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ツァラトゥストラはもはや語らない  作者: 伝説のPー
第二章【自由の象徴】──第一部【比翼連理】
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8. 偽り

 この瞬間ほど“龍人”としての生を後悔したことはない。

 ちっぽけなプライドにしがみついて惨めに慰めて生きるしかない“龍人”の邑で、自分を偽るよりも強烈に。

 邑での教訓は大部分が“龍人”の偏見と選民思想に根付いたものだが、それでも少数民族として世界を生き抜くための術も教えてくれた。


 例えば、アデラ・ジェーン山脈で近づいてはならない場所だとか、植生している危険な動植物だとか。

 例えば、人間社会における力の構造だとか。

 例えば、()()()()()()()とか。


 魔獣はただの獣にあらず。

 獣が如き獰猛性と本能に、人間が如き狡猾さを併せ持った意思を持った災害である。

 それが、魔獣に対する“龍人”の印象である。


 オンはおどろおどろしく、まるで脅迫をするように邑の子どもたちに語った。

 大人たちも魔獣は存在自体が恐怖の対象となり、一度邑に立ち入るのならば安寧の地を捨て去る覚悟もあると断言した。

 過剰に怯懦していた“龍人”たちを、当時のあたしは一笑に付した。

 魔獣とはいえ獣に過ぎず、一体、何をそんなにびくびくと怯える必要があるのだと嘲った。


 あたしは斜に構えた、酷く生意気で大人や年上の“龍人”を舐め腐っていた世間知らずのお子様だと、ようやく今になって思い知らされた。

 大人は、オンは、何も間違ってなどいない。

 …………まあ、その生き方だとか、“龍人”としての在り方には疑問を呈するが。


 それでも、魔獣への認識に関してだけは正しいと認めざるを得ない。


 自然の壁を震わせる絶叫、腹の底から絞り出されたような咆哮。

 アナスタシアやホロウ、他の冒険者たちは呆気に取られて何事かと状況を理解するにとどまっている。

 その姿に、一種の羨望を抱いてしまう。

 彼女たちはあたしがびりびりと感じている感覚を味わうことなど、金輪際ないのだと思って。

 あたしには、わかってしまうのだ。

 理解させられたのだ。

 雄叫びの主が、自然の、生命の、常識の埒外に位置する存在だと。


 エルガスによって破壊された際の、閉塞感と息苦しさを与える急激な変化とは違う。

 耳をつんざく音にはまなじ優れた聴覚機能を有してしまっているがために、全身をその場に縫い付けるような衝撃を受けた。

 大地は安定しているのだという前提を裏切られた感覚は、形容し難い不安をあたしにもたらした。

 おろおろと年相応の生娘のように膝を震わせることしかできないあたしの姿は、滑稽で無様なことだろう。

 立ち竦むあたしの肩を掴み、抱き寄せたロムルスの言葉に、体温に安堵したのも束の間の出来事だった。

 密着するロムルスの体温も感じられない絶対零度の威嚇。

 それは、偏に生命体としての圧倒的な隔絶をあたしに与えるに相違ない。


 落ち着きなく視線を彷徨わせると、アナスタシアちゃんはあたしと同じように取り乱していて、ホロウちゃんは惚れ惚れする程に凛とした表情で雄叫びの方向へと殺気を放っている。

 もはや、あたしの思考にはエルガスに嵌められたなんて数分前の狼狽は残っていない。

 ただひたすらに被食者として震えるだけしか、できなくなってしまった。


 先導する灯りが消えようとあたしは“龍人”で、多少は夜目が利く。

 ひたりひたりと近付く死の香りは鼻がねじ曲がりそうな息苦しさが詰まっていて、漆黒の空間に浮かぶ()()()()はギラリとあたしを射竦める。

 全身を覆うような岩石を彷彿とさせる肌は刃が通らないと暗に提示していて、四足の脚には巨大なかぎ爪が存在感を示している。


 暗闇に慣れた冒険者たちの押し殺した悲鳴が耳朶を打った刹那。


 つんと嗅ぎなれない匂いが…………そう、ロムルスくんの鉈から香る、鉄の臭いが。

 ぷしゃりと噴き出す血潮の音共にあたしの恐怖を、刺激した。







 ❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐








 どうやら、吾の想像力は存外乏しいらしい。

 確かに、洞窟の入り口に立って歩み始めた時に、脳裏には克明にロムルスより告げられた言葉が刻まれていた。

 彼は終わるといった。

 だから、三日間耐え続けたとも言った。

 勿論、吾は好意的に受け取ったさ。

 もはや、彼の言説を眉唾と考える必要もなくなったから。

 とはいえ、ロムルスは噓を付かない代わりに秘密が多い。

 それも偏に臨むべき“未来”へと一人孤独に挑んでいるからだ。


 まあ、少しくらいは打ち明けて、手を貸させてくれてもいいが…………吾だってそこそこ強くなったはずなのだから。


 万事が順調に、事は運ぶのだと能天気にも思っていた。

 ロムルスに全幅の信頼を置いていたといえば、聞こえはいい。

 柄にもなく楽観的で、酷く現実を甘く見過ぎていたとも言える。

 この三日間、無力感に苛まれていた反動で、もうぜんぶあいつに任せておけばいいやと、投げやりになっていたのかもしれない。


 洞窟に入って吾がやったことといえば形だけの警戒と…………いや、それだけだ。

 後はひたすら、ロムルスの後ろについてアナスタシアとテリアの様子を見ていた。

 アナスタシアは不安げで、足元が覚束なくて。

 テリアはそんな彼女をサポートしていた。

 前を行く冒険者たちの低俗な会話に辟易しつつ、それでも、吾は疑問には思わなかった。


 ロムルスが酷く緊張した面持ちで、いたことに。


「取引をしよう、冒険者諸君」


 それが、吾の夢見心地を霧散させた一言だった。

 まるで長い眠りから覚めたような感覚だというのに、全身が気だるい最悪な目覚めだ。

 気付けば唯一の出入口は塞がれて、魔獣を殺すか餓死するかの二択を迫られていた。

 一体、いつから吾は腑抜けていた? どうして、油断と隙を曝け出してのうのうと鈍足を誇っていた?

 吾が自身の未熟加減にいよいよ愛想を尽かしかけていても、事態は非情にも最悪な方向へとひた走っていた。


 今までに聞いたことのない絶叫が、吾の魂を震わせたのだ。


 自慢ではないが、吾はこれまでに相応の修羅場を潜ってきたと自負している。

 生まれてこの方、死の概念とは親友と言い切れる程には死をまき散らしてきたし、同時に死に魅入られてもきた。

 嫌だといっても逃れられず。

 隣にはいつだって頼れる絶対的な事象として、吾を地獄で生かしてくれた。


 けれども、死を憎らしく思ったのはこの時が最初で最後だ。

 恐怖は時に人を冷静にする。

 培ってきた経験から吾は窮地が人間に与える一種の覚醒状態を知っている。

 故に、吾が瞬時に加速した認識機能へ疑問を呈することはなかった。

 闇夜で存在価値を見出してきた吾だからこそ、漆黒一色の伽藍洞へ滲む異色に気が付けたのかもしれない。

 矢庭に後退るテリアの様子から、“龍人”の視覚能力で吾と同じ()()を視たのだとわかる。


 そして、吾と同様に魔獣と呼ばれ、ただの獣と一線を画す存在に畏怖している。


 この際、魔獣の容姿はどうでもいい。

 さして気に留める必要すらない。

 ただでさえ狭い通路だというのに、どうやってその巨躯をねじ込んで進んできたかも、興味はない。

 仄暗い眼光だけが、ひたすらに吾を捉えて離さない。


 テリアが半歩にも及ばない程に小さく後退ったと、そう吾が視認した時には。

 既に視界には見慣れた赤がまき散らされていた。






 ❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐❏❐








 今回も大成功だ。

 洞窟に愉快なカモを誘った時に私は確信した。

 と同時にほくそ笑んだ。


 伊達に何の面白味のない二番煎じで私腹を肥やしてきていない。

 巧妙な誘い文句も、猜疑心を抱かせない素振りも、人懐っこい笑みも。

 人心掌握ができるのならば何であれ利用し、時には悪罵を投げつけられても必死に取り繕って絞りかすのような信頼を得た。

 人間というのは他人に信頼感を抱くまでの過程で、想像よりも遥かに脆弱な側面を有している。

 一度心の表面であっても信頼を抱いてしまうと、彼ら自身がその信頼を壊したくなくて是が非でも儚い幻想にしがみつく。

 きっと、信じてしまった自分を直視したくない一心なのだろう。

 自分は決して騙されてなどいないと、詐術に引っかかった間抜けなどではないのだと、醜い言い訳を塗りたくっている姿はあまりにも滑稽だ。


 今までに百はくだらない冒険者を洞窟に誘い込んで、命か服従かの二者択一を迫ってきた。

 従うのならよし。

 私の雇った傭兵には巨岩に人一人通れる程度の穴をあける【権能】持ちがいる。


 大抵、みな私の奴隷となって命乞いを選択するがね。

 あの時の優越感と得も知れない快楽には、抗う術を私は知らない。

 粗暴で、無教養、獣よりも短絡的で感情的な冒険者連中にへこへこと頭を下げて媚び諂う屈辱と引き換えに得られる悦楽なのだから、余計に享受するにあたっては抵抗などない。


「相変わらずひどい手管だな、エルガスのおっさん」


「今更ですよ、団長さん。貴方も下劣だとわかっていて私を止めないでしょう」


「はっ、違いねえ」


 にたにたと嘲るような彼の、ベン=マクリールの横顔は、もはや見飽きたといっても過言ではない。

 彼とは三年来の仲であるし、気心とまではいかないが、互いの気性は理解している。

 とどのつまり、彼は甘い汁を吸えればいいのだ。

 山ヒルが如く寄生し、無理に引き剝がそうとすると大損害を被る。

 この場合、私が得た利益の一部を供し、ベンを見限ろうとすれば真っ黒なこの稼業を然るべき機関に暴露することだろう。

 とはいえ、私自身、ベンを切るつもりは毛頭ない。

 彼ほど利益に従順で、契約に五月蠅い傭兵は稀だ。


 商人の一端である私には、冒険者と似たり寄ったりの傭兵連中と相まみえるなど到底叶うことはない。


 無論、人攫い紛いの稼業に身をやつしては、早晩命尽きるだろうと半ば諦めていた。

 比較的低級の冒険者──高くとも“金”級冒険者──を雇って嵌める。

 幾ら冒険者といえど、その危機管理能力は十分で私のような詐欺師の手中に収まることはないと。

 例え、甘言で惑わせたとはいえ一部の“金”級冒険者には素手で巨岩を砕く実力者も得てして存在していると小耳に挟んたこともある。

 だが、小心者特有の怯懦を有していた私も、二度三度と成功の味を知れば楽観的な考えが首を(もた)げるようになった。

 一度成功すると命は助かり、改善点を修正できる。

 改善点を修正できれば成功率が上がり、命も永らえる。

 命が残れば、より十全に成功させようと技術を磨く。

 なんて、素敵な好循環なのだろうか。


 おかげで、人を騙す手腕に限っては都市代表にすら並ぶと自負しているのが本心だ。


 如何に強者に位置する冒険者といえど、所詮は人間だ。

 共感性を刺激して、安心感と優越感を与えてやれば簡単に私のようなペテン師に生命や財産を預けてくれる。

 例えば、私を筆頭に、付き従う傭兵団の面々もまた奴隷を家畜のように扱う。

 すると、自然に冒険者は同じように加虐へと移行する。

 まるで最初からそうであるように。


 人間心理などと権柄ずいた原理を垂れ流すことはない。

 どれだけ言葉を飾ろうと私は人の弱点に漬け込む夢魔に過ぎないのだ。

 けれど、取るに足らない小物に等しい私に手のひらで踊らされて、生殺与奪の一切を委ねるしかない彼ら彼女は…………一体、どれほどに矮小なのだろうか。


「お、エルガスさん。来ましたよ、あいつが。どうします? 最後の揺さぶりでもかけますか?」


「まあ、まあ。問題ありませんよ。あの魔獣は巨体のあまり獲物に近付くまでに時間がかかりすぎます」


 灯り担当の傭兵──名前は忘れた。ウィルソンだとか、ウィリアムだとかそんな感じだ──が嗜虐心を隠し切れない笑みを向けて問うてくる。

 正直に私は彼があまり得意ではない。

 酷いお調子者で、つけあがりすぎる。

 まあいい、今回も完璧に事が運んで気が緩んだのだろう。


 私の眼前には逆立ちしても破壊しきれないだろう、岩石が積み重なっている。

 武具を保有していない冒険者たちには、絶望の壁に見えているはずだ。

 ありふれた洞窟に、帝国でも屈指の魔獣が巣食っている。

 近辺の領民にとっては恐怖そのものでしかないが、私は()()を利用し始めてこの方、魔獣が外界へと出ている姿は見ていない。

 肉体の成長に気付かずに、通路を進むだけに苦心する程に。

 却って、じわじわと生殺しのような歩調は、冒険者たちにとっては地獄以外の何ものでもないだろう。

 とはいえ、あの怪物の恐ろしさは知悉している。


 今までに私の稼業が成功を収めたのも、あの魔獣の原初的な強さあってのことだ。


「それにしても、エルガスさん。女は勿体ないなかったのでは?」


「…………問題ありません。きっと、彼女たちも直ぐに命乞いをするでしょう」


 ちくりと違和感を覚えた。

 勿論、珍しいことに女性の冒険者が混じっているとは認識していた。

 男一人に、女一人、少女が二人。

 経験則から何らかの事情で冒険者になるしかなかったのであろう、稀有なパーティだと思っていた。

 けれど、観察すればするほど掛け違えたボタンのような違和感が付きまとうのだ。


 男はまるでつかみどころのない印象で、冒険者というよりは為政者、都市代表かはたまた中枢に潜む宰相のような。

 女は油断ならない雰囲気を、心を許してはならないと思わせる怜悧な空気を纏っていた。

 二人の少女は性格や雰囲気は真逆なのに、年不相応の険悪さが私の足を遠のかせていた。


 つまりは、得体の知れない存在なのだ。


 …………とはいえ、とはいえだ。

 幾ら彼女たちであろうと、魔獣を前にしてしまえば私の足元に傅くしかない。

 問題はない。

 ないはずだ。


 だが、どうしても…………拭いきれない違和感が私の成功を阻害してやまない。

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