第十七話 期待
藤尾さんは、二の鳥居の手前で止まっている。
白装束の背中が、投光器の光を受けて浮かび上がっていた。
暗い山の中で、そこだけが切り抜かれ、夜とは別の場所へ置かれているように見える。
先導役の提灯が、藤尾さんの左右で揺れている。
橙色の火は小さい。
二台の投光器が放つ白い光の中では、昔から使われてきた提灯の明かりは、ほとんど役目を失っているように見えた。
火の色では届かなかった場所まで、今夜は見える。
鳥居の柱に残った木目。
濡れた石段の窪み。
風に裏返る葉。
暗闇の中にあることしか分からなかった木々の一本一本まで、白い面として浮かび上がっている。
見えすぎていた。
人が安全に歩くためには必要な光だった。
記録を残すためにも必要だった。
何万人もの視聴者へ、祭礼が普通に行われていることを示すためにも必要だった。
それでも、本来は暗闇の中へ隠れていたはずのものまで、見つけられる状態になっている。
藤尾さんは動かない。顔は見えない。
二の鳥居を見ているのか、その先の石段を見ているのか、足元を確認しているだけなのかも分からなかった。
現地にいる誰も、声を出さない。
その沈黙が、ただの祭礼の静けさではなくなっている。
誰かが息を止める。
その気配に気づいた隣の人間も、動かなくなる。
何十人もの人間が同じ方向へ視線を向け、誰かが最初に何かを見つけるのを待っている。
◇
【現地メモ】
八月十六日 二〇時十六分。
藤尾俊介氏、二の鳥居手前にて停止。
先導役二名も停止。
神職、保存会員は後方にて待機。
現地において、明確な異常は確認できず。
見学者区域に軽度のざわつきあり。
◇
『明確な異常は確認できず。』
そう。何も起こってはいない。
ただ、藤尾さんが立ち止まった。それだけだ。
暗い石段では、足元を確かめるために止まることもある。
衣装が乱れたのかもしれない。
先導役との間隔を調整しているだけかもしれない。
七年前にも同じ場所で止まった可能性すらある。
それでも、配信画面の向こうでは、止まったこと自体に意味が与えられていく。
◇
【生配信コメント欄】
> 止まった。
> なんで?何かいる?
> やっぱり何かいますよ。あなたの後ろにも……w
> 藤尾さんには見えてる?
> 奥見てますね。
> 白いのいた!?いたよね!
> ライトの反射でしょ。
> いや、見えるよ。
> 来た?
> 来た。
> 来た。
> こん。
◇
――来た。
何が来たのか、誰も分かっていない。
山の女様。
白い女。
三十八年前の続き。
配信の見せ場。
今夜ずっと待っていた何か。
意味は違っても、同じ二文字で書くことができる。
何かが来たのではなく、待っていた時間が報われる瞬間が来たのかもしれない。
この配信を見るために、予定を空けた人がいる。
夕食を早く済ませた人がいる。
友人へURLを送り、通知を設定し、待機画面へ「こん」と書いた人がいる。
何も起きなければ、それらは全て、ただ祭りを見ただけの時間になる。
それでもよいはずだった。
藤尾さんが普通に山へ上り、普通に戻る。
白い女は映らない。
直会を終え、翌日には仕事へ行く。
それが、一番よい結末のはずだった。
けれど、何も起きなかった配信は、きっと数日で忘れられる。
何かが起きれば、見ていた人間は、その瞬間に居合わせた人間になれる。
あの時、自分も見ていた。
あのコメントを書いた。
白いものが見えた。最初に気づいたのは自分だった。
その記憶は、平穏な夜よりも長く残る。
誰も、藤尾さんの不幸を願ってはいない。
ただ、自分の心が動く瞬間を待っている。
怖がりたい。
驚きたい。
現実には説明できないものが、ほんの一度だけ画面へ映るところを見たい。
悪気はない。
ただ、人は、平穏を望みながらも、何も起きないことに耐えられないだけだ。
◇
藤尾さんの前にいる先導役の一人、大崎さんが、僅かに顔を動かした。
藤尾さんの足元を見た後、低い声で言う。
「進め。」
命令というより、進行を再開してよいという合図だった。
藤尾さんが、一歩前へ出る。白い足袋が石段に触れる。
その動きを見た瞬間、見学者の中で誰かが短く息を吐いた。
安堵なのか、落胆なのか分からない。
配信コメントは、さらに速く流れ始めた。
◇
【生配信コメント欄】
> 動いた。
> 行くの?
> 行け!
> 行くな。
> 駄目です。
> 藤尾さん戻って。
> いや普通の祭りだからw
> 進め。
> やめた方がいい。
> 行け。
> 戻った方がいいよ。
> 奥映して!
> 早く行けよ。
> 早く早く早く!
> こん。
◇
行け。
行くな。
どちらも同じだった。
進んでほしい人間は、続きを見たい。戻ってほしい人間は、藤尾さんを心配している。
けれど、どちらの言葉も藤尾さんへ向けられ、どちらも配信の熱を上げている。
彼が進めば、画面を見る。
止まれば、もっとよく見る。
怯えれば、心配する。
無事に戻れば、安心する。
もし倒れれば。
そこまで考えて、私は頭の中の言葉を止めた。
誰も、そんなことを望んでいない。望んでいるはずがない。
それでも、もし何かが起きたなら、多くの人は画面を閉じるより、顔を近づけるだろう。
事故かもしれない。
怪異かもしれない。
何が起きたのか知るまでは、見続ける。
それは私も同じだった。
◇
藤尾さんが、二の鳥居の下へ入る。白装束の肩が、太い柱の影へ一度隠れた。
次の一歩で、鳥居の向こうへ出る。
その瞬間、乾いた音が鳴った。
こん。
山の奥から聞こえたようにも、仮設足場の方から聞こえたようにも思えた。
提灯の金具。
木の枝。
鹿除け。
単管パイプ。
どの音でもあり得る。
藤尾さんが鳥居を越えた瞬間と重なったというだけだった。
同時に、投光器の一台が僅かにちらついた。
白い光が消えたわけではない。一度だけ弱くなり、すぐに元へ戻る。
足場の下にいた設置業者が、上を見た。
「照明、どうですか。」
佐伯さんが足場へ声をかける。
「戻ってます。」
遠山さんが答えた。
「固定も問題ありません。」
作業員が投光器の支柱と配線を確認する。警告音は鳴っていない。
発電機も安定している。祭礼を止めるほどの異常ではなかった。
◇
【現地メモ】
二〇時二十分頃。
藤尾氏、二の鳥居を通過。
同時刻、木を打つような音を一度確認。
発生源不明。
大型LED投光器一台、一時的に照度低下。
直後に復旧。
固定、電源とも異常確認されず。
祭礼進行継続。
◇
祭礼進行継続。
書類の上では、それだけで終わる。
何かが起きたのに進めたのではない。中止する理由がなかったから、進めただけだった。
その時点では、誰も間違った判断をしていなかった。
◇
藤尾さんは、二の鳥居を越えて、さらに数段上った。
投光器の光は鳥居の手前を中心に落とされているため、その先へ進むほど輪郭が暗くなる。
白装束は、完全には見えなくならない。
提灯の橙色と、背後から届く白い光の間で、ぼんやり浮いている。
人間の姿というより、白い形だけが山の中へ移動しているように見えた。
レイジの声が、足場の上から静かに聞こえる。
◇
【生配信文字起こし】
レイジ:
祭礼役の方が、今、二の鳥居を越えました。
ここから先は、祭礼関係者のみが入る区域です。
僕たちは、この位置から撮影を続けます。
先ほど、照明が一度揺らいだように見えましたが、現在は復旧しており、設置担当者が安全を確認しています。
音についても、現時点では発生源を確認できていません。
未確認の内容をすぐに異常と結びつけず、どうか静かに見守ってください。
◇
静かに見守ってください。その言葉が届いていないわけではない。
コメントを書く者も、レイジの声を聞いている。
それでも、文字の流れは止まらない。
◇
【保存コメントログ】
20:21:22 白布 二の下。
20:21:27 拾わず。
20:21:31 昭和六十三年。
20:21:35 黒川正臣。
◇
その書き込みを、私はその場では見ていなかった。後になって、保存されたコメントログの中で確認した。
白布 二の下。
拾わず。
昭和六十三年。
黒川正臣。
町の観光サイトには載せていない。レイジの動画にも、配信にも出していない。
三十八年前の記録にあった言葉。誰が書いたのかは、分からない。
過去の流出を見た者。
島の人間。
非公開ページへ入った者。
断片的な噂をつなげた者。
偶然、似た言葉を書いただけの者。
投稿時刻が正しいかどうかさえ、後から見れば確かではなかった。
配信には四十秒の遅れがある。
現地にいる人間が、画面より先に何かを見て投稿した可能性もある。
ただ、その言葉が書かれた直後、藤尾さんはもう一度立ち止まった。
◇
午後八時二十一分。二の鳥居を越えた先。
藤尾さんは、石段の途中で止まっている。一度目よりも長い。
先導役は、二段ほど先へ進んでから立ち止まり、振り返った。提灯の火が揺れる。
神職と保存会員も動きを止める。
「藤尾さん。」
見学区域側から、潮見さんが呼んだ。
声は大きくない。体調を確認するための呼びかけだった。
藤尾さんは返事をしない。
祭礼中に外から声をかけられても、振り返らないよう事前に言われていたのかもしれない。
単に、聞こえなかったのかもしれない。
顔は見えない。
藤尾さんの右手が、少しだけ持ち上がった。
何かを払おうとしたように見える。
袖を直しただけにも見える。
その手の前に、細い白いものが揺れていた。
布。
紙。
糸。
葉の裏。
投光器の光が、クモの巣や水滴へ反射しているだけかもしれない。
朝、木箱の中に三枚あった白布のうち、祭礼に使う一枚は、藤尾さんの後ろを進む保存会員が持っている。
だから、もし目の前に白い布があるのなら、それは奉納用のものではない。
そう考えた直後、大崎さんの声が響いた。
「触るな!」
短く、鋭い声だった。
藤尾さんの手が止まる。
何を触るなと言ったのかは分からない。
藤尾さんの装束。
濡れた枝。
白いもの。
石段の脇。
祭礼の途中で不用意に動くことそのもの。
現地にいた者には、対象が分からなかった。
けれど、画面の向こうでは、言葉だけで十分だった。
◇
【生配信コメント欄】
> 触るなって言った。
> 何に?
> 怖っ!
> 何これ……
> 白いのある。
> 伝説の予感。記念カキコ!
> 白布?
> なんか白いの見える。
> 拾うな。
> 拾わず。
> 白布 二の下。
> 昭和六十三年。
> 黒川正臣。
> こん。
◇
言葉が手順のように並んでいく。
触るな。
拾うな。
白布。
二の下。
昭和六十三年。
黒川正臣。
誰かが書いた言葉を、別の誰かが繰り返す。
出典を知らないまま。
意味を理解しないまま。
それでも、同じ順番で並べるだけで、古くから定められた禁忌のように見える。
◇
【生配信コメント欄】
> 婿が。
> 婿、止まってるぞ。
> 婿戻せ!
> 婿を止めるな。
> 婿ww
> 皆やめろって。
> 婿。
> こん。
◇
藤尾俊介さんの名前が消えていく。
昼間までは、藤尾さんだった。
加工場で働く二十八歳。
七年前にも祭礼役を務め、翌日には普通に仕事へ行った人。
自分は可哀そうではないと笑った人。
それが、白装束を着て画面へ映っただけで、今年の婿になった。
山の女様へ送られる男。
祭りの一部。
噂の一部。
期待の一部。
彼が何を考えているかではなく、彼に何が起きるかだけが見られていた。
◇
足場の上で、遠山さんが一歩右へ動いた。
藤尾さんが二の鳥居の先へ進んだため、カメラの中心へ収めるための動作だった。
コメントの指示に従ったのではない。撮影対象を追っただけだった。
町の記録担当者も、鳥居の奥を確認しようとして僅かに姿勢を変える。
レイジは手すりへ触れず、同じ位置から実況を続けている。
三人分の体重が、ほんの少しだけ参道側へ寄った。
足場の下から、低い音がした。金属の音ではない。
濡れた木か、土が押されたような音。
ぎ。
設置業者が顔を上げる。
二台の投光器を支える枠が、僅かに揺れた。
「動かないでください!」
作業員が足場上へ声をかける。
遠山さんたちは、その場で動きを止めた。
作業員が足場の脚へ近づき、敷板と地面を見る。
傾いているようには見えない。
足場上の作業床にも、目で確認できるほどの変化はなかった。
◇
【現地メモ】
二〇時二十二分頃。
仮設撮影足場下部に軽微な軋み音。
投光器支持部に小さな揺れ。
足場上の移動を一時停止。
設置担当者が脚部および敷板を目視確認。
明確な沈下、傾斜は確認されず。
その時点では、使用中止を要する異常とは判断されず。
◇
確認されなかったものを、止めることはできない。
危険かもしれないという感覚だけで、祭礼も配信も中止することは難しい。
まして、数十人の見学者と何万人もの視聴者が見ている。
何かが起きるかもしれない。
その可能性に縛られているのは、視聴者だけではなかった。
今、ここで全てを止めれば、町は過剰に反応したと言われる。
怪異を信じているから止めた。
事故が起きることを知っていた。
何か隠している。
どの選択にも、別の意味がつく。
作業員は、足場の脚へ手を当てる。
「今は動かないでください。確認します。」
遠山さんが頷く。
カメラは固定されたまま、藤尾さんを映している。
◇
藤尾さんが、白いものから一歩下がった。
浜谷さんが、列の後方から前へ出ようとする。
「俊介。」
今度は浜谷さんが呼んだ。潮見さんも一歩動く。
見学者の中で何人かが背伸びをし、藤尾さんの前を見ようとした。
「動かないでください。」
青年会員が声を上げる。
「その場にいてください。」
後方にいる者は、前の人間の肩越しにスマートフォンを掲げる。
「白いの、何?」
「見えない。」
「藤尾さんの前。」
「カメラの方がよく見える。」
現実の参道ではなく、四十秒遅れた画面を見ている者もいる。
今、目の前で起きていることより、少し前の映像の方が、拡大され、明るく、はっきりしている。
「止まれ!」
大崎さんが片手を上げた。誰へ言ったのか分からない。それとも何かへ。
藤尾さん。
近づこうとした浜谷さん。
動き始めた見学者。
祭礼の列。
白いもの。
全員が止まったように見えた。
ほんの一瞬だけ。
◇
その時、仮設足場の一脚の下で、敷板が土へ沈んだ。
最初は、足場全体が動いたようには見えなかった。
木の板の片側が、濡れた土へ数センチ埋まる。
その小さな沈み込みに引かれるように、四角い金属の枠が僅かに捻れた。
控えロープが張る。乾いた音が鳴る。
こん。
誰かが息を呑んだ。
次に、単管パイプ同士が擦れる高い音がした。
「危ない!」
作業員が叫ぶ。
藤尾さんが振り返った。
人のいる側へ。
危険を知らせる声へ反応し、見学者と足場の方を見た。
投光器の光が大きく揺れる。
白い光が、藤尾さんの顔を照らす。
見学者の目。
鳥居の柱。
木の幹。
空。
再び石段。
視界の中の全てが、白くなり、黒くなり、位置を変えた。
足場は、ばらばらにはならなかった。
形を保ったまま、片側から参道へ向けて傾いていく。
上部へ取り付けられた二台の投光器が、その重さでさらに傾きを大きくする。
遠山さんが手すりをつかむ。町の記録担当者が膝をつく。
レイジの姿が、白い光の向こうへ消える。
投光器の一台が、固定枠ごと大きく振られた。
その光が、二の鳥居の奥を横切った。
一瞬だけ、二の鳥居の奥に、人に似た白い形が見えた。
遠近感が崩れていた。
鳥居のすぐ向こうにあるのか、山の奥にあるのかも分からない。
人より大きく見えたが、動いた光によって影が引き延ばされているだけかもしれなかった。
頭のような丸み。
肩のように左右へ広がる白い部分。
形は人に似ていた。けれど、人だと断定できるほど長くは見えなかった。
藤尾さんの白装束が手ぶれで二重に映っただけかもしれない。
光を受けた木の幹。
白い養生材。
カメラの残像。
事故が始まった後、制御を失った光が作った形。
白いものが現れたから、足場が倒れたのではない。
足場が倒れたから、白いものが見えた。
そう考える方が自然だった。
次の瞬間、金属が石段へ叩きつけられた。
耳の奥を突くような音。
誰かの悲鳴。
押し合う身体。
倒れる柵。
藤尾さんは、見学者側へ戻ろうとして一歩下がった。
照明支持材の端が、藤尾さんの頭部付近へ落ちた。
鈍い、音がした。
白装束の身体が、石段の上へ崩れる。
提灯が落ちる。
火が消える。
投光器の一台は、倒れたまま山の奥を照らしていた。
白い光の中に、何があるのかは見えなかった。
◇
時間にすれば、数秒だった。
けれど、その数秒の中で、別々の音と光が重なり、何が最初に起きたのか分からなくなった。
敷板が沈んだ。足場が傾いた。
藤尾さんが振り返った。
投光器が倒れた。
白いものが見えた。
金属が藤尾さんへ当たった。
どれが先だったのか。
私は、その場にいたのに説明できなかった。
「下がってください!」
誰かが叫ぶ。
「電源を落として!」
「藤尾さん!」
「救護!」
「映像、切ります!」
佐伯さんが配信用端末を操作し、送出映像を黒い緊急画面へ切り替えた。
けれど、佐伯さんの足元に置かれた公開画面確認用の端末には、四十秒前の参道が映り続けていた。
その画面の中で、藤尾さんはまだ二の鳥居の先に立っている。現実では、石段に倒れている。
画面の中では、まだ白いものへ手を伸ばそうとしている。
まだ大崎さんの「触るな」が響いている。
まだ足場は立っている。
まだ誰も怪我をしていない。
◇
【配信コメント欄】
> 触るなよw
> 白布!?
> 女様!来てくださいwww
> 拾うな!
> いや、拾えww
> 戻ってください!
> 振り返っちゃ駄目なんでしょ?
> 藤尾さん逃げて~
> 婿を止めるな。
> 止まれ。
> 行け!行け!
> こん。
◇
四十秒前の人々は、まだ何かが起きることを待っている。
現実では、もう起きている。
藤尾さんは倒れている。
誰かが救急搬送の手配をしている。
投光器は山の奥を照らしたまま、低い音を立てている。
それでも、画面の中の藤尾さんは何も知らない。
これから自分の方へ倒れてくる光も、金属も、誰かの悲鳴も知らない。
遠山さんのカメラが揺れる。白い光が大きく動く。
コメント欄の流れが一度速くなった。
◇
【配信コメント欄】
> 今揺れた。
> 何!?
> 足場倒れた!!
> 事故!?
> 白いのいた。
> 藤尾さん!倒れた!!
> 配信止めて。
> 今の何?
> 事故ですか!?
> こん。
◇
画面が大きく傾いた。
金属音。
悲鳴。
白い光。
映像は一度、二の鳥居の奥を向いた。
そこに白いものが映ったのかどうか、私には分からない。
次の瞬間、配信は黒い画面へ切り替わった。
◇
【レイジ怪奇録 配信画面】
現地の安全確認のため、配信を停止しています。
そのままお待ちください。
◇
「押さないでください!」
「その場にしゃがんで!」
青年会員が見学者をロープの外へ下がらせる。逃げようとした一人が、倒れた柵へ足を取られて転ぶ。
別の人が、その背中へぶつかる。小型の撮影機材が足場から落ち、見学者の腕へ当たる。
泣き声。
怒鳴り声。
誰かが助けを求める声。
全員が何かを見たがっていたはずなのに、何が起きたか正確に分かった者はいなかった。
私はカメラを持ったまま、動けずにいた。
藤尾さんが倒れている。
白装束の肩が、石段の水を吸っている。頭の近くに黒いものが広がっているように見えた。
影かもしれない。
血かもしれない。
「秋原さん、下がって!」
潮見さんの声で、身体が動いた。数歩下がる。
浜谷さんが急いで藤尾さんの側へ膝をつく。
「俊介!」
肩へ触れようとして、診療所の職員らしい女性に止められる。
「動かさないでください!」
「俊介!聞こえるか!おい!」
浜谷さんは、何度も名前を呼んだ。
つい先ほどまで、祭礼役へ声をかけるなと言われていた。
名前を呼ばれても振り返らなかったことが、新しい禁忌として広がっていた。
今は、意識を確かめるために呼ぶ。当然の行為だった。
それでも、この音声が映像へ残れば、
『祭礼の最中、婿の名が何度も呼ばれた。』
と書かれることになるのだ。
冷えた心身の中で、なぜかその考えがふっと浮かんだ。
◇
【配信コメント欄】
> 何があった!?
> 藤尾さん大丈夫?
> 事故だよね!?
> 足場倒れた!!
> 白いの見えた。
> 救急車呼びましたか!
> やばっ
> 怪我人出てる!
> これは放送事故だわw
> 誰か現地情報頼む!
> 現地組無事か!コメントくれ!!
> こん。
> こん。
> こん。
◇
現場では、祭礼のことを考えている者はいなかった。
診療所。
救急搬送。
本土側消防。
船会社。
警察。
連絡すべき場所が次々に読み上げられる。
藤尾さんの呼吸はある。意識はない。
浜谷さんが、その場を離れようとしない。
潮見さんは携帯電話を二台持ち、別々の相手へ状況を説明している。
青年会員は、見学者の人数を確認し、怪我をした者を救護場所へ移す。
足場周辺には、誰も近づかないようロープが張られる。
倒れた投光器の電源が切られた。
山の奥が暗くなる。
二の鳥居。
石段。
藤尾さんが見ていた場所。
白いものがあったかもしれない場所。
全てが、元の暗闇へ戻った。
◇
藤尾さんは、拝殿へ届かなかった。
祝詞は上げられなかった。
盃を受けなかった。
白布は奉納されなかった。
祭礼の手順として山を下りることもなかった。
直会も行われない。
その時、三十八年前の黒川正臣を思い出す余裕があった者はいなかった。
事故が起きた。
人が怪我をした。
それだけで十分だった。
それ以外の意味を考えることは、不謹慎ですらあった。
けれど、画面の向こうでは、すでに別の言葉が始まっていた。
◇
【SNS投稿】
三影島の祭り、生配信中に事故。
祭礼は途中で中断された模様。
【返信】
> 藤尾さんの容体は?
> 怪我人出てるらしい!現地組のSNS確認した!
> 放送事故じゃん!マジもんの!
> これ、やっぱりそういうことだよね。
> 呪いだ!やっぱりあったんだろ!
> 怪我人出てる。不謹慎です。
> 昭和六十三年も途中で中断した。これ、死傷者出るってことですか。
◇
午後八時二十五分。山神婚礼祭は、中断された。




