十一 『火影とジュリエット』
千羽と共に結城家へと帰宅した三日後は、陽陰学園文化祭の前日だった。
結希は最後までクラスの準備を手伝い、予定通り中等部へと足を向ける。階段を下りて別棟の中に入り、廊下の角を曲がって──結希は紅葉と火影のクラスである、三年A組の前で足を止めた。
開けっ放しの扉から中を覗くと、相も変わらず一言も言葉を交わさない紅葉と火影がクラスの中心にいる。クラスメイトのほとんどは二人に気を遣っているような表情で、やけくそ気味に〝台本〟を読み合わせている二人から距離を取っていた。
「ちょっと火影、何よその動き方! うっざ! 死ぬほどうざい!」
「も、申し訳ございません姫様」
火影演じるロミオがジュリエットをエスコートするという場面。だと言うのに、ロミオはジュリエットをエスコートするどころか彼女の前さえ歩けない。普段から紅葉の斜め後ろを追従していた火影は、紅葉をリードすることができないのだ。
火影が紅葉の前を歩く場合は彼女を先導する場合のみ。火影は従者として姫の道を示し、護衛として守ることしかできない子なのだ。
結希は目を細め、ますます険悪化する二人の喧嘩を廊下から眺めていた。
「あ、先輩」
クラスメイトの一人が結希に気づき、困ったように紅葉と火影を一瞥する。
怒っているのは紅葉のみで、火影はただ萎縮するばかり。悪いのは火影なのかもしれないが、このクラスの空気を過度に悪くしているのは紅葉だ。
だが、それだけ紅葉が演劇に対しても──火影に対しても本気だということは結希だけがよくわかっていた。
「先輩はどう思います? このまま明日になって、みんなの前で披露できると思いますか?」
「無理じゃない? 小道具はなんとか間に合わせたんですけど、主役があんなじゃもう台無しですよ」
結希は男子生徒と女子生徒に視線を向け、考え込むように視線を落とす。
二人の弱々しい声が聞こえたのか、周りにいた生徒たちも次々と小声で言葉を漏らしていった。
「ねぇ、文化祭どうなっちゃうの?」
「今からでも代役立てるか?」
「今から? そんなの……あ、でも、ロミジュリだし劇部のセンパイに頼んだらいけるかも」
「劇部だって出し物あるだろ。無理だって」
「ロミオだけでもなんとかならない? 劇部の子は……」
「無理無理……! うちだって人数足りなくて兼役してるセンパイいっぱいいるんだよ……?!」
現場が混乱している。それは肌でわかることで、目に見えてわかることだ。
結希は視線を上げ、周りの動揺に気づかずに一方的に火影を責めたてる紅葉を見やる。そんな紅葉を困ったように──だが何も言わずに見守っていたのが千羽だった。
千羽は結希に気づき、ふわりと体を動かして隣につく。結希が視線で訴えると、千羽は首を横に振った。
「ダメです。僕はもういないものだと思ってよ、結希くん」
千羽の存在は今のところ近親者にしか見えていない。霊感があれば見えるのかもしれないが、紅葉のクラスメイトにそのような素振りを見せる者は一人もいない。
結希は唇を引き、あくまでも〝この世にいない者〟として事態を見守る千羽にはもう二度と頼れないのだと実感した。
「紅葉ちゃん、すごい怒ってるね。昔から怒りっぽいところはあったけれど……ここまでは初めてだよ」
実兄に見たことがないと言わせるほどの紅葉の怒号っぷりは、今でも止まない。このままでは確実にこのクラスは崩壊してしまうだろう。文化祭が終わっても、このクラスはもう二度と以前までのクラスにはならない。
「先輩、パンフレットに中止だと書いといてください」
そう言ったのは、あの日生徒会長のヒナギクに助けを求めた男子生徒だった。
「このままじゃ、俺らがどう頑張ったってできっこないです。先輩って高等部の副会長ですよね? なら、今からでも対応して頂けませんか……?」
そのか細い声は、それでもクラス中に響いていた。
結希は意を決し、重苦しい空気が漂う三年A組の中に入る。
クラスの空気が変わったことにようやく気がついたのだろう。紅葉は火影から視線を逸らし、千羽がいないことに気づいて今度は結希の存在に気づく。
「にぃ……!」
それは、千羽ではなく自分を指している。
目が合った途端に紅葉は怯え、叱られる子供のように──自分の傍らに立つ火影のように萎縮した。
「クラスメイトに迷惑をかけるな」
紅葉の予想通り、開口一発目に出た台詞は説教だった。が、紅葉だけを叱っているのではなく結希は火影にも言い聞かせるように言葉を選ぶ。
後ろにいる千羽に見守られながら、結希は思ったことを言葉に出した。
「クラス中から必要とされている人間が真っ先に崩れるなよ。お前らは《十八名家》だろ? 全員を引っ張っていく立場にあって、来年度からは高等部の生徒会に選ばれる立場でもあるんだろ?」
椿か翔太のどちらかが来年度の生徒会長で、恐らく紅葉と火影も役員に選ばれる。残りの二枠は陰陽師の一族から輩出されるだろう。
そして、再来年度の生徒会長はほぼほぼ紅葉で間違いはないのだ。彼女の右腕となる副会長は火影だと、今から決まりきっているようなものなのだ。同じくその年の役員に選ばれるであろうアイラは、今のまま大人になった場合の二人の関係を見て何を思うだろう。少なくとも、余計な苦労だけはさせたくなかった。
「別に喧嘩するなとは言わない。でも、それは周りに迷惑をかけていい理由にはならないだろ」
仲直りしろとまでは言えない。これはそういう類の喧嘩ではない。
「文化祭は明日だぞ? 紅葉はこれ以上火影を怒るな。火影は自分が従者だということを忘れろ。言っとくけど、クビになったんだから無理だとは言わせないぞ。それでいい加減周りに謝れ」
公私混同は許されない。そういう思いを込めて二人に言うが、それは部外者になったからこそ言える言葉だった。
(あの日、俺たちはそうしなかった)
協力してもらった二人に突っ込まれたら痛いのだが、二人は決して──結希とヒナギクが一度見捨てた体育祭の件を掘り返さなかった。
「……ごめん」
「……ごめん、なさい」
一応謝るが、どうしてもぎこちがない。
「主演以外のキャストは問題ないのか?」
尋ねると、「は、はい」と誰かが答えた。
「じゃあ紅葉、火影。お前らだけ居残れ。俺と……あと依檻さんが責任を持ってここに残る。お互いが満足できる仕上りになるまで絶対に帰るな」
「えっ?!」
ぎょっと目を見開く紅葉と火影を無視し、結希は依檻を探す為に二人に背を向ける。そして不意に顔を向け、結希はあの日の出来事を思い出した。
「私情は挟まない方がいい。明日は、お前らだけの文化祭じゃなくて全員の文化祭なんだ。そうすることは死ぬほど難しいと思うけど、どうか忘れないでくれ」
紅葉にも、火影にも、自分と同じ失敗をして欲しくない。繰り返してほしくない。顔を戻して視線を上げると、千羽が柔らかく微笑んで頷いていた。
*
「姫様、休憩に致しますか?」
「しない! バカにしないで!」
「バカにはしてないだろ、紅葉。いい加減休め」
くるりと振り向いた紅葉は涙目で、悔しさを必死に噛み殺している。今の今まで問題があったのは火影の方だったが、いざ火影が本気を出すと粗が出るのは紅葉の方だった。
「…………」
千羽はあれ以来一言も言葉を発せず、黙って妹の奮闘を眺めている。結希は内心でため息をつき、心配そうに紅葉を見つめる火影を呼んだ。
「いつものアレ出せるか?」
「……可能です。でも、従者だということを忘れろと言ったのはいとこの人ですよね?」
「悪いな」
今の紅葉を見ていられないというのも本音だが、何よりも火影がそうしたそうに見えたのは言わないでおく。
火影はふるふると首を横に振り、百回に一回の奇跡──結希の言うことを素直に聞いて動き出した。
「紅葉、休憩だ」
結希は無理矢理そう告げて、火影と共に三年A組を後にする。千羽はついて来るかと思ったがついて来ず、千羽が見えていない火影と共に結希は誰もいない家庭科室を訪れた。
「どうしてついて来るんですか」
「一人にした方がいいだろ、どう見ても」
火影は黙り、明日の出店で使うのであろう器具をテーブルから退ける。そして懐から取り出したのは紅葉の好物の茶番だった。
「だからと言って、火影について来る意味はありましたか?」
「どうせなら俺の分も頼もうと思って」
嘘だ。
現段階で一人にした方がいいのは、泣き顔を見られまいと踏ん張っていた紅葉で。一人にしてはいけないのが、今回の件で面と向かって言葉を交わせないでいた火影だった。
「図々しいですね、いとこの人」
「お前が言うか?」
一番迷惑をかけたくせに、火影は悪びれる様子もなく紅茶を淹れる準備をする。それが火影らしいと言えば火影らしいが、もう少し動揺していると思っていた結希にとっては意外だった。
「……よく吹っ切ったな」
もう少し時間がかかると思っていたが、居残りにさせた時間から一時間も経っていない。こんなに早く吹っ切れるのならばもっと早くにやれば良かったのに、火影は何も読めない少女だった。
「いとこの人の言うことが、もっともだと思ったので」
わかっていてくれたのか。これも少し意外だったが、火影は表情をまったく動かさなかった。
「……いとこの人」
「ん?」
「火影はもう、姫様の従者には戻れないんですか?」
宙に浮かべた視線を戻すが、俯いてしまった火影の表情はよく見えなかった。
──吹っ切って、いない。
火影は今でも紅葉の従者であることを望んでいる。紅葉の望みを何一つ知らずに、火影は紅葉の下僕であることを望んでいる。
「従者以外にはならないのか?」
「何故ですか」
そう来るか。
結希は何もわかっていない火影の言動に頬を引き、切なそうに揺れる火影の紫色の瞳を見てしまった。
「なんでそこまで従者に拘るんだ?」
何か、結希の知らないわけがあるのだろう。思えば結希は、何故火影が紅葉の従者をしているのか──その理由を一つも知らなかった。
「火影は闇。そして、姫様は光──」
息をするように滑らかに。それが自然の摂理だとでも言うように。火影は自分を卑下して紅葉を讃える。
「従者であることさえ、本当はおこがましい。できることなら、火影は姫様の奴隷になりたかった」
火影にそこまで言わせるような巨大な何かが、火影と紅葉の過去にはあるように思えた。




