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オンガク

 幸せな音が聞こえる。耳を撫でるような、バイオリンの音に聞こえる。それが何層にも重なって、ハーモニーを響かせている。ストリングスというやつだ。目を開けると、また僕は青い空を見ることになった。ただの空が見えるわけではない。僕は今、雲の上に立っている。そのせいか、太陽の光が異常に眩しく感じる。

「待っていましたよ、えーと、お名前は……」

 太陽に続く、ガラスの階段から女性が降りてくる。とんでもなく分厚い本をペラペラめくっている。背が異様に高い。

「ああ、コウジさんですね」

 本を閉じて、僕のことを見てくる。白い布をたった一枚だけ羽織っている。古代の壁画に、こんな服装よくある。頭に草の王冠でも付ければ、まさにアレだ。

「コウジさん、少し、聞いてほしいのですが」

 階段を最後まで降りた女性は、こちらに近づいてくる。最後の審判だ。天国に行けるといいなと、強く願った。

「あなたには、私たちの世界であるメリディアを救ってほしいのです」

 人違いだ。

「私たちは探していたのです。クラシックと呼ばれる音楽に満ち溢れながら亡くなる方を。やっと見つけました。是非、是非ご協力を」

「その、よく分かんないんですけど、僕は、死んだんですよね……?」

「とんでもない!」

 女性は本を置いて、しゃがんで僕の手を握ってくる。女性に触れられたことが、あまりにも初めての体験で、少しドキッとしてしまう。

「あなたはまだ、死んでおりません。また、新たな人生をスタートさせたばかりです。まだ整理はついておられないでしょうが、私たちはあなたを必要としているのです」

 ぽうっと体中の温度が上がっていって、それが太陽の光なのか照れなのか分からなくなる。正直、世界のことを託されていることは、あまり頭に入ってこない。

「いったん、話を聞かせてください……」

 とはいえ、夢でもなんでも理解不能な状況は怖い。この女性は、今僕のことを欲しているが、それがずっと続くわけがない。何事もいずれ無くなる。僕はそれを知っている。

「お話を聞いてくださるのですね……ありがとうございます……」

 女性は手を背中の方に回して、どこからともなく何かを取り出した。僕はそれに見覚えがあった。少し昔の型の、録音プレーヤーだ。名前は確か「ネシプレ」だったはずだ。音楽を持ち運べる、画期的な機械で流行った。

「これは、あなたよりも前にここへ来られた人物の遺品です。私、この中に入っているものがとても好きで、その心が躍ったり、楽しい気分になったり、うっとりしちゃったり。これを使って、世界を救ってほしいのです……」

 何を言っているのか理解はできたが、こう、何に理解を示せばいいのか分からない。

「ええと、例えば、これです」

 何か操作して、音が流れる。それは、録音プレーヤーから流れているはずなのに、その場で生演奏されているような臨場感を持っていた。ずっと鳴っていたバイオリンの音が、音程を付け始める。心地よくなる音、目の前の女性のような優しい音色。

 これは『パッヘルベル:カノン』。でも、なんで? 前の人の遺品に?

「ほら、とても、なんというか気持ちがやんわりするような……私、これに一目惚れしてしまったのです。ここでずっと音が鳴っているのも、この中にある音を参考にして鳴らしているのですよ。今までは無音だったのですが、音が鳴ることで全く違います」

 僕はずっと感じていた違和感に気が付いた。この女性、頑なに「音楽」という単語を使わない。音、これ、など。まるで、まるで……

「あの、音楽、知らなかったんですか? 今まで」

 女性は目を点にした。馬鹿げた質問だった。だが女神にとってはそうではなかった。

「お、んがく? オンガクというのですか、これは」

 音楽を知らないなんて。でも、それと同時にカノンの凄さを感じ取る。音楽を知らない者をも虜にする曲。僕だって、カノンのことは嫌いになれない。大好きだ。

 カノンの旋律が小さく鳴っている。いつ聴いても、いつ聴いても良い。

「コウジさん?」

 視界に、女性の顔が入り込んで引き戻される。

「ああ、あの、それで、どうやって世界を?」

 カノンは徐々に小さくなっていき、フェードアウトしていった。ぶつ切りしないあたり、この女性と僕の美学は似ているようだ。音楽は徐々に小さくしていく。そこが。

「そうでした。えーと、私、女神なんですけど、このオンガクを使えば、世界が救えるんじゃないかと思っているんです。実は、メリディアにはオンガクなんてものは無くて。これがあれば、脅威にも対抗できるのではと感じているんです」

 め、女神? いや、言われれば、そうにしか見えない。それに音楽が存在しない世界というのも、どこか現実味がない。女神の女性は本をまためくって、そこに書かれている絵を見せてくる。そこには、人型の、二本の角が生え、翼を四つも生やしている者が描かれている。手には、魔法杖のようなものを持っている。

「これは、魔王デュベルトです。メリディアの征服を目論む極悪人。自然界に生きる生き物たちを束ねて、人々を襲うのです。現在、メリディアの方も奮闘してくれていますが、段々と有効打も無くなってきました、ネタ切れというやつです……」

 本はまためくられ、そこには読めない字がつらつらと書かれている。

「先ほど申しました通り、私は女神なので、人々に魔王へ対抗する能力を授けていたのですが、ほとんど対策されてしまいました。そこで、このオンガクを使って、あなたに世界を救っていただきたいのです」

 女神はネシプレを差し出した。スマホのように、画面をタップすることはできず、小さな画面の下に操作ボタンが付いている。やはり昔の型だ。

「私は、オンガクの秘められた力に期待をして賭けに出てみようと思います」

 女神の目は、突然鋭くなった。気づけば、バイオリンの音はもう鳴っていない。無音になると、また不安な気持ちになる。無音は、嫌いだ。

「賭け、ですか……」

 僕は女神の言うことを繰り返すことができなかった。

「はい。私は、現在メリディアにオンガクを流すことで覚醒する能力を与えています。私が直接世界に降りることはできません。あなたは、これからその世界に降りてもらい、このオンガクを持って行ってほしいのです。オンガクによって覚醒する能力の保持者たちと協力して、魔王軍の脅威を治めてはくれませんか」

 だから、僕を探していたのか。クラシックを聴きながら死んでしまった僕を。今では少なってしまったクラシック好きの中で、ちょうど死んだ者を。

「あなたなら、オンガクで、人々を動かせるはずです」

 渡されたネシプレの中には、有名なクラシック曲がこれでもかと入っている。改めて聴かなければならない曲もたくさんある。

「できる根拠はあるんですか」

 今、カノンが流れていれば、僕は希望に満ち溢れた決意を口にしただろう。そういう人間なのだ。曲がなければ、現実を見てしまう。でも、女神は違った。幾度となく当たった壁をなんとか乗り越えた先にある、音楽という新境地。カノンへの一目惚れ。きっと、それで確信しているのだろう。

「オンガクは、人を、世界を変えることを、あなたは誰よりも信じているはずでしょう」

 立ち上がって、ネシプレをポケットに入れる。気づけば、無音ではない。鼓動が響いている。決意を促進している。覚悟を決めている。

「……」

 女神は、安心して強く頷いた。

「メリディアには、女神の予言としてあなたのことを遠回しに伝えています。救世主がやってくると。皆さん、あなたのことを歓迎してくれるはずです」

 僕は少しだけ、うろたえる。他人に期待されるのは苦手だった。その分、失敗は後を引く。ネシプレを取り出す。女神の「どうされたのですか?」という言葉も無視して、抑えきれない欲求に向かっていく。僕は探す。頭の中であの旋律が流れている。

「あった!」

 再生ボタンを押す。女神は驚いたが、鳴り始めた音に耳を傾ける。

 それは、伸びあがるクラリネットのビブラート。思わず背筋が伸びて、次に鳴る気の抜けたトランペットの音に自分の思いを乗せる。

「このオンガクは……」

 すこしずつ増える音。ピアノの音。僕の大好きな旋律。あの時に聞けなかった、あのパートを聴きたい。ここで聴きたい。決断させてほしいのだ。ピアノのしっとりとした伴奏から、音が上がる。来た。

 色んな音が重なったヒット音が、そっと僕の使命を青色にする。僕の心を鼓舞できずに、音楽の力を発揮させることはできない。ここで、僕が音楽に救われないと。

 そして、実際に救われるんだ。

「やってみます……!」

 今度は、ちゃんと覚悟を持つ。大好きな旋律はただ聴くと楽しいだけの旋律。今は、僕の存在を示す旋律。これから始まることに、ワクワクする。何が起きても、僕には音楽がある。音楽のない世界に、俺は音楽の良さを伝える。

 それが、僕のラプソディーだ。


「では、こちらに。私も、何らかの形であなたに支援できるかもしれません。安心してください。健闘を祈ります」

 女神は雲のような白い地面をパカッと開ける。

「ここに落ちれば、メリディアに行けます」

 青い空がずっと下まで続いている。ここに、落ちる? 怖いという感情が出てきた。やっと決意も固まったのに、また怖いという感情が出てきた。

「えいっ」

 背中を押され、視界が揺らぐ。ネシプレを握って、僕は遠のくバイオリンの音を感じる。上下左右も、重力も分からない青い世界で、徐々に白い光がやってくる。視界が白い世界に支配されて行く。眩しさに目をつむった。


 そして目を開けたその時、僕は大きな音と土埃をたてながら地面に落ちた。

「な、なに⁉」

 煙の向こう側から見知らぬ声が聞こえる。次第に煙が晴れていき、現れたのは、震えた短剣をこちらに向けている、少女の姿だった。


「だ、誰!」

 うっすい茶髪を結んで、僕のことを睨んでくる。刃こぼれのしている短剣が、カタカタと震えていて、恐怖しているのが分かる。

「えっと……」

 名前を名乗ろうとしたところ、急激に腰が痛くなった。ごきっという音と共に、僕は「うぉう……!」なんてみっともない声を出してしまった。

 腰を押さえてもだいていると、少女は少しだけ近づいてきた。

「に、人間か。お前、空から降って来たのか?」

 なんだか口調が強いなと思う前に、また腰の痛みが来る。

「ちょ、ちょっと腰が……」

 老人になるまで言いたくもなかった言葉だが、助けを求める。

「だ、大丈夫か……」

 少女は手を差し伸べる。その手をとって、なんとか立ち上がると、自分の腰ぐらいまでの身長の少女がいた。さっきまでのオーラはどこかへ行ってしまって、短剣もどこか作り物に見えてしまう。口調とは、どこか乖離がある。

「ごめんね、ちょっといろいろあって」

 ポケットの中からネシプレを取り出して無事を確認する。

「心配しなくて大丈夫、僕はここらで……」

 一歩歩き出した途端、腰に、隕石が落ちてきたような痛みが今度は響いた。

「ぐぁ……!」

 あまりに痛みに僕は地面に倒れる。その時、衝撃でネシプレのボタンを何か押してしまった。僕の耳には、聴き覚えのあるイントロが流れている。あまり、ふさわしくない重厚な音が、空間をいったりきたりして、盛り上がりへ繋がっていく。息を荒くしていくうちに酸素が足りなくなってきた。曲は『ドヴォルザーク:新世界より第四楽章』。だんだん視界がぼやけて、僕は気を失った。あのメロディーが、意識の遠くで鳴っている。

「な、なにこれ、頭の中に、う、うわぁ、やだぁ!」

 少女が耳を塞いでじたばたしている様子が、どんどん薄くなっていって、僕は気を失った。


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