前編:探偵事務所に依頼人が来ません!
「このままじゃ、名探偵になる前に破産しちゃうわ!」
王都ベルフォードの朝。
焼きたてのパンの香りが漂う小さな探偵事務所に、少女の悲痛な叫びが響き渡った。
石畳の通りでは馬車が蹄の音を響かせ、新聞売りの少年が朝刊を掲げて声を張り上げている。
そんな街の賑わいとは対照的に、エレオノーラ・ウィンデルフォードは机に突っ伏していた。
蜂蜜色の長い髪が、開いた帳簿の上にさらりと広がる。
「今日で十四日目なのに……どうして誰も来ないのよぉ……」
探偵事務所を開いてから、依頼人は一人も来ていない。
扉には真鍮の看板。
机には真新しい羽根ペンとインク壺。
壁の本棚には、大好きな探偵小説と恋愛小説がぎっしり並んでいる。
準備は完璧だった。
依頼人がいないことを除けば。
「探偵小説では、開業した途端に事件が舞い込んでくるものなのに……」
エレオノーラは頬を膨らませ、帳簿を閉じた。
その拍子に、机の端に積んであった本が一冊、ぱさりと床へ落ちる。
「あっ!」
慌てて拾い上げたのは、昨夜読み終えたばかりの恋愛推理小説だった。
表紙には、虫眼鏡を手にした少女と、彼女を見つめる端正な顔立ちの貴族青年が描かれている。
少女探偵が難事件を追ううちに、美貌の貴族青年と出会う物語だ。
最初は反発し合っていた二人が、事件を共に解決するうちに少しずつ惹かれ合い、最後には結ばれる。
エレオノーラは本を胸に抱き、うっとりと頬を染めた。
「はぁ……素敵だったわぁ……」
昨夜は結末が気になって、夜更かしまでしてしまった。
「私にも、こんな出会いがないかしら……」
窓の外を見つめ、ほうっとため息をつく。
「難事件を解決して、素敵な殿方と恋に落ちて……ああ、憧れちゃう!」
そのとき、階段を上がってくる足音が聞こえた。
「エリーちゃん! 朝っぱらから何を騒いでるんだい!」
扉を開けたのは、階下のパン屋を営むマーガレット・ブラウンだった。
白いエプロンには小麦粉がつき、丸い頬は焼き窯の熱でほんのり赤い。
片手には、焼きたてのパンを入れた籠を提げている。
「マーガレットさん!」
エレオノーラは勢いよく立ち上がった。
「もしかして、事件ですか!?」
「朝ごはんを持ってきたんだよ」
「……事件じゃないの?」
「パンが焼けたことを事件にしてどうするんだい」
マーガレットは呆れ顔で籠を机に置いた。
中には、こんがり焼けた丸パンが三つ。
エレオノーラの青い瞳が、ぱっと輝く。
「わあっ! いただきます!」
「さっきまで破産すると騒いでいた子とは思えないねえ」
エレオノーラは返事をする間も惜しんでパンにかぶりついた。
ふわりと立ち上る湯気。
口いっぱいに広がるバターの香り。
先ほどまでの悲壮な表情は、すっかり消えていた。
「んん〜! 幸せぇ……!」
「まったく。食べてるときだけは元気なんだから」
マーガレットは苦笑しながら、机の上の帳簿に目を落とした。
「ところでエリーちゃん、来月の家賃は大丈夫なのかい?」
ぴたり。
エレオノーラの口が止まった。
「……え?」
「家賃だよ。家賃」
「…………」
「まさか忘れてたんじゃないだろうね?」
エレオノーラは、そっとパンを皿に戻した。
そして、両手で顔を覆った。
「忘れてたわぁぁぁ!」
「忘れるんじゃないよ!」
マーガレットの叱責が、朝の事務所に響いた。
*
「そもそも、お嬢様が探偵なんて商売を始めること自体、無茶なんじゃないのかい?」
マーガレットは窓際の椅子に腰を下ろし、腕を組んだ。
「お父様のところへ帰れば、こんな苦労をしなくても済むんだろう?」
「嫌よ!」
エレオノーラは即座に首を振った。
「お屋敷に戻ったら、また毎日お茶会とお稽古ばっかりなんだもの!」
「それが伯爵令嬢のお仕事なんじゃないのかい?」
「私のお仕事は、困っている人を助けることよ!」
胸を張った拍子に、肘がインク壺にぶつかった。
「あっ!」
慌てて両手で受け止める。
危うく机が真っ黒になるところだった。
マーガレットは深々とため息をついた。
「まずは自分の机を守れるようになりなさいな」
「うう……」
エレオノーラは唇を尖らせた。
だが、すぐに顔を上げる。
「でも、絶対に諦めないわ。いつか私だって、名探偵になってみせるんだから!」
その声には、先ほどまでの弱々しさがなかった。
マーガレットはしばらく彼女を見つめ、やがて肩をすくめた。
「だったら、せめて依頼人が来たときくらい、ちゃんとした探偵らしく振る舞うんだよ」
「もちろんよ!」
エレオノーラは自信満々に答えた。
その瞬間だった。
コン、コン。
控えめなノックの音がした。
二人は同時に扉を見た。
「……マーガレットさん?」
「何だい?」
「今、ノックが……」
「聞こえたねえ」
エレオノーラは椅子から飛び上がった。
「い、依頼人!?」
勢い余って椅子の脚に足を引っかける。
「きゃあっ!」
ぐらりと傾いた身体を、マーガレットが慌てて支えた。
「落ち着きな!」
「だ、だって! 初めてのお客様よ!」
エレオノーラは乱れた髪を手櫛で整え、胸元のリボンを直した。
それから大きく息を吸い込み、扉へ向かって声を張った。
「ど、どうぞ!」
扉がゆっくり開いた。
そこに立っていたのは、質素な紺色のワンピースを着た若い女性だった。
栗色の髪をきっちり結い上げ、白い襟元には小さなブローチが留められている。
女性は室内を見回したあと、不安そうに口を開いた。
「あの……こちらは、探偵事務所で間違いありませんか?」
「はいっ!」
エレオノーラは勢いよく頭を下げた。
「ウィンデルフォード探偵事務所へようこそ! 私が所長のエレオノーラ・ウィンデルフォードです!」
女性は少し驚いたように瞬きをした。
「あなたが……探偵さん?」
「そうです!」
エレオノーラは胸を張った。
「どんな難事件でも、私にお任せください!」
背後でマーガレットが小さく咳払いをした。
「……まだ一件も解決してないけどね」
「マーガレットさんっ!」
女性の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
しかし、その笑みはすぐに消えた。
「私はメアリー・コリンズと申します。グレイヴェル公爵家で侍女をしております」
「公爵家?」
「はい。実は……大切なものがなくなってしまって」
メアリーは胸元で両手を握りしめた。
その指先が、わずかに震えている。
「婚約指輪なんです」
*
マーガレットが紅茶を運んでくると、メアリーは少しずつ事情を話し始めた。
「同じお屋敷で働いているトーマスという人から、いただいたものなんです」
「まあっ!」
エレオノーラは身を乗り出した。
「同じお屋敷で恋に落ちたのね! なんて素敵なの!」
メアリーの頬が赤く染まる。
「そ、そんな……」
「どんな方なの? 優しい人? 格好いい人? 最初に好きになったのはどっち?」
「エリーちゃん」
マーガレットが横から口を挟んだ。
「恋愛相談じゃなくて、事件の相談だろう?」
「わ、分かってるわよ!」
エレオノーラは慌てて姿勢を正した。
メアリーは小さく笑ったあと、膝の上で両手を重ねた。
「トーマスは、とても優しい人なんです。お給金を少しずつ貯めて、指輪を買ってくれて……」
その声が、途中で震えた。
「それなのに、私……なくしてしまって……」
エレオノーラは笑みを消した。
「……いつ、なくなったんですか?」
「昨日の朝です。いつものように、部屋の小箱へしまっておいたはずなのに……」
「小箱?」
「はい。鍵のついた、小さな木箱です」
「鍵は?」
「いつも私が持っています」
エレオノーラは机の上の紙を引き寄せ、羽根ペンを取った。
「その箱は、壊されていましたか?」
「いいえ。傷一つありませんでした」
「……なるほど」
エレオノーラは真剣な顔で頷いた。
「ほかに、お部屋へ入れる方は?」
「同室の侍女が一人おります。でも、あの子が盗むはずありません!」
メアリーは顔を上げた。
「それなのに、ほかの使用人たちは、あの子を疑い始めていて……」
膝の上で、握りしめた両手に力がこもる。
「私、指輪を取り戻したいんです。でも、それ以上に……誰かが泥棒扱いされるのは嫌なんです」
エレオノーラは、しばらく黙って彼女を見つめた。
それから、そっと微笑んだ。
「分かりました」
「え……?」
「そのご依頼、お引き受けします!」
メアリーの瞳が大きく開かれた。
「本当ですか?」
「もちろん!」
「でも、私……あまりお金を持っていなくて……」
エレオノーラは一瞬だけ、机の隅に置かれた帳簿を見た。
家賃。
食費。
そして、残り少ない貯金。
そのすべてが頭をよぎった。
だが、目の前の女性は今にも泣き出しそうな顔をしている。
エレオノーラは帳簿から視線を外し、にっこり笑った。
「報酬のことは、事件が解決してから考えましょう!」
「……ありがとうございます!」
メアリーは深々と頭を下げた。
「それでは、さっそくお屋敷へ伺いましょう!」
エレオノーラは立ち上がり、壁に掛けていた帽子を手に取った。
そのとき、メアリーが何かを思い出したように口を開いた。
「あの……一つだけ、お伝えしておきたいことがあるんです」
「何かしら?」
「お屋敷の旦那様は、使用人の私事には一切関わらない方なのです」
「そうなの?」
「はい。必要なこと以外は、ほとんどお話しにもなりません。とても厳格な方で……」
メアリーは困ったように眉を下げた。
「お顔立ちは大変お美しいのですが、少し怖い方なんです」
「…………」
エレオノーラの手が止まった。
「……今、何て?」
「え?」
「今、何ておっしゃったの!?」
メアリーはびくりと肩を震わせた。
「こ、怖い方だと……」
「その前!」
「お顔立ちが……お美しいと……」
「美形なのね!?」
エレオノーラの青い瞳が、きらきらと輝き始めた。
「え、ええ……王都でも評判になるほどの美貌でいらっしゃいます」
「まあああっ!」
エレオノーラは両手を胸の前で組んだ。
脳裏に浮かんだのは、昨夜読み終えた恋愛推理小説の一場面だった。
少女探偵と、美貌の貴族青年。
「ま、まさか……!」
エレオノーラの頬が、みるみる赤く染まった。
「これって、運命の出会いなんじゃないかしら!?」
「えっ?」
「だって! 探偵の私が事件を追って、美形の公爵様と出会うのよ! 昨夜読んだ小説とそっくりじゃない!」
「そ、そうでしょうか……」
「そうよ! きっとそうに違いないわ!」
エレオノーラは帽子を被り、鏡の前でリボンを整えた。
いつもより少しだけ丁寧に髪を撫でつける。
メアリーは戸惑いつつも続けた。
「グレイヴェル公爵様は、王室直属の特別捜査官も務めていらっしゃるんです」
メアリーの言葉に、エレオノーラはさらに目を丸くした。
「まあ! 公爵様なのに、捜査官でもいらっしゃるの!?」
「ええ。王室に関わる重大な事件が起きた際には、陛下の命を受けて調査に当たられるそうです」
「なんて素敵なのかしら……!」
エレオノーラは胸の前で両手を組んだ。
「高貴な身分でありながら、事件の真相を追い求めるなんて! まるで小説に出てくる名探偵みたいだわ!」
メアリーは少し困ったように微笑んだ。
グレイヴェル公爵家は、王族と血縁関係にあり王国でも指折りの名門である。
その当主レオンハルトは、二十八歳にして広大な領地と爵位を継ぎ、王室からの信任も厚かった。
普段は公爵としての職務を果たしているが、特別な事件が起きた際には王命によって捜査に携わる。
警察組織に所属する通常の捜査官とは異なり、王室直属という特殊な立場にあった。
もっとも、エレオノーラの頭には、そんな難しい事情など半分も入っていなかった。
(つまり、公爵様も事件を解決するお仕事をなさっているのね!)
青い瞳が、きらきらと輝く。
(私と同じだわ! これはもう、運命としか思えない!)
まだ一度も一緒に捜査したことはない。
それどころか、一度も会ったことすらない。
だが、彼女の頭の中では、すでに二人が並んで難事件を解決する未来が完成していた。
「さあ、メアリーさん! 早く参りましょう!」
「は、はい……」
エレオノーラは鞄を手に取り、弾むような足取りで扉へ向かった。
「初めての事件! 初めての公爵邸! それに……」
廊下へ出る直前、彼女はくるりと振り返った。
頬を染め、夢見るような笑顔を浮かべる。
「美形の公爵様〜♪」
マーガレットは額に手を当てた。
「……エリーちゃん」
「なあに?」
「あんた、目的が変わってないかい?」
「変わってないわよ! もちろん事件を解決するんだから!」
そう答えながらも、エレオノーラの足取りはすっかり軽くなっていた。
果たして、彼女は初めての事件を無事に解決できるのだろうか。
それとも、昨夜読んだ恋愛推理小説のような恋が始まるのだろうか。
少なくとも、エレオノーラの頭の中では、すでに後者の物語が始まっていた。
【中編へ続く】




