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may探偵伯爵令嬢エレオノーラの事件簿〜助手は喋る黒猫、恋のお相手は公爵様!?〜  作者: 伊織
第2話:主演女優が消えました!犯人は幽霊ですか!?
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前編:探偵事務所に黒猫がやってきました!あと王都一の劇場女優が行方不明みたいです



「……暇だわ」


王都ベルフォードの朝は、いつも賑やかだった。


石畳の通りを荷馬車が走り、車輪が継ぎ目を越えるたびに乾いた音を立てる。


道端では花売りの少女が色とりどりの花束を並べ、新聞売りの少年が朝刊を掲げて声を張り上げていた。


通りに面したパン屋からは、焼きたてのパンの香りが漂ってくる。


そんな活気に満ちた街の一角。


パン屋の二階にある小さな探偵事務所では、エレオノーラ・ウィンデルフォードが机に突っ伏していた。


蜂蜜色の長い髪が、開いた帳簿の上にさらりと広がる。


窓から差し込む朝日が、その髪を柔らかな金色に染めていた。


「どうして誰も来ないのかしら……」


深いため息が、静かな室内に響く。


事務所を開いてから、ようやく一件の依頼を解決した。


消えた婚約指輪。


疑われた若いメイド。


そして、事件の裏に隠されていた、少し切ない恋人たちの事情。


あの日、エレオノーラは確かに事件を解決したのだ。


「ふふっ……!」


思い出しただけで頬が緩む。


彼女は机の引き出しから一冊の手帳を取り出した。


革張りの表紙には、金色の文字で『事件記録』と書かれている。


その最初のページには、几帳面な文字でこう記されていた。


『第一の事件 消えた婚約指輪』


エレオノーラは、うっとりとその文字を眺めた。


「……我ながら、見事な推理だったわ」


もっとも、実際には途中で何度も見当違いの推理を披露し、関係者を困惑させたことなど、本人の記憶からは都合よく消えていた。


「これで評判が広まって、依頼人が次々に押し寄せて……!」


エレオノーラは目を輝かせた。


「そのうち王宮からも依頼が来たりして!」


想像の中では、彼女はすでに王都一の名探偵だった。


豪華な馬車で王宮へ迎えられ、国王陛下から直々に事件の解決を頼まれる。


そして、その隣には。


「……レオンハルト公爵様がいらっしゃるのよね……!」


思わず両手を頬に当てた。


黒髪をきっちりと撫でつけた、端正な顔立ちの青年。


鋭いサファイア色の瞳。


王室直属の特別捜査官として働く、レオンハルト・グレイヴェル公爵。


一週間前、事件の調査で訪れた屋敷で出会った男性だった。


「ふふふ……!」


エレオノーラは幸せそうに微笑んだ。


「事件を通じて再会して、二人で難事件に挑むの……!」


そこまで想像して、はっと我に返った。


室内は静まり返っている。


依頼人の姿はない。


机の上には、未使用の便箋が山積みになっていた。


「……現実は厳しいわね」


エレオノーラは再び机に突っ伏した。


今朝、事務所を訪れたのは階下のパン屋の女主人、マーガレットだけ。


しかも用件は、家賃の確認だった。


「名探偵への道って、こんなに険しいものなのかしら……」


彼女は窓の外を眺めた。


そのときだった。


「……にゃあ」


小さな鳴き声が聞こえた。


「……あら?」


窓辺に、一匹の黒猫が座っていた。


艶やかな黒い毛並みは、朝日を浴びて青みがかって見える。


金色の瞳は宝石のように澄み、細い尻尾がゆっくりと左右に揺れていた。


どこか人を値踏みするような、不遜な顔つきの猫だった。


「……あなた!」


エレオノーラは勢いよく立ち上がった。


「公爵様のお屋敷にいた猫ちゃんじゃない!」


一週間前、レオンハルト公爵の屋敷の庭で見かけた黒猫だった。


「あらまあ! どうしたの? 迷子になっちゃった?」


エレオノーラは窓を大きく開けた。


黒猫は返事の代わりにひょいと室内へ飛び込み、机の上へ着地した。


積み上げられた書類を器用に避け、当然のように中央へ座る。


そして。


「……ずいぶん暇そうだな」


「……え?」


エレオノーラは固まった。


黒猫が、こちらを見ている。


「依頼人が来ないからって、机に突っ伏していても仕事は増えねえぞ」


「…………」


エレオノーラは瞬きをした。


一回。


二回。


三回。


「……え?」


黒猫は呆れたように尻尾を揺らした。


「何だよ。その顔」


「…………」


「おい。聞こえてるか?」


「きゃああああああっ!!」


エレオノーラの悲鳴が、探偵事務所に響き渡った。


⸻


「ね、猫が喋ったぁぁぁ!」


エレオノーラは椅子ごと後ずさった。


椅子の脚が床を擦り、ぎぎっと嫌な音を立てる。


黒猫は迷惑そうに耳を伏せた。


「うるせえな。耳が痛いだろ」


「だって! だって! 猫が!」


「猫が何だよ」


「喋ってるじゃない!」


「見りゃ分かるだろ」


「分からないわよ!」


エレオノーラは頭を抱えた。


「私、とうとう疲れすぎて幻聴が聞こえるようになったのかしら……!」


「働いてもいないのに、何に疲れたんだ」


「精神的に!」


黒猫は深いため息をついた。


「……やれやれ。とんでもない奴のところに来ちまったな」


「ちょっと待って!」


エレオノーラは恐る恐る猫を指さした。


「本当に、あなたが喋ってるの?」


「そうだ」


「人間の言葉を?」


「今さら何を確認してるんだ」


「じゃあ……」


エレオノーラは身を乗り出した。


「私の言葉も分かるの!?」


「さっきから会話してるだろ!」


黒猫の尻尾が、苛立たしげに机を叩いた。


エレオノーラはしばらく呆然としていた。


だが、次の瞬間。


その青い瞳が、きらきらと輝き始めた。


「……すごい!」


「……は?」


「喋る猫なんて、初めて見たわ!」


「そりゃそうだろうな」


「あなた、魔法使いなの!? それとも呪いをかけられた王子様!?」


「違う」


「じゃあ、異国の精霊!?」


「違う」


「もしかして……」


エレオノーラは両手を頬に当てた。


「私を迎えに来た、運命の使者!?」


「……違うって言ってんだろ」


黒猫は、心底うんざりした顔をした。


「俺はノワール。ただの猫だ」


「ただの猫は喋らないわよ!」


「細かいことを気にするな」


「全然細かくないわ!」


エレオノーラは、じっと黒猫を見つめた。


「……それで、ノワール。どうして私のところに来たの?」


ノワールは尻尾をゆっくり揺らした。


「面白そうだったからだ」


「……面白そう?」


「お前、探偵なんだろ?」


「ええ!」


エレオノーラは胸を張った。


「名探偵エレオノーラ・ウィンデルフォードよ!」


「依頼人が一人も来ない名探偵な」


「そこは言わなくていいの!」


ノワールは窓の外を眺めた。


「俺は退屈が嫌いなんだ。お前といれば、何か面白いことが起きそうだからな」


エレオノーラは目を輝かせた。


「……ということは!」


「何だ」


「私の助手になりたいのね!」


「……は?」


「そうでしょう!? 名探偵には優秀な助手が必要だもの!」


「誰もそんなことは……」


「決まりね!」


エレオノーラはノワールを抱き上げた。


「今日からあなたは、私の助手よ!」


「おい! 勝手に決めるな!」


「よろしくね、ノワール!」


「話を聞け!」


こうして。


本人の意思が尊重されたのかどうか、少々疑問は残るものの。


名探偵エレオノーラの探偵事務所に、喋る黒猫の助手が加わったのである。


⸻


「ところで、ノワール」


エレオノーラは猫を膝に乗せ、真剣な顔で尋ねた。


「あなたが喋れること、ほかの人も知っているの?」


「いや」


「どうして?」


「面倒だからだ」


「……面倒?」


「人間ってのは、喋る猫を見つけたら大騒ぎするだろ」


エレオノーラは先ほどの自分を思い出した。


「……確かに」


「だから、お前以外の前では喋らねえ」


「分かったわ!」


エレオノーラは力強く頷いた。


「私たちだけの秘密ね!」


「……頼むぞ」


「任せて!」


そのとき。


コンコン。


扉が叩かれた。


「!依頼人だわ!」


エレオノーラは勢いよく立ち上がった。


膝の上にいたノワールが、危うく床へ転がり落ちそうになる。


「おいっ!」


「きゃっ! ごめんなさい!」


エレオノーラは慌てて猫を抱き直した。


そして、鏡の前へ駆け寄った。


蜂蜜色の髪を整え、襟元を直す。


「どうかしら!? 名探偵らしく見える!?」


「……落ち着きのない令嬢にしか見えねえな」


「もうっ!」


エレオノーラは頬を膨らませた。


だが、すぐに笑顔を作った。


「よし!」


深呼吸。


そして。


「どうぞ、お入りください!」


⸻


扉が開いた。


現れたのは、立派な身なりの中年男性だった。


四十八歳ほどだろうか。


白髪の混じった濃茶色の髪をきっちりと横分けにし、整えられた口ひげを蓄えている。


黒いフロックコートに、深い葡萄酒色のベスト。


胸元には、金色の懐中時計の鎖が輝いていた。


磨き上げられた革靴には埃一つなく、立ち居振る舞いにも、長年人を相手にしてきた者らしい落ち着きがあった。


「突然の訪問、失礼いたします」


男性は丁寧に頭を下げた。


「私、ベルフォード大劇場の支配人を務めております、ヴィクトル・ハーグレイヴと申します」


「ベルフォード大劇場!?」


エレオノーラは思わず立ち上がった。


王都でも指折りの格式を誇る劇場である。


王族や貴族も観劇に訪れるという。


幼い頃から舞台に憧れていたエレオノーラにとって、その名は特別だった。


「まあ! あの有名な劇場の!?」


「ご存じでしたか」


「もちろんです!」


エレオノーラは満面の笑みを浮かべた。


「ずっと観に行きたいと思っていたんです! でも、なかなか機会がなくて……!」


ヴィクトルは穏やかに微笑んだ。


「それは光栄です」


そして、少しだけ表情を曇らせた。


「実は、本日はその劇場で起きた事件について、ご相談に参りました」


エレオノーラの背筋が伸びた。


「事件……!」


「ええ。非常に困ったことになりまして」


ヴィクトルは椅子に腰を下ろした。


「当劇場の主演女優が、突然姿を消してしまったのです」


「……え?」


「明日、新作舞台の初日を迎えるというのに、行方が分からないのです」


エレオノーラは息を呑んだ。


「主演女優さんが……?」


「セレスティーヌ・ロシュフォール。王都でも名の知られた女優です」


ヴィクトルは重々しく頷いた。


「昨日から連絡が取れず、劇団員たちも捜し回っております」


「警察には?」


「相談はしております。ただ、事件なのか、本人の意思による失踪なのか、まだ分からない状況でして」


ヴィクトルはため息をついた。


「明日の公演には、王族の方々もお越しになります。このままでは、劇場の信用に関わります」


エレオノーラは真剣な顔で頷いた。


「それは大変ですね……」


「そこで、先生にお願いしたいのです」


「……え?」


エレオノーラは瞬きをした。


「いま……何と?」


「先生に、調査をお願いしたいのです」


「……先生?」


「ええ。エレオノーラ先生」


その瞬間。


エレオノーラの頬が、ぱあっと赤く染まった。


(……先生!)


胸の奥が、くすぐったくなる。


(私、先生って呼ばれたわ!)


探偵事務所を開いてから、まだ一件しか事件を解決していない。


それなのに。


こんな立派な劇場の支配人が、自分を先生と呼んでくれている。


(……なんて素敵な響きなのかしら!)


エレオノーラは、思わず背筋を伸ばした。


「そ、そうですか! 先生ですか!」


「……はい?」


「いえ! 何でもありません!」


慌てて咳払いをする。


「こほん。では、詳しいお話を伺いましょう!」


ヴィクトルは、ほんの一瞬だけ不思議そうな顔をした。


しかし、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。


「先日、婚約指輪の事件を見事に解決なさったと伺いました」


「まあ! もう評判になっているんですか!?」


「もちろんです。若くして優れた観察眼をお持ちの探偵だと」


エレオノーラは両手を頬に当てた。


「そ、そんな……!」


嬉しさのあまり、口元が緩んでしまう。


「それほどでもありますけど!」


ヴィクトルは小さく咳払いをした。


「……それで、調査をお引き受けいただけますか?」


「もちろんです!」


エレオノーラは勢いよく立ち上がった。


「必ず主演女優さんを見つけてみせます!」


ヴィクトルは深々と頭を下げた。


「ありがとうございます、先生」


(また先生って言った!)


エレオノーラは、心の中で小さく飛び跳ねた。


⸻


依頼を引き受けたエレオノーラは、早速外出の準備を始めた。


帽子を被り、手帳とペンを鞄に入れる。


そして、鏡の前でくるりと回った。


「どうかしら、ノワール!」


黒猫は窓辺から彼女を見上げた。


「……何がだ」


「名探偵らしい格好になってる?」


「観劇に行く令嬢みたいだな」


「まあ!」


エレオノーラは嬉しそうに微笑んだ。


「そう見える?」


「褒めてねえよ」


「だって、ベルフォード大劇場よ!」


エレオノーラは胸の前で両手を組んだ。


「ずっと行ってみたかったの! まさか探偵のお仕事で入れるなんて!」


ノワールは呆れたように目を細めた。


「……主演女優が行方不明なんだろ」


「分かってるわよ!」


「本当に分かってんのか?」


「もちろん! ちゃんと事件も解決するわ!」


そう言いながら、エレオノーラは鏡に映った帽子の角度を直した。


ノワールは深いため息をついた。


「……まずは観光気分をどうにかしろ」


⸻


劇場へ向かう馬車の中。


エレオノーラは窓の外を眺めながら、期待に胸を膨らませていた。


馬車は賑やかな商店街を抜け、王都の中心部へ向かっている。


道幅が広くなるにつれ、通りには豪華な馬車が増え、石造りの建物も次第に立派になっていった。


向かいの席には、ヴィクトルが座っている。


ノワールはエレオノーラの隣で、おとなしく丸くなっていた。


「……ああ、楽しみだわ!」


エレオノーラは思わず呟いた。


ヴィクトルが顔を上げる。


「……何か?」


「いえ! 劇場に行けるのが嬉しくて!」


「……左様でございますか」


ヴィクトルは微笑んだ。


しかし、その笑みは、ほんの少しだけ引きつっていた。


主演女優が失踪し、明日の公演が危ぶまれている。


劇場の存続にも関わりかねない大問題だというのに。


目の前の探偵は、まるで遠足へ向かう子供のようにはしゃいでいる。


ヴィクトルは内心でため息をついた。


「ところで、先生」


「はいっ!」


エレオノーラは勢いよく顔を上げた。


(また先生って呼ばれたわ!)


「セレスティーヌの失踪について、何かお考えはございますか?」


「ええ!」


エレオノーラは真剣な顔になった。


「まず、失踪する理由があったのかどうか、調べる必要があると思います!」


「……なるほど」


「最近、誰かと揉めたり、悩んだりしていませんでしたか?」


ヴィクトルは少し考えるふりをした。


「……そういえば、代役女優と口論していたようです」


「代役女優?」


「クラリス・ヴェルナーという若い女優です。非常に野心家でしてね」


エレオノーラは手帳を取り出した。


「……クラリス・ヴェルナー」


「主演の座を狙っているという噂もあります」


「まあ!」


エレオノーラは目を見開いた。


「それは、ちょっと怪しいわね……!」


ヴィクトルは、静かに微笑んだ。


「私も、少々気になっておりまして」


エレオノーラは勢いよく頷いた。


「まずは、そのクラリスさんにお話を聞かなくちゃ!」


⸻


ベルフォード大劇場は、王都の中心部に建っていた。


白い石造りの壮麗な建物。


正面には大きな柱が並び、入口の上には美しい彫刻が施されている。


広場には噴水があり、その周囲には花壇が整えられていた。


劇場の壁面には、明日の公演を知らせる大きなポスターが掲げられている。


『新作歌劇 月影の姫君』


その中央には、美しい銀髪の女性が描かれていた。


セレスティーヌ・ロシュフォール。


今回の失踪事件の中心人物である。


「……すごい!」


馬車を降りたエレオノーラは、思わず声を上げた。


「こんなに立派な劇場だったのね!」


「お気に召しましたか」


「ええ! まるで宮殿みたい!」


エレオノーラは目を輝かせ、建物を見上げた。


高くそびえる柱。


金色に輝く装飾。


重厚な扉。


何もかもが、彼女の想像を超えていた。


「……素敵だわ……!」


思わず、その場でくるりと回ってしまう。


ヴィクトルは、そんな彼女を見つめながら、静かに咳払いをした。


「……先生。そろそろ中へ」


「あっ、はい!」


エレオノーラは慌てて姿勢を正した。


「もちろんです! お仕事ですものね!」


(……本当に分かっているのだろうか)


ヴィクトルは、再び心の中でため息をついた。


⸻


劇場の中は、さらに豪華だった。


赤い絨毯が敷かれた広い玄関ホール。


壁には金色の装飾が施され、天井からは巨大なシャンデリアが吊り下がっている。


磨き上げられた大理石の床には、窓から差し込む光が柔らかく反射していた。


階段の手すりには繊細な彫刻が施され、壁には歴代の名優たちの肖像画が飾られている。


エレオノーラは、思わず足を止めた。


「……わあ……!」


「こちらが当劇場の玄関ホールでございます」


ヴィクトルは説明を始めた。


しかし、エレオノーラの耳には半分ほどしか入っていなかった。


彼女の視線は、天井の装飾から壁の絵画へ、そして大階段へと忙しく動いていた。


「すごい……!」


「……先生?」


「この階段、舞踏会にも使えそうですね!」


「……劇場でございますので」


「でも、こんなところで公爵様と偶然再会したら、素敵でしょうね……!」


「……は?」


ヴィクトルが聞き返した。


エレオノーラは、はっと我に返った。


「い、いえ! 何でもありません!」


頬を赤くしながら、慌てて手帳を開く。


「では! 早速、調査を始めましょう!」


ヴィクトルは、しばらく彼女を見つめていた。


(……やはり、少々変わった令嬢のようだ)


そう思いながらも、表情には出さなかった。


⸻


舞台裏へ進むと、華やかな客席とはまるで違う世界が広がっていた。


天井からは太い綱が何本も垂れ下がり、巨大な背景幕が巻き上げられている。


壁際には木製の大道具が積み上げられ、衣装を抱えた劇団員たちが忙しそうに行き交っていた。


どこからか、楽器の調律音が聞こえる。


舞台の上では、若い役者たちが台詞を繰り返していた。


「……すごいわ」


エレオノーラは、今度は少し違う意味で息を呑んだ。


華やかな舞台の裏側に、こんなにも多くの人々の努力がある。


そのことが、何だか胸に響いた。


「……みんな、明日の公演のために頑張っているのね」


ヴィクトルは頷いた。


「ええ。ですから、何としてもセレスティーヌを見つけねばなりません」


エレオノーラは、ぎゅっと手帳を握りしめた。


「……必ず見つけます!」


その声には、先ほどまでの浮かれた調子はなかった。


⸻


舞台裏の廊下を歩いていると、若い事務員が小走りで近づいてきた。


「支配人、少々よろしいでしょうか」


「おや、どうしました?」


「昨日お使いになった予備鍵の貸出帳ですが、署名が抜けておりまして……」


「ああ、そうでしたか。失礼しました」


ヴィクトルは足を止め、差し出された帳面を受け取った。


「昨日の午後二時、クラリス嬢の控室の鍵でしたね?」


「はい。衣装の点検でお使いになると伺いましたので」


「ええ。舞台衣装は劇場の大切な財産ですからね」


ヴィクトルは穏やかに微笑み、さらさらと署名した。


「これでよろしいですか?」


「はい。ありがとうございます」


事務員は頭を下げ、帳面を抱えて去っていった。


エレオノーラは感心したように頷いた。


「支配人さんって、衣装の管理までしているんですね!」


「劇場を預かる者として、当然の務めでございます」


「へえ! 支配人って大変なのね!」


エレオノーラは素直に感心した。


その足元で、ノワールが退屈そうにあくびをした。


「……さて、先生。こちらが主演女優の楽屋でございます」


ヴィクトルに促され、エレオノーラは再び歩き始めた。


⸻


セレスティーヌの楽屋は、舞台裏の奥にあった。


扉には、美しい金文字で名前が刻まれている。


『セレスティーヌ・ロシュフォール』


エレオノーラは扉の前で立ち止まった。


先ほどポスターで見た、あの美しい女優。


彼女がここで化粧をし、衣装を整え、舞台へ向かっていたのだろう。


「……ここが、主演女優さんの楽屋なのね」


エレオノーラは、そっと扉を開けた。


室内には、大きな鏡台と衣装棚が置かれていた。


壁には過去の舞台のポスターが飾られ、花瓶には色鮮やかな花が生けられている。


鏡台には化粧道具が整然と並び、椅子の背には薄いショールが掛けられていた。


まるで、持ち主がほんの少し席を外しただけのようだった。


「……綺麗な部屋ね」


エレオノーラは、静かに呟いた。


しかし、すぐに表情を引き締める。


ここは観光に来た場所ではない。


事件の現場なのだ。


「支配人さん。何か、手掛かりは見つかっていますか?」


ヴィクトルは重々しく頷いた。


「ええ。実は……」


彼は鏡台を指さした。


「脅迫状が届いていたのです」


「……脅迫状!?」


エレオノーラは目を見開いた。


「そんな大事なこと、どうして今まで言わなかったんですか!?」


「申し訳ありません。まだ悪質ないたずらの可能性もありましたので」


「どんな内容だったんですか?」


「『初日の舞台に立つな。さもなくば、命はない』と」


エレオノーラは息を呑んだ。


「……命はない?」


「ええ。セレスティーヌ本人が見つけ、私に預けてきました」


「その手紙は?」


「私の事務室で保管しております。必要でしたら、後ほどお見せしましょう」


エレオノーラは手帳に書き留めた。


『脅迫状。初日の舞台に立つな』


「……これは、ただの失踪事件じゃないわね」


彼女は真剣な顔で呟いた。


そのとき。


「……あら?」


鏡台の下に、何かが落ちているのが見えた。


エレオノーラはしゃがみ込んだ。


そこには、一枚の白い手袋が落ちていた。


「……手袋?」


拾い上げようとして、彼女は手を止めた。


白い布地に、赤黒い染みがついている。


「……え?」


エレオノーラは、ゆっくりと顔を上げた。


「支配人さん……」


「どうかなさいましたか?」


「これ……」


彼女は手袋を指さした。


「血じゃないかしら!?」


ヴィクトルが目を見開いた。


「な、何ですって!?」


エレオノーラの心臓が激しく鼓動した。


失踪した主演女優。


命を脅かす脅迫状。


そして、血の付いた手袋。


「……まさか」


エレオノーラは震える声で呟いた。


「セレスティーヌさん、誰かに襲われたんじゃ……!」


⸻


「……先生」


ヴィクトルは険しい顔で手袋を見つめていた。


「これは、警察にも報告すべきでしょうな」


「ええ!」


エレオノーラは力強く頷いた。


「でも、その前にもう少し調べさせてください!」


彼女は手袋に直接触れないよう注意しながら、床にしゃがみ込んだ。


赤黒い染みは、指先から手の甲にかけて広がっている。


「……不思議ね」


エレオノーラは首を傾げた。


「こんなに血がついているのに、床には一滴も落ちていないわ」


ヴィクトルは眉を寄せた。


「……何か意味が?」


「まだ分からないわ」


エレオノーラは立ち上がった。


「でも、覚えておかなくちゃ」


そのとき、廊下から足音が聞こえてきた。


「支配人!」


若い劇団員が駆け込んできた。


「クラリスさんの控室で、妙なものが見つかりました!」


ヴィクトルが顔を上げた。


「……妙なもの?」


「はい! 鞄の中から、脅迫状の下書きらしい紙が!」


「……何ですって!?」


エレオノーラは勢いよく振り返った。


「それ、見せてもらえる!?」


⸻


クラリスの控室には、数人の劇団員が集まっていた。


机の上には、一枚の紙が置かれている。


エレオノーラは身を乗り出した。


そこには、何度も書き直したような跡とともに、短い文章が残されていた。


『初日の舞台に立つな。さもなくば、命はない』


「……同じ文章だわ!」


エレオノーラは息を呑んだ。


ヴィクトルも、深刻な顔で頷いた。


「……これは、偶然とは思えませんな」


「クラリスさんの鞄に入っていたのね?」


「はい。衣装を探していた劇団員が見つけたそうです」


エレオノーラは紙を見つめた。


脅迫状の下書き。


主演女優と対立していた代役女優。


そして、失踪事件。


「……まさか」


彼女は、ゆっくりと顔を上げた。


「クラリスさんが、セレスティーヌさんを……?」


その瞬間。


「ちょっと待ちなさいよ!」


廊下から、鋭い声が響いた。


全員が振り返る。


扉の前に立っていたのは、一人の若い女性だった。


栗色の髪をきつく結い上げ、気の強そうな瞳をした美しい女優。


クラリス・ヴェルナー。


彼女は机の上の紙を見るなり、顔色を変えた。


「……何よ、それ」


エレオノーラは一歩前へ出た。


「クラリスさんね?」


「そうだけど。あなた、誰?」


「私は探偵のエレオノーラ・ウィンデルフォードよ!」


エレオノーラは胸を張った。


「セレスティーヌさんの失踪事件を調べているの!」


クラリスは眉をひそめた。


「……探偵?」


「ええ!」


エレオノーラは机の上の紙を指さした。


「この脅迫状の下書き、あなたの鞄から見つかったそうよ!」


「……は?」


クラリスは目を見開いた。


そして。


「そんなもの、知らないわよ!」


控室に、怒鳴り声が響き渡った。


エレオノーラは一瞬たじろいだ。


だが、すぐに表情を引き締めた。


「……じゃあ、どうしてあなたの鞄に入っていたの?」


「こっちが聞きたいわよ!」


クラリスは苛立たしげに腕を組んだ。


「誰かが勝手に入れたんじゃないの!?」


「……誰かが?」


エレオノーラは首を傾げた。


クラリスは、まっすぐ彼女を睨んだ。


「私がセレスティーヌを脅迫したとでも思ってるの?」


「……それは、まだ分からないわ」


エレオノーラは慎重に答えた。


「でも、あなたには話を聞かなくちゃ」


「……好きにすれば?」


クラリスは顔を背けた。


「ただし、私は何もしてないからね!」


エレオノーラは、その横顔をじっと見つめた。


強気な態度。


苛立った声。


そして、ほんの一瞬だけ浮かんだ、不安そうな表情。


(……この人、本当に犯人なのかしら?)


エレオノーラは、もう一度机の上の紙へ視線を落とした。


あまりにも都合よく見つかった、脅迫状の下書き。


そのとき、彼女の足元でノワールが小さく尻尾を揺らした。


エレオノーラは黒猫を抱き上げる。


ノワールは彼女の耳元へ顔を寄せ、誰にも聞こえない声で囁いた。


「……なあ、エリー」


「……何?」


「ちょっと出来すぎじゃねえか?」


「……え?」


「犯人が分かってくださいと言わんばかりに、証拠が揃ってる」


エレオノーラは目を瞬かせた。


確かに。


脅迫状。


血の付いた手袋。


そして、代役女優の鞄から見つかった下書き。


まるで、誰かが用意した推理小説の筋書きみたいだ。


「……そうね」


エレオノーラは小さく呟いた。


「何だか、少し変だわ……」


そして、顔を上げた。


「クラリスさん!」


「……何よ?」


「最初から、詳しく話を聞かせて!」


エレオノーラの青い瞳が、まっすぐクラリスを捉えた。


「私、まだ誰が犯人か決めていないもの!」


クラリスは、少しだけ驚いた顔をした。


そして。


「……分かったわ」


小さく頷いた。


こうして、名探偵エレオノーラの第二の事件は、いよいよ本格的に動き始めたのである。


【中編へ続く】

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