前編:伯爵家の晩餐会に招待されました!
王都ベルフォードの西区には、古くから続く貴族たちの屋敷が立ち並んでいる。
石畳の道は広く、街路樹は丁寧に刈り込まれ、鉄柵の向こうには手入れの行き届いた庭園が広がっていた。
商業地区の賑やかな通りとは違い、この辺りを行き交うのは、紋章を掲げた馬車や上等な服に身を包んだ紳士淑女ばかりである。
そんな街並みを、一台の馬車がゆっくりと進んでいた。
「懐かしいわ! この辺り、全然変わってない!」
窓から身を乗り出しそうな勢いで外を眺めているのは、エレオノーラ・ウィンデルフォード。
十九歳の伯爵令嬢にして、駆け出しの探偵である。
蜂蜜色の長い髪は大きなリボンでまとめられ、澄んだ青い瞳は、幼い子供のように輝いていた。
向かいの座席では、赤いリボンを首に結んだ黒猫が、前脚を揃えて座っている。
「……お前、本当にこの辺りで育ったのか?」
ノワールが低い声で呟いた。
「そうよ! あの角を曲がったところに、お菓子の美味しいお店があってね。子供の頃、お小遣いを握りしめてよく買いに行ったの!」
「伯爵令嬢が菓子を買い食いか」
「買い食いじゃないわ! ちゃんとお店で買ったもの!」
「買い食いの意味、分かってるか?」
「もう、細かいことはいいでしょう!」
エレオノーラは頬を膨らませた。
今日は久しぶりの実家への帰省だった。
姉のセシリアから届いた手紙によれば、今夜はウィンデルフォード伯爵家で晩餐会が開かれるらしい。
しかも、長年付き合いのある宝石商が、非常に珍しい巨大なダイヤモンドを披露するという。
「大きなダイヤモンドって、どれくらい大きいのかしら!」
「さあな」
「卵くらい?」
「そんなもんを指輪にしたら、指が折れるだろ」
「じゃあ、クルミくらい?」
「十分でかいだろ」
「楽しみねえ!」
ノワールは諦めたように目を閉じた。
「……お前、今日は探偵じゃなくて、ただの観光客だな」
「失礼ね! 今日は立派な伯爵令嬢として晩餐会に出席するのよ!」
「それなら、まず窓から顔を出すのをやめろ」
「……はっ!」
エレオノーラは慌てて座り直した。
その拍子に、馬車が小さく揺れる。
「きゃっ!」
「ほらな」
「……今のは馬車が悪いの!」
そんなやり取りをしているうちに、馬車は大きな鉄門の前へ到着した。
門柱には、蔦の意匠に囲まれたウィンデルフォード家の紋章が刻まれている。
その向こうに見えるのは、淡い蜂蜜色の石材で建てられた三階建ての屋敷。
左右対称に並ぶ窓には白い飾り枠が施され、正面玄関へ続く道の両側には、秋の花々が美しく咲いていた。
「ただいま!」
馬車が止まるより早く、エレオノーラは扉に手を掛けた。
「エリー、待て。まだ止まってねえ」
「分かってるわよ!」
「分かってる奴の動きじゃねえだろ」
ようやく馬車が停車すると、エレオノーラは勢いよく外へ飛び出した。
玄関の前には、黒い燕尾服に身を包んだ老執事が立っていた。
銀色の髪をきちんと撫でつけ、背筋を伸ばした姿には、長年伯爵家に仕えてきた者らしい品格が漂っている。
「お帰りなさいませ、エリーお嬢様」
「アルフレッド!」
エレオノーラは満面の笑みを浮かべた。
「久しぶりね! 元気だった?」
「ええ。おかげさまで」
アルフレッド・ベネットは、穏やかに目を細めた。
「お嬢様も、お変わりなくお元気そうで何よりでございます」
「私、もう二件も事件を解決したのよ!」
「それは素晴らしいことでございます」
「でしょう!?」
「幼い頃、私の懐中時計を探してくださった日が懐かしゅうございますな」
「……あれはアルフレッドが隠したんでしょう!」
「さて、どうでございましたか」
アルフレッドは、何食わぬ顔で微笑んだ。
エレオノーラが七歳の頃、屋敷で『名探偵エリーの大捜査』と称する遊びが流行したことがある。
犯人役も、目撃者役も、被害者役も、すべてアルフレッドが引き受けてくれた。
もっとも、当時のエレオノーラは、犯人を見つけるたびに「可哀想だから許してあげる!」と言い出し、事件を解決したことにはならなかったのだが。
「ところで、お嬢様」
アルフレッドの視線が、彼女の腕の中へ向けられた。
「そちらは?」
「私の助手よ!」
エレオノーラは黒猫を抱き上げた。
「ノワールっていうの!」
「ほう。大変立派な猫でございますな」
「そうでしょう! とっても頭がいいのよ!」
ノワールは黙ってアルフレッドを見つめた。
「猫用のお食事もご用意いたしましょう」
「まあ! ありがとう、アルフレッド!」
ノワールの耳が、ぴくりと動いた。
「……気が利く爺さんだな」
もちろん、その声が聞こえたのはエレオノーラだけだった。
「ふふっ」
「お嬢様?」
「何でもないわ!」
アルフレッドは、いつものように何も聞かなかったことにしてくれた。
⸻
玄関ホールへ足を踏み入れると、磨き上げられた大理石の床に、巨大なシャンデリアの光が映り込んでいた。
壁には歴代伯爵の肖像画が並び、正面の大階段には深紅の絨毯が敷かれている。
幼い頃は何とも思わなかった光景だが、今では少し不思議な気持ちになる。
パン屋の二階に借りている小さな探偵事務所とは、何もかもが違っていた。
「エリーお嬢様!」
弾んだ声とともに、若いメイドが駆け寄ってきた。
栗色の髪をきちんとまとめ、白いエプロンを身につけたリリー・モリスである。
「リリー!」
「お帰りなさいませ! お会いしたかったです!」
「私もよ!」
二人は顔を見合わせ、嬉しそうに笑った。
リリーはエレオノーラより三歳年上で、幼い頃から彼女の身の回りを世話してきた。
主人と使用人という関係ではあるが、エレオノーラにとっては姉のような存在だった。
「お嬢様、少しお顔がほっそりなさいました?」
「そうかしら?」
「お食事はきちんと召し上がっていますか?」
「もちろんよ!」
「朝食は?」
「……パン!」
「昼食は?」
「……パン!」
「夕食は?」
「…………パン」
リリーの笑顔が、ぴたりと止まった。
「お嬢様」
「は、はい!」
「今夜は、たくさん召し上がってくださいね」
「……はい」
ノワールはエレオノーラの腕の中で、満足そうに目を細めていた。
そこへ、階段の上から凛とした声が響いた。
「エレオノーラ」
エレオノーラは顔を上げた。
「お姉様!」
階段を下りてきたのは、姉のセシリア・ウィンデルフォードだった。
二十四歳。
妹と同じ蜂蜜色の髪を美しく結い上げ、深い緑色のドレスを身にまとっている。
その立ち居振る舞いには、伯爵家の長女らしい落ち着きと気品があった。
「久しぶりですわね」
「お姉様、会いたかったわ!」
エレオノーラが駆け寄ろうとすると、セシリアは片手を上げた。
「その前に、エレオノーラ」
「……はい?」
「廊下を走らないこと」
「まだ走ってないわ!」
「走ろうとしていましたわ」
「……どうして分かるの?」
「十九年間、あなたの姉をしていますもの」
エレオノーラは口を尖らせた。
セシリアは小さく息をついたが、その表情はどこか柔らかかった。
「元気そうで安心しましたわ。お父様もお母様も、あなたの帰りを楽しみにしていらしたのよ」
「本当?」
「ええ。特にお父様は、朝から何度も馬車の到着時刻をお尋ねになって」
「まあ!」
「……お母様は、あなたが晩餐会で何かしでかさないか心配なさっていますけれど」
「何もしないわよ!」
「その言葉を信じたいものですわね」
セシリアの視線が、ノワールへ移った。
「それから、その猫は?」
「私の助手よ!」
「……探偵事務所には、猫の助手も必要なの?」
「もちろん!」
セシリアはしばらくノワールを見つめた。
ノワールもまた、黙って彼女を見返す。
「……まあ、いいでしょう」
意外にも、セシリアはそれ以上追及しなかった。
「ただし、晩餐会の料理を盗み食いさせてはいけませんわよ」
「そんなことしないわ!」
ノワールの尻尾が、ゆっくりと揺れた。
⸻
晩餐会までには、まだ時間があった。
エレオノーラはリリーに案内され、自分の部屋へ向かうことになった。
長い廊下の窓からは、夕日に染まり始めた庭園が見える。
庭師たちが最後の手入れを終え、使用人たちは銀食器や花瓶を運びながら、忙しそうに行き交っていた。
「今日はずいぶん人が多いのね」
エレオノーラが尋ねると、リリーは頷いた。
「ええ。今夜は特別なお客様が多いので、警備の方も増やしているんです」
「警備?」
「最近、王都では宝石泥棒の噂があるでしょう?」
「あら、そうなの?」
「怪盗ルシアンですわ」
「……怪盗?」
エレオノーラの足が止まった。
「怪盗って、あの怪盗!?」
「ほかにどんな怪盗がいるんですか?」
リリーは笑った。
「新聞でも大きく取り上げられていますよ。貴族のお屋敷から宝石や美術品が盗まれているんですって」
「まあ!」
エレオノーラの瞳が、みるみる輝き始めた。
「それって、すごく不思議じゃない!?」
「不思議、ですか?」
「だって、貴族のお屋敷には警備員がいるでしょう? 鍵だって掛かっているはずなのに!」
「そうですねえ」
「それなのに盗まれるなんて、どんな方法を使っているのかしら!」
ノワールが肩の上で小さく溜息をついた。
「……お前、泥棒の話になると嬉しそうだな」
エレオノーラは慌てて口元を押さえた。
「ち、違うわよ!」
「お嬢様?」
「何でもないの!」
リリーは首を傾げたが、すぐに話を続けた。
「それで、旦那様が念のため警備を増やすようお命じになったんです。今夜は珍しい宝石もありますから」
「なるほど!」
エレオノーラは大きく頷いた。
「それなら安心ね!」
「ええ。警備の方々も、朝から屋敷の中を確認してくださっています」
「ご苦労様だわ!」
エレオノーラは感心しながら廊下を歩き始めた。
そのときだった。
曲がり角の向こうから、濃紺の制服を着た若い警備員が現れた。
「ああ、失礼いたしました」
青年は足を止め、丁寧に一礼した。
年齢は二十代半ばほどだろうか。
帽子を深く被っているため、髪や目元はよく見えない。
けれど、すらりとした立ち姿と落ち着いた物腰が印象的だった。
「こちらは、お屋敷のお嬢様でいらっしゃいますね」
「そうよ!」
エレオノーラは元気よく答えた。
「エレオノーラ・ウィンデルフォードです!」
「お目にかかれて光栄です」
青年は柔らかく微笑んだ。
「本日は警備を担当しております。どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ!」
エレオノーラは、青年の制服を興味深そうに眺めた。
「今日は大変でしょう? こんなに広いお屋敷を見回るなんて!」
「いえ。皆様に安心してお過ごしいただくのが仕事ですから」
「立派だわ!」
青年は少しだけ目を細めた。
「ありがとうございます」
その視線が、エレオノーラの肩へ向く。
「ところで、そちらの猫は?」
「ノワールよ! 私の助手なの!」
「助手?」
「私、探偵をしているの!」
「……探偵、ですか」
青年は、ほんの一瞬だけ驚いたような顔をした。
けれど、すぐに笑みを浮かべた。
「それは心強いですね。今夜は警備が一人増えたようなものだ」
「そうでしょう!」
エレオノーラは嬉しそうに胸を張った。
「何かあったら、私に任せて!」
「頼もしいお言葉です」
青年は、どこか楽しそうに答えた。
エレオノーラはふと思い出し、声を弾ませた。
「そういえば、怪盗ルシアンってご存じ?」
「……ええ。名前は聞いたことがあります」
「最近、王都で騒がれているんでしょう?」
「そのようですね」
「どんな人なのかしら!」
「さて。私にも分かりません」
青年は穏やかに微笑んだ。
「お嬢様は、もしその怪盗に出会ったら、どうなさいますか?」
「もちろん、捕まえるわ!」
エレオノーラは即答した。
「だって、泥棒はいけないことだもの!」
「なるほど」
「でも、その前に少しお話を聞いてみたいかも!」
「……お話を?」
「ええ! どうして怪盗になったのかとか、どうやって厳重な警備を突破したのかとか!」
青年は、今度こそ小さく笑った。
「それは、なかなか変わったお考えですね」
「そうかしら?」
「ええ。普通は、逃げるか助けを呼ぶかするでしょう」
「私は探偵だもの!」
エレオノーラは得意げに答えた。
「事件があったら、ちゃんと調べなくちゃ!」
青年はしばらく彼女を見つめていた。
「……そうですか」
そして、静かに一礼した。
「それでは、どうぞ楽しい晩餐会を」
「ありがとう! 警備のお仕事、頑張ってね!」
「はい。お嬢様も」
青年は廊下の奥へ歩いていった。
エレオノーラはその背中を見送り、感心したように呟いた。
「礼儀正しい人だったわね!」
リリーも頷く。
「ええ。最近の警備員さんは、ずいぶん物腰が柔らかいんですね」
「きっと、よく訓練されているのよ!」
ノワールは青年の去った方角を眺めていたが、やがて小さく欠伸をした。
「……人間は、よく喋るな」
「ノワールだって喋るじゃない!」
「俺は必要なことしか言わねえ」
「そんなことないわよ!」
「お嬢様?」
リリーが不思議そうに振り返った。
「……あっ!」
エレオノーラは慌てて笑顔を作った。
「ほ、ほら! お部屋に行きましょう!」
⸻
自室の扉を開けた瞬間、エレオノーラは懐かしさに目を細めた。
淡い水色の壁紙。
白いレースの天蓋がついた寝台。
窓際には、幼い頃から使っていた小さな読書机が置かれている。
本棚には、昔夢中になった冒険小説や推理小説が並んでいた。
「……何も変わってないわ」
エレオノーラは、そっと本棚に触れた。
机の上には、小さな木箱が置かれている。
蓋を開けると、中から古びた虫眼鏡が出てきた。
「まあ! これ、まだあったのね!」
「お嬢様が大切になさっていたものですから」
リリーは微笑んだ。
「アルフレッドさんが、時々磨いてくださっていたんですよ」
「……アルフレッドったら」
エレオノーラは嬉しそうに虫眼鏡を手に取った。
七歳の誕生日に父から贈られた、最初の探偵道具だった。
「懐かしいなあ」
ノワールが机に飛び乗り、虫眼鏡を覗き込んだ。
「……ずいぶん立派な道具を持ってたんだな」
「そうよ! これでアルフレッドの懐中時計を探したの!」
「見つかったのか?」
「もちろん!」
「犯人は?」
「……アルフレッド」
「最初から分かってたんじゃねえか」
「うるさいわね!」
「お嬢様?」
リリーが振り返った。
「……何でもないの!」
エレオノーラは、慌てて虫眼鏡を箱に戻した。
リリーは少し不思議そうな顔をしたものの、すぐに衣装箱を開けた。
「さあ、お嬢様。そろそろお支度を始めましょう」
「はーい!」
⸻
一時間後。
鏡の前に立ったエレオノーラは、思わず歓声を上げた。
「まあ! 素敵!」
淡い空色のドレスには、小さな真珠が散りばめられていた。
肩から胸元にかけて繊細なレースが重ねられ、ふんわりと広がるスカートは、動くたびに柔らかく揺れる。
蜂蜜色の髪は半分だけ結い上げられ、大きな白いリボンが飾られていた。
「とてもお似合いです、お嬢様」
リリーが満足そうに微笑んだ。
「ありがとう!」
エレオノーラは鏡の前でくるりと回った。
「どうかしら、ノワール!」
寝台の上で丸くなっていた黒猫が、片目を開けた。
「……動きにくそうだな」
「もう! そこは可愛いって言うところでしょう!」
「可愛い可愛い」
「棒読み!」
リリーは、エレオノーラが猫に話しかけているのを見て笑った。
「本当に仲がよろしいんですね」
「ええ! 大切な相棒なの!」
ノワールは小さく鼻を鳴らした。
そこへ、扉が控えめに叩かれた。
「エレオノーラ。支度は済みましたの?」
セシリアだった。
「お姉様! ちょうど終わったところよ!」
扉が開き、セシリアが姿を現す。
妹の姿を見た彼女は、わずかに目を見開いた。
「……まあ」
「どうかしら?」
エレオノーラは両手を広げた。
セシリアは、ゆっくりと頷いた。
「よく似合っていますわ」
「本当!?」
「ええ。リリー、ありがとう」
「恐れ入ります、お嬢様」
セシリアは妹の髪飾りを少しだけ直した。
「エレオノーラ。今夜は大切なお客様がいらっしゃるのですから、くれぐれも失礼のないように」
「分かってるわ!」
「それから、あまり大きな声を出さないこと」
「分かってるってば!」
「食事中に事件の話を始めないこと」
「……ええっ!?」
セシリアは眉を上げた。
「何か問題でも?」
「だって、私、最近すごい事件を解決したのよ!」
「そのお話は、食後に聞きますわ」
「……はーい」
エレオノーラは渋々頷いた。
セシリアは、そんな妹を見て小さく笑った。
「それから、もう一つ」
「なあに?」
「今夜は、グレイヴェル公爵家のレオンハルト様もいらっしゃいますわ」
「…………え?」
エレオノーラの動きが止まった。
「レオンハルト様が?」
「ええ」
「……あの、レオンハルト様?」
「ほかにどなたがいらっしゃるの?」
「えええええっ!?」
エレオノーラは両手で頬を押さえた。
「ど、どうしよう! 私、ちゃんとした格好になってる!? 髪は!? リボンは曲がってない!?」
「エレオノーラ、落ち着きなさい」
「だって、お姉様! レオンハルト様よ!?」
「分かっていますわ」
「私、何をお話ししたらいいのかしら!」
セシリアは、深い溜息をついた。
「……まずは普通にご挨拶なさい」
「普通に!」
「ええ。普通に」
ノワールは寝台の上で、呆れたように尻尾を振った。
「……怪盗の話をしてた時より興奮してるな」
「だって!」
「お嬢様?」
リリーが首を傾げる。
エレオノーラは慌てて口を閉じた。
セシリアは妹の顔をじっと見つめたあと、静かに言った。
「……エレオノーラ」
「な、なあに?」
「あなた、まさか……」
エレオノーラは真っ赤になった。
「ち、違うわよ! まだ何も言ってないでしょう!?」
「私も、まだ何も言っていませんわ」
「…………!」
セシリアは、どこか楽しそうに微笑んだ。
⸻
夕刻。
伯爵邸の大広間には、次々と招待客が集まり始めていた。
高い天井から吊るされたシャンデリアには無数の灯りがともり、金色の光が磨き上げられた床に反射している。
壁際には季節の花々が飾られ、弦楽四重奏の柔らかな旋律が、会場を優雅に包んでいた。
銀の盆を手にした給仕たちが、客人の間を静かに行き交う。
エレオノーラは両親のもとへ向かった。
「お父様! お母様!」
「おお、エレオノーラ!」
父エドワード・ウィンデルフォード伯爵は、嬉しそうに両腕を広げた。
五十三歳。
落ち着いた茶色の髪には白いものが混じり始めているが、柔和な笑顔は昔と変わらない。
「元気にしていたかい?」
「もちろんよ!」
「探偵のお仕事はどうだい?」
「順調よ! もう二件も事件を解決したの!」
「それはすごい!」
父は本当に嬉しそうだった。
「私の娘が名探偵になる日も近いな!」
「あなた」
隣に立つ母シャーロットが、静かに声を掛けた。
四十九歳の伯爵夫人は、淡い金髪を美しく結い上げ、深緑色のドレスを身にまとっている。
「エレオノーラをあまり甘やかさないでくださいませ」
「いやいや、娘の活躍は喜ばしいことだろう?」
「探偵のお仕事も結構ですけれど、もう少し社交界にも顔を出してほしいものですわ」
「お母様ったら!」
エレオノーラは頬を膨らませた。
「私、ちゃんと社交界にも来ているでしょう?」
「……今日は半年ぶりですわね」
「…………」
「それに、今夜は大切なお客様がいらっしゃるのですから」
母は娘のドレスを確認し、満足そうに頷いた。
「まあ、装いは合格ですわ」
「やった!」
「ただし、言葉遣いと立ち居振る舞いには気をつけること」
「……はい」
父エドワードは、そんな母娘を見て楽しそうに笑っていた。
そのとき、背後から澄んだ女性の声が響いた。
「まあ、ウィンデルフォードさん」
エレオノーラは振り返った。
そこに立っていたのは、深紅のドレスに身を包んだ若い令嬢だった。
艶やかな髪を美しく結い上げ、手には繊細なレースの扇を持っている。
ヴィクトリア・フェルンウィック。
二十二歳の侯爵令嬢であり、社交界でもよく知られた存在だった。
「ヴィクトリア様!」
エレオノーラは笑顔で挨拶した。
「お久しぶりです!」
「ええ。本当にお久しぶりですこと」
ヴィクトリアは扇を広げた。
「最近は、あまり社交界でお見かけしませんでしたわね」
「探偵のお仕事が忙しくて!」
「……あら」
ヴィクトリアの眉が、わずかに上がった。
「まだ続けていらしたの?」
「もちろんです!」
「てっきり、もう飽きてしまわれたのかと」
「飽きてません!」
エレオノーラは胸を張った。
「私、もう二件も事件を解決したんですから!」
「まあ。それはそれは」
ヴィクトリアは、口元を扇で隠した。
「次は、迷子の子猫でもお探しになるのかしら?」
「ちゃんとした事件です!」
「そうでしたの。失礼いたしました」
言葉とは裏腹に、ヴィクトリアの瞳は楽しそうだった。
エレオノーラはむっとしたが、そこで母の視線に気づき、慌てて笑顔を作った。
「……今夜は素敵なドレスですね!」
「ありがとうございます」
ヴィクトリアは優雅に微笑んだ。
「あなたのドレスも、可愛らしいですわね」
「本当ですか!?」
「ええ。まるでお人形のよう」
「ありがとうございます!」
エレオノーラは素直に喜んだ。
ヴィクトリアは一瞬だけ言葉に詰まり、それから小さく扇を閉じた。
「……相変わらずですのね」
「え?」
「何でもありませんわ」
そのとき、会場の入口付近が、わずかにざわめいた。
「グレイヴェル公爵家の……」
「まあ、レオンハルト様が……」
招待客たちの囁きが聞こえる。
エレオノーラは、はっと顔を上げた。
そして。
「……レオンハルト様!」
入口に立っていたのは、黒髪をきちんと撫でつけた長身の青年だった。
濃紺の礼装に身を包み、端正な顔立ちには、いつもの落ち着いた表情が浮かんでいる。
王室直属の特別捜査官、レオンハルト・グレイヴェル。
エレオノーラが密かに憧れている人物だった。
「……ウィンデルフォード嬢」
レオンハルトは、彼女に気づくと軽く会釈した。
「こんばんは」
「こ、こんばんは!」
エレオノーラは慌てて膝を折った。
「きょ、今日はお越しくださって、ありがとうございます!」
「招待を受けたからな」
「そ、そうですよね!」
レオンハルトは、彼女の様子を静かに眺めた。
「……随分と元気そうだな」
「はい!」
「探偵の仕事は順調か?」
「もちろんです!」
エレオノーラは嬉しそうに答えた。
「この間の劇場の事件も、無事に解決できました!」
「そうか」
レオンハルトの口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「それは何よりだ」
「…………!」
エレオノーラは胸の前で両手を握りしめた。
褒められた。
今、褒められた気がする。
しかも、レオンハルト様に!
「……エレオノーラ?」
セシリアが、すぐ隣で小さく声を掛けた。
「……はっ!」
エレオノーラは慌てて姿勢を正した。
その様子を、ヴィクトリアがじっと見ていた。
「レオンハルト様」
彼女は一歩前へ進み、優雅に微笑んだ。
「お久しぶりでございます」
「フェルンウィック嬢」
レオンハルトは礼儀正しく会釈した。
「今夜はお会いできて嬉しいですわ」
「こちらこそ」
ヴィクトリアは、満足そうに扇を広げた。
エレオノーラは、二人の様子を見つめながら、何とも言えない気持ちになった。
……ヴィクトリア様って、やっぱり綺麗だわ。
大人っぽいし、社交界にも慣れているし。
それに比べて私は……。
エレオノーラは、自分のドレスの裾をちらりと見下ろした。
可愛いとは言われたけれど。
……お人形みたい、って。
それって、子供っぽいってことなのかしら?
少しだけ肩を落とした、そのとき。
「ウィンデルフォード嬢」
レオンハルトが声を掛けた。
「……はい!」
「その猫は、以前の?」
エレオノーラは、ぱっと顔を上げた。
「はい! ノワールです!」
「そうか。元気そうだな」
レオンハルトは、ノワールへ視線を向けた。
ノワールは黙って彼を見返した。
「……ずいぶん懐いているようだ」
「そうなんです!」
エレオノーラは嬉しそうに笑った。
「私の大切な助手なんですよ!」
「助手、か」
レオンハルトは、少しだけ目を細めた。
「頼もしいな」
エレオノーラの頬が、また赤くなった。
ヴィクトリアは、その様子を見て静かに扇を閉じた。
⸻
やがて、会場の奥から父エドワードの声が響いた。
「皆様。本日はお忙しい中、お集まりいただきありがとうございます」
招待客たちの会話が、ゆっくりと静まっていく。
エドワードは、にこやかに続けた。
「今夜は、長年お付き合いのある宝石商から、非常に珍しい宝石をご紹介いただくことになっております」
エレオノーラは、ぱっと顔を輝かせた。
「……いよいよね!」
隣にいたセシリアが、小さく頷いた。
「ええ。お父様も、ずいぶん楽しみにしていらしたのよ」
「どんな宝石なのかしら!」
「見れば分かりますわ」
「もう、お姉様ったら!」
会場の奥にある大きな扉が、ゆっくりと開かれた。
その向こうには、特別に用意された展示室があった。
深紅の絨毯。
磨き上げられた銀の燭台。
そして、中央に置かれたガラスの展示ケース。
ケースの周囲には警備員が立ち、招待客たちを静かに見守っている。
エレオノーラは、人々の間から背伸びをした。
「……あっ!」
ガラスの向こうに、眩い光が見えた。
青いビロードの上に置かれていたのは、これまで見たこともないほど大きなダイヤモンドだった。
幾重にも磨かれた面が、燭台の光を受けて七色に輝いている。
まるで、夜空から落ちてきた星の欠片のようだった。
「……綺麗!」
エレオノーラは、思わず声を漏らした。
ヴィクトリアも、珍しく言葉を失っている。
レオンハルトは静かに展示ケースへ視線を向けた。
父エドワードが、誇らしげに告げる。
「皆様。こちらが、今夜ご覧いただく特別な宝石――」
一瞬、会場が静まり返った。
「巨大ダイヤモンド、『月光の雫』でございます」
エレオノーラは、胸の前で両手を組んだ。
「……なんて素敵なの!」
今夜は、きっと忘れられない晩餐会になる。
そう思いながら、彼女は輝くダイヤモンドを見つめていた。
【中編へ続く】




