6. 陥穽に嵌まるのは──一体どちらだろうか
あの奴隷商と傭兵に同行して三日目の昼下がり。
思いの丈を白状するのならば、とっととあいつらとは縁を切って思考の隅にすら入れたくない。
だが、奴らに理不尽な扱いを受ける少女たちを放っておくことはできない。
ロムルスもまた同様の懸念を抱いているからか、フォルド領までの道すがらは同行しようと決断した。
口惜しいことに吾たちにはあの少女たちを救ってやることはできない。
見張りを変わって、食事の準備を手伝うなんて小さなことしかしてやれない。
吾があの連中を皆殺しにするのは簡単だ。
深夜に縊り殺せばいいだけの話だ。
だが、それでは彼女たちを真に救済したとはいえない。
彼女たちは奴隷だ。
けれど、ただの奴隷ではない。
ここには留保が付く。
エルシニア人でもフフェス人でもない彼女たちは何も生まれながらの奴隷身分ではない。
恐らくは、何かしらの要因で奴隷に身をやつすしか選択肢がなかったのだろう。
まあ、帝国臣民が奴隷になる道はそう多くない。
経済的に苦しい臣民は自己を担保に奴隷となり、労働力を代償に金銭の返還とする場合がある。
はたまた、仲間に売られたか、親に売られたか。
まあ、碌な理由ではないことだけは確かだ。
決して動かすことのできない事実としては、彼ら彼女らはエルガスに何かしら借り受けていて、現状はそれを返す過程にあるということ。
故に、吾が奴らを一人残さず殺したところで、残された奴隷の取れる選択肢はゼロから生活基盤を構築しなければならないという生き地獄だ。
アナスタシアやテリアは、きっとそこまで理解はできないだろうと吾は解釈していた。
“龍人”としてアデラの山中で過ごしたテリアは物理的に。
克己心の塊であるアナスタシアには精神的に。
特にアナスタシアに限っては、本当にごく僅かな資金すらなく、その身一つで東側全土を経済支配できるような商会を立ち上げたのだ。
彼女の不屈で、頑強な信念が可能にした偉業だが、それを寄る辺もなく、頼るべき親類もない者にとっては再現しろとは酷に過ぎる。
誰しもがアナスタシアのように強い訳ではないのだから。
だから、昨晩、アナスタシアがこそこそと食料を分け与えようと動いていたことに衝撃を受けた。
彼女だけではない。
テリアがカレンと対話して、抱き合っていた時には度肝を抜かれた。
今でもロムルスの訳知り顔が忘れられない。
吾は諦めていた。
何も、二人が奴隷の気持ちを理解できないとは言わない。
けれど、同情ではなく共感できるとは思わなかった。
まあ、恥ずかしいことに今となっては二人を見くびっていたと言わざるを得ない。
二人は二人なりに、思うところがあるのだと吾はわかっていたはずなのに。
「気難しい顔をしているね、ホロウ」
御者台でドヴァーラヴァティーーロムルスが勝手に命名した馬の名前だーーの手綱を握っていると、荷台から音もなく隣に座ったロムルスに声を掛けられる。
今は、彼の軽佻浮薄な態度が却ってありがたい。
「貴様か…………悪いが貴様の戯言に付き合う余裕はないぞ。吾は燻る自己嫌悪と格闘しているところだからな」
「ふむ。アナスタシアといい、テリアといい、自分を責めすぎやしないかい? 誰だって至らぬ点はあるだろう?」
「それとこれは違う。まあ、貴様に分かれなどとは言わない。結局、貴様だけが全てを見通していた」
「殊勝だね。普段ならこれでもかとボクを貶すのに」
「ふん、吾にだって思うところはある。吾は自分だけの尺度で二人を計った。それは、吾の毛嫌いする連中と何ら変わらない」
「テリアも似たようなことを言っていたね。まあ、ホロウなりに納得できればいいさ」
投げやりとも取れる発言だが、ロムルスに限ってそれはない。
彼は彼なりに吾との距離を図ろうとしている。
【運命識士】や演算によって相手の感情を類推するロムルスだからこそ、踏み込んでもよい領域を判断し損ねる。
それを自覚して、改善しようと邁進する彼こそ殊勝でなくて何だというのか。
「ホロウ、君はカレンたちを助けたいと望むかい?」
「愚問だぞ、ロムルス。なぜ吾が悶々と頭を悩ませているとおもっている」
「はは、失礼した。親しき中にも礼儀あり。君を軽んじる発言だった」
「ふん、いい。今のは憂さ晴らしだ。助けられるならば今すぐにでも」
「ならば安心したまえ。エルガスたちは、彼ら自身の手で自らの首を絞めることになる」
やけにもったいぶった言い回しだ。
まるで、この先に何が起こるか知っているような──
「おい……っ! まさか……っ!」
「ああ、想像通りさ。【権能】を使った」
責める気にはなれない。
彼が自ら謝罪の意も込めて自供したのもそうだが、今回ばかりはロムルスの決断にも頷ける点がある。
ロムルスは安心しろといった。
それは即ち、カレンたちを助けられる可能性があるということ。
もし、それを予め吾が知っていたら…………きっと居ても立っても居られなくなっていただろう。
【運命識士】が提示するのは“未来”。
だが、あくまでも可能性の“未来”だ。
何かしらの要因で突飛もない変化を起こす。
向こう見ずな行動を吾が起こして、みすみすカレンたちの自由を阻害する結果に繋がってしまえば──
「済まないな、ロムルス。貴様にばかり重荷を背負わせてしまった」
「重荷ではないよ。これはボクの責務だ」
この三日間。
ロムルスの肩にのしかかった重圧は想像に難くない。
カレンたちを一刻も早く地獄から解放させたい、そう思っているのはホロウたちだけではないはずだ。
瞳を伏せるこの男も、同じ焦燥感と無力感に苛まれていた。
だから、彼もまたホロウと同じようにカレンたちの治療を行っていたのだ。
そんな彼が、一体如何なる想いで耐え続けてきたのか、吾だけはわかってやらねばならない。
そして、その時は唐突にやってきた。
先導するエルガスの馬車が歩みを止めたのだ。
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纏わりつく冷気が煩わしい。
反響する落水の風情を、一寸先が闇に閉ざされた洞窟でなければ素直に感じられたことだろう。
「いやぁ……申し訳ありませんねえ。皆様のお手を煩わせる事態になってしまって」
ちっとも悪びれていない様子がありありと感じられるエルガスの態度が酷く気に障る。
足場の悪い地面は地水の影響で滑りやすく、一歩進む度にひやひやする。
傭兵の一人が【権能】で生み出した小さな灯り以外に光の届かない洞窟内では目ぼしい光源もなく、薄暗く曲がりくねった道筋はわたくしの不安を増大させる。
けれど、危惧を抱いているのはわたくしだけではない。
他の冒険者や傭兵も大人二人が横になると手狭な通路のおかげで、武具の一つも持ち込めていない。
戦闘を生業としている彼らにとって、馴染みの武器と離れるのは別種の恐怖を誘うものなのだろう。
勿論、わたくしたちの手元にも頼るべき暴力はない。
オスマンとビザンツは荷台で待てを食らい、ホロウのダガーですら持ち込みを禁じられたほどだ。
けれど、“銅”級冒険者は太刀を頑として手放さず、ロムルスは懐に愛刀ともいえる鉈を忍ばせていたり。
それを垣間見たエルガスの表情ときたら、酷く苛立っているように見えた。
「奴隷の一人が隙を突いて逃げ出してしまいましてねえ……追いかけるとこの洞窟に駆け込んだみたいなのですが、どんな危険が待ち受けてるかわかりませんので…………よければ皆様のお力をお借りしてもよろしいでしょうか?」と、エルガスはつい数分前、一息に説明した。
おかげで、わたくしたちと、他の冒険者パーティはじめじめとした洞窟へと足を踏み入れたのだ。
とても胡散臭い。
エルガスの言葉には節々に不信感を募らせてしまう。
まず、カレンたちをたかが商品の一つとしてしか見ていない彼らが、そう簡単に奴隷たちを逃がすはずもない。
それに、こういう不測の事態のために傭兵を雇っているはずで、なぜわたくしたちが同行しなければならないのか。
当の傭兵は先頭で道を灯す男と、“金”級の五人と“銀”級の四人、“銅”級の男、そしてわたくしたち。
そして、冒険者を挟むように二人、そして、最後尾にエルガスが。
たったの三人だ。
他の傭兵は奴隷と荷台の見張りといった形で待機ときたものだ。
疑念を挟まない方がおかしい。
「それにしても、エルガスさん。逃げ出したやつはどこまで行ったんでしょうね」
「いやはや、想像もつきませんな。そうだ、無事に捕まえましたら皆様からお灸を据えてください。私どもでは躾がきかなくて……」
「おお! それは願ってもない。俺たちをこんなところに案内したやつにはとびきりキツイ調教をしてやりましょう」
なにが愉しいのだろうか。
エルガスの返答を聞いて俄然やる気になった冒険者たちには心底軽蔑する。
あんな非道な扱いをされれば誰であろうと逃げ出したくもなるだろう。
不機嫌な様子が表に出ていたのだろう、隣で歩いていたテリアがそっと手を握ってくれる。
小さな手の温もりと、小刻みに伝わる震えからテリアもまた行き場のない怒りに耐えているのだとわかる。
「そうだ、エルガスさん。俺たちにも二匹売ってはくれ──」
不意に意識が遠のいた。
視界が歪曲して、立ち竦むような両足は一歩たりとも前に進めない。
不愉快で耳障りな声は突如として響き渡った落石音によって遮られたのだと、そしてわたくしの不調もまた言い知れぬ恐怖に根付いたものだとわかった。
襲い来る地響きと土埃、そして、何よりふっと消え失せた光源のために見渡す限り闇に包まれた空間に原初的な恐怖を感じてしまう。
大地が揺れる。
今まで茫然と信じていた基盤がぐらりと揺れる根源的な恐怖には、思わず発狂したくなる。
実際に、かみ殺した悲鳴が喉から漏れていたけれど、湧き上がる恐怖はふとした瞬間に緩和された。
「アナスタシア、テリア。ボクたちから離れないでくれ」
何事かと状況を把握する前にふらつく身体が引き寄せられる。
たったそれだけで、狂いそうになった感覚が、どうしようもない混乱が落ち着いた。
わたくしの肩を抱くロムルスの腕は見かけによらず筋肉質で、肌と衣服を通して感じる彼の体温は洞窟内の気温で冷え切ったわたくしを温めてくれた。
彼の心臓の鼓動は一定に生命のリズムを刻んでいて、未だに動揺の収まらないわたくしはすっと安堵の息を吐いてしまう。
不思議だ。
まだ地響きは続いていて、今にも泣きだしそうな恐怖は去来するだろうに。
ロムルスの隣にいると、まるで噓のように消え失せるのだから。
「安心したまえ、アナスタシア。君にはボクがいる」
その言葉が、どれだけわたくしの魂に浸透して、強張った身体の硬直を解いてくれたのか…………きっと彼には予想しえないだろう。
事実、わたくし自身が驚いているのだから。
静寂に包まれた暗がりで、いつまでロムルスの腕の中で身を震わせたことだろう。
がらがらとこぼれ落ちる小石の音、他の冒険者たちの荒い息遣いだけが耳朶に響く中、いの一番に飛び込んできたのはエルガスの声だった。
「取引をしよう、冒険者諸君」
未だ漆黒にまみれた視界だが、くぐもった彼の声から塞がれた通路の向こうにいることはわかった。
「エルガスさん……?」「な、なあ。エルガスさん何があったんだ!?」
「この洞窟に出入口は一つしかない。だが、君たちは不幸にも内部から崩れた岩石に唯一の出入口までの道を塞がれてしまった」
人懐っこい声色ではない。
反響するエルガスの声には温度がなく、非情で冷徹な印象ばかりを感じる。
口々に疑問を絶叫と共に吐き出すだけの冒険者たちも、彼の変わり様に閉口せざるを得ない。
崩落の寸前の人間とはまるで異なる印象には、戸惑うだけの理由になる。
「ああ、それと。この洞窟にはここ最近巷を騒がせている魔獣が眠っているらしい。今の大音声で目覚めない保証はどこにもないねえ」
ああ、してやられた。
ようやく、エルガスは本性を表したのだ。
奴隷が逃げたとでっち上げて、わたくしたち冒険者を洞窟内へと誘い込む。
後はタイミングを見計らって洞窟の天井を破壊する。
最初から彼らの目的は冒険者の身柄だったのだ。
言いようのない不信感と疑念は、エルガスへの嫌悪によって霧散させられていた。
冷や汗が額を伝う。
恐らくは分厚いであろう岩石の壁を破壊しようにも、わたくしたちは武器の一つも携帯していない。
「従うふりをしても無駄だよ。こちらには絶対服従を強制できる【権能】持ちがいるからね」
微かに舌打ちが聞こえた。
抜かりがないとはこのことだ。
きっと、これが初犯ではない。
幾人もの冒険者がエルガスの誘いに乗らざるを得なくなり、そのまま東側領土まで奴隷として連れられ、売り飛ばされる。
実に狡猾な手口だ。
生き残るためにはエルガスに従うしかない、奴隷として。
さもなくば、暗闇の中で魔獣に怯えて餓死するか、魔獣に食われるかの二択だ。
可能性の一つとしてエルガスの言葉に虚偽が含まれている場合、希望はある。
例えば、服従の【権能】持ちがいない場合。
例えば、この洞窟には別の出入口が存在する場合。
例えば、魔獣の存在そのものが偽りの場合。
しかし、ここまで用意周到に手回しをしていたエルガスが詰めを怠るとは思えない。
「ふっざけんなよ、クソ商人がッ! さっさと岩をどけろッ!」
「吠えても怖くはないねえ。けれどいいのかなあ? 魔獣の耳は敏感だよお?」
「クッソ…………!」
魔獣が来ると言われてしまえば口を噤まざるを得ない。
八方塞がりだ。
思うように動けない上に、まともな武器を持ちえない現状では魔獣に発見された時点で致命的。
遅すぎた。
エルガスが信用ならない男だと、彼ら傭兵団が如何に奇妙な存在なのか、違和感を覚えたが時点で一層の警戒をすべきだった。
どうして、わたくしはエルガスの思惑を看破できなかったのだろうか。
一括りにされると吐き気を催すが、それでもわたくしとエルガスは同じ商人だというのに。
けれども、わたくしの自責は響く冒険者たちの絶叫によって中断された。
「そ、そうだ! エルガスさん! こっちには女が三人もいる! こいつらを好きにしてもいいから俺たちだけは助けてくれッ!」
「……!? ちょっとぉ~! あたしたちはあなたたちの所有物じゃないんだけどぉ!」
「うるせぇ、アマがッ! 生き残れるんだからそれでいいだろッ!」
「ふん、見下げ果てた性根だな。つくづく呆れるぞ」
「黙ってろガキッ! 俺たちの役に立てるんだ、光栄に思えッ!」
二つの冒険者パーティの怒気が伝わってくる。
幾ら“銀”、“金”級といえど、結託すれば九人にもなる人数だ。
この狭い通路で襲われれば多勢に無勢。
とはいえ、魔獣が実在するのならば、討伐には人数がいる。
生理的な嫌悪は拭いきれないが、頭数を揃えるためにも彼らの思考を支配しよう。
だが、その後は? わたくしたちに降りかかる火の粉を払ったところで、この洞窟から脱出しなければエルガスの所有物となるしかない。
袋小路だとは思っても、まずは身近な危険から身を守らねばと。
そう、【権能】を行使しようとした時。
もう何が起こっても驚きはしないと、高をくくっていた自分を張った倒したくなった。
地鳴りのような咆哮と捕食者の矜持を嫌でも思い知らせるような雄叫びが、ビリビリと洞窟内に響き渡ったのだ。




