後編:名探偵、犯人を追い詰めます!
「昼間に会った、あの警備員さん!」
エレオノーラは、展示室の入口を振り返った。
華やかな晩餐会の会場は、すっかり物々しい雰囲気に包まれていた。
招待客たちは小声で言葉を交わし、警備員たちは扉の前に立っている。
先ほどまで青いビロードの上で輝いていた巨大なダイヤモンドは、跡形もなく消えていた。
「……あいつがどうした?」
ノワールが足元から見上げる。
「手袋よ!」
「手袋?」
「そう! あの警備員さんの手袋に、白い粉みたいなものがついていた気がするの!」
ノワールは、金色の瞳を細めた。
「……気がする、か」
「うっ」
「それだけで犯人扱いするつもりじゃねえだろうな」
「しないわよ!」
エレオノーラは、少しだけ頬を膨らませた。
「だから、ちゃんと確かめるの!」
「……ならいい」
ノワールは尻尾を揺らした。
「それに、あの人なら何か見ていたかもしれないでしょう?」
「そうだな」
エレオノーラは大きく頷いた。
そして、警備責任者らしき男性へ歩み寄った。
「あの、少しよろしいですか?」
「はい、お嬢様」
四十代ほどの警備責任者は、疲れた顔で振り返った。
「昼間、廊下でお会いした若い警備員さんを探しているんです」
「若い警備員、ですか?」
「ええ! 濃紺の制服を着ていて、帽子を深く被っていらして……とても礼儀正しい方でした!」
責任者は、困ったように眉を寄せた。
「……それだけでは、少々」
「そうですよね……」
エレオノーラは肩を落とした。
確かに、警備員はみんな似たような制服を着ている。
礼儀正しいという特徴も、仕事柄、珍しくないだろう。
「では、どちらでお会いになりました?」
「西側の廊下です。午後、お部屋へ戻る途中に」
「西側……」
責任者は、手元の名簿へ視線を落とした。
「その時間帯は、外周と玄関の警備が中心だったはずですが……」
「そうなんですか?」
「ええ。屋敷の内部を担当する者は、限られておりますので」
エレオノーラは、少し考えた。
「……その方、展示室の入口にもいらっしゃいました」
「展示室に?」
責任者の表情が変わった。
「いつ頃です?」
「食事が終わって、皆さんがもう一度宝石を見に来た頃です」
「……少々、お待ちください」
責任者は近くの警備員を呼び、短く何かを確認した。
二人の間で、低い声のやり取りが続く。
やがて責任者は、険しい顔で振り返った。
「お嬢様。その人物のお顔は、はっきりご覧になりましたか?」
「ええと……帽子を被っていらしたので、あまり」
「そうですか」
責任者は名簿を閉じた。
「念のため、配置を確認いたします」
「お願いします!」
エレオノーラは一礼した。
その背中を見送りながら、ノワールが囁いた。
「……どうやら、何かおかしいらしいな」
「そうみたいね」
エレオノーラは唇に指を当てた。
「でも、まだ何も分からないわ」
「珍しく慎重だな」
「珍しくって何よ!」
「いつもなら『犯人が分かったわ!』って叫んでる頃だろ」
「……私だって成長するのよ!」
ノワールは、疑わしそうに片目を細めた。
⸻
その頃、展示ケースの周囲では、宝石商のアーネスト・ベルモンドが落ち着かない様子で歩き回っていた。
「あり得ない……! こんなことが……!」
額には大粒の汗が浮かんでいる。
エレオノーラは、そっと近づいた。
「ベルモンド様」
「……おお、ウィンデルフォード家のお嬢様」
「少し、お話を伺ってもよろしいですか?」
「え、ええ。もちろんですとも」
アーネストはハンカチで額を拭った。
「何でもお尋ねください。私も、一刻も早く宝石を取り戻したいのです」
「ありがとうございます!」
エレオノーラは展示ケースを指さした。
「このケースは、いつからここに置かれていたんですか?」
「今朝でございます。私どもの職人が運び込み、設置いたしました」
「宝石も、そのときに?」
「いいえ。宝石は私が直接持参し、夕刻にケースへ収めました」
「なるほど……」
エレオノーラは頷いた。
「そのとき、ほかに誰かいらっしゃいました?」
「もちろんです。私の助手と、伯爵家の執事長、それから警備の方が数名」
「警備員さんも?」
「ええ。大変厳重に確認していただきました」
エレオノーラは、少しだけ首を傾げた。
「……ケースの鍵は、どなたがお持ちなんですか?」
「私です」
アーネストは、胸元から細い鎖を引き出した。
その先には、小さな銀色の鍵が下がっていた。
「今も、こうして身につけております」
「予備の鍵は?」
「私の店の金庫に保管しております」
「そうなんですね」
エレオノーラは、ケースへ視線を戻した。
「……では、展示中に鍵を開けた方はいないんですね?」
「もちろんです!」
アーネストは、強く頷いた。
「少なくとも、私が施錠してからは一度も!」
「ありがとうございます」
エレオノーラは、丁寧に頭を下げた。
そのとき、足元のノワールが展示台の下へ潜り込んだ。
「……おい、エリー」
「なあに?」
「ちょっと、こっちを見ろ」
エレオノーラは、さりげなく膝を折った。
展示台の脚の付け根。
床すれすれの場所に、小さな隙間があった。
その周囲には、先ほど見つけた白い粉が薄く散っている。
「……あら?」
よく見ると、台座の下側に細い線が走っていた。
木目に紛れて、ほとんど目立たない。
「……これ、何かしら」
「さあな」
ノワールは鼻を近づけた。
「だが、ほかの脚にはねえぞ」
エレオノーラは、反対側の脚も確認した。
確かに、同じような線はない。
「……変ね」
彼女は立ち上がった。
そして、アーネストへ尋ねた。
「この展示台も、ベルモンド様のお店から運んできたものですか?」
「ええ。ケースと一式でございます」
「設置したあと、何か調整はなさいました?」
「調整……?」
アーネストは考え込んだ。
「そういえば、午後に少々ぐらつきがあると報告がありまして」
「ぐらつき?」
「ええ。警備の方が気づいてくださったそうで、職人が確認したはずです」
「……そうなんですね」
エレオノーラは、もう一度展示台を見つめた。
ぐらつき。
白い粉。
台座の下の細い線。
それぞれは小さなことだった。
けれど、どこかでつながっている気がした。
⸻
「エレオノーラ!」
聞き慣れた声に振り返ると、セシリアがこちらへ歩いてきた。
その後ろには、父エドワードと母シャーロットもいる。
「お姉様!」
「あなた、また事件の調査を始めたのですって?」
「ええ!」
エレオノーラは胸を張った。
「だって、こんな大事件、放っておけないでしょう!」
セシリアは、額に手を当てた。
「……本当に、あなたという子は」
「お姉様?」
「いいえ。もう驚きませんわ」
父エドワードは、少し困ったように笑っていた。
「エレオノーラ。危険なことだけはしないでおくれ」
「大丈夫よ、お父様!」
「……その言葉が、一番心配なんだが」
母シャーロットも、深く頷いた。
「今夜はお客様も大勢いらっしゃるのですから、くれぐれも騒ぎを大きくしないように」
「はい!」
エレオノーラは元気よく答えた。
セシリアは、そんな妹をじっと見つめた。
「……それで、何か分かったの?」
「まだ少しだけ!」
エレオノーラは声を落とした。
「でも、展示台が気になるの」
「展示台?」
「ええ。宝石が置かれていた台座の下に、変な線があるのよ」
セシリアは、ちらりと展示ケースへ視線を向けた。
「……それなら、設置を担当した者に確認すべきですわね」
「そうよね!」
エレオノーラは、ぱっと顔を輝かせた。
「ありがとう、お姉様!」
「私は何もしていませんわ」
「ううん! 今、すごくいいことを言ってくれたわ!」
セシリアは、少しだけ口元を緩めた。
「……本当に、調子のいい子ですこと」
⸻
展示台を運び込んだ職人は、幸いまだ屋敷に残っていた。
宝石商の助手に呼ばれて現れたのは、三十代ほどの、がっしりとした体格の男性だった。
「展示台のことですか?」
「はい!」
エレオノーラは、真剣な顔で頷いた。
「午後に、ぐらつきがあったと伺ったんですけれど」
「ああ、それですか」
職人は、すぐに思い出したようだった。
「確かに、台座が少し傾いていると知らせがありましてね」
「誰が気づいたんですか?」
「警備員さんだったと思いますよ」
「……警備員さん」
「ええ。若い方でした。わざわざ教えに来てくださって」
エレオノーラは、胸の奥が小さくざわめくのを感じた。
「それで、どうなさったんですか?」
「台の下に薄い詰め物を入れて、高さを調整しました」
「詰め物?」
「石膏を使った薄い板です。削れば厚みを合わせられるので」
「……石膏」
エレオノーラは、思わず呟いた。
白い粉。
台座の下の細い線。
「その板は、どこに入れたんですか?」
「こちら側の脚の下です」
職人は、展示台の一角を指さした。
そこは、ノワールが見つけた隙間のある場所だった。
「……なるほど」
エレオノーラは、ゆっくりと頷いた。
「そのとき、展示ケースは開いていましたか?」
「いえ。鍵は掛かったままでしたよ」
「そうですか……」
職人は、不思議そうに首を傾げた。
「何か問題でも?」
「いえ! ありがとうございます!」
エレオノーラは丁寧に一礼した。
職人が去ると、ノワールが小さく呟いた。
「……白い粉の正体は分かったな」
「ええ」
「だが、それだけじゃ盗めねえぞ」
「そうなのよね……」
エレオノーラは、展示台を見つめた。
石膏の粉は、職人が作業したときについたものかもしれない。
それなら、警備員の手袋についていたとしても、不思議ではない。
……でも。
どうして、あの警備員さんがぐらつきに気づいたのかしら。
ただの偶然?
それとも……。
⸻
「ウィンデルフォード嬢」
低い声がした。
エレオノーラは、はっと顔を上げた。
「レオンハルト様!」
レオンハルトは、展示ケースの前に立つ彼女を見下ろした。
「何か分かったか?」
「……少しだけです!」
エレオノーラは、今まで調べたことを簡潔に説明した。
展示ケースは施錠されたまま。
鍵は宝石商が持っている。
台座の下には、石膏の粉が落ちていた。
そして、昼間に会った警備員のこと。
レオンハルトは、黙って聞いていた。
「……なるほど」
やがて、彼は静かに頷いた。
「警備責任者からも報告があった。配置を確認しているが、該当する人物が見つからないそうだ」
「……えっ?」
エレオノーラは目を見開いた。
「見つからないんですか?」
「ああ。少なくとも、名簿にある警備員の中にはいない」
「…………」
胸が、どきんと鳴った。
「……それって」
「まだ断定はできない」
レオンハルトは、落ち着いた声で言った。
「だが、調べる価値はあるだろう」
エレオノーラは、真剣な顔で頷いた。
「はい!」
レオンハルトは、彼女を見つめた。
「……君は、よく気づいたな」
「え?」
「警備員の手袋のことだ」
「……あっ」
エレオノーラは、少しだけ頬を赤らめた。
「い、いえ! たまたまです!」
「たまたまでも、見逃さなかったのは君だ」
「…………!」
胸の奥が、ふわりと温かくなる。
……また褒められた。
しかも、今度はちゃんと探偵として。
エレオノーラは、思わず笑顔になった。
「……ありがとうございます!」
レオンハルトは、ほんのわずかに目を細めた。
「だが、無理はするな」
「はい!」
「怪しい人物を見つけても、一人で追うな」
「……はい!」
ノワールが足元で呟いた。
「……絶対に守らねえ顔だな」
エレオノーラは、聞こえないふりをした。
⸻
しばらくして。
展示室の警備責任者が、慌ただしく戻ってきた。
「グレイヴェル様!」
「どうした?」
「確認が取れました。屋敷の西側を担当していた警備員が一名、午後から所在不明です」
「……所在不明?」
「はい。ですが、その者は今夜の展示室警備には配置されておりません」
レオンハルトの表情が、わずかに険しくなった。
「制服は?」
「一着、予備がなくなっております」
エレオノーラは、息を呑んだ。
「……まさか」
ノワールが、低い声で呟く。
「……やっぱりな」
警備責任者は続けた。
「現在、屋敷内を確認しております」
レオンハルトは静かに頷いた。
「出入口を押さえろ。使用人にも、不審な人物を見かけていないか確認してくれ」
「承知しました!」
責任者が去ると、エレオノーラは思わずレオンハルトを見上げた。
「……レオンハルト様」
「何だ?」
「私、あの警備員さんを探したいです!」
「……一人では行くなと言ったはずだが」
「一人じゃありません!」
エレオノーラは、足元のノワールを抱き上げた。
「ノワールがいます!」
「…………」
レオンハルトは、しばらく黙っていた。
ノワールも黙っていた。
そして。
「……猫は人数に入らないだろう」
「ええっ!?」
ノワールが、エレオノーラの耳元で囁いた。
「……珍しく公爵と意見が合ったな」
「もう!」
エレオノーラは頬を膨らませた。
レオンハルトは、ほんの少しだけ笑った。
「……私も行こう」
「……えっ?」
「君が見た人物なら、君が一番見分けられるだろう」
「……はい!」
エレオノーラは、ぱっと顔を輝かせた。
……レオンハルト様と、一緒に捜査!
これは……。
まるで、探偵小説の名コンビみたいじゃない!?
「……ただし」
レオンハルトが続けた。
「勝手に走り出さないこと」
「……はい!」
「危険なことをしないこと」
「はい!」
「それから、猫を落とさないこと」
「もちろんです!」
ノワールが、小さく鼻を鳴らした。
「……俺が一番心配されてるじゃねえか」
⸻
二人と一匹は、屋敷の西側へ向かった。
晩餐会の喧騒が遠ざかるにつれ、廊下は静かになっていく。
壁のガス灯が、柔らかな橙色の光を落としていた。
窓の外には、夜の庭園が広がっている。
エレオノーラは、レオンハルトの隣を歩きながら、何度も横顔を盗み見た。
……近い。
さっきから、ずっと隣にいらっしゃる。
しかも、一緒に事件を調べている。
これって、ちょっと特別なことじゃないかしら……?
「……ウィンデルフォード嬢」
「は、はい!」
「何か気になることでも?」
「い、いえ!」
エレオノーラは、慌てて前を向いた。
「何でもありません!」
レオンハルトは、少しだけ首を傾げた。
「……そうか」
ノワールが、肩の上で囁いた。
「……事件に集中しろよ」
「分かってるわよ……!」
「何か言ったか?」
「い、いえ! 何でも!」
エレオノーラは、ますます顔を赤くした。
そのとき。
廊下の向こうから、かすかな靴音が聞こえた。
こつ。
こつ。
こつ。
エレオノーラは、はっと顔を上げた。
曲がり角の先。
濃紺の制服を着た若い警備員が、一人で歩いていた。
「……あっ!」
エレオノーラは思わず声を上げた。
青年が振り返る。
帽子を深く被った、見覚えのある顔。
「……おや」
青年は、穏やかに微笑んだ。
「またお会いしましたね、お嬢様」
「あなた!」
エレオノーラは、一歩前へ出た。
「少し、お話を聞かせてください!」
青年は、ちらりとレオンハルトへ視線を向けた。
「……何でしょう?」
「あなた、今夜の警備員さんですよね?」
「ええ。そうですが」
「お名前を教えていただけますか?」
青年は、少しだけ首を傾げた。
「……名前、ですか」
「はい!」
一瞬の沈黙。
そして。
「……申し訳ありません」
青年は、静かに微笑んだ。
「今は、名乗るわけにはいかないのです」
エレオノーラは、目を丸くした。
「……え?」
レオンハルトの表情が、わずかに変わった。
「どういう意味だ?」
青年は、二人を見つめた。
そして、ゆっくりと帽子を取った。
その下から現れたのは、月明かりを受けて淡く輝く銀色の髪。
そして、紫色の瞳だった。
「……初めまして」
青年は、優雅に一礼した。
「僕はルシアン」
エレオノーラは、息を呑んだ。
「……ルシアン?」
「ええ」
青年は、楽しそうに微笑んだ。
「巷では、怪盗ルシアンと呼ばれているようですね」
「…………!」
エレオノーラの目が、みるみる大きくなった。
「えええええっ!?」
廊下に、彼女の声が響き渡った。
「あなたが、怪盗ルシアン!?」
「はい」
ルシアンは、何でもないことのように頷いた。
「先ほどは、楽しいお話をありがとうございました」
「…………!」
エレオノーラは、昼間の会話を思い出した。
もし怪盗に出会ったら、どうするか。
もちろん捕まえる、と答えた。
……まさか。
まさか、本人に言っていたなんて!
「……ず、ずるいわ!」
思わず叫んだ。
ルシアンは、きょとんとした。
「……ずるい?」
「だって、あなた! 警備員さんのふりをして!」
「ええ。そうですね」
「私、すっかり信じちゃったじゃない!」
ルシアンは、楽しそうに笑った。
「それは光栄です」
「褒めてないわよ!」
レオンハルトが、一歩前へ出た。
「……怪盗ルシアン」
その声は、低く落ち着いていた。
「月光の雫を盗んだのは、お前か?」
ルシアンは、ゆっくりと微笑んだ。
「さて。どうでしょう?」
「答えろ」
「……怖い方ですね」
ルシアンは、少しだけ肩をすくめた。
「ですが、せっかくですから、探偵のお嬢さんに考えていただきましょう」
「……私?」
エレオノーラは、目を丸くした。
ルシアンは、彼女を見つめた。
「君は、何か気づいたのでしょう?」
エレオノーラは、ぎゅっと拳を握りしめた。
「……ええ!」
そして、真剣な顔で答えた。
「あなた、展示台のぐらつきを見つけたんでしょう?」
ルシアンの口元が、わずかに動いた。
「……ほう」
「それで、職人さんに調整してもらった」
「そうでしたね」
「でも、どうして警備員さんが、展示台の下まで気にしていたのかしら?」
ルシアンは、黙っていた。
エレオノーラは続けた。
「あなた、何か仕掛けをしたんじゃない?」
「……仕掛け?」
「ええ!」
エレオノーラは、ゆっくりと息を吸った。
「ダイヤモンドは、暗闇の中で盗まれたんじゃない」
レオンハルトが、静かに彼女を見た。
「……どういうことだ?」
「もっと前に、すり替えられていたのよ!」
廊下に、短い沈黙が落ちた。
エレオノーラは、胸を張った。
「展示ケースが開いていたのは、宝石を収めるときだけ。でも、そのあとに誰かが細工をして、宝石を別のものと取り替えたんだわ!」
ノワールが、耳元で低く呟いた。
「……おい。ケースは施錠されてたんだろ」
「……あっ」
エレオノーラは、ぴたりと止まった。
そうだった。
施錠されたあとに、どうやって宝石をすり替えるの?
「…………」
ルシアンは、くすりと笑った。
「惜しいですね」
「……え?」
「ですが、なかなか面白いところまで来ています」
エレオノーラは、むっとした。
「……じゃあ、どうやったのよ!」
「それを教えてしまっては、探偵さんの楽しみがなくなってしまうでしょう?」
「もう!」
ルシアンは、楽しそうに微笑んだ。
「ヒントを一つ差し上げましょう」
「……ヒント?」
「人は、光っているものを見れば、それが本物だと思い込むものです」
エレオノーラは、目を見開いた。
「……光っているもの?」
ルシアンは、ゆっくりと帽子を被り直した。
「では、そろそろ失礼いたします」
「待て」
レオンハルトが、鋭く言った。
「逃がすと思うか?」
「……さて」
ルシアンは、どこか楽しそうに微笑んだ。
「どうでしょうね」
その瞬間。
廊下の奥から、甲高い音が響いた。
がしゃん!
「きゃっ!?」
エレオノーラが振り返る。
壁際に置かれていた花瓶が、床に落ちて割れていた。
「……えっ?」
ほんの一瞬。
目を離した、その隙に。
「……っ!」
レオンハルトが前へ出た。
だが、すでに遅かった。
ルシアンの姿は、廊下の奥へ消えていた。
「……いない!」
エレオノーラは、呆然と立ち尽くした。
ノワールが、低い声で呟く。
「……逃げ足の速い奴だな」
レオンハルトは、すぐに廊下の奥へ向かった。
「警備を呼ぶ。君はここにいろ」
「……はい!」
エレオノーラは、ぎゅっと拳を握りしめた。
悔しい。
せっかく怪盗を見つけたのに。
しかも、トリックまで見破れなかった。
「……うう」
エレオノーラは、肩を落とした。
「……私、名探偵失格かしら」
ノワールが、足元から見上げた。
「……まだ終わってねえだろ」
「え?」
「宝石がどうやって消えたか、まだ分かってねえじゃねえか」
「……そうね」
エレオノーラは、ゆっくりと顔を上げた。
「……そうよね!」
そして、勢いよく立ち上がった。
「私、もう一度展示ケースを調べるわ!」
「……その意気だ」
⸻
展示室へ戻ると、警備員たちはまだ慌ただしく動き回っていた。
エレオノーラは、アーネストに頼み、展示ケースをもう一度確認させてもらった。
「……鍵を開けてもよろしいですか?」
「ええ。今はもう宝石もありませんから……」
アーネストは、力なく頷いた。
鍵が回され、ガラスの蓋が開く。
エレオノーラは、青いビロードの台座をじっと見つめた。
「……ねえ、ノワール」
「何だ?」
「さっき、ルシアンが言っていたでしょう?」
「……光っているものを見れば、本物だと思い込む、か」
「そう」
エレオノーラは、そっと台座の縁を見た。
「……もしかして」
彼女は、アーネストへ尋ねた。
「この台座、持ち上げてもよろしいですか?」
「……ええ。構いません」
エレオノーラは、慎重にビロードの台座を持ち上げた。
すると。
「……あっ!」
台座の底に、小さな空洞があった。
その中には、薄い金属板と、細い糸のようなものが残されている。
「……何ですか、これは!?」
アーネストが驚きの声を上げた。
エレオノーラは、目を輝かせた。
「……分かったわ!」
ノワールが、じっと彼女を見つめた。
「……本当か?」
「ええ!」
エレオノーラは、勢いよく頷いた。
「ダイヤモンドは、最初からここにあったんじゃない!」
「……どういうことだ?」
レオンハルトが、いつの間にか戻ってきていた。
エレオノーラは、彼を振り返った。
「レオンハルト様!」
そして、胸を張った。
「私、分かったんです!」
レオンハルトは、静かに頷いた。
「聞かせてくれ」
エレオノーラは、深く息を吸った。
「展示ケースの中にあったのは、本物のダイヤモンドじゃなかったんです!」
アーネストが、目を見開いた。
「……な、何ですと!?」
「本物は、もっと前に盗まれていたんです!」
エレオノーラは、台座の空洞を指さした。
「ここに、偽物を落とす仕掛けがあったんだわ!」
「……偽物?」
「ええ! 消灯した瞬間に、台座の上から偽物が落ちるようになっていたのよ!」
レオンハルトは、静かに台座を見つめた。
「……なるほど」
エレオノーラは続けた。
「だから、ケースの鍵を開けなくても、宝石が消えたように見えたんです!」
「……だが」
レオンハルトが、落ち着いた声で尋ねた。
「本物は、いつ盗まれた?」
「……それは」
エレオノーラは、少しだけ考えた。
「宝石をケースへ収める前です!」
アーネストは、青ざめた顔で首を振った。
「そんな馬鹿な! 私は確かに本物を……!」
「ベルモンド様」
エレオノーラは、静かに言った。
「宝石を収める前に、誰かに確認してもらいましたか?」
「……い、いえ」
「では、すり替えられていたとしても、気づかなかった可能性があります」
アーネストは、言葉を失った。
レオンハルトは、台座の仕掛けを注意深く確認した。
「……確かに、何か細工されているようだな」
エレオノーラは、大きく頷いた。
「そして、あの警備員さん……怪盗ルシアンは、展示台のぐらつきを口実に、細工をする機会を作ったんです!」
ノワールが、低い声で呟いた。
「……やっとつながったな」
エレオノーラは、嬉しそうに笑った。
「ええ!」
ただし。
「……でも」
エレオノーラは、少しだけ眉を下げた。
「本物をいつ、どうやって盗んだのかは、まだ分からないわ」
レオンハルトは、静かに頷いた。
「それを確かめる必要があるな」
「はい!」
エレオノーラは、もう一度台座を見つめた。
事件は、まだ完全には終わっていない。
けれど、少なくとも一つ。
ダイヤモンドが消えた仕組みは、見えてきたのだった。
⸻
夜も更けた頃。
招待客たちは、ようやく帰路につき始めていた。
警備員たちは引き続き屋敷を調べていたが、怪盗ルシアンの姿は見つからなかった。
エレオノーラは、玄関ホールの隅で小さく溜息をついた。
「……逃げられちゃった」
ノワールが、隣で尻尾を揺らした。
「……ああ」
「しかも、宝石も取り戻せなかったわ」
「……そうだな」
「……もう少し、頑張れたかしら」
ノワールは、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと呟いた。
「……でも、お前がいなかったら、あいつが警備員に化けてたことも分からなかっただろ」
エレオノーラは、目を丸くした。
「……ノワール?」
「それに、仕掛けも見つけた」
「……うん」
「……まあ、少しは探偵らしくなったんじゃねえか」
エレオノーラの顔が、ぱっと明るくなった。
「……それって、褒めてる?」
「……調子に乗るなよ」
「褒めてるのね!」
「……うるせえ」
エレオノーラは、嬉しそうにノワールを抱き上げた。
「ありがとう!」
「……おい、苦しい!」
「大好きよ、ノワール!」
「……離せ!」
そんなやり取りをしていると。
「ウィンデルフォード嬢」
聞き慣れた低い声がした。
エレオノーラは、はっと振り返った。
「レオンハルト様!」
レオンハルトが、静かに歩み寄ってきた。
「もう帰るのか?」
「はい。そろそろ探偵事務所へ戻ろうと思って」
「そうか」
彼は、少しだけ目を細めた。
「……今夜は、よくやったな」
「……え?」
エレオノーラは、思わず瞬きをした。
「君が気づかなければ、あの男は誰にも疑われずに立ち去っていただろう」
「……でも、逃がしてしまいました」
「それは、次の課題だ」
レオンハルトは、落ち着いた声で続けた。
「事件の仕組みを解くことと、犯人を捕らえることは別だ。どちらも経験が必要になる」
エレオノーラは、ゆっくりと顔を上げた。
「……はい」
「それに、君は最初から犯人を決めつけなかった」
「……ヴィクトリア様のことですか?」
「ああ」
レオンハルトは頷いた。
「証拠がない段階で人を疑うべきではない。君は、それを理解していた」
エレオノーラは、少しだけ頬を赤らめた。
「……ありがとうございます」
レオンハルトは、ほんのわずかに微笑んだ。
「……次も期待している」
「…………!」
エレオノーラの心臓が、どきんと跳ねた。
次も。
次も、期待してくださっている。
それって……。
また、お会いできるってことかしら!?
「……はい!」
エレオノーラは、満面の笑みを浮かべた。
「私、もっと立派な探偵になります!」
レオンハルトは、静かに頷いた。
「楽しみにしている」
その言葉だけで、エレオノーラの胸はいっぱいになった。
⸻
そのとき。
「……ウィンデルフォードさん」
背後から、控えめな声がした。
振り返ると、ヴィクトリアが立っていた。
先ほどまでの強気な表情とは違い、少しだけ言いづらそうな顔をしている。
「ヴィクトリア様?」
ヴィクトリアは、ちらりとレオンハルトを見た。
それから、エレオノーラへ視線を戻す。
「……先ほどは、ありがとうございました」
「え?」
「……わたくしを庇ってくださったでしょう」
エレオノーラは、ぱっと笑った。
「当然です!」
「……当然?」
「だって、まだ何も分かっていなかったんですもの!」
ヴィクトリアは、しばらく黙っていた。
そして、小さく息をついた。
「……あなたという方は、本当に」
「……?」
「……いえ。何でもありませんわ」
ヴィクトリアは、優雅に一礼した。
「それでは、ごきげんよう」
「はい! またお会いしましょう!」
ヴィクトリアは、少しだけ驚いたように振り返った。
そして。
「……ええ」
ほんのわずかに微笑んだ。
「また、いずれ」
その背中を見送りながら、エレオノーラは首を傾げた。
「……ヴィクトリア様、今日は少し優しかったわね」
ノワールが、耳元で呟いた。
「……お前が先に庇ったからだろ」
「そうかしら?」
「……そうだよ」
エレオノーラは、嬉しそうに微笑んだ。
⸻
その夜。
探偵事務所へ戻ったエレオノーラは、机に向かって事件記録を書いていた。
窓の外では、王都のガス灯が静かに輝いている。
階下のパン屋からは、翌朝の仕込みを始めたマーガレットの物音が、かすかに聞こえていた。
『第三の事件 巨大ダイヤモンド盗難事件』
エレオノーラは、羽根ペンを走らせた。
『犯人は、警備員に変装した怪盗ルシアン』
『展示ケースの仕掛けを利用し、宝石が消えた時刻を偽装した』
『ただし、本物の宝石の行方は不明』
そこまで書いて、彼女は小さく溜息をついた。
「……悔しいなあ」
ノワールは、机の上で丸くなっていた。
「……何が?」
「怪盗ルシアンよ!」
エレオノーラは、ぎゅっと拳を握りしめた。
「次に会ったら、絶対に捕まえてみせるんだから!」
「……向こうも、お前のことは覚えただろうな」
「望むところよ!」
エレオノーラは、胸を張った。
「今度こそ、名探偵エリーの実力を見せてあげるわ!」
ノワールは、呆れたように目を閉じた。
「……まずは、椅子に引っ掛からずに歩けるようになれよ」
「もう! それは関係ないでしょう!」
エレオノーラは、頬を膨らませた。
けれど、その表情はすぐに笑顔へ変わった。
怪盗ルシアン。
銀色の髪。
紫色の瞳。
そして、あの余裕たっぷりの笑顔。
……次は、絶対に負けないわ!
そう決意しながら、彼女は事件記録の最後に、大きく書き加えた。
『怪盗ルシアン。次こそ必ず捕まえる!』
⸻
同じ頃。
王都ベルフォードの、とある静かな路地裏。
一人の青年が、街灯の下を歩いていた。
銀色の髪が、月明かりを受けて淡く輝いている。
「……なかなか面白いお嬢さんだったな」
ルシアンは、小さく笑った。
その手には、一枚の古びた紙片が握られていた。
紙片には、王都の古い地図の一部が描かれている。
その端には、小さな印が一つ。
「……さて」
ルシアンは、地図を折りたたんだ。
「次は、少し違う場所へ行ってみようか」
夜風が、彼の外套を揺らした。
遠くで、教会の鐘が鳴っている。
ルシアンは、静かに微笑んだ。
「……あの探偵さんなら、また会えるかもしれないね」
そして、街灯の届かない路地の奥へ、ゆっくりと姿を消した。
【第3話 完】




