後編:恋の秘密を解き明かします!
「宝石商……?」
エレオノーラ・ウィンデルフォードは手帳に書き込んだ文字を見つめ、首を傾げた。
グレイヴェル公爵家の使用人棟。
窓から差し込む午後の陽光が、磨き上げられた廊下に長い影を落としている。
昨日、婚約指輪がなくなった。
同じ日に、婚約者のトーマスは休暇を取っていた。
二つの出来事に関係があるのか、それとも偶然なのか。
まだ分からない。
エレオノーラは手帳を閉じ、隣に立つメアリーへ顔を向けた。
「まずは、トーマスさんが昨日どこへ行ったのか確かめましょう!」
メアリーは不安そうに頷いた。
その手が、無意識にエプロンのポケットへ伸びる。
しかし、途中で何かに気づいたように、そっと引っ込めた。
エレオノーラはその仕草を目の端で捉えたものの、すぐに歩き出した。
名探偵に必要なのは、鋭い観察力と大胆な行動力。
そう、昨夜読んだ推理小説にも書いてあった。
(よーし! ここからが探偵の腕の見せどころよ!)
勢いよく一歩踏み出す。
その瞬間、絨毯の端につま先が引っかかった。
「きゃあっ!」
ぐらりと傾いた身体を、メアリーが慌てて支える。
エレオノーラは何とか転倒を免れ、乱れた帽子を直した。
(……足元への注意力も必要ね)
彼女は密かに、探偵としての心得を一つ増やした。
*
使用人控室では、先ほど廊下で会った年配の執事が、勤務表を確認していた。
大きな窓のそばに置かれた机には、整然と書類が積まれている。
エレオノーラが事情を説明すると、執事は眼鏡を押し上げ、手元の帳簿を開いた。
「トーマスなら、昨日は一日休暇を取っておりました」
指先で勤務表の一行をなぞる。
そこには確かに、トーマスの名前と休暇の印が記されていた。
「行き先までは存じませんが、外出の際に宝石商の場所を尋ねておりましたな」
「宝石商!?」
エレオノーラは思わず身を乗り出した。
メアリーの肩が、小さく震える。
「王都の中央通りにある、ハリス宝飾店です」
執事は店の場所を簡潔に説明した。
エレオノーラは素早く手帳を開き、名前を書き留める。
(宝石商……婚約指輪……)
二つの言葉が頭の中で結びついた。
(もしかして、新しい指輪を買いに行ったのかしら!?)
想像した途端、胸が高鳴る。
婚約者のために、こっそり宝石商を訪ねる青年。
秘密の贈り物。
驚く恋人。
(まあっ! なんて素敵なの!)
エレオノーラは頬を緩ませた。
しかし、すぐに我に返る。
(……いけないわ。まだ何も分かっていないもの)
彼女は手帳の端に書きかけた『新しい指輪?』という文字へ、そっと疑問符を付け足した。
*
ほどなくして、トーマスが控室へ呼ばれた。
短い茶色の髪を整えた、真面目そうな青年だった。
メアリーの姿を見つけた瞬間、表情が明るくなる。
しかし、隣に見知らぬ少女がいることに気づくと、足を止めた。
エレオノーラは立ち上がり、胸を張った。
「探偵のエレオノーラ・ウィンデルフォードです。婚約指輪について、お話を伺いたいの」
その言葉を聞いた途端、トーマスの顔から血の気が引いた。
彼は一瞬メアリーを見たあと、視線を床へ落とした。
「……指輪、ですか」
「ええ。昨日、宝石商へ行ったそうね?」
トーマスの喉が、小さく動いた。
答えようとして唇を開く。
しかし、声は出なかった。
エレオノーラは彼の様子を注意深く見つめた。
(……何か隠しているわね)
「何のために行ったの?」
「……それは」
トーマスは拳を握りしめた。
「メアリーには、知られたくないんです」
メアリーが俯いた。
エレオノーラは腕を組み、考え込んだ。
宝石商へ行ったことを隠す青年。
婚約者に言えない理由。
(まさか……!)
彼女の脳裏に、昨夜読んだ恋愛推理小説の一場面が浮かんだ。
主人公の恋人が、別の女性と密会していると誤解される場面だ。
エレオノーラは勢いよく顔を上げた。
「分かったわ!」
トーマスがびくりと肩を震わせる。
「あなた、別の女性への贈り物を買いに行ったのね!?」
「違います!!」
青年の叫びが控室に響いた。
執事が静かに咳払いをする。
エレオノーラは慌てて口を閉じた。
(……また外したわ)
どうやら、恋愛小説の読みすぎも考えものらしい。
*
「……指輪の石が、偽物だったんです」
トーマスは、ようやく重い口を開いた。
控室に沈黙が落ちる。
彼は俯いたまま、途切れ途切れに事情を説明した。
指輪を買ったのは、王都の小さな宝石店だった。
給金を少しずつ貯め、何度も店へ足を運び、ようやく選んだものだった。
しかし、後になって石が模造品だと知った。
昨日、休暇を取って店を訪ねたのは、交換できないか確かめるためだったという。
「店主は、最初から模造石だと説明したと言っていました」
トーマスは唇を噛んだ。
「僕が、ちゃんと理解していなかったんです」
その声には、悔しさが滲んでいた。
エレオノーラは彼の手元を見つめた。
働き者らしい、少し荒れた指先。
きっと、その指で何度も硬貨を数えたのだろう。
(……大切な人のために、一生懸命選んだのね)
胸が少し痛んだ。
隣では、メアリーが両手を固く握りしめていた。
顔を伏せ、何も言わない。
エレオノーラは二人を交互に見つめた。
そして、ふと気づいた。
(……あれ?)
トーマスは指輪が偽物だと知り、交換しようとしていた。
では、メアリーはどうなのだろう。
彼女は、石が偽物だと知っていたのだろうか。
エレオノーラは手帳を開いた。
――鍵はメアリーさんだけ。
――箱に傷なし。
――最後に指輪を見たのは一昨日の夜。
――指輪がないと気づいたのは昨日の朝。
そこに、もう一つの記憶が重なった。
メアリーが何度もエプロンのポケットを押さえていたこと。
そして、アンナが疑われることを、必要以上に恐れていたこと。
エレオノーラは、ゆっくりと顔を上げた。
「……メアリーさん」
メアリーの肩が跳ねた。
「あなた、指輪がどこにあるか知っているんじゃない?」
*
控室が静まり返った。
メアリーは顔を上げられずにいた。
エレオノーラは、急かさずに待った。
窓の外から、庭師が鋏を動かす乾いた音が聞こえてくる。
やがて、メアリーが小さく首を振った。
「……どうして、そう思われるんですか?」
エレオノーラは手帳を閉じた。
「鍵を持っていたのは、あなただけ。箱には壊された跡がなかったわ」
「……はい」
「もちろん、それだけであなたが隠したとは言えない。でも……」
エレオノーラは少し言葉を選んだ。
「あなたは、指輪がなくなったことよりも、アンナさんが疑われることを怖がっていたように見えたの」
メアリーの瞳が揺れる。
「それに、指輪の話になるたび、ポケットを押さえていたわ」
メアリーは反射的にエプロンへ手を伸ばした。
その仕草に、自分でも驚いたようだった。
エレオノーラは静かに続けた。
「もしかして……指輪は、盗まれたんじゃないの?」
長い沈黙が流れた。
やがて、メアリーの目から涙がこぼれた。
「……ごめんなさい」
トーマスが顔を上げる。
「メアリー?」
「私……本当は、知っていたの」
彼女は震える声で続けた。
「指輪の石が、本物じゃないって……」
*
メアリーは、指輪を受け取ったあと、偶然その石が模造品だと知ったのだという。
けれど、トーマスには言えなかった。
彼がどれほど懸命に働き、指輪を買ってくれたか知っていたからだ。
本物ではないと伝えれば、きっと彼は傷つく。
そう思ったメアリーは、指輪を小箱から取り出し、布に包んで隠した。
しばらく気持ちを整理してから、何事もなかったように身につけるつもりだった。
ところが翌朝、同室のアンナが空になった箱を見つけた。
メアリーが指輪をなくしたと思い込み、心配してほかの使用人に相談したのだ。
話は瞬く間に広がった。
そして、いつの間にかアンナ自身が疑われるようになっていた。
「……私が本当のことを言えば、済む話だったんです」
メアリーは涙を拭った。
「でも、そうしたら……トーマスに、石のことを知っていたと伝わってしまうと思って……」
彼女は声を詰まらせた。
「アンナを助けたいのに、どうしても言い出せなくて……」
エレオノーラは黙って耳を傾けていた。
「それで……探偵さんなら、私が何も言わなくても、本当のことを見抜いてくださるんじゃないかって……」
メアリーは深く頭を下げた。
「ごめんなさい。こんな依頼をしてしまって……」
エレオノーラは小さく息を吐いた。
事件の真相は、思っていたよりもずっと単純だった。
しかし、その裏には、二人の不器用な優しさが隠されていた。
「……メアリーさん」
エレオノーラはそっと微笑んだ。
「大切な人を傷つけたくない気持ちは、分かるわ」
メアリーが顔を上げる。
「でも、嘘をついたままだと、もっと大切な人を傷つけてしまうこともあるのね」
その言葉に、メアリーは涙をこぼしながら頷いた。
*
メアリーはエプロンのポケットから、小さな布包みを取り出した。
ゆっくりと開く。
中には、銀色の指輪が一つ。
小さな透明の石が、窓から差し込む陽光を受けて輝いていた。
トーマスは、しばらくそれを見つめていた。
やがて、静かに口を開いた。
「……メアリー」
彼は彼女の手を取った。
「僕は、石が本物かどうかなんて、どうでもいいんだ」
メアリーの瞳が揺れる。
「君が喜んでくれたなら、それでよかった」
彼は少し照れくさそうに笑った。
「それに……これからもっと働いて、いつか本物を買ってあげるよ」
メアリーは首を振った。
涙で濡れた頬に、ようやく笑みが浮かぶ。
「いいえ……この指輪がいいの」
彼女は指輪を胸に抱いた。
「あなたが選んでくれた、大切な指輪だから……」
トーマスは優しく微笑んだ。
そして、メアリーの左手を取り、指輪をそっと嵌めた。
二人は見つめ合った。
エレオノーラは、その光景をじっと見守っていた。
(ああ……!)
胸がいっぱいになる。
(なんて素敵なの……!)
昨夜読んだ恋愛推理小説の結末が、脳裏に浮かんだ。
難事件を解決した少女探偵と、美貌の貴族青年。
最後には二人が結ばれ、幸せな未来を誓い合う。
(私も、いつか……!)
エレオノーラは両手を胸の前で組んだ。
「……私も、こんな恋がしたいわぁ……!」
その声に、二人が同時に振り返った。
エレオノーラは慌てて背筋を伸ばした。
「こ、こほん! 事件は解決よ!」
*
その後、メアリーはアンナに事情を説明し、心から謝罪した。
アンナは最初こそ驚いていたものの、やがてほっとしたように笑った。
「……よかった。誰も盗んでなかったんだね」
メアリーは何度も頭を下げた。
アンナは彼女の手を取り、優しく握り返した。
二人の間にあった緊張が、少しずつ解けていく。
エレオノーラはその様子を見守りながら、満足そうに頷いた。
もっとも、名探偵らしい華麗な推理を披露したかと問われれば、少々怪しいところではあった。
だが、誰も傷つかずに事件が終わった。
それだけで、エレオノーラには十分だった。
*
同じ頃。
グレイヴェル公爵家の執務室では、レオンハルトが書類に目を通していた。
重厚な樫の机。
壁一面に並ぶ書棚。
大きな窓からは、整えられた庭園が見渡せる。
艶のある漆黒の髪は、額をすっきりと見せるように後ろへ撫でつけられていた。
深いサファイアブルーの瞳は、机上の書類を静かに追っている。
「旦那様」
執事が静かに声をかけた。
「例の指輪の件ですが、無事に解決したようでございます」
「そうか」
レオンハルトは書類から目を上げなかった。
「盗難ではなかったとのことです」
「ならば問題ない」
執事は少しだけ口元を緩めた。
「もっとも、探偵のお嬢様は随分と賑やかでいらっしゃいましたが」
そこで、レオンハルトのペンが一瞬だけ止まった。
「……あの娘か」
「はい。ウィンデルフォード伯爵家のご令嬢だそうで」
「……そうか」
レオンハルトは再びペンを走らせた。
「旦那様も、お名前を覚えておいででしたか」
「廊下で帽子を落とした娘だろう」
「左様でございます」
「……随分と騒がしかった」
執事は穏やかに微笑んだ。
「ですが、悪いお嬢様ではなさそうですな」
レオンハルトは書類を一枚めくった。
「……仕事が済んだのなら、それでいい」
それ以上、話題にするつもりはないらしかった。
執務室には、紙をめくる音だけが響いていた。
レオンハルト・グレイヴェル公爵は、机に積まれた書類へ淡々と目を通していた。
「閣下、一つご報告がございます」
執事が静かに口を開いた。
「来週、ベルフォード大劇場で新作舞台の初日公演が行われます。王族の方々もご招待されているとのことです」
「……ああ、聞いている」
レオンハルトは書類から顔を上げずに答えた。
「劇場側から、警備に関する確認の依頼が届いております。王宮警備隊も対応を進めておりますが……」
執事は一度言葉を切った。
「何しろ、王族の方々が一堂に会する催しでございます。念のため、事前に現地をご覧になってはいかがでしょうか」
レオンハルトはペンを置いた。
「……そうだな」
机の上に広げられた予定表へ目を落とす。
「警備隊の仕事に口を出すつもりはないが、王室直属の特別捜査官として、会場の構造くらいは把握しておくべきだろう」
「では、劇場側へ連絡を?」
「ああ。公演前に一度、下見に行こう」
「承知いたしました」
レオンハルトは再び書類を手に取ると、執事は一礼し、静かに部屋を後にした。
レオンハルトは窓の外へ一瞬だけ視線を向けた。
庭園の向こうでは、使用人たちがいつもの仕事に戻っている。
(……探偵、か)
先ほどの少女の、慌てふためいた姿が脳裏をよぎった。
だが、それもほんの一瞬。
レオンハルトはすぐに書類へ視線を戻した。
*
「本当に、ありがとうございました!」
屋敷の玄関前で、メアリーが深々と頭を下げた。
エレオノーラは照れくさそうに笑い、帽子のリボンを直した。
「そんな! 私は少しお手伝いしただけよ!」
メアリーは幸せそうに微笑んだ。
その左手には、小さな銀色の指輪が輝いている。
エレオノーラはそれを見て、胸が温かくなった。
「トーマスさんと、ずっと仲良くね!」
「はい!」
エレオノーラは帽子を被り直し、屋敷を見上げた。
(……公爵様)
黒髪をきっちりと後ろへ撫でつけた、美貌の青年。
冷たい青い瞳。
低く落ち着いた声。
思い出しただけで、頬が熱くなる。
(また、お会いできるかしら……)
そんなことを考えていた、そのときだった。
足元の植え込みが、かさりと揺れた。
「……あら?」
黒い影が、ひょいと飛び出してくる。
そこにいたのは、一匹の黒猫だった。
艶やかな黒い毛並み。
金色に輝く瞳。
すらりとした尻尾。
猫はエレオノーラを一瞥すると、まるで自分の庭だと言わんばかりに、堂々と石畳の上へ座り込んだ。
「きゃああっ! 猫! 可愛いーーっ!」
エレオノーラはしゃがみ込み、両手を伸ばした。
黒猫は逃げなかった。
それどころか、面倒くさそうに片目を細め、エレオノーラを見上げている。
「ふふっ。この子、最近お屋敷に住み着いた野良猫なんです」
メアリーが笑った。
「可愛いんですけど、態度がとってもふてぶてしくて」
「そうなの?」
エレオノーラは黒猫の頭をそっと撫でた。
「でも、こんなに可愛いんだもの! きっといい子よ!」
黒猫は尻尾をゆらりと揺らした。
その金色の瞳が、エレオノーラの顔をじっと見つめる。
エレオノーラが顎の下を撫でると、黒猫は目を細めた。
けれど、喉を鳴らすことも、甘えることもしない。
ただ、当然のように撫でられている。
「まあ……なんだか偉そうね!」
エレオノーラはくすくす笑った。
黒猫は、そんな彼女を見上げたまま、ゆっくりと瞬きをした。
「それじゃあね、猫ちゃん!」
エレオノーラは立ち上がり、メアリーに手を振った。
「また会いましょう!」
エレオノーラは軽やかな足取りで門へ向かった。
黒猫はその後ろ姿を、じっと見送っていた。
秋の風が吹き抜ける。
黒い尻尾が、ゆっくりと左右に揺れた。
やがて猫は立ち上がり、何事もなかったかのように植え込みの奥へ姿を消した。
【第2話へ続く】
第1話をお読みいただき、ありがとうございました!
記念すべき初事件、無事に解決しました!
……が、エリーは本当に探偵に向いているのでしょうか(笑)
依頼人が来たと思ったら恋愛話に大興奮し、公爵家へ行けば事件そっちのけで美形の公爵様を探す始末。
一応、事件は解決したので、名探偵ということにしておきましょう。
それにしても、メアリーとトーマスはお互いを思いやるあまり、随分と遠回りしてしまいましたね。
指輪の石は偽物でも、二人の気持ちは本物だったようです。
そしてレオンハルト公爵様。
エリーはすっかり運命の出会いだと思っていますが、当の本人は「廊下で帽子を落とした騒がしい娘」程度の認識です(笑)
果たして、この温度差が埋まる日は来るのでしょうか。
そして、最後に登場したあの黒猫。
可愛い顔をして、なかなかふてぶてしい態度でしたね。
実はこの出会い、エリーの探偵人生を大きく変えることになるのですが……。
どうやら次回、探偵事務所の平穏が早くも脅かされそうです。
しかも、その騒動の原因は人間とは限らないようで……?
引き続き、エリーの迷推理と恋の行方を見守っていただけたら嬉しいです!
面白かったら、評価やブックマークで応援していただけると励みになります!




