中編:名探偵、容疑者の話を聞きます!
「最初から、詳しく話を聞かせて!」
エレオノーラ・ウィンデルフォードは、青い瞳を輝かせて言った。
ベルフォード大劇場の舞台裏。
代役女優クラリス・ヴェルナーの控室には、重苦しい空気が漂っていた。
窓の外では、王都の街並みが午後の日差しを浴びて輝いている。
だが、室内に集まった劇団員たちの表情は暗かった。
主演女優セレスティーヌ・ロシュフォールの失踪。
楽屋に残された血の付いた手袋。
そして、クラリスの鞄から見つかった脅迫状の下書き。
誰もが、目の前の若い女優に疑いの目を向けていた。
「……詳しくって、何を?」
クラリスは腕を組んだ。
栗色の髪をきつく結い上げた彼女は、エレオノーラより五つほど年上に見える。
整った顔立ちには、気の強さが滲んでいた。
「まず、セレスティーヌさんとの関係について聞きたいの」
エレオノーラは手帳を開いた。
「最近、口論していたそうね?」
クラリスの眉がぴくりと動いた。
「……誰から聞いたの?」
「支配人さんよ」
「……あの人、余計なことばっかり」
クラリスは苛立たしげに息を吐いた。
「確かに喧嘩はしたわよ。でも、舞台のことでよ」
「舞台のこと?」
「私の歌い方が気に入らないって、何度も何度も言うの。息の使い方が違うとか、感情が足りないとか……!」
クラリスは身振りを交えて話し始めた。
「昨日だって、三時間も稽古に付き合わされたんだから!」
「三時間も!?」
エレオノーラは目を丸くした。
「それは大変ね……」
「大変なんてもんじゃないわ!」
クラリスは勢いよく頷いた。
「しかも最後には、『そんな歌い方じゃ、いつまでたっても私の代わりは務まらない』ですって!」
「……まあ」
エレオノーラは手帳に書き留めた。
『クラリス、主演女優と口論』
『歌の指導が厳しい』
『三時間の稽古』
そして、顔を上げる。
「……でも、それって少し変じゃない?」
クラリスは眉を寄せた。
「何が?」
「セレスティーヌさんがあなたを嫌っているなら、どうしてそんなに長い時間をかけて教えるのかしら?」
「……え?」
「嫌いな人に、自分の技術を教えたりする?」
クラリスは、すぐには答えなかった。
窓から差し込む光が、その横顔を照らしていた。
「……知らないわよ」
やがて、彼女は小さく呟いた。
「でも、あの人は昔からそうなの。厳しくて、何をしても褒めてくれない」
その声には、怒りだけではない、複雑な感情が滲んでいた。
エレオノーラは、そっと手帳を閉じた。
「……クラリスさん」
「何よ?」
「あなた、本当はセレスティーヌさんのことが好きなんじゃない?」
「はあ!?」
クラリスは顔を真っ赤にした。
「な、何を言い出すのよ!」
「だって、すごく気にしているみたいだから」
「そ、それは……!」
クラリスは言葉に詰まった。
そして、勢いよく顔を背けた。
「……尊敬はしてるわよ」
小さな声だった。
「でも、だからって、いつまでもあの人の後ろにいるつもりはないんだから!」
エレオノーラは、ふっと微笑んだ。
「……そうなのね」
⸻
「ところで、クラリスさん」
エレオノーラは再び手帳を開いた。
「昨日の午後二時頃、どこにいたの?」
「昨日の午後二時?」
クラリスは少し考えた。
「舞台で稽古していたわ。新作の第二幕よ」
「一人で?」
「まさか。演出家も、ほかの役者たちもいたわよ」
「なるほど……」
エレオノーラは頷いた。
昨日の午後二時。
その時間に、支配人がクラリスの控室の予備鍵を借りていたことを、彼女はまだ特別な意味を持つとは考えていなかった。
ただ、手帳には丁寧に時刻を書き留めた。
「じゃあ、もう一つ」
「何?」
「あなたの鞄、普段はどこに置いているの?」
「控室よ。舞台へ出るときは、机の横に置いていくわ」
「鍵は?」
「もちろん掛けるわよ。貴重品も入ってるんだから」
エレオノーラはペンを止めた。
「……鍵を掛けるのね」
「当たり前でしょう?」
「そうよね……」
エレオノーラは、ふと考え込んだ。
鍵の掛かった控室。
誰もいない時間。
そして、鞄から見つかった脅迫状の下書き。
(……誰かが入れたのだとしたら、どうやって?)
だが、今はまだ分からない。
エレオノーラは手帳を閉じた。
「ありがとう、クラリスさん」
「……もういいの?」
「ええ。ひとまずは」
クラリスは少し拍子抜けしたような顔をした。
「……変な探偵ね」
「よく言われるわ!」
「褒めてないんだけど」
「知ってるわ!」
クラリスは、思わず小さく笑ってしまった。
⸻
控室を出ると、舞台裏には慌ただしい空気が満ちていた。
衣装を抱えた劇団員が廊下を駆け抜け、遠くでは大道具を動かす重たい音が響いている。
明日の初日公演を前に、誰もが忙しそうだった。
それでも、主演女優の不在は大きな影を落としていた。
「……ねえ、ノワール」
エレオノーラは、肩に乗せた黒猫へ小声で囁いた。
「クラリスさん、本当に犯人だと思う?」
ノワールは耳元へ顔を寄せた。
「さあな」
「さあなって……!」
「お前が調べるんだろ」
「そうだけど……」
エレオノーラは唇を尖らせた。
「もう少し助手らしいことを言ってくれてもいいじゃない」
「じゃあ、一つだけ」
「何?」
「お前、あの女が犯人だって決めつけたくなってないか?」
エレオノーラは、はっとした。
確かに。
脅迫状の下書き。
主演女優との口論。
代役という立場。
疑う理由はいくつもある。
でも。
「……そうね」
エレオノーラは静かに頷いた。
「まだ、決めつけちゃいけないわね」
ノワールは満足そうに尻尾を揺らした。
「それでいい」
⸻
「……あら?」
廊下の向こうから、大きな衣装箱を抱えた女性が歩いてきた。
四十代半ばほどだろうか。
茶色い髪を後ろでまとめ、首には裁縫用の巻尺を掛けている。
両腕には布地が山のように積まれ、今にも崩れ落ちそうだった。
「きゃっ!」
女性がよろめいた。
エレオノーラは慌てて駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」
「おっとっと……! 助かったよ、お嬢さん!」
二人で衣装箱を支える。
女性は額の汗を拭い、ほっと息を吐いた。
「いやあ、明日の公演だっていうのに、この騒ぎだろう? もう、てんてこ舞いさ!」
「衣装係の方ですか?」
「ああ。マチルダっていうんだよ」
エレオノーラは目を輝かせた。
「衣装係さん!」
「……何だい、その嬉しそうな顔は」
「私、舞台衣装って大好きなの!」
マチルダは思わず笑った。
「変わったお嬢さんだねえ」
「よく言われるわ!」
「……またかよ」
ノワールが、エレオノーラの耳元で小さく呟いた。
⸻
マチルダに案内された衣装部屋には、色とりどりの衣装が所狭しと並んでいた。
深紅のドレス。
銀糸の刺繍が施されたマント。
宝石のような飾りが縫い付けられた舞台靴。
壁際には帽子や手袋が整然と並び、作業台には針山や糸巻きが散らばっている。
エレオノーラは、思わず息を呑んだ。
「……素敵!」
目の前には、まるで夢のような世界が広がっていた。
「これ、全部舞台で使うの!?」
「そうだよ。まあ、古い衣装も混じってるけどね」
マチルダは笑った。
「そんなに気に入ったなら、今度ゆっくり見においで」
「本当に!?」
「もちろんさ。ただし、今日は仕事が山積みだからね」
「あっ、そうだったわ!」
エレオノーラは慌てて姿勢を正した。
「私、探偵として来ているんだった!」
「……忘れるなよ」
ノワールの小さな声に、エレオノーラは頬を膨らませた。
⸻
「ところで、マチルダさん」
エレオノーラは、ふと真剣な顔になった。
「セレスティーヌさんとクラリスさんって、仲が悪かったの?」
マチルダは、針を動かしていた手を止めた。
「……ああ、あの二人かい」
「ええ。最近、よく喧嘩していたと聞いたんだけど」
マチルダは、少し考えた。
「まあ、確かに口喧嘩は多かったねえ」
「やっぱり……」
「でも、仲が悪いっていうのとは、ちょっと違うんじゃないかね」
エレオノーラは首を傾げた。
「どういうこと?」
マチルダは、作業台の下から一足の舞台靴を取り出した。
淡い青色の布地に、銀糸の刺繍が施された美しい靴だった。
「これ、クラリスの新しい舞台靴なんだよ」
「まあ! 綺麗!」
「だろう? 実はこれ、セレスティーヌが自分のお金で買ってやったんだ」
「……え?」
エレオノーラは目を丸くした。
「セレスティーヌさんが?」
「ああ。クラリスの靴が古くなっているのを見てね。『あの子は足元が雑だから』なんて文句を言いながら、こっそり注文してたんだよ」
マチルダは、くすりと笑った。
「本当に嫌いなら、そんなことしないだろう?」
エレオノーラは、ゆっくりと頷いた。
「……そうね」
クラリスは、セレスティーヌを尊敬している。
セレスティーヌも、クラリスを気に掛けている。
二人の口論は、単なる憎しみから生まれたものではなかった。
(……じゃあ、どうして支配人さんは、あんなふうに話したのかしら?)
エレオノーラの胸に、小さな疑問が芽生えた。
⸻
衣装部屋を出たエレオノーラは、再び劇場の廊下を歩いていた。
大きな窓から午後の日差しが差し込み、赤い絨毯の上に長い光の帯を作っている。
壁に掛けられた肖像画の人物たちが、静かに彼女を見下ろしていた。
「……うーん」
エレオノーラは手帳を眺めながら唸った。
「分からないわ……」
ノワールが肩の上で尻尾を揺らした。
「何がだ?」
「セレスティーヌさんが、どうしていなくなったのかよ」
「脅迫状が届いたんだろ」
「ええ。でも、本当に脅迫されていたのか、それとも誰かが仕組んだのか……」
エレオノーラは、ふと足を止めた。
「……そうだわ!」
「何だ?」
「脅迫状の原本を、まだ見ていない!」
ノワールは呆れたように目を細めた。
「……今さらかよ」
「だって、いろいろあったんだもの!」
エレオノーラは頬を膨らませた。
「支配人さんに見せてもらわなくちゃ!」
そう言って歩き出そうとした、そのときだった。
「……君は」
低く、落ち着いた声が響いた。
エレオノーラは振り返った。
そして。
「……え?」
息が止まった。
廊下の向こうに立っていたのは、一人の青年だった。
黒髪をきっちりと撫でつけ、濃紺のフロックコートを纏っている。
背が高く、姿勢が美しい。
そして、何より。
鋭いサファイア色の瞳。
「……レオンハルト公爵様!?」
エレオノーラは、思わず大きな声を上げた。
⸻
レオンハルト・グレイヴェル公爵。
王室直属の特別捜査官。
一週間前、婚約指輪の事件で出会った青年だった。
「……また君か」
レオンハルトは、わずかに眉を寄せた。
「どうしてここにいる?」
「わ、私ですか!?」
エレオノーラは慌てて背筋を伸ばした。
「事件の調査です!」
「……事件?」
「はい! 主演女優さんが失踪してしまって……!」
レオンハルトは静かに頷いた。
「その話は聞いている」
「公爵様も調査にいらしたんですか!?」
エレオノーラの瞳が輝いた。
(もしかして、運命の再会!?)
(私たち、また一緒に事件を解決することになるのかしら!?)
だが。
「違う」
レオンハルトは即答した。
「明日の公演には王族が臨席される。私は警備の確認に来ただけだ」
「……あっ」
エレオノーラは、少しだけ肩を落とした。
「そうだったんですね……」
レオンハルトは、彼女の手元の手帳へ視線を落とした。
「調査は進んでいるのか?」
「ええ! ……いえ、まだ少し分からないことがあって」
「ほう」
エレオノーラは、思わず話し始めた。
「主演女優さんの楽屋には脅迫状が届いていて、血の付いた手袋も見つかったんです。でも、代役女優さんの鞄から、その脅迫状の下書きまで見つかって……!」
レオンハルトは黙って聞いていた。
「だから、最初は代役女優さんが怪しいと思ったんですけど、話を聞いてみたら、どうも違う気がして……」
「……なるほど」
レオンハルトは、わずかに考え込んだ。
そして。
「君は、その脅迫状の原本を見たのか?」
「……え?」
「原本だ」
「……まだです」
「では、まずそれを確かめることだな」
エレオノーラは、はっとした。
「……そうですよね!」
レオンハルトは続けた。
「それから、誰が最初に発見し、誰の手を経て保管されたのか。そこも確認するといい」
エレオノーラは手帳を開いた。
「はい!」
勢いよく書き留める。
『脅迫状の原本』
『最初に発見した人』
『保管した人』
そして、顔を上げた。
「ありがとうございます、公爵様!」
レオンハルトは軽く頷いた。
「私は警備の確認に戻る」
「はい!」
青年は、そのまま廊下の向こうへ歩いていった。
エレオノーラは、しばらくその背中を見つめていた。
「……素敵……!」
ノワールが肩の上で、耳元へ顔を寄せた。
「……おい」
「何?」
「顔が緩んでるぞ」
「緩んでないわよ!」
「さっきから、ずっとにやけてる」
「だって、公爵様が……!」
エレオノーラは両手を頬に当てた。
「私の推理を手伝ってくださったのよ!」
「……原本を見ろって言われただけだろ」
「それが大事なの!」
ノワールは深いため息をついた。
「……先が思いやられるな」
⸻
公爵と別れたエレオノーラは、劇場の事務室へ向かった。
だが、ヴィクトル支配人は不在だった。
代わりに、若い事務員が書類を整理していた。
「あの、支配人さんはいらっしゃいますか?」
「申し訳ありません。今、劇団の方々と打ち合わせ中でして」
「そうなのね……」
エレオノーラは少し考えた。
「では、脅迫状について聞いてもいい?」
「脅迫状、ですか?」
「ええ。セレスティーヌさんの楽屋で見つかった手紙よ」
事務員は頷いた。
「ああ、あの手紙ですね」
「あなたも見たの?」
「いえ。私は直接は見ておりません」
「……そうなの?」
「はい。支配人が預かられたと聞いています」
エレオノーラは手帳に書き留めた。
「じゃあ、誰が最初に見つけたのか、知ってる?」
「セレスティーヌさんご本人だそうです」
「……本人が?」
「ええ。楽屋の鏡台に置かれていたとか」
エレオノーラは、ふと考え込んだ。
「……鏡台に?」
「はい」
「それなら、誰かが楽屋に入ったのよね」
「そうなりますね」
「楽屋には、誰でも入れるの?」
事務員は首を振った。
「いいえ。基本的には、ご本人と支配人だけです」
エレオノーラのペンが止まった。
「……支配人さんも?」
「はい。予備鍵をお持ちですので」
エレオノーラは、ゆっくりと頷いた。
「……なるほど」
まだ、何かが分かったわけではない。
けれど。
(……鍵、か)
その言葉が、妙に気になった。
⸻
事務室を出たエレオノーラは、舞台裏へ戻った。
そのとき。
どこからともなく、歌声が聞こえてきた。
「……あら?」
エレオノーラは足を止めた。
高く澄んだ、美しい女性の声。
遠くから聞こえるその旋律は、どこか悲しげだった。
「……誰か、歌ってるの?」
ノワールが耳をぴくりと動かした。
「……妙だな」
「何が?」
「声は聞こえるのに、近くに人の気配がしねえ」
エレオノーラは周囲を見回した。
廊下には誰もいない。
舞台の方からは、役者たちの台詞が聞こえるだけだった。
それなのに。
歌声は、確かに聞こえてくる。
「……どこから?」
エレオノーラは、ゆっくりと歩き始めた。
声を追うように、廊下の奥へ進む。
やがて、古びた石壁の前で足を止めた。
そこは、行き止まりだった。
扉も窓もない。
ただ、壁の下に小さな通気口があるだけ。
しかし。
歌声は、そこから聞こえていた。
エレオノーラは、息を呑んだ。
「……まさか」
ノワールが金色の瞳を細めた。
「……どうやら、面白くなってきたな」
エレオノーラは、ゆっくりと壁へ近づいた。
そして。
「……ねえ、ノワール」
「何だ?」
「この劇場って……」
彼女は震える声で呟いた。
「幽霊が出るのかしら……!?」
ノワールは、心底呆れたように目を細めた。
「……お前の頭の中には、幽霊しかいねえのかよ」
【後編へ続く】




