27. 目醒め──稀代の秀才
全身に悪寒が走った。
特大の警鐘が緩んだ意識を無理矢理に緊張状態に繰り上げた。
きっと、“龍人”に備わった危機感地能力なのだろう。
心臓は早鐘を打ち、呼吸は窒息するかのように苦しくなる。
これは恐怖だ。
そう、あたしは結論付けた。
順調に思えた。
ぺリアーとやらがアナスタシアの要求に、七人のリーダーを代表して応えようとしていた時。
微かで、小さく、それでも“龍人”の人智を超えた聴覚をもつテリアにははっきりと、ガキリ──ッ! と何かを嚙み砕く音が聞こえたのだ。
次の瞬間、テリアの本能は臨戦態勢を選択させた。
温存していた“龍気”を惜しみなく開放し、僅かに蹲って苦悶の表情に歪むリーダーの一人へと拳を震わせた。
自分にこうも俊敏に動く機能が備わっているのか? とあたし自身が驚愕してしまう程に、残像すら生じさせて地を蹴った。
テリアが音速を超える速度で踏み込むと同時、視界の隅ではアリーが必死の形相でアナスタシアの襟首を掴み退避させていた。
やや乱暴であるが、最善の決断だろう。
しかし、テリアには分かる。
彼女は制御の効かない身体に困惑している。
弾かれたように動いているアリー本人ですら、何をしているのか分かっていないということは…………彼女の【権能】が、それを最善だと判断したのだろう。
実際に、アリーも、アナスタシアも、その行動の意味を直ぐに理解することになる。
“龍気”を最大開放し、普段の二倍三倍と運動能力を拡張させたテリアだからこそ、異形の変化をありありと把握できた。
ぺリアーの隣で縛られていた一人の男の肉体が、爆発したのだ。
かと思えば、飛び散るはずの血液を、臓腑を、赤黒い糸が歪に結合させた。
そして、瞬きの間に元の姿とはかけ離れた怪物へと変貌したのだ。
じりじりと警鐘を鳴らしていた本能は、最早、その脅威を前にして却って静寂を保っている。
距離を、間合いを稼がなければならない。
不用意に近づいてはならないと理解している。
けれども、振りかざした拳は止めることができずに、音速の衝撃波を纏ったまま異形の肉体へと突き刺さった。
肉と衝突したとは思えない音が響き渡り、振動した空気により蠟燭の火がふっと儚く消える。
なんと形容しようか、ぶよぶよとした感触が拳を伝ってテリアに気味の悪さを植え付ける。
勿論、加減などしていない。
考えうる限りの全霊で、理想のフォームで拳を振るった。
イメージ通りに水月へと吸い込まれた一撃は異形の肉体を吹き飛ばした…………後に、逆再生するかのように元に戻った。
──生まれて初めて底なしの嫌悪と生命にあるまじき反応に、恐怖を感じた。
「…………ッ! アナスタシアちゃん、アリーちゃんッ! 逃げるわよ~ッ!」
恥も外聞もなく、異形に背を向けて脱兎の如く立ち竦むアリーと、へたりと座り込むアナスタシアたちの元に帰らざるを得ない。
拳を通して伝わった感触に、生命の尊厳を貶めるかの如き再生能力に、そして何より、愉悦と苦悶に彩られた表情に。
「て、テリアさん……! あれは、な……んですか…………!」
「知らないわよ~っ! 急に、身体が膨れて、大きくなっちゃった~」
「ど、どうしましょう……っ!? こうげきは──ッ!」
「したわよ~、でも~…………通じなかったっ! ううん、直ぐに回復しちゃったのよ~!」
口早にアリーが質問するも、テリアとて何が何だか理解できていない。
まるで彼女を咎めるような口調になってしまったが、アリー本人も気にできる余裕を残していない。
急変した現状についていけない。
まずい、パニックになる…………! そう危機感を抱いても、あまりに現実離れした状況に混乱が混乱を生む。
だからこそ、凛と透き通る彼女の声が反響するかのように耳朶を打った。
「落ち着きなさい、二人とも」
とても、不思議だ。
沸々と不安が際限なく沸き起こり、今にでも逃げ出そうとする全身の震えは止まり、呼吸は自然と戻っている。
変化はただ一つ、声を聴いただけ。
テリアとアリーが慌てふためいている間に、腕を組んで真っ直ぐに怪物を見据えるアナスタシアが、声を上げるだけで綯い交ぜになった感情は静まり返ったのだ。
「テリア、攻撃は通った。それは間違いないかしら?」
「……え、ええ~。けど、一瞬で回復しちゃうの~」
「それは厄介ね。けれど、あれも元は人間。必ず、下限は存在するはずよ」
「それって、つまり…………」
「限界はある。必ず、回復できる閾値はある」
何の確証もない。
証明しろと言われては口を噤むしかない薄弱な論理だ。
だが、どうしてだろう。
肩にのしかかっていた重圧が、楔のように縛り付けていた恐怖が、噓のように消え去った。
アナスタシアの【権能】ではない。
今は“龍気”を全開にしているために、【権能】や“霊力”の影響を受けない。
天性の才覚というべきだろう。
彼女の言葉を聞けばそれが如何に無理難題であろうと、到底受け入れ難い事実であっても、その通りだと吞み込んでしまう。
「悪いけれど、テリア。ここでわたくしたちは退くわけにはいかない。あの娘たちを開放しなくてはならないもの」
「……でも~、どうすれば~?」
「策はあるわ。テリア、アリー。わたくしに全てを賭けられるかしら?」
視線が絡み合う。
自信に満ちた瞳、小さくも大きく見える背中、きっとこの場の誰よりも責任を伴う役目を一切気負うことなく引き受ける胆力。
アナスタシアは、テリアやアリーだけではない。
この拠点に囚われる六十三人の少女たちの命運すらも背負って行動しようとしているのだ。
返答はアリーとまったく同じタイミングだった。
一体誰が、彼女の誘いに否と返せるのだろうか。
敵は正体不明。
けれど、全身を支配していた恐怖も不安も既にない。
アナスタシアが策はあると言ったのだから、信じなくてはならない。
それが、テリアにできる反撃への初めの一歩だった。
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策がある。
その言葉に奮い立たされて、あたしは今、全力で走っている。
突き刺すような寒さは身体の裡から沸き立つ熱に浮かされて霧散してしまった。
「……っ、危ない…………!」
直感が「このまま進むと危険だ」と絶叫し、理性と本能が脊髄反射を用いて冷たい石壁に背をつけさせる。
数秒後、自分の勘を信じずに進んでいたらきっと、今頃複数の構成員と正面衝突していたことだろう。
アリーにとって直感は一端の理屈よりも遥かに信頼できる恩人だ。
【星辰導希】、無意識のうちに最善を選択する…………いいや、選択を強要するあたしの【権能】。
「早く…………! 一刻も早く、動かないとッ!」
脅威が去るとわかるや否や、直感に従って最善で、最速のルートをひた走る。
アナスタシアさんより説明された作戦は簡潔に言えば、こうだ──並行作業。
まず、あの怪物をどうにかしないと逃亡はおろか、避難誘導だって円滑には進まないだろう。
しかし、“渓谷からの呼び声”幹部がこの前線拠点へと訪れるまでに猶予は僅かだ。
無尽蔵に思えるスタミナと回復能力を誇る怪物を相手にしていては、到底間に合わない。
だからアナスタシアさんはチームを二つに分けた。
怪物を相手に時間を稼ぐチームと、少女たちを開放して馬車へと誘導するチームに。
といっても、三人しかいない反乱分子のため、テリアさんの援護をするためにアナスタシアさんが倉庫に残ると、必然的に避難チームはあたし一人になってしまうのだけど。
それにしても、実に合理的な作戦だ。
倉庫に辿り着くまでは三人分の最善を選択しないとならないために、隠密行動には三人分の時間がかかった。
けれど、今はあたし一人。
つまり、最善を導き出すために必要な時間は限りなくゼロに近づけられる。
それに引き換え、あの怪物を相手にするのならば、テリアさんの力が必要不可欠だ。
リーダーと護衛を圧倒した光景は今でも脳裏に刻み込まれている。
一見華奢で穏やかな、のほほんとした少女が目にもとまらぬ速さで大の大人を制圧してしまうなんて。
目の前で起こっていなければ夢だと思ってしまう。
だからだろうか、あのテリアさんでも勝ち目がないと冷静さを欠く怪物の底知れない不気味さには辟易する。
あのままぺリアーとやらに武装解除を認めさせて、こんなところさっさと立ち去りたかった。
「…………っ!? あ、あなた……! 馬車にいた!」
「ぇ、いつの間に…………? でも、着いた」
突然右隣からかけられる声に思わず飛び上がってしまいそうになるも、見渡せば薄暗い独房にたどり着いていた。
途中から作戦の反復と普段は意識しない【権能】へ集中していたからか、倉庫からの行動が曖昧だ。
だが、追手がいないということは、少なくとも見つかってはいないのだろう。
ならば、あたしはあたしのすべきことをするだけだ。
「みんな、聞いて。今から、あたしはみんなを逃がす。でも、みんながバラバラに逃げたらきっと直ぐに見つかっちゃう」
張り上げた声が石造りの独房に反響しているのがわかる。
監視に見つかる心配はない。
自分が、口を噤まないのが何よりの証拠だ。
もし大声を出して見つかる可能性が一分でもあるのなら、勝手に声は出せなくなる。
「だから、あたしの指示に従って。外にはみんなが全員乗れる馬車があるから、焦らないで」
言いたいことを矢継ぎ早に伝える。
彼女たちには悪いが一から十まで説明している暇はない。
今この瞬間にも見つかるかもしれないし、テリアさんたちに無理を強いるのも本意ではない。
牢の鍵は既に手元にある。
あの倉庫はリーダーたちの会議室であると同時に、作戦本部のような役割も果たしていたようで、この拠点の全てを開錠できる。
「ほら、早く出て。あとこれ、手分けしましょう」
目まぐるしく変わる状況についていけていない少女たちだが、あたしが本当に開放できる術を持っていると分かり浮足立っている。
一つの牢に十三人程度が収容されているから……五つ程だ。
必死に手を動かしていると時間の感覚を忘れるのだろう、気が付けば六十三人の瞳があたしを捉えていた。
次の指示を待っているのだ。
誰に? このあたしに。
今更ながら、こんな大役が務まるのかと不安で一杯になる。
だって、先導するのはアナスタシアさんみたいに気高くて、みんなが思い描く指導者そのもので。
あたしは所詮、多少運のいい奴隷だ。
髪だってアナスタシアさんみたいにサラサラじゃないし、きらきら輝く金色でなくて鈍色だし。
背だってすらりとしていないし、スタイルだってアナスタシアさんの方が何千倍だっていい。
きっと、あたしにはアナスタシアさんみたいな説得力はない。
想像の域外にいる空想上の怪物を前にしても動じることなく、あんなに冷静に策を講じることなんて、あたしには絶対にできない。
けど、アナスタシアさんはあたしに託してくれた。
落ちこぼれのあたしに、みんなを逃がすっていうあたしの願いを叶えさせてくれた。
だから、うじうじなんてしていられない。
【権能】が教えてくれる。
最善はやり過ごすことだと。
あと数秒後には監視が巡回しに来るから、今一度牢に戻って監視が去るのを待てと。
けれど、それではダメだ。
もう、最善を言い訳にした問題の後回しは御免だ。
ここでやり過ごしたって、きっといつかは見つかってしまうのだから。
「今から、みんなでここを出る。みんなは自由だから。あたしたちは自由なんだから」
自分でも驚く程に言葉は少ない。
きっと、誰一人たりとも理解できなかっただろう。
だが、それでもいい。
皆に背を向けて独房へ通じる階段を向いたあたしからは、みんなの表情は分からない。
怪訝そうに眉をひそめる者も、指示と受け取らず言葉を待つ者もいるだろう。
今はそれでいい。
いつか、安寧を手に入れて、ほっと息を吐ける時が来たら思い出して欲しいだけだ。
──「アリー、貴女は自由なの。だから、わたくしよりも遥かに皆の心に訴えかけることができる」
わたくしは、厄介な柵にとらわれてますもの…………そういってくすりと笑った彼女の微笑みを生涯忘れることはないだろう。
【星辰導希】はその名の通り、星の報せを聴く【権能】。
あたしは星の聲に耳を傾けて、詠むだけ。
だけど、アナスタシアさんは言っていた。
【権能】は魂の表象に過ぎず、魂の盛隆次第でその様相を変化させるのだと。
もし、星があたしに上から目線で聲を届けるだけでなければ、もし、星を顕現させることができれば──
「あたしはアリー。ちっぽけで、どこにでもいる人間です。けど、一人の人間です。理不尽を振りかざせば屈するとは努、思わないようにしてください」
がしゃがしゃーーッ! と重厚な装備を纏った傭兵が足元に崩れ落ちる。
あたしが殺したのだ。
熱く輝く点を、線にして操っただけ。
きっと、“霊力”と【権能】が混在した結果なのだろう。
それでも、あたしは星を現実に呼び起こせたのだ。
「さあ、行きましょう。早く、逃げないともっと途轍もない奴が来ます」
振り返らない。
きっと、アナスタシアさんならちらりと肩越しに視線を向けたのだろう。
けど、あたしはできない。
きっと、みんなの眼を見てしまうと魔法が溶けてしまいそうになるから。
あたしは初めて人を殺した。
理由はある。
けど、ダメだって理性が歯止めをかけている一線を越えたことはなかった。
殺人が最たることだって分かっていたのに。
だから、みんなの恐怖に染まった眼を見てしまうと自分のしたことを思い返して蹲ってしまう。
それは、後悔は、懺悔は、全てが終わってからでいい。
ここから馬車のある屋外の倉庫に向かうまでに、あたしはもっともっと多くの人を殺すだろうから。
誰一人欠けることなく、全員で。
もちろん、アナスタシアさんも、テリアさんだって無事に集まって。
その時に、あたしの背負った業に向き合おう。
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薄桃色の髪を振り乱して少女は拳を叩きつける。
すると、常人の三倍はあるであろう巨躯を誇る怪物は大きく欠損した右肩を抑えて膝を着いた。
その隙を見逃す彼女ではなく、続けざまに怪物の顔面へと膝蹴りを繰り出し、仰け反った怪物を地へと叩き伏せるように鳩尾へと垂直に右肘を突き刺す。
その一連の動きは非常に滑らかで一撃の度に衝撃波が空気を震わせ、わたくしの頬を打つ。
だが、まるで何もなかったかのように、飛び散った自身の肉片を気に掛けることなく怪物のそりと立ち上がり愉悦に表情を歪める。
決してテリアの攻撃が生温い訳ではない。
ただひたすらに怪物がタフなのだ。
テリアが拳を振るう度に石造りの壁や床はひび割れ、蹴りを放とうものなら踏み込んだ石畳は一段とすり減り、怪物は慣性に従って吹き飛ぶ。
それでも、立ち上がりむず痒いとでも言いたげな仕草で反撃するのだ。
埒が明かない。
テリアの攻撃は通じないというのに、怪物の無造作に振り上げられた腕に掠るだけで彼女には致命打になりえる。
それに、テリアの“龍気”だって無限じゃない。
ホロウ曰く、“龍気”を纏った後の虚脱感は凄まじいらしく、限界が近づくにつれて全身の骨が鉛に変貌したような疲労が襲い来るという。
見たところテリアはまだ疲労の色を感じさせないが、いつ限界が来てもおかしくない。
「わたくしの役目は、弱点を見つけること…………でないと、何のためにここにいるの……!」
わたくしには怪物が現れた時の記憶はない。
眼前で閃光が弾けたと思えば、次の瞬間には奴と目が合ったのだ。
しかし、テリアには見えていた。
流石は“龍人”の知覚能力だ。
どうやらぺリアーの右隣にいた別のリーダーが何かを嚙み砕いた次の瞬間、膨れ上がったというのだ。
因みに、ぺリアーと他の六人のリーダーは真っ先に怪物の餌食になったらしい。
その際にチャラチャラと牢の鍵を落としてくれたためにアリーが随分と楽になった。
同情はしない。
彼らには彼らの事情があったにしろ、人攫いに身をやつした時点でまともな最期を迎える覚悟はできていたはずだ。
彼らのおかげで、テリアとアリーに作戦を伝えられる猶予が生まれたのだから感謝はしている。
兎にも角にも、問題は解決していない。
打倒する相手がぺリアーたち──表面上は人間の皮を被った外道──から、人外に変わっただけ。
そして、わたくしには嚙み砕いたという何かに心当たりもある。
鋼草。
帝国で最も多く使われる麻酔薬、その原材料である甘霊草を煮詰めて発酵させ、纏めたものだ。
一見すると黒い丸薬だが、帝国全土で鋼草の生産や使用ですら禁じられる代物なのだ。
甘霊草は麻酔として使用する際は煮詰めて液体にするだけでよく、神経の働きを鈍らせる…………と同時に、とてもじゃないが無視できない副作用がある。
それが、高度の依存性。
故に、発酵させて粉末にした麻薬としても取引される。
そして、甘霊草の厄介な点はもう一つあり、それが鋼草だ。
あくまで、麻薬の一派生としての位置付けだが実情は異なる。
甘霊草の効能の一つ、“霊力”の著しい増幅。
黒い丸薬の形であり検挙するには小さ過ぎて見逃してしまう上に、服用者によって何と“霊力”を向上させるだけにとどまらず肉体すらも異形に変えてしまうのだという。
面倒で厄介。
とんでもない代物で、人間はなんて利用方法を思いつくのだと戦慄してしまう。
そして、目の前の怪物はその被害者…………いや、加害者というべきか。
「けれど、同時に身元も割れたわね」
鋼草はそうそう市場には出回らない代物だ。
何故なら、その製造方法と売買を独占している集団があるからだ。
“三神会”と自称する人間至上主義の過激派だ。
エルシニア人とフフェス人を世界から撲滅させろなんて割と本気で叫ぶトンデモ集団。
あまりの過激性に一般臣民、つまりは同族からも嫌悪される連中。
そいつらがより高次の存在へと、変化するために制作されたのが鋼草であり、ビジネスチャンスと捉えた一部の闇商人が仲介人となって流通させたのが顛末。
けれども、その闇商人もまた“三神会”所属の人間に限られているために、やはり身元は分かり易い。
恐らく、あの怪物に成り果てた男の思惑は“渓谷からの呼び声”幹部へと鋼草を献上することが目的だったのだろう。
“三神会”全体の活動資金を得るために。
だけど、そこにわたくしたちが反乱を起こした。
おかげで“渓谷からの呼び声”幹部にお目通りするどころか自分の命すら危うくなってしまった。
もし脅しに屈して商品を逃がしたと知られれば鋼草を売り込むどころではないのだから。
「鋼草の霊力増幅機能には制限がある…………けれど、それを待っていては夜が明けてしまう」
三時間。
“三神会”の構成員約百人余りが現皇帝の統治に納得がいかず──とはいってもあくまで“三神会”の視座であるだけで、充分に差別社会は構築されているが──大規模なテロを起こしたのだ。
その時に使用されたのが鋼草による調薬服用強化。
幸いなことに、帝国最強の人物と謳われる帝都守護『超将』オルロイア=ジンの手によって芽は摘まれたと報じられた。
様々な噂が飛び交ったが、結局、オルロイアたった一人で百人の怪物相手に圧勝したという一点は変わらなかった。
だが、重要なのは、その襲撃の際に鋼草を一つ鹵獲できたことだ。
無論、帝国の研究者たちは挙って調べ上げ、持続時間はもって三時間と結論付けた。
ああ、そうだ。
この場で三時間も遅延行為をかけた所で、“渓谷からの呼び声”幹部の到着までに逃げなければならないし、そもそもあと十数分だってテリアの体力が持つかもわからないのだ。
けれども、その他に鋼草の弱点はない。
服用後は精神が混雑して人格が破綻する…………時間制限付きのハイリスク劇薬。
鋼草に付け入る隙がないのであれば、当人だ。
テリアの攻撃は通っている。
まず、間違いなく。
ならば、厄介なのはあの再生力とタフネス、無尽蔵の体力だ。
三つの障害さえ乗り越えてしまえば、テリアの力で打破できる。
さあ、思考を重ねろアナスタシア。
観察して、考えて、妙案をひねり出せ。
現状、わたくしは役立たずだ。
怪物はテリアが、少女たちの開放はアリーが。
それぞれ適材適所で全霊をもって対処してくれている。
けれどわたくしは、わたくしだけ、こんな薄暗い倉庫で突っ立ているだけ。
分からない、理解できない。
武術に関してはからっきしだ。
“メディツァ家”では文武両道の精神から一通りの武術も教養として押し付けられるが、冷遇されていたわたくしではその恩恵に与れなかった。
弱者は弱者のままで、嬲りやすいように、力を与えてはならなかったのだ。
故に、眼前で繰り広げられている戦闘にアナスタシアの出る幕はない。
辛うじてテリアが技と“龍気”で暴力を抑え込んでいる程度しか、判断できない。
わたくしに、アナスタシアに許されたことは突破の糸口を霧中で探すか諦観のままに傍観するか。
「違う…………それでは、何も変わらない。できない訳が、ない……!」
まだ、まだ手はある。
わたくしには【権能】がある。
だが、既に試した。
【悪因叛逆】で思考を誘導して自害させるように仕向けた。
精々が数秒動きを止めるに終わったが…………それは、第一段階の話だ。
思い出してきた。
記憶が鮮明に像を結ぶ。
そうだ、オラウダと隠れて【権能】の知識を蓄積した時──オルウェルの書斎から持ち出した文献には確かに記載されていた。
──実存昇華
眉唾と思っていた。
これまでにそれを成し遂げたという前例は皆無だと。
どの文献にも、皆口を揃えて夢物語だと言って存在を否定した。
だが、もし、存在しない事象ならばどうして実存昇華と名称が語り継がれている? 前例があったから、確かに存在したから、一つの進化として位置付けられているのだろう?
無論、方法などわかったものではない。
【権能】の進化とはつまり、魂の外郭機能である【権能】を一次元押し上げると同義だ。
それは偏に、魂を、人格を変容させるに等しい。
「…………いいでしょう。魂を変える? 受けて立ちます。どちらにせよ、どれもわたくしに変わりはないのだから」
現状、必要なのは時間でも、力でもない。
【権能】が進化したからといって、アナスタシアの身体能力が向上する訳ではない。
この場で緊迫した状況を打破できるのは、テリアなのだ。
ならば、わたくしの【権能】で、【悪因叛逆】で何ができる。
所詮は他者の悪意に感応するだけの、思考を誘導するのが精一杯の精神世界に干渉するだけの【権能】で。
ホロウのように“龍気”を併用できれば……………………“霊力”ならば?
「……………………テリア、受け取りなさいッ!」
気が付いた時には全力で投擲していた。
と、同時にわたくしは怪物の動きを止めた。
勿論、わたくしの膂力では振りほどかれるが。
今あの怪物を縛っているのはわたくしであってわたくしではない。
漆黒の鎖が、石畳の床から、天井から中空から怪物の全身を拘束しているのだ。
仕向けたのはわたくし。
そして、生じさせた隙を最大限活用するのはテリアだ。
彼女の持ち味は身軽な動きと緩急の付いた重い一撃だ。
蝶が舞うように地を駆けて、まるで想像もつかない破壊力を発揮するのだ。
そんなテリアの長所を引き出せる武器。
わたくしに“龍気”は使えないが、“霊力”ならば話は別だ。
【悪因叛逆】は“悪意”を意のままに操れる。
ならば、同様に手に取れない空気のような存在である“霊力”もまた操れるはずだ、とわたくしは規定したのだ。
【悪因叛逆】第二段階“顕現悪性”
怪物の周囲に散乱していた“霊力”を文字通り掌握し、その身を縛る鎖へと変貌させた。
実体をもった“霊力”は支配者であるわたくし以外に破壊も、放棄も不可能。
何故なら、支配者はわたくしなのだから、わたくしの許可もなく創造物に手を加えることは不届きだろう。
故に、“霊力”で構築した武器は使用者の圧倒的溢れんばかりの“龍気”を流しても、自壊するなんてことはない。
「さっすがはアナスタシアちゃんね~! ありがたく使わせてもらうわ~!」
恐らくは“霊力”を全開にして踏み込んだであろうテリアは音を置き去りにして宙へと跳んだ。
そして、まるで抵抗を感じさせない動きで回転する。
慣性を利用して“霊力”を込めた漆黒の三節棍を身動きの取れない怪物へと叩き込む映像が、目の前で起こっているというのに緩慢に見える。
次の瞬間、三節棍の先が怪物へと着弾した刹那、耳をつんざく絶叫が反響した。




