第二十一話 先約
事故から一か月が過ぎた土曜日、私はカナちゃんと、大学時代に何度か利用したことのある喫茶店で待ち合わせをした。
駅前の大通りから一本入った場所にある古い店で、色の濃い木製の扉を開くと、小さなベルが控えめに鳴る。
店内には磨かれた木の壁と深い緑色の椅子が並び、天井から下がった琥珀色の照明が、昼間でも少しだけ夜に近い影を作っていた。
珈琲豆を挽く音と、低く流れるピアノの曲、それから食器が触れ合う小さな音だけが聞こえる。
約束の五分前に着いたつもりだったが、彼はすでに奥の席に座っていた。
窓や入口から顔が見えにくく、背後が壁になっている席だった。
彼自身は通路側に座り、店へ入ってくる人間が自然に目に入る位置を選んでいる。
私に気づくと、青年はテーブルの上に置いていた資料から顔を上げ、すぐに立ち上がった。
事故の日には乱れていた明るい茶色の髪は、今日は柔らかく横へ流すように整えられている。
濃い紺色の薄手のニットに、細身のチャコールグレーのパンツを合わせており、袖口からは文字盤の小さな銀色の腕時計が覗いていた。
座っていても手足が長いことは分かっていたが、立ち上がると改めて高く感じられた。
「お疲れさまです、先輩。」
「カナちゃん、早いね。」
「十七分前に着きました。」
「細かい。」
「待ち合わせですから。」
彼は私の肩にかけていたバッグを、ごく自然な動作で受け取った。断ろうとした時には、すでに自分の荷物と一緒に壁際へ置いている。
「こちらへどうぞ。」
奥側の椅子を引かれ、私はそこへ座った。
事故の後、知らない人に見られることや、スマートフォンのレンズが自分の方を向いていることに、以前より敏感になっていた。
店の奥に座ると、入口や通路を気にしなくてよい。
それを彼が意識してこの席を選んだのかまでは分からなかったが、尋ねると、きっといつものように偶然ですと答える気がした。
向かいへ座った青年は、店員を呼ばずにテーブルの端を確認した。
すでに注文を済ませていたらしく、二人分の水と、私の好きなカフェオレ、それから固めのプリンが置かれていた。
「勝手に頼んだの?」
「先輩が遅刻しなかった場合、そろそろ来る頃だと思いましたので。」
「遅刻する可能性も考えてたんだ。」
「ありますからね。」
「したことないでしょう。」
「三年の春に一度、七分遅れました。」
「覚えてないよ。」
「僕は覚えています。」
青年はそう言って、自分の珈琲へミルクを少しだけ入れた。伏せた目の睫毛が、照明の下では意外なほど長く見える。隣の席に座っていた女性客が、何度か彼の方を一度見たあと、頬を染め、友人と何かを小声で話していた。
明るい場所で改めて向かい合うと、いつも見知らぬ女性が振り返る理由がよく分かる気がした。
「先輩。」
「何?」
「今日は朝食を食べましたか。」
私が考えていたこととは全く関係のない質問だった。
「食べたよ。」
「何をですか。」
「トースト。」
「何枚ですか。」
「一枚。」
「ほかには?」
「カフェオレ。」
「一応合格にしておきます。」
「何の審査なの。」
「生活状況です。」
「相変わらず細かいね。」
「一か月前に保護対象が勝手に危険な島へ行ったので、警戒レベルを引き上げました。」
「仕事だったってば。」
「その言葉は、本当に嫌いです。」
「怒らないでよ。」
「怒ってません。心配は、しています。」
そのやり取りをすること自体が、少し懐かしかった。
三影島から戻った直後は、会社への報告、警察からの追加確認、町との打ち合わせ、流出した個人情報への対応に追われていた。
眠ろうとすると金属音が耳の奥へ戻り、白いビニール袋や、白い服を着た人が視界の端へ入るたび、一瞬だけ身体が固くなった。
それでも時間は過ぎた。
毎日同じ電車が走り、会社では別の案件が動き、スーパーには秋の商品が並び始めた。
事故のことを考えない時間が、少しずつ長くなっていた。
「それで。」
私はテーブルの上に置かれた厚いファイルを見る。
「今日は、その報告会?」
「お土産をもらう会です。」
「買ってないよ。」
「知っています。」
「事故があったから。」
「はい。」
「怒ってる?」
「いいえ。」
「怒ってるでしょ?」
「埋め合わせを要求します。」
カナちゃんは平然と言ったあと、私の前に置かれたプリンへ視線を向けた。
「島から無事に戻ってきたので、半分は受け取ったことにします。そして、残り半分が、このプリンです。」
「それ、カナちゃんが頼んだんでしょう?」
「はい。ですが、先輩が食べます。」
「自分のためじゃないの?」
「先輩が食べているところを、僕が見るためです。」
何気なく言われたが、私は一瞬、返す言葉を失った。
彼は特に意味のあることを言ったつもりもなさそうに、ファイルを開いている。
「まず、藤尾さんの件からお話しします。ご本人がSNSで、退院したことを報告されています。」
「う、うん。」
「頭部の傷も順調に回復していて、肩の骨折についてはしばらく通院が必要ですが、もう少しすれば無事日常生活へ戻れる見込みだそうです。」
「そう。」
知っていた情報ではあったが、もう一度聞くと、胸の奥に残っていた硬いものが少し緩んだ。
「事故当時の記憶については、金属が軋む音を聞いた辺りから曖昧だそうです。白いものに関しては、何かあったような気はするけれど、事故後に映像や画像を見たため、自分の記憶なのか、後から見たものなのか分からない、と。」
「藤尾さんらしい答えだね。」
「はい。取材は全て断られているそうです。」
「うん。それがいいと思う。」
「あと、事故から五日後に、病院の周囲に報道関係者が数名いたそうです。」
私は顔を上げた。
「五日後。」
「黒川正臣さんの件と結びつけて、五日後に何か起きるのではないかと言われていましたから。」
「何も起きなかった?」
「SNSへの投稿で、病院の夕食について、味が薄いと不満を呟いていましたね。無事であり、期待はするなと、そういう意味でしょう。」
思わず笑った。
「大丈夫そうだね。」
「はい。少なくとも、今回黒川さんと同じことは起こりませんでした。」
青年はファイルの一枚目をめくった。
「事故の原因については、まだ最終報告ではありませんが、おおよその整理はされています。前々日までの雨で柔らかくなった地面、敷板の沈み込み、足場上の三名の移動、後から追加された大型照明、控えロープの位置変更、それから、軋みが確認された後も使用を継続したこと。複数の要因が重なった事故である可能性が高いそうです。」
「誰かが壊した形跡は?」
「ありません。ロープも金具も切断されていない。故意に緩められた痕跡もない。構造上の問題と、判断の遅れが重なった人為的な事故です。」
人為的。人間が悪意を持って起こしたという意味ではない。
人間の判断と不備がいくつも重なって起きた事故、という意味だった。
「白いものが足場を倒した証拠は、何もありません。」
彼は、はっきり言った。
「私も、そう思う。」
「はい。」
「足場が傾いたから投光器が動いて、光が動いたから、それまで暗かったものが一瞬見えた。」
「それが最も自然です。」
「では、白いものは反射?」
「分かりません。」
彼は迷わず答えた。
「元映像にも、白い縦長の像は確かにあります。再圧縮された切り抜きだけではなく、レイジさん側の元映像にも、〇・二秒前後。ただし、人か、布か、木か、反射か、残像かは断定できません。」
「現場には何もなかった。」
「警察が到着した時点では。」
「事故で飛んだ可能性もある。」
「あります。」
「では、普通に説明できる?」
「できる可能性は高いです。」
青年は、ファイルから三枚の紙を取り出し、テーブルの上へ並べた。上部に、それぞれ違う見出しが印刷されている。
確認できたこと。
通常の範囲で説明できること。
現在も確認できないこと。
「何、その分け方。」
「先輩は、事実と可能性と感情を一緒に話すので。」
「悪口?」
「対策です。」
「失礼だね。」
「でも、理解しやすいでしょう。」
「それは、まあ。」
彼は、二枚目の紙を指で軽く押さえた。
「白い布のアイコンを使ったアカウントのほとんどは、同一人物が複数作成したものか、便乗です。他の心霊じみた投稿も、事故映像や生成画像を繰り返し見た心理的影響として説明できます。『来た』というコメントが映像より先に見える問題も、配信遅延、端末側の遅延、コメントの送信時刻と表示時刻の違いで説明できます。」
「説明できるんだね。」
「はい。ほとんどは。」
「ほとんど?」
彼は三枚目の紙へ指を移した。
「白い像の正体は不明です。『白布 二の下。誰も触るな』と、複写用紙へ誰が書いたのかも分かっていません。それから、黒川さんの記事や事故について、役場の資料が出る前から詳しく書き込んでいたアカウントが複数あります。」
「島の人では?」
「可能性はあります。ただ、投稿者は特定できません。」
「最初に黒川さんのことを書いた投稿も?」
「特定できませんでした。もしかすると、あの時確認した投稿より前にも、削除されたコメントがあった、という可能性もあり得ます。」
「それなら、誰かが普通に書いたんでしょう。」
「そうだと思います。」
彼はそう答えながら、紙の端を指先で揃えた。
「ただ、説明できることと、実際に何が起きたかは、同じではありません。」
「カナちゃんらしくない言い方だね。」
「僕は、説明できる可能性があることを、起きなかったと断定する方が嫌いです。」
店員が新しい珈琲を運んできた。一度、会話が途切れる。
青年は店員へ丁寧に礼を言い、カップが置かれてからも、すぐには話を再開しなかった。
私がプリンを一口食べるのを待っているようだった。仕方なく、スプーンを手に取り、一口すくって口に運ぶ。
視線を感じつつ、話を続けた。
「町の方は?」
「公式SNSに新しい投稿はありません。山神婚礼祭の一般公開も、当面は中止。翌年以降、祭礼そのものを続けるかどうかは、保存会と島民の間でも意見が割れています。」
「浜谷さんは?」
「保存会の代表を辞める意向を出しています。町は慰留しているそうですが。」
「潮見さんは?」
「残っています。事故後の問い合わせ対応をしているそうです。」
「普通の観光客は、減ったかな。」
「事故が起こる直前よりは、減っていると思います。」
彼は、都合のよい慰めを言わなかった。
「その代わり、心霊目的の来島希望と、撮影許可の問い合わせは大幅に増えました。立入禁止区域へ入ろうとして、警察へ注意された人もいます。」
「観光化は、島の寿命を延ばすためだった。」
「はい。」
「逆に、短くしたかもしれない。」
「それは、分かりません。」
胸の奥が、再び少し重くなる。けれど、彼はすぐに否定せず、私がその言葉を受け止めるのを待ったあと、静かに続けた。
「ただ、それは、先輩一人が島の寿命を縮めたという意味ではありません。」
「でも、サイトを作ったのは私だよ。」
「はい。」
「島民たちの大切な祭礼を、怪談のようにして広めた。そして、観光化はおろか、結局島の悪評を広めた。」
「……はい。」
「責任がないとは、絶対に言えない。」
彼はすぐに、違いますとは言わなかった。テーブルの上へ視線を落とし、揃えた三枚の紙をもう一度見たあと、ゆっくり顔を上げた。
「確かに、入り口を作ったのは、先輩かもしれません。」
静かな声だった。
「それは、もう、なかったことにはできません。」
「うん。」
「でも、事故を起こしたのは、複数の不備が重なった足場です。怪談を育てたのは、保存して、加工して、名前をつけて、広めた人たちです。観光化を決めたのは町で、公開を受け入れたのは保存会です。それぞれに違う責任があって、一つにまとめることはできません。」
「でも、きっと、一人にまとめた方が分かりやすいし、叩きやすい。」
「はい。」
青年は、少しだけ眉を寄せた。
「一人の責任者がいた方が、話は簡単になります。秋原澪が祭りを怪談にして、人を集めて、事故を起こした。それなら、複雑な判断や、少しずつ重なった失敗を考えなくて済みます。」
「簡単な、物語だね。」
「人が最終的に一番好むものです。」
彼は私の目を見た。
「でも、それは間違っています。先輩一人が背負うべきものではありません。事前に相談を受けておきながら、炎上や特定の可能性を把握しきれなかった僕にも、反省すべき点はあります。だから、抱え込まないでください。絶対に。」
その言葉を聞いた時、すぐに何かが軽くなったわけではなかった。
事故がなかったことになるわけでもない。
島の人たちの怒りが間違いになるわけでもない。
それでも、胸の奥で絡まっていた糸のうち、少なくとも自分一人の首へ巻きついていた部分だけは、少し緩んだ気がした。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
「カナちゃん、やっぱりこういう説明、得意だね。」
「元コンサルタントですので。」
「今は?」
「今は、先輩専属の相談役ですかね。」
彼は珈琲を一口飲み、ファイルの最後のページを開いた。
「それから、ここから先は、証明できる話ではありません。」
「怪談の話?」
「可能性の話です。」
「うん。」
「三影島には、以前から形がありました。山の女様という名前、婿を山へ送る祭礼、白布、二の鳥居、それから、名を呼ばない、婿を止めない、戻るまで数えないという規則。」
「島の中に閉じられていた。」
「はい。知っている人が少なく、外部の人間が参加するには、実際に島へ行く必要がありました。」
「黒川さんの記事が出るまでは。」
「正確には、黒川さんの記事が、その形を最初に外へ開いたのだと思います。」
彼は、三十八年前の雑誌記事のコピーを指でなぞった。
「記事を読んだ人たちは、島へ来て、名前を呼び、鳥居や段数を数え、白いものを探し、婿を止めようとした。祭礼を見学しただけではなく、知らないうちに、規則、いや、禁忌を破った。」
「……今回も、同じ?」
「規模が違います。」
彼はノートパソコンを開き、画面に簡単な図を出した。
「先輩のサイトが、祭りを検索できる言葉にしました。レイジさんの配信が、同時に祭りを見る場所を作りました。切り抜きが、何度でも見直せる映像にした。コメント欄が、見ている人に返事をさせた。画像生成が、姿のなかったものに、顔と身体を与えました。」
「それは、ただのネットミームでしょう。」
「そうかもしれません。」
青年は、少し考えるように視線を落とした。
「ただ、神様とネットミームの違いは、どこにあるんでしょうね。」
「カナちゃんらしくないね。非科学的というか。」
「……どうですかね。どちらも、名前を与えられ、同じ姿を共有され、繰り返し語られることに違いはありません。やってはいけないことや、やるべきことが作られ、信じる人だけではなく、否定する人の行動まで変える。」
「否定する人も?」
「偽物だと検証するために画像を再投稿する。不謹慎だと批判するために、白いものへ言及する。見ない方がいいと警告するために、検索される名前を書く。誰も信仰しているつもりはないのに、全員が同じ名前を呼んで、同じ像を見ています。」
私はノートパソコンの画面を見る。
白いもの。
白い人影。
白い女。
山の女様。
最初は何の形も持たなかった数個の白い画素が、人の言葉と画像を通るたび、少しずつ同じ姿へ近づいていった。
「……神様がインターネットへ出てきた、ということ?」
「出てきた、というか。仮に女様のようなものがいたなら、存在の仕方が変わった、とは考えられます。」
「現実の四国の海を渡る代わりに、ネットの海へ出てきた、みたいな?」
「そうですね。もう島に行く必要はなくなった、ということでしょうか。」
「実際に山に登らなくても、ネットで会えるっていう意味?」
「そうですね。どこに居てもいい。サイトを見る、映像を再生する、白いものを探す、名前を書く、『こん』と返事をする。」
青年は、淡々と並べる。
「これは、もう祭礼に近いのではないかと思います。」
「……女様は、もう島にいないのかな。」
「元々、いたかどうかも分かりません。」
「うん。」
「ただ。」
彼は一度言葉を止め、私の顔を見た。
「仮にいたなら、島に留まる必要は、もうないでしょうね。」
店内で、木の扉が一度鳴った。新しい客が入ってきただけだった。
私は反射的にそちらを見て、すぐに彼へ視線を戻した。
「少し非科学的でしたね。」
「……うん。」
「では、話題を変えましょう。」
「いいの?」
「これはただの物語的考察ですから。」
彼はノートパソコンを閉じた。私も、残っていたプリンを一口食べる。
甘く、少し固い。事故や神様の話をしていても、味は普通のプリンだった。
「あの日、さ。」
「はい?」
「島に迎えに来てくれたでしょ?」
「はい。」
「ただの大学の元先輩に、そこまでするものなのかな。」
青年の手が止まった。珈琲のカップへ伸びていた指が、取っ手に触れる直前で止まっている。
「……仲の良い先輩です。」
「祭礼のことも、寝ずに調べてくれたよね。」
「……僕の趣味みたいなところもありますから。」
「いつも、すぐ返信くれるよね。」
「……それは、起きてる時は基本すぐに確認するでしょう。」
「寝てても、電話に出てくれるよね。」
「……事故や事件に巻き込まれる可能性を否定できませんから。」
「そろそろ、色々、無理があるでしょう。」
「……そう、ですね。」
彼はカップを持ち上げたが、飲まずに元へ戻した。照明の色のためかもしれないが、耳の先が少し赤くなっている。
「でも。」
青年は視線を僅かに逸らした。
「……本当のことを言っても、きっと困らせるだけですから。」
「そうとは限らないけど。」
「あれだけ異性にも恋愛にも興味ないと言っていた、仕事人間の先輩が、ですか?」
「先月の白いSUVが白馬に見えたからね。王子様も乗ってたし。」
彼は完全に固まった。いつも人をからかう態度を取ることが多いので、本当に珍しい姿だった。薄い茶色の瞳が若干揺れている。
「どうかな。これは、私から言った方が良いのかな?」
「……好きです。」
小さく、けれど聞こえる声で彼は呟いた。目元はしっかりと赤くなっていたが、目を逸らすことはなかった。
「先輩が。」
店内では、変わらずピアノの曲が流れている。
カウンターでは店員が珈琲を淹れ、隣の席の女性たちは小さな声で話していた。世界のどこにも、今の言葉に合わせて止まってくれるものはなかった。
「カナちゃん。」
「……はい。」
「いつから?」
「……今、その確認は必要ですか。」
「必要でしょう。」
「長くなります。」
「長くてもいいよ。」
「今日は、やめておきます。」
「何で?」
「先輩が、混乱しているので。」
「カナちゃんの方が混乱してるでしょ。」
「……していません。」
「耳、赤いよ。」
青年は片手で耳を隠した。
「見ないでください。」
「なんで?」
「……格好悪いので。」
「そんなことない、可愛いよ。」
「……前に、どうせなら可愛い男性が好みと言っていましたよね。」
「言ったような気もするね。」
「では、これは、そういうことでしょうか。」
記憶を探る。確か大学三年の時のサークルの飲み会で、女性の先輩から好みのタイプを聞かれた。
当時から将来社畜になりそうと不名誉な称号をもらっていた私は、興味ないとは思いながらも、なんとなく「可愛い男性」と答えた。
そして、よくよく思い返してみると、その頃からカナちゃんの言動が柔らかく、少し甘えたものになった気がした。
なるほど、と一人合点する。
「カナちゃん、可愛い子ぶってたのか。」
「……ちがいます。」
「違いますか。」
「……どう答えたらいいですか。」
少しだけ不満そうな返事だった。しかし、耳も頬も赤いままなので迫力は一切ない。
「確かに、可愛いね、カナちゃんは。」
「どう考えても先輩の方が可愛いし、綺麗ですよね。」
「なるほど。可愛くて綺麗ですか。」
「違います。」
「違うの?」
「い、いえ、違い、ません。違いませんが……。」
とても狼狽えている。
格好よく助けに来て、さっきまで神様とインターネットについて冷静に話していた人が、私の言葉にこうも翻弄され顔を赤くしている。
それがおかしくて、少し笑った。
「今度は迎えに来てもらうんじゃなくて、二人で行こうか。」
「……島ですか?」
「ううん。島も、山も、祭りもないところ。」
「それは、どういう――。」
「次の約束。」
青年は、ゆっくり瞬きをした。
「それは。」
「うん。」
「……デートという認識でよろしいですか。」
「認識は任せる。」
「重要なので、明確にしてください。」
「普通に誘ってよ。」
彼は一度息を吸い、テーブルの上で両手を組み直した。
「では、来週、僕と出かけてください。」
「はい。」
「……はい?」
「行くって言ったの。」
「聞こえました。」
「では、何で聞き返したの?」
「確認です。」
彼はスマートフォンを取り出し、予定表を開いた。
「来週の土曜日でいいですか。午前十一時集合、昼食後に――」
「待って。」
「はい。」
「日付、来月になってるよ。」
青年の指が止まる。画面には、確かに一か月後の日付が選択されていた。
「動揺してるでしょう。」
「していません。」
「すごくしてるね。」
「操作を誤っただけです。」
「珍しい。」
「今、直します。」
平静を装いながら、もう一度違う日付を押した。私は声を立てて笑った。
彼は少し恨めしそうにこちらを見たが、口元は僅かに緩んでいた。
その時、閉じたはずのノートパソコンから、小さな通知音が鳴った。
青年の表情が変わる。
画面を開くと、関連投稿の監視通知が一件届いていた。
◇
【新規投稿】
投稿者:
@xxxxxxxx。
本文:
家の裏山で、白い布みたいなものを見つけました。
これ、何でしょうか。
添付画像:
薄暗い山道。
木の枝に、細長い白色のものが引っかかっている。
撮影場所:
不明。
投稿時刻:
二分前。
返信一:
ただのビニール袋じゃないの?
返信二:
拾わないでください。
返信三:
こん。
◇
「調べる?」
私が聞くと、彼は数秒だけ画面を見たあと、ノートパソコンを閉じた。
「今日は見ません。」
「カナちゃんが?」
「はい。」
「珍しいね。」
「先約がありますので。」
今度の言い方は、以前よりも少し柔らかかった。
◇
店を出ると、細い雨が降っていた。傘を差さなくても歩けそうな程度だったが、青年は斜め掛けのバッグから、黒い折り畳み傘を取り出した。
「傘、私も持ってるよ。」
「知っています。」
傘を開き、私の方へ差し出す。
「でも、今は僕のに入ってください。」
「何で?」
「……先約もありますから。」
「来週だよ?」
「来週も、です。」
二人で傘の中へ入る。彼は私が濡れないように傘をこちらへ傾けており、反対側の肩には、すでに細かな雨粒が付き始めていた。
「カナちゃん、濡れてるよ。」
「大丈夫です。」
「大丈夫じゃないでしょう。」
私は青年の袖を軽く引いた。思っていたより近くなり、肩が触れる。
彼が、一瞬だけこちらを見た。
「これでいい?」
「……はい。」
「少し服も濡れたし、うちで乾かしてく?」
「え?」
私は前を向いたまま、傘の中へ、もう半歩だけ近づいた。背後で、喫茶店の木製の扉が閉まる。
扉に付いたベルか、風に揺れた看板か、それとも店内で誰かがカップを置いた音だったのかは分からない。
乾いた音が、一度だけ鳴った。
こん。
私は振り返らず、奏斗の傘の中を歩いた。




