中編:美形の公爵さまはどこですか!?
「……公爵様、いらっしゃるかしら」
グレイヴェル公爵家の門をくぐって早々、エレオノーラ・ウィンデルフォードは小さく呟いた。
「え?」
隣を歩くメアリーが振り返る。
「い、いいえ! 何でもないわ!」
エレオノーラは慌てて帽子のリボンを整えた。
鉄柵の向こうには、白い石造りの壮麗な屋敷がそびえている。
正面玄関へ続く砂利道の両側には、丁寧に刈り込まれた生垣。秋薔薇の咲く花壇を囲むように白い小道が伸び、中央の噴水では陽光を浴びた水がきらきらと跳ねていた。
玄関前には黒塗りの馬車が停まり、制服姿の従僕が車輪を磨いている。
「まあ……なんて素敵なお屋敷なの!」
エレオノーラは思わず足を止めた。
「ありがとうございます」
メアリーは控えめに微笑んだ。
「旦那様は、お庭の手入れにも厳しい方なんです」
「そうなのね!」
エレオノーラは薔薇の花壇を眺め、それから屋敷の二階へ視線を移した。
高い窓がいくつも並び、重厚なカーテンが陽光を受けている。
(あの窓のどこかに、公爵様がいらっしゃるのかしら……)
昨夜読んだ恋愛推理小説の、美貌の貴族青年が脳裏をよぎる。
窓辺に立つ黒髪の青年。
冷たい眼差し。
そして、少女探偵との運命の出会い。
(きゃあっ!)
エレオノーラは頬を押さえた。
「……エリー様?」
「は、はいっ!」
「こちらです」
「あっ、そうだったわ!」
危うく花壇の方へ歩き出しかけたエレオノーラは、慌ててメアリーの後を追った。
*
玄関扉が開くと、磨き上げられた大理石の床が目に飛び込んできた。
高い天井からは真鍮のシャンデリアが吊るされ、壁には金色の額縁に収められた肖像画が並んでいる。
奥へ続く大階段には深紅の絨毯が敷かれ、手すりには蔦と花の模様が彫り込まれていた。
エレオノーラは目を輝かせた。
「わあ……!」
伯爵家で育った彼女にとっても、この屋敷の壮麗さは目を見張るものがあった。
「こちらへどうぞ」
メアリーが廊下の奥を示す。
エレオノーラは歩きながら、壁に掛けられた肖像画をちらちらと眺めた。
立派な髭を蓄えた老紳士。
軍服姿の青年。
真珠の首飾りをつけた貴婦人。
(公爵様のお肖像はないのかしら……)
「エリー様?」
「な、何でもないわ!」
メアリーは不思議そうに首を傾げた。
二人が廊下を曲がると、華やかな玄関広間とは打って変わって、実用的な造りの通路が現れた。
壁は淡いクリーム色に塗られ、床には飾り気のない絨毯が敷かれている。
洗濯物を抱えた侍女が足早に通り過ぎ、遠くから食器の触れ合う音が聞こえてきた。
「こちらが使用人の居住区です」
メアリーは声を落とした。
「……実は、今朝から皆、少し落ち着かなくて」
「指輪のこと?」
「はい」
そのとき、向こうから二人の侍女が歩いてきた。
エレオノーラの姿を見るなり、ひそひそと囁き合う。
「探偵ですって……」
「やっぱり盗まれたのね……」
「静かに」
背後から低い声が響いた。
侍女たちが一斉に振り返る。
そこには、黒い上着をきっちり着込んだ年配の執事が立っていた。
「廊下で私語をする暇があるなら、持ち場へ戻りなさい」
「は、はい!」
侍女たちは慌てて頭を下げ、足早に立ち去った。
執事はエレオノーラへ向き直った。
「お客様でいらっしゃいますね」
「は、はい! 探偵のエレオノーラ・ウィンデルフォードです!」
「承知しております。メアリーから話は聞いておりますので」
執事は丁寧に一礼した。
「ただし、調査の際はほかの使用人の仕事を妨げぬようお願いいたします」
「もちろんです!」
「旦那様は、屋敷の規律を何より重んじておいでです」
エレオノーラは思わず背筋を伸ばした。
「……とても厳しい方なのね」
「厳格ではいらっしゃいますが、不当な叱責をなさる方ではございません」
執事の声には、揺るぎない確信があった。
「務めを果たす者には、それにふさわしい待遇をお与えになります」
そう告げると、執事は再び一礼して去っていった。
エレオノーラは、その後ろ姿を見送った。
(怖いだけの方ではないのかしら……)
ほんの少し、興味が深まった。
*
メアリーの部屋は、使用人棟の二階にあった。
小さな窓が一つ。
白い寝台が二つ。
壁際には木製の衣装箪笥が並び、窓辺には可愛らしい花柄のカーテンが掛けられている。
質素ながらも、隅々まで綺麗に整えられた部屋だった。
「こちらです」
メアリーは自分の寝台の脇にある小さな机へ近づいた。
その上には、淡い花模様が描かれた木箱が置かれている。
「この中に、指輪をしまっていました」
エレオノーラは帽子を脱ぎ、机の上にそっと置いた。
「見せてもらってもいいかしら?」
「はい」
メアリーはエプロンのポケットから小さな鍵を取り出した。
鍵穴に差し込み、ゆっくりと回す。
カチリ。
蓋が開いた。
中には白い布が敷かれ、指輪を置くための小さなくぼみが作られている。
しかし、そこは空っぽだった。
「……確かに、ないわね」
エレオノーラは身を屈め、箱の縁を注意深く眺めた。
木目には傷らしい傷もなく、金具も歪んでいない。
「鍵は、ずっとあなたが?」
「はい。仕事中も肌身離さず持っています」
「誰かに貸したことは?」
「ありません」
エレオノーラは顎に指を当てた。
「ふむふむ……」
探偵小説の名探偵たちは、こういうとき必ず何かを発見する。
隠された仕掛け。
小さな傷。
犯人が残した決定的な証拠。
エレオノーラも負けじと箱を覗き込んだ。
右から。
左から。
今度は少し顔を傾けて。
そのとき、白い布の端が、ほんの少しだけめくれていることに気づいた。
「……あら?」
エレオノーラは指先で布をそっと押さえた。
くぼみの周りには、指輪の形に沿うような薄い跡が残っている。
「この布、最近取り替えたの?」
「いいえ……ずっと同じものです」
「そう……」
エレオノーラはもう一度、くぼみを見つめた。
「……何か見つかりましたか?」
メアリーが期待に満ちた声で尋ねた。
「…………」
エレオノーラはゆっくり顔を上げた。
「とても綺麗な箱ね!」
「……ありがとうございます」
メアリーの肩が、ほんの少し落ちた。
エレオノーラは慌てて咳払いをした。
「で、でも! 大切なことは分かったわ!」
「何でしょう?」
「箱が壊されていないということよ!」
「……はい」
それは、すでに聞いていたことだった。
エレオノーラは頬を赤くしながら手帳に書き込んだ。
――鍵はメアリーさんだけ。
――箱に傷なし。
――布に指輪の跡。
その横で、メアリーがそっとエプロンのポケットを押さえたことには、まだ気づいていなかった。
*
「同室の方にも、お話を伺いたいわ」
エレオノーラが言うと、メアリーの表情が曇った。
「アンナのことですね……」
「ええ。今はどこに?」
「午前中は洗濯室にいるはずです」
二人は階段を下り、屋敷の裏手へ向かった。
途中、エレオノーラは何度も廊下の奥へ視線を向けた。
黒い上着を着た男性が通るたび、思わず背筋が伸びる。
しかし、近づいてみれば執事だったり、従僕だったり。
(公爵様……どこにいらっしゃるのかしら……)
「エリー様、こちらです」
「は、はい!」
洗濯室には、石鹸の匂いと温かな湯気が満ちていた。
大きな桶がいくつも並び、侍女たちが白いシーツを洗っている。
その隅で、栗色の髪を三つ編みにした少女が、一人黙々と洗濯物を絞っていた。
「アンナ」
メアリーが声をかける。
少女は顔を上げた。
「メアリー……」
その目元は赤く腫れていた。
「こちら、探偵のエリー様よ」
「探偵……?」
アンナは怯えたように身を縮めた。
エレオノーラは慌てて首を振った。
「怖がらなくていいのよ! 少しお話を聞きたいだけなの!」
アンナは濡れた手をエプロンで拭い、俯いた。
「……私、盗んでません」
「ええ」
「本当です。メアリーの指輪なんて、触ったこともありません」
声が震える。
エレオノーラは彼女の前にしゃがみ、目線を合わせた。
「分かったわ。じゃあ、昨日の朝、何をしていたか教えてくれる?」
アンナは少し驚いたように瞬きをした。
「……昨日は、朝から厨房のお手伝いをしていました」
「ずっと?」
「はい。朝食の準備が終わるまで」
「それを知っている人は?」
「料理長と、厨房の皆さんです」
エレオノーラは頷いた。
「ありがとう。あとで確認させてもらうわね」
アンナは不安そうにメアリーを見た。
「私……ここを辞めさせられるのかな……」
「そんなことにはさせないわ!」
思わず声を上げたのは、エレオノーラだった。
アンナが目を丸くする。
エレオノーラは一瞬だけ口をつぐみ、それから少し照れたように笑った。
「……まだ、何も分かっていないもの。誰かを疑うには早すぎるわ」
アンナの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
*
厨房で確認すると、アンナの話は事実だった。
料理長は、昨日の朝、彼女がずっと厨房にいたと証言した。
「じゃあ、アンナさんにはアリバイがあるのね!」
エレオノーラは嬉しそうに手を叩いた。
「よかったわ!」
しかし、すぐに手帳を見返し、首を傾げた。
「……あれ?」
「どうかなさいましたか?」
メアリーが尋ねる。
「指輪がなくなったのは、昨日の朝に気づいたのよね?」
「はい」
「じゃあ、最後に指輪を見たのはいつ?」
メアリーは少し考えてから答えた。
「……一昨日の夜です」
「そうなのね……」
エレオノーラは唇を尖らせた。
「それなら、昨日の朝に厨房にいたことだけでは、アンナさんが絶対に無関係だとは言えないわね……」
メアリーの顔が曇る。
「でも、私はあの子を信じています」
「私も、今のところ疑っていないわ」
エレオノーラは頷いた。
「ただ、ちゃんと確かめなきゃ。疑いを晴らすためにも」
そう言って手帳を閉じた。
*
考えながら廊下を歩いていた、そのときだった。
向こうから、磨き上げられた革靴の音が近づいてきた。
コツ、コツ。
規則正しい足音。
廊下の先にいた使用人が、すっと壁際へ寄った。
メアリーもはっとして背筋を伸ばす。
「エリー様……!」
小声で呼びかけられ、エレオノーラも顔を上げた。
廊下の奥から、一人の青年が歩いてくる。
艶のある漆黒の髪は、額をすっきりと見せるように後ろへ撫でつけられていた。
整った眉の下には、深いサファイアブルーの瞳。
すっと通った鼻筋に、薄く引き結ばれた唇。彫刻のように端正な顔立ちには、容易に他人を寄せつけない冷ややかさが漂っている。
仕立てのよい濃紺のフロックコートが、長身の引き締まった身体によく似合っていた。
しかし、その美貌以上に目を引いたのは、青年の纏う静かな威圧感だった。
彼が近づくにつれ、廊下にいた使用人たちが次々と足を止め、壁際へ下がって頭を垂れる。
青年はそれを当然とも、誇らしいとも思っていないようだった。
ただ、背筋を伸ばし、迷いのない足取りで歩いてくる。
まるで、この屋敷の空気そのものが彼に従っているかのようだった。
エレオノーラは、その場に立ち尽くした。
(…………え?)
青年が近づいてくる。
メアリーが深く一礼する。
「旦那様」
(だ、旦那様……?)
エレオノーラの胸が、どくんと跳ねた。
(まさか……)
青年の視線が、彼女へ向けられる。
青い瞳。
すっと通った鼻筋。
薄く引き結ばれた唇。
(か……)
(かっこいいいいいい!!)
エレオノーラの頬が、一瞬で真っ赤になった。
(むねが……むねが……!)
(きゅきゅきゅきゅーーーん!!)
「……何か?」
低く落ち着いた声がした。
「ひゃ、ひゃいっ!」
エレオノーラは慌てて頭を下げた。
勢いがつきすぎて、帽子が床に落ちる。
ころころと転がる帽子。
静まり返る廊下。
青年は無表情のまま、それを見下ろした。
「…………」
「す、すみませんっ!」
エレオノーラは真っ赤な顔で帽子を拾い上げた。
「わ、私! 探偵のエレオノーラ・ウィンデルフォードと申します!」
「探偵?」
青年の眉が、わずかに動いた。
「はいっ! メアリーさんの婚約指輪を探しに参りました!」
「……そうか」
それだけだった。
青年はメアリーへ視線を移す。
「仕事に支障は出ていないか」
「は、はい。旦那様」
「ならばいい」
短く答えると、青年は再び歩き出した。
エレオノーラは呆然と、その背中を見送った。
(こ、声まで素敵……!)
メアリーが小さく息を吐いた。
「……あちらが、レオンハルト・グレイヴェル公爵様です」
「…………」
「エリー様?」
「……メアリーさん」
「はい?」
エレオノーラは胸の前で両手を組んだ。
「私……今、運命に出会った気がするわ……!」
「ええっ!?」
*
しばらくして、エレオノーラはようやく調査に意識を戻した。
もっとも、頬の赤みはまだ消えていなかった。
「そ、それで……トーマスさんにもお話を伺いたいのだけれど!」
「はい。呼んでまいります」
メアリーが従僕を探しに行こうとした、そのとき。
再び、廊下の向こうから足音が聞こえた。
エレオノーラは反射的に振り返った。
(も、もしかして……!)
現れたのは、先ほどの青年だった。
「……まだいたのか」
「は、はいっ!」
エレオノーラは勢いよく背筋を伸ばした。
レオンハルトは彼女の手元にある手帳へ一瞬だけ目を向けた。
「調査は進んでいるのか」
「そ、それが……婚約指輪を贈ったトーマスさんに、お話を伺おうと思っておりまして……!」
「トーマス?」
「はい! 昨日の朝、どちらにいらしたのかも確認したいんです!」
レオンハルトは少し考えるように視線を動かした。
「……昨日は休暇を取っていたはずだ」
「えっ?」
「詳しいことは執事に聞くといい」
それだけ告げると、彼は踵を返した。
「あ、あのっ!」
エレオノーラが呼び止める。
レオンハルトが振り返った。
「……何だ」
「ありがとうございます!」
彼女は深々と頭を下げた。
レオンハルトは一瞬だけ目を細めたが、何も言わずに歩き去った。
その背中を見送りながら、エレオノーラは胸を押さえた。
(……話しかけてくださったわ……!)
(しかも、二回も……!)
頬が緩む。
しかし、次の瞬間。
「……あれ?」
エレオノーラは顔を上げた。
「昨日、トーマスさんはお休みだったの?」
「はい。そう聞いておりますが……」
メアリーが不思議そうに頷いた。
「でも、どうして……?」
エレオノーラは手帳を開き、先ほどの証言を見返した。
指輪がなくなったのは、昨日の朝。
そして、婚約者のトーマスは昨日、休暇を取っていた。
「……メアリーさん」
エレオノーラの声が、少しだけ低くなった。
「トーマスさんは、昨日のお休みにどこへ行かれたのかしら?」
「それは……」
メアリーは言い淀んだ。
「私にも、分かりません」
エレオノーラは手帳を閉じた。
その青い瞳には、先ほどまでの浮ついた色はなかった。
「……確かめてみましょう」
初めての事件。
消えた婚約指輪。
そして、何も語られていない婚約者の休日。
エレオノーラは、ゆっくりと息を吸った。
もしかすると、この事件には、まだ誰も話していない秘密があるのかもしれない。
【後編へ続く】




