エピローグ
「こんばんは!」
「あ、久しぶりだねぇ!」
馴染みの蕎麦酒屋に顔を出した私に、おとーさんはニコリと微笑んだ。
「こっち座りな~」
「あ、あとで連れもくるんですけど」
「分かってるから大丈夫。二人分、どうぞ」
カウンターの席は選び放題だったのに、何故か端の方に座らされた。
奥の座敷には背を向けるその場所は、いつもなら焼酎や一升瓶のある場所だったし、今日も瓶が置いてあるにも関わらず、わざわざどかしてその場所を案内された。
(団体さんでもいるのかな?)
奥の座敷からは死角の場所なせいか、奥の音は聞こえども姿は見えない。
まあ、人待ちの身で他の客に興味を示す必要もないので、大して気にすることなくその席に座る。
「お連れさん、どの位でくるの?」
おとーさんに問われ、私は時計を確認してから、
「あと30分後です」
と答えた。
今日は飲みが終わったら、大島さんちにお泊まりだ。
最近、大島さんの仕事が忙しかったので、久しぶりの外泊だ。
ソワソワしているのは、少しだけ見逃して貰いたい。
「はい、お通し。
あと、これ、作ってみたから食べてみて」
生中を頼んだら、更に美味しそうな煮付けまで出て来て、私は思わず歓喜の声をあげてしまう。
「おとーさん、おいしい!」
「そぅお? もっと沢山食べてね」
嬉しそうなおとーさんの顔を見ると、私も嬉しい。
と、奥の座敷で男の人たちの歓声。どうやら団体さんが賑わっているらしい。
声の感じからして若い感じだ。
(学生さんかなぁ?)
賑やかでいいことだ、なんて思いつつ、お酒を呑んでいると、おとーさんがニコニコしながら、
「楽しそうだね」
と聞いてきた。
「楽しそうに見えますか?」
「見える見える。嬉しそうにお酒飲んで、ご飯食べて貰えるのが、私は一番嬉しい」
「それはおとーさんのご飯とお酒が美味しいからですよ」
そう断言すると、おとーさんは「そうじゃないんだよ」と笑った。
「あなたが今、幸せだから美味しくなるの」
他の人が言ったら恥ずかしい言葉なのに、不思議とおとーさんが言うと、人生の深みがプラスされているせいか、心に染み入る。
「一緒に飲む相手によっても、お酒の味は変わるよ」
「そうですか?」
「そうでしょう?」
逆に問われて戸惑った。
意味深に問われて、一瞬過ぎったのは随分昔の色褪せた思い出のこと。
元彼と一緒に飲んだときは、お酒の味なんてあまり覚えていなかった気がする。
独りでこの店に来るようになって、少しずつ美味しく感じるようになって、大島さんと来るようになったら、ただ美味しいだけじゃなくなった。
そこから色んな話が広がって、いつも沢山のことを話した。そして、それは次にそのお酒を飲んだときに思い出すくらい、お酒と話の記憶が結びついていた。
「お酒はね、お酒と一緒に想いも飲み込むの。色んな想い。しんどいこと、辛いこと、悲しいこと、嬉しいこと。あなたの最近のお酒は嬉しいことばかりでしょ?」
おとーさんがチラリと見た私の左手の薬指にはキラリと光る指輪。私はそんなおとーさんの視線にはにかみで返す。
指輪の意味がどんなことかなんて、わざわざおとーさんに報告はしなかったけれど、もう少ししたら名字が変わることは確かで、それでも変わらずこの店に通い続けていられることが嬉しかった。
「良かったね。幸せで」
「はい、良かったです」
つきあい始めたら、色んなことがあった。色んなことで喧嘩もしたし、色んなことで楽しく笑いあったりもした。
その全てに大島さんが関わっていることが、私には嬉しい。
ガラガラと引き戸が開く。そちらに目を向けると、大島さんが入ってきた。
「大島さん!」
私が手を降ると、大島さんは嬉しそうに私のところへ来てくれる。
「あ、生中で」
おとーさんにそう注文してから、大島さんは私の横にドカリと座り込んだ。
「お疲れ様です」
「ん」
軽く返事をして、おとーさんが持ってきてくれた生中を一気に飲み干した。
「くー、生き返る!」
「うわ、おやじ臭い」
「うるせー」
コツンと頭を軽く叩かれた。
私は苦笑いを浮かべながら、大島さんを見る。
「あ、マスターに言った?」
確認されて、私は首を横に振った。こういうことは大島さんから言って貰った方がいいと思ったからだ。
「マスター、ちょっといいですか?」
大島さんが呼びかけると、おとーさんは「なあに?」とニコニコしにがら聞いてくる。
「結婚式の二次会、ここでお願いできますか? 二次会と言っても有志で集まる程度だから、10人程度なんですが」
「ん、幹事さん?」
「いや、自分たちの結婚式なんです」
大島さんがそう言うと、おとーさんは「そうなの?!」と声を高らかに上げて、
「おめでとう!」
と喜んでくれた。
大島さんは照れながら笑う。
私もつられて微笑む。
「いつなの?」
「まだ先なんですが......」
二人が会話していると、背後を奥の座敷で飲んでいた団体さんが通り始める。
どうやら飲み会が終わったらしい。
「すいません、会計お願いします」
幹事らしい人がそう言うと、おとーさんは大島さんに「ちょっと待っててね」と言いながら、会計を書いた紙を団体さんの幹事に渡しているようだった。
「内藤、二次会どうする?」
「あ、駅前の居酒屋予定」
掛け合う声が私の背後で交わされる。
一瞬、ドキリとした。
その声と、その名前に聞き覚えがあったからだ。
「はい、お釣りね。ありがとうございました」
おとーさんがお釣りを渡したが、私の位置からは団体さんの幹事の顔は丁度うまい具合に見えなかった。
「内藤ー、なんか浜崎、気持ち悪いってー!」
「今、行くって!」
幹事が私の背後を通り過ぎる。
振り返れば多分、その声の主の顔は見えるはずだ。
そして、さっきの声だけで、私にはその声の主が誰だか分かってしまった。
別にまだ心残りがあったわけではない。
元気そうな声に、何の感情も覚えなかった。
(相変わらず楽しそうなんだな)
私とは違う人生を歩んだ人。
私に傷を残した人。
元彼というのもおかしい嘘つきだった相手。
なのに、その相手に対して、何も込み上げる物はなかった。
「はい、これ」
おとーさんが戻ってきて、綺麗なグラスに入った発泡酒らしきものを2つ、私たちの前に出してくれた。
「日本酒の発泡酒。お祝いのシャンパン代わり」
粋な計らいに、大島さんと顔を合わせて微笑むと、二人でおとーさんに頭を下げた。
「あなたたち、幸せになれるよ」
おとーさんは嬉しそうにそう言った。おとーさんの視線は私に向けられて、もう一度、
「ね?」
と念押しされる。
きっと、そういうことなんだと思う。
おとーさんの目を見て、分かった。
おとーさんは私の元彼を覚えていて、だからわざわざこの席を選んでくれた。
あの男にとっては既に私との思い出さえも色褪せた場所なのだろう。
だから飲み会のセッティングも出来た。
私にとってもここは、元彼との思い出の場所ではない。
大島さんとの思い出の場所だ。
振り返らなかったこと。
その意味は、とても大きいんだと、おとーさんに念押しされて、実感した。
あぁ、きっと、
私、この人と、幸せになれるんだな。
何の保証もないのに、凄く当たり前にそう思えたから、私は満面の笑みを浮かべて、大島さんを見てからおとーさんに言う。
「はい、幸せになります」
fin
少しの間ではありましたが、辛抱強くお付き合いいただきありがとうございました。あとがきなどは活動報告に記させていただきます。
ここまで読んでくださった方に、たくさんの感謝を。
ありがとうございます。