第二十話 迎え
事故の翌朝、目を開けた時には、窓の外はすでに明るくなっていた。
眠っていた時間があったのかどうかは分からない。
布団へ入ったことは覚えているし、照明を消したことも覚えている。それでも、その後に意識が途切れた感覚はなく、目を閉じるたび、投光器の白い光と、石段へ崩れ落ちた藤尾さんの姿が戻ってきた。
民宿の窓からは海が見えた。
波は穏やかで、港の方角には、朝の便へ荷物を積み込む小さな車が何台か走っている。
昨日までと変わらない島の朝だった。
山の中で人が倒れ、祭りが途中で止まり、何万人もの人間が事故の映像を見たことなど、海には何の関係もないように見えた。
枕元に置いたスマートフォンには、未読の通知が溜まっていた。
会社からの着信が三件。直属の上司からのメッセージが五件。知らない番号からの着信が十件以上あり、留守番電話の通知も二件残っている。SNSの通知は、画面上部に表示できる数を超えていた。
その中に、カナちゃんからのメッセージもあった。
昨夜の午前零時十四分。
> 先輩に怪我はありませんか。
午前零時十六分。
> 返信してください。
午前零時二十三分。
> 民宿へ戻りましたか。
私が『藤尾さんの容体がまだ分からない。』と連絡したのは、二十三時を過ぎてからだった。
その連絡を最後に、会社と警察と役場への対応に追われ、カナちゃんへ返信することを忘れていた。
その後にも、いくつか届いている。
> 一人で外へ出ないでください。
> 知らない番号には出ないでください。
> 会社から帰るように言われていますか。
最後のメッセージは、午前六時四十三分だった。
> 今日、何時の船に乗りますか。
まだ分からない。
本来の予定であれば、できるだけ早く島を出るはずだった。
私は先に、会社からの留守番電話を再生した。
「荒川です。秋原さん、お疲れさまです。田中チーム長から昨晩の話は伺いました。まず、怪我がないと聞いて安心しました。」
荒川グループ長の声は、いつもより少し低かった。
「現地での対応は、三影町役場と私の方で引き取ります。ただ、警察や町から事故当時の状況確認を求められている場合は、それを優先してください。撮影データの提出と、必要な聞き取りが終わり次第、今日中に戻ってください。」
一度、言葉が切れる。
「現地で個別に謝罪をしたり、取材に応じたり、島民の方からの質問に答えたりしないでください。正式な対応は会社と町を通します。SNSも見ないでください。帰りの便が決まったら、連絡をお願いします。」
最後に、少し強い声で繰り返された。
「必要な対応が終わったら、すぐに戻ってください。自分で何とかしようとしないでください。」
自分で何とかしようとしないでください。
その言葉に、わずかに肩の力が抜けた。
帰ってよいのだと思った。
同時に、帰ることは、逃げることなのだとも思った。
私はベッドの端に座ったまま、昨夜届いた町からの連絡を確認した。
午前八時半に支所へ来てほしいと書かれている。
事故当時に撮影していた写真と動画を提出し、自分がどこに立ち、何を見たのか、警察へ説明する必要があった。
朝の船は九時半に島を出る。
聞き取りが短く終われば乗れるかもしれないが、撮影データの複製まで必要であれば難しいだろう。
私はカナちゃんへ、『午前中、警察の聞き取り。帰りはまだ分からない。』とだけ返信し、着替えを始めた。
◇
午前八時二十二分、私はカメラバッグとノートパソコンを持って支所へ入った。
昨日まで観光事業の打ち合わせをしていた会議室には、警察官が二人と、潮見さん、中川支所長、それから町の職員が一人いた。
机の上には事故現場の配置図と、私が撮影した画像を確認するためのノートパソコンが置かれていた。
潮見さんは、昨日より明らかに疲れて見えた。髪は乱れ、シャツの襟元にも皺が寄っている。おそらく、ほとんど眠っていない。
それでも私を見ると、立ち上がって頭を下げた。
「秋原さん、昨日は本当にありがとうございました。ご体調は大丈夫ですか。」
「私は大丈夫です。藤尾さんは?」
「今朝、意識が戻りました。」
その言葉を理解するまでに、数秒かかった。
「戻ったんですか。」
「はい。まだ検査中ですが、命に別状はないと連絡がありました。ただ、頭部の傷と、肩の骨折があるそうです。」
息を吐いた時、胸の奥が痛んだ。
「良かった。」
声にした途端、目の奥が熱くなる。
本当に良かった。
藤尾さんは生きている。意識が戻った。
昨日の昼間、自分は可哀そうではないと笑った人が、今もこの世界にいる。
それでも、良かったという一言だけでは済まない。
頭を打ち、骨を折り、病院に運ばれた事実は消えないし、事故映像がすでに無数の端末へ保存されていることも変わらない。
「見学区域で怪我をされた三名も、全員軽傷です。一名は腕を打っていますが、骨には異常がありません。」
潮見さんが続ける。
「そうですか。本当に良かったです。」
「はい。」
私は、もう一度、良かったと言った。
今度は、声が少し震えた。
◇
聞き取りは、思っていたより長くかかった。
事故が起きた時、私はどこに立っていたか。
足場が傾く前に、見学者が動いていたか、軋み音を聞いたか。
投光器がちらついたのは何時頃か。
藤尾さんの前に見えた白いものは、足場が倒れる前からあったのか。
二の鳥居の奥に見えた白い形は、投光器が動く前か、動いた後か。
私は、覚えていることだけを答えた。
「藤尾さんの前に、細い白いものが見えた気はします。でも、布だったかどうかは分かりません。」
「二の鳥居の奥の白いものは?」
「足場が傾いて、投光器の光が大きく動いた後です。一瞬だけ、人に似た形に見えました。ただ、木や光の反射だった可能性もあります。」
「足場が倒れる前から、そこに何かいたという認識ではないですか。」
「ありません。」
そう答えた。
白いものが現れたから、足場が倒れたのではない。
足場が倒れたから、白いものが見えた。
その考えは、今も変わっていなかった。
ただ、昨夜、確かに何かを見たと感じた自分の目まで、完全に信用できるわけでもない。
結局、聞き取りとデータの提出が終わったのは、十時四十分を過ぎてからだった。
会社へ連絡すると、午後の便で戻るように言われる。
『それまでは民宿か支所の中にいてください。外で誰かに話しかけられても、答えないでください。』
「支所の方へのご挨拶は……。」
『必要ありません。町とは会社から話します。秋原さん個人で動かないでください。』
「分かりました。」
『午後の便は?』
「十三時十分です。」
『では、その便で戻ってください。港へ着いたら連絡を。』
電話を切った後、中川支所長にも、午後の便で帰ることを伝えた。
「こちらから会社へ、正式な報告を入れます。」
支所長は言った。
「今こちらに残っていただいても、あまり良いことはないと思います。早めにお帰りになった方がいいでしょう。」
「はい。」
「港までは、職員を付けましょうか?」
私は一瞬迷ったが、首を振った。
「大丈夫です。民宿から近いので。」
また、大丈夫ですと言った。
◇
民宿へ戻ったのは、十一時を少し過ぎた頃だった。
女将さんは玄関を掃いていた。私を見ると、手を止めた。
「藤尾くん、目ぇ覚ましたそうですよ。」
「はい。支所で聞きました。」
「命も大丈夫じゃそうで。」
「良かったです。本当に。」
「そうですね。」
女将さんは、それ以上何も言わなかった。
責めもしないし、慰めもしない。
ただ、掃除道具を壁際へ寄せ、私が通れるように場所を空けた。
部屋に戻り、荷物をまとめる。
着替えをキャリーケースへ入れ、ノートパソコンと資料をバッグへ収める。
昨夜、何も考えず押し込んだものを一度全て出し、忘れ物がないよう確認した。
スマートフォンには、また通知が増えていた。
知らない番号からの着信。
取材依頼。
会社名を件名に入れたメール。
SNSのフォロー通知。
その中に、カナちゃんからのメッセージが三件あった。
> 聞き取りは終わりましたか。
> 午後の船ですか。
> 今、どこですか。
返信を打ち込む。
> 終わった。藤尾さんも意識戻った。午後の便で帰る。今は民宿。
すぐに既読がついた。返事は来なかった。
少し不思議に思ったが、そのままスマートフォンを伏せた。
正午を少し過ぎた頃、民宿の女将さんへ鍵を返した。
「港まで送りますか?」
「大丈夫です。荷物もこれだけなので。」
「そうですか。」
女将さんは、キャリーケースと私の顔を交互に見た。
「道、気をつけてね。」
「ありがとうございます。」
何に気をつけるのかは聞かなかった。
私は頭を下げて、民宿を出た。
◇
外は、昨日よりも暑かった。
観光に来ていた島外の人間は、午前の便でほとんど帰ったようだ。昨日の朝には島内を歩く人の姿があったが、今日の道は静かだった。
蝉の声と、キャリーケースの車輪がアスファルトの継ぎ目を越える音だけが聞こえる。
道路脇の草に、白いレジ袋が引っかかっていた。
風に膨らみ、しぼみ、また膨らむ。
ただのゴミだ。
そう分かっているのに、視線が一度、そこへ吸い寄せられた。
私は歩く速度を少し上げた。
港までは、十五分もかからない。
支所の前を通らずに行ける細い道を選んだ。
挨拶は不要だと言われていたし、支所の前には報道関係者が何人かいるのが、民宿の窓からも見えていた。
角を二つ曲がったところで、道の先に人が立っていた。
五人いた。
年配の男性が二人。中年の女性が一人。その少し後ろに、スマートフォンを持った若い男女が立っている。
最初は、偶然そこにいるだけだと思った。
けれど、全員が私を見ていた。
私は足を止めた。
「秋原さんですか?」
先に声をかけたのは、スマートフォンを横向きに持った若い男性だった。島の人ではない。
祭りの見学者として来たのか、事故後に入ってきたのかは分からない。胸元には小さなマイクが付いており、隣の女性も別の端末をこちらへ向けている。
「今、撮影していますか?」
私は聞いた。
「記録です。昨日の事故について、現地の声を残していて。」
「撮らないでください。」
「顔は映さないので。」
すでに、レンズは私へ向けられていた。
年配の男性の一人が、若い男性の前へ出る。
「帰るんか?」
低い声だった。
「はい。会社から戻るように言われています。」
「会社が帰れ言うたら、帰るんか。」
私はキャリーケースの持ち手を握り直した。
「警察への説明と、町へのデータ提出は終わりました。今後は会社と役場の方で対応させていただきます。」
「そういう話をしとるんじゃない。」
もう一人の男性が言った。
「島を見せたら、人が来る。人が来たら、店も船も残る。若い者も帰ってくる。そう言うとったな。」
私が言ったのではない。
けれど、観光事業の説明会では、町側から同じような言葉が出ていたはずだった。
「それが、どうじゃ。」
男性の声が少し大きくなる。
「残ったんは、事故の動画と、呪われた島いう名前だけじゃろうが!」
中年の女性が、乾いた声で続けた。
「普通の人は、もう来んよ。子ども連れて海を見に来ようとか、魚を食べに来ようとか、そんな人は来ん!これから来るんは、夜の山を撮りたい人と、白いものを探したい人ばっかりじゃ!」
スマートフォンを持った若い女性が、その言葉へ反応するように端末を近づけた。
「今のところ、もう一度お願いします。普通の観光客は来なくなるということでしょうか?」
「撮るな言うとるじゃろうが!」
中年女性が苛立った声を出す。
若い女性は一歩下がったが、撮影を止めなかった。
「私は最初から反対じゃった。」
最初の男性が私を見る。
「山を外へ出すな。祭りを見せ物にするな。何度も言うた。人を呼んで、金を落としてもらわんと、この島は終わる言われたけどな。これで余計、終わるのが早うなった。やっぱり、私が正しかったわ。」
島の寿命。
以前、潮見さんも似た言葉を使った。
店が閉じる。
船の便が減る。
診療所がなくなる。
学校がなくなり、若い人が戻らなくなり、最後には、暮らすための仕組みそのものが維持できなくなる。
観光化は、それを少しでも遅らせるための計画だった。
けれど、今回の事故で残ったのは、祭りの価値ではなく、白い人影と、倒れる足場の映像だった。
「……申し訳、ありません。」
私は言った。
中年女性が、短く息を吐く。
「何を謝っとるんね?」
「今回の、ことで……。」
「今回の、何を?あんたは何を謝っとるん。」
答えられなかった。
足場を組んだのは私ではない。
大型照明を載せたのも私ではない。
レイジを招いたのも私ではない。
祭りを公開すると決めたのも、見学者を島へ入れたのも、私一人ではない。
それでも、サイトを作った。
山の女様と書いた。
白布の写真を載せた。
海の向こうに、山の婚礼がある、と書いた。
嘘は書いていない。
怖がらせるためだけに作ったつもりもない。
けれど、見つけられるようにした。
「外の人間が来んかったら、事故は起きんかったよ。」
二人目の男性が言った。
「神聖な祭礼を、あんたが面白おかしく怖い話にしたんじゃろ。祭りだけしとれば、何も起きんかった。」
「……事故の原因は、まだ調査中です。」
言った瞬間、自分でも弱い言葉だと思った。
「あんた、何も分かっとらん!自分が何をしたんか!」
男性が一歩近づいた。
「外から来て、外へ出して、何かあったら外へ帰る。それで終わりか言うとるんじゃ!」
反射的に、私は一歩下がった。
キャリーケースの車輪が小石に引っかかり、後ろへ倒れかける。
若い男性のスマートフォンが、その動きを追った。
「秋原さん、今のお気持ちだけでもお願いします。」
「……撮らないでください。」
「説明責任はあると思いませんか?島民は皆怒っていますよ。」
「会社を、会社を通してください。」
「会社の回答じゃなくて、実際にサイトを作った方としてのご意見を伺いたいんですよ。」
若い女性も横から言う。
「この動画を見る人が何十万人もいます。皆、本当のことを知りたがっています。答えてください。」
年配の男性たちの怒りと、島外の二人の好奇心は、本来、別のものだった。
それでも、私を中心に半円を作ると、同じ圧力になった。
狭い道。
前に立つ男性。
横から向けられる二台のスマートフォン。
背後のキャリーケース。
何を言っても、切り取られる。
黙っても、逃げたと書かれる。
頭では、誰も私へ手を上げるつもりはないのだと分かっていた。
島の人たちは怒っている。
外の二人は、映像を欲しがっているだけだ。
それでも、身体は固まったように動かなかった。
男の人の声が近い。
逃げられる道が見えない。
喉の奥が狭くなり、息を吸っても、胸まで届かない。
「昨日から、あんたの作ったもんで、島の名前がどれだけ広がったと思う!」
男性が言った。
「良い名前じゃない。人が怪我した島。人を山へ捧げる島。呪われた島じゃ!」
「す、みません……。」
「謝ったら消えるんか!」
中年女性が言う。
「動画も、書かれたもんも、消えるんか!この島を元に戻してや! どうするつもりじゃ、これから!」
――消えない。
サイトを閉じても、キャッシュは残っている。
映像を消しても、切り抜きは増えている。
訂正しても、間違った見出しの方が検索される。
見せてしまったものは、もう、見えなかった状態には戻らない。
年配の男性が、もう一歩近づいた。
身体が竦む。
その時、短いクラクションが鳴った。
大きな音ではなかった。
けれど、道の中に溜まっていた空気を、一度切り離すような音だった。
全員が振り返る。
白いコンパクトSUVが、細い道の入口へ停まっていた。
夏の陽を受けた車体だけが、周囲から浮き上がるように明るく見えた。
運転席のドアが開く。
車から降りてきたのは、背の高い青年だった。
黒に近い紺色のシャツの袖を肘までまくり、細身の濃いグレーのパンツを履いている。
明るい茶色の髪は少し乱れ、顔にも疲れが残っていたが、こちらへ歩いてくる足取りには迷いがなかった。
「先輩。大丈夫ですか。」
聞き慣れた声だった。
その声を聞いた瞬間、張り詰めていたものが、わずかに切れそうになった。
「……カナちゃん。」
思わず声が漏れる。
小さく掠れた声だった。
それでも聞こえたのか、青年の口元が一瞬だけ緩む。
けれど、私の周りに立つ人々を見た途端、その表情は消えた。
――藤沢奏斗。
大学時代の後輩。
私の頼みに困った顔をし、文句を言いながらも、結局、誰より早く答えを持ってきてくれる人。
実際に会うのは、二か月ぶりだった。
整った顔立ちは、笑っている時には優しく、どこか甘くも見える。
けれど今は、疲れと無表情のせいで、ひどく冷たく、近寄りがたく見えた。
奏斗は私の横まで来ると、状況を確認するように周囲へ視線を巡らせた。
それから、私と男性たちの間へ半歩だけ身体をずらし、白い車までまっすぐ歩ける道を作るように立った。
突然現れた長身の青年に、近くにいた男性がわずかにたじろぐ。
「すみませんが、彼女は僕と先約がありますので、失礼します。」
「誰じゃ、あんた。」
「彼女の友人です。事故についてのお話は、町か会社の正式な窓口へお願いします。ここでお話しいただいても、何も回答はできません。」
声は固いが、穏やかだった。
相手を責める響きも、言い負かそうとする強さもない。
「こっちは島の話をしとる。」
「はい。ですから、個人ではなく、町と会社へお話しください。その方が、記録にも残りますから。」
若い男性が、スマートフォンを奏斗へ向ける。
「あなたは秋原さんと、どういう関係ですか。」
奏斗がそちらを見る。
「撮影を止めてください。本人は、はっきり拒否しています。」
「公道ですけど。」
「なるほど。」
奏斗は怒らなかった。
斜め掛けのバッグからスマートフォンを取り出し、若い男性の端末と顔を、一度画面に収める。
「では、こちらも、撮影者と使用機材を記録します。投稿された場合の削除申請と、会社への報告に必要ですので。」
「撮るんですか。」
「記録ですよ。」
先ほど若い男性が使った言葉を、そのまま返した。
男性は口を閉じ、スマートフォンを少し下げた。
奏斗は、島の三人へ向き直る。
「島の方々が怒っておられる理由を、軽いものだとは思っていません。ただ、今ここで一人を囲んでも、島の状況は良くならないと思います。正式な話し合いの場を通してください。」
中年女性は何かを言い返そうとしたが、奏斗はそれを待たず、私のキャリーケースの持ち手へ手をかけた。
「行きましょう、先輩。」
「……自分で持てる。」
「知っています。でも、今は僕が持ちます。」
いつもの口調だった。
先ほどまでの固さが消えた、どこか甘く、優しい声だった。
それで、ようやく息を吸うことができた。
奏斗がキャリーケースを引き、私はその隣を歩く。
「帰ったら終わりか。」
背後から、低い声が追いかけてきた。
返事はできなかった。
奏斗も振り返らなかった。
白いSUVの助手席のドアを開け、私が乗るのを待つ。
ドアが閉まった瞬間、外の蝉の声と、人の声が少し遠くなった。
◇
奏斗が運転席へ乗り込み、ドアを閉める。
エンジンはかかったままだった。
冷房の風が頬へ触れ、汗で貼りついていた髪がわずかに揺れる。
車はすぐに発進した。
先ほどの五人は、まだこちらを見ていた。
それも、車の走行音とともに、すぐに見えなくなる。
奏斗はしばらく黙ったまま車を走らせ、少し先の道路脇にある空き地へ車を寄せた。
それから、助手席の足元と私の顔を確認する。
「怪我は?」
「……ない。」
「本当に?」
「本当に。」
「手を見せてください。」
「怪我してないって。」
「確認します。」
言われるまま、両手を見せる。
奏斗は手首や指先を確認し、次に私の膝へ視線を落とした。
「足は震えています。」
自分でも気づいていなかった。
両膝が、小さく震えている。
「ちょっと、今のは、怖かった。」
「もう大丈夫です。」
「何かされるとは思ってないけど。」
「そういう問題じゃないです。」
奏斗は短く言った。
「複数人に囲まれて、男の人が近づいてきて、逃げ道を塞がれたら、それは怖いです。何もされなかったから大丈夫、とはなりません。」
私は返事をしなかった。
その通りだった。
相手が怒る理由を理解することと、怖くないことは別だった。
奏斗は運転席と助手席の間に置かれていたペットボトルを取り、蓋を開けて渡した。
「水です。少し飲んでください。」
「ありがとう。」
「朝ご飯は?」
「食べてない。」
「食べてください。」
後部座席へ手を伸ばし、小さな紙袋を取る。
中には、個包装のサンドイッチとゼリー飲料が入っていた。
「何であるの?」
「先輩が食べていないと思ったので。」
「……さすがだね。」
「保護対象が、いつも勝手に危険な場所へ行くので、仕方ありません。」
ようやく、少しだけいつもの奏斗に戻った。
私は水を一口飲んだ。
冷たさが喉を通り、胸の奥へ落ちていく。
「どうして、ここにいるの?」
奏斗は、私がゼリー飲料を手にしたのを見ると、車をゆっくり発進させた。
「飛行機で来ました。」
「今日?」
「今日です。」
「……仕事は?」
「自分で調整できますから。」
奏斗は、わずかに肩を竦めた。
「東京から?」
「他にどこから来るんですか。」
「車は?」
「空港で借りました。そのまま港へ行って、午前の車両便で入りました。」
「いつ島に着いたの?」
「十二時前です。」
私は奏斗の横顔を見る。
目の下の疲れは、移動のためだけではなく、昨夜ほとんど眠っていないためだろう。
「何で、そんな。」
「何事もなく帰れる可能性は低いと、判断しました。」
「先に言ってよ。」
「言ったら、来なくていいと言うでしょう。」
「当たり前でしょう。」
「なので、言いませんでした。」
理屈としては、おかしい。
けれど、奏斗は当然のことを説明するように言った。
「昨夜から、先輩の名前と会社と顔写真が出ています。今日の午後便で帰るらしい、民宿は港から歩ける場所だ、と書いている人もいました。」
「そこまで?」
「はい。」
「だから来たの?」
奏斗が一度、こちらを見る。
「ほかに、来る理由が必要ですか?」
すぐに、前へ視線を戻した。
柔らかな声だった。
格好をつけた様子もない。
心配したから来た。
危ないと思ったから、迎えに来た。
それ以外に、説明することはないという顔をしている。
「すごい行動力だね。」
「先輩ほどではありません。」
「私は仕事だから。」
「嫌いな言葉です。」
「知ってる。」
少しだけ、笑ってしまった。
奏斗も、口元だけで笑う。
その横顔は、大学の頃より大人になっていた。
笑っていなければ冷たく見えるほど、端正な顔立ち。
それでも、褒めてほしい時や不満がある時に、冗談めかしてしか伝えられない不器用なところは変わらない。
「今朝、何時に出たの?」
「五時前です。」
「寝てないでしょう。」
「二時間くらいは寝ましたよ。」
「それ、寝たって言わないよ。」
「先輩に言われたくありませんね。」
車は港へ向かう道へ入った。
海が見える。
港の周辺には、昨日までいなかった車が何台か停まっていた。
屋根にアンテナを載せた報道車両。
撮影機材を下ろしている人。
スマートフォンを持ち、支所の方角を見ている人。
奏斗は港の入口で速度を落とし、車両待機列の最後尾へ車を入れた。
「帰りの船は、車両枠まで取ってあります。」
「いつ取ったの?」
「飛行機に乗る前です。」
「私が午後便に乗るって知らなかったでしょう?」
「違ったら変更するだけですから。」
「何でも準備してるね。」
「そこは褒めてください。」
「ありがとうございます。」
「気持ちがこもっていません。」
その言い方があまりにいつも通りで、また少し笑った。
港の建物の前に、潮見さんが立っていた。
私たちの車に気づき、驚いた顔をする。
奏斗が窓を少し下げると、潮見さんが近づいてきた。
「秋原さん、大丈夫ですか?」
「はい。友人が迎えに来てくれました。」
潮見さんは、運転席の奏斗を見た。
奏斗が軽く頭を下げる。
「藤沢です。秋原先輩がお世話になりました。」
「潮見です。東京からですか?」
「はい。」
潮見さんは少し迷った後、私へ向き直った。
「藤尾さんですが、先ほど病院からもう一度連絡がありました。意識ははっきりしていて、ご家族とも話ができたそうです。見学者の方々も、全員、大きな問題はありません。」
「……そうですか。」
胸の中に残っていた硬いものが、ようやく少し崩れた。
「本当に、良かったです。」
「はい。」
潮見さんは頷いた。
「町から会社へ、今日中に正式な報告を入れます。秋原さんは、このままどうかお帰りください。」
朝、支所長にも言われた言葉だった。
今度は、本当に帰ってよいという許可のように聞こえた。
「分かりました。」
「昨日から、ありがとうございました。」
「私は……。」
謝ろうとしたが、潮見さんがわずかに首を振った。
「今は、戻ってください。もう船が出ます。」
私は口を閉じた。
「はい。」
窓が閉まる。
奏斗は何も言わず、車を少し前へ動かした。
◇
午後一時十分、フェリーは三影島を離れた。
私たちは車を車両甲板へ入れた後、上の客室へ移動した。窓際には座らず、島の見えない側の席を選んだ。
船内には、報道関係者らしい人や、祭りの見学者として泊まっていた人もいた。
何人かは、スマートフォンで事故の記事を読んでいる。
小さな画面の中に、二の鳥居と、白い円で囲まれた何かが見えた。
私は目を逸らした。
奏斗が、私と通路の間に座っている。
私はその背に隠れるように、座席へ身を沈めた。
「個人SNS、見ましたか?」
「少しだけ。」
「信用できません。」
「本当に、少しだけだよ。」
「設定を確認します。」
「なんか、管理されてるみたい。」
「実績からの評価です。」
奏斗は斜め掛けのバッグからノートパソコンを取り出しかけ、私の顔を見て、また戻した。
「……やっぱり、今はやめておきます。」
「どうして?」
「先輩が、本調子ではなさそうなので。」
「……大丈夫だよ。」
「いえ。周りは僕が見ておくので、少し休んでください。」
「……うん。」
「もう、大丈夫ですから。」
私は小さく息を吐いて、背もたれへ身体を預けた。
船が港を離れていく振動が、床から伝わってくる。
「カナちゃん。」
「はい。」
「……ありがとう。」
奏斗は少し黙った。
「どういたしまして。」
いつもの軽い返事ではなかった。
窓の外を見なければ、島がどのくらい遠ざかったのかは分からない。
海の上では、方向の感覚が薄くなる。
船が前へ進んでいるのか。
島の方が後ろへ下がっているのか。
目を閉じれば、区別はつかない。
こん。
下の車両甲板から、金属が一度鳴った。
車止めか、鎖か、船体が波を受けた音だろう。
私は目を開けなかった。
隣にいる奏斗も、何も言わなかった。
ただ、私と通路の間に座り、静かに周囲へ気を配っていた。
私はようやく深く息を吸い、ゆっくりと目を閉じた。




