
彼の表情が、引き締まる。
「警備責任者は?」
「は、はい!」
一人の警備員が進み出た。
「扉は?」
「消灯中も、警備員が配置についておりました!」
「誰か外へ出たか?」
「いいえ! 誰も!」
レオンハルトは、静かに頷いた。
「まずは出入口を確認しろ。招待客を無理に動かすな」
「承知しました!」
エレオノーラは、そんな彼の姿を見つめた。
……格好いい。
こんなときでも、落ち着いていらっしゃるなんて。
「エリー」
ノワールが、耳元で囁いた。
「……今は見惚れてる場合じゃねえぞ」
「……はっ!」
そうだった!
事件よ!
しかも、目の前で起きた事件!
エレオノーラは、勢いよく顔を上げた。
「レオンハルト様!」
「何だ?」
「私にも、調べさせてください!」
レオンハルトは、彼女を見た。
「……君が?」
「はい!」
エレオノーラは胸を張った。
「私、探偵ですから!」
レオンハルトは、少しだけ考えた。
そして、静かに頷いた。
「……現場を荒らさないこと。それが条件だ」
「はい!」
エレオノーラの瞳が、ぱっと輝いた。
「ありがとうございます!」
ノワールが、小さく溜息をついた。
「……まずは落ち着けよ」
⸻
エレオノーラは、展示ケースの前にしゃがみ込んだ。
「……うーん」
ガラスは割れていない。
鍵も掛かったまま。
台座の上には、宝石が置かれていた跡が残っている。
「……不思議ねえ」
「……ああ」
ノワールは、彼女の肩から床へ飛び降りた。
「ちょっと下を見てくる」
「お願い!」
黒猫は、展示台の下へするりと潜り込んだ。
エレオノーラは、ケースの周囲を注意深く眺めた。
そのとき。
「……あら?」
台座の足元に、何か白いものが落ちている。
ほんの少し。
まるで、粉をこぼしたような跡だった。
「……何かしら、これ」
エレオノーラは、そっと顔を近づけた。
指で触れようとして、思いとどまる。
……駄目だわ。
現場を荒らしちゃいけないって、レオンハルト様に言われたもの。
彼女は、床に落ちた白い粉をじっと見つめた。
「ノワール、ちょっと来て!」
「何だ?」
黒猫が、展示台の下から顔を出した。
「ここ、何か落ちてるの」
ノワールは鼻を近づけた。
「……粉だな」
「それは見れば分かるわよ!」
「じゃあ、聞くな」
「もう!」
エレオノーラは頬を膨らませた。
そのとき、背後から鋭い声が響いた。
「……ちょっと、お待ちなさい!」
振り返ると、ヴィクトリアが警備員たちに囲まれていた。
「わたくしを疑っていらっしゃるの!?」
「い、いえ、その……」
警備員の一人が、困ったように口ごもる。
「ただ、消灯の直前、展示ケースのすぐ近くにいらっしゃったと伺いまして……」
「それが何ですの!?」
ヴィクトリアは、怒りに頬を染めた。
「宝石を見に来たのですから、近くにいるのは当然でしょう!」
「ですが、その手袋が……」
エレオノーラは、はっとした。
ヴィクトリアの右手の手袋。
その指先に、小さな裂け目ができていた。
「……あら?」
エレオノーラは首を傾げた。
ヴィクトリアは、悔しそうに唇を噛んでいる。
「これは、先ほど扇の金具に引っ掛けただけですわ!」
「しかし……」
「わたくしが盗みなどするわけありませんでしょう!」
周囲の招待客たちが、ひそひそと囁き始めた。
「まあ、フェルンウィック侯爵家の……」
「まさか……」
「でも、あの手袋……」
ヴィクトリアの顔色が、みるみる青ざめていく。
エレオノーラは、思わず立ち上がった。
「ちょっと待ってください!」
全員の視線が、彼女へ集まる。
エレオノーラは、ヴィクトリアの前へ進み出た。
「手袋が破れているだけで、犯人だなんて決めつけられません!」
「ウィンデルフォードさん……?」
ヴィクトリアが、驚いたように目を見開いた。
エレオノーラは、真剣な顔で続けた。
「だって、まだ何も分かっていないでしょう?」
「……ですが、お嬢様」
警備員が困ったように言う。
「消灯直前に近くにいたのは、事実でして……」
「それなら、ほかにも近くにいた人はいるはずです!」
エレオノーラは、展示ケースを指さした。
「それに、鍵が掛かったままなのに、どうやって宝石を取り出したんですか?」
警備員は、言葉に詰まった。
「……それは」
「そこを調べないと、犯人なんて分からないわ!」
展示室が、静まり返った。
ヴィクトリアは、しばらくエレオノーラを見つめていた。
やがて、小さく呟く。
「……あなた、どうして」
「え?」
「どうして、わたくしを庇うんですの?」
エレオノーラは、不思議そうに首を傾げた。
「だって、まだ犯人じゃないでしょう?」
「……そうですけれど」
「それに、ヴィクトリア様は少し意地悪だけど、泥棒をするような方には見えませんもの!」
「…………」
ヴィクトリアの表情が固まった。
「……少し意地悪?」
「……あっ!」
エレオノーラは、慌てて口を押さえた。
しまった!
思ったことが、そのまま出ちゃった!
「ち、違うんです! そういう意味じゃなくて!」
「どういう意味ですの!?」
「ええと……!」
ノワールが、足元で小さく呟いた。
「……お前、本当に口が先に動くな」
「うるさいわね!」
「……誰に言ってますの!?」
「い、いえ! 何でもありません!」
ヴィクトリアは、しばらく呆れたように彼女を見つめていた。
そして。
「……ふふっ」
小さく笑った。
エレオノーラは目を丸くした。
「……ヴィクトリア様?」
「いいえ。何でもありませんわ」
ヴィクトリアは、扇を開いた。
「……あなた、本当に変わった方ですわね」
「そうかしら?」
「ええ。とても」
その声は、先ほどより少しだけ柔らかかった。
⸻
騒ぎが落ち着いた頃。
エレオノーラは、もう一度展示ケースの前へ戻った。
「……うーん」
鍵は掛かったまま。
ガラスも無傷。
誰も外へ出ていない。
それなのに、ダイヤモンドだけが消えている。
「……どう考えても、おかしいわ」
ノワールが、隣で尻尾を揺らした。
「おかしいのは確かだな」
「ねえ、ノワール」
「何だ?」
「さっきの白い粉、何だと思う?」
「さあな。石か、漆喰か……」
「……漆喰?」
エレオノーラは、ふと顔を上げた。
どこかで。
今日、どこかで、似たようなものを見た気がする。
白い粉。
ほんの少しだけ、指先についていた……。
「…………あれ?」
エレオノーラは、ゆっくりと目を見開いた。
廊下。
警備員。
丁寧な挨拶。
そして、濃紺の制服。
……そういえば。
あの人の手袋にも、白いものがついていなかったかしら?
エレオノーラは、はっと顔を上げた。
「……ノワール!」
「何だよ」
「私、ちょっと確認したいことがあるの!」
「……何を?」
エレオノーラは、展示室の入口へ視線を向けた。
「昼間に会った、あの警備員さん!」
ノワールの金色の瞳が、細くなった。
「……あいつか」
「ええ!」
エレオノーラは、ぎゅっと拳を握りしめた。
「もう一度、お話を聞いてみなくちゃ!」
【後編へ続く】




