十二 『千年の呪い』
「……奴隷って、どういう意味だよ」
火影は本当に、紅葉のことを何もわかっていない。
「お前と紅葉との間に一体何があったんだ?」
すれ違い続けたままでは、二人の仲は一向に改善しない。わかっているのに、結希は二人のことを何も知らない。
火影はごくりと生唾を飲み込んで問うた結希の表情を見、やがて嫌悪を顕にするように眉間に皺を寄せた。
「……いとこの人は、六年前のあの日の出来事を忘れたんですよね?」
「……ッ!」
六年前のあの日とは、いつのことか。
百鬼夜行が起きた、あの日のことだろうか。
「ならば忘れたままでいてください。火影の為を思うのならば、絶対に、絶対に、思い出さないでください」
火影はそうやって結希に釘を刺し、紫色の──宝玉のように美しい瞳を揺らすように細めた。
「あの日の出来事は、火影と姫様だけが知っていればいいんです。火影と姫様の思い出の中に一生残り続けていればいいんです。いとこの人にも、他の誰にも、知られたくない思い出があるんです」
電気も点けない薄暗がりの中、月光だけが照らした火影の妖艶な表情が結希の心臓を鷲掴む。時折見せる彼女特有の狂気が辺り一面を完全に支配し、冷え冷えとした銀の杭を脈打つ臓器に突きつけられる。
ごくりと、何度目かの生唾を飲み込んだ。細められた眼球は血が凍るほど冷たく、吸血鬼のように日光に弱そうな青白い肌が闇夜の世界に映える。
かつて百妖麻露を魔物だと認識したように、百妖火影──いや、鴉貴火影も魔物の一人なのだと認識せざるを得なかった。
彼女もまた半妖の一人で、偽りとはいえ魔物を擁する百妖家の眷属なのだ。
それを無理矢理認めさせられたような気がした。
「姫様から聞き出すのも禁止致します。知ったその日はご自分の命日だとでも思っておいてください」
「……わかった」
「本当ですか? 本当の本当の本当にですか?」
なんの感情も込めずに問いかけ続ける火影を前に首肯する。それを見た火影は安堵も納得も何もせずに狂気を紐解き──不意に不安そうな表情をして俯いた。
火影、と声にならない声で呼びかけ、再び火影が口を開くのを待つ。
「いとこの人は、火影のことをどこまで覚えていますか?」
そして問われた内容はなんの脈絡もなく、結希は思わず首を傾げた。
「どこまでって、いつのことだ?」
「火影といとこの人が初めて出逢った日のことです。六年前、百鬼夜行が終わった後の日の話です」
その頃は確か記憶を失くした直後で──結希の現在の最古の記憶が眠っている時期だ。そんな時期に初めて出逢った火影のことを、結希は──
「……いや」
──何故か何も覚えていなかった。
「そうですか」
だが、ようやく安心したように息を緩める火影の表情がそこにはあった。それは火影が見せる唯一の十四歳らしい表情で、紅葉のように愛らしく花開く。
火影は紅茶を入れたままのティーポッドを持ち上げ、事前に用意していたカップに注いだ。慣れた手つきで結希の前に差し出し、「どうぞ」と珍しく声までかける。
「どうした?」
「何がですか?」
「機嫌がいいなと思って」
思ったことを口にしただけだったが、火影は何故かはっと体を強ばらせて薄い唇を噛んだ。
「…………別に、なんでもありません」
聞かれたくなかったのか、罪悪感で押し潰されそうな表情をする火影は何かを独りで背負っている。
『俺だって、紅葉が心配だから』
『貴方が心配しなくても! 火影が姫様を守り続けます! 貴方の力なんかなくっても……! 火影は姫様を守れます……! 必ず……っ、必ず、火影が姫様をお守り致します……! だからっ、貴方はもう二度と傷つかないでください!』
刹那、うるさいくらいに泣き叫んだ火影との古い記憶が脳裏を過ぎった。
あの日は本当になんでもない日で、ようやくまともな生活に戻れた自分が心の底から守りたいと思ったものを火影に無理矢理奪われた日だった。
『俺のこと、心配してるの?』
『貴方のことなんかこれっぽっちも心配していません! 火影が心配しているのは、いつだって姫様です! 姫様のあんな泣き顔は……もう二度と見たくないんです!』
自分以上に紅葉の身を案じている火影の涙に圧倒され、口を閉ざした結希は彼女の表情をじっと見つめる。
『貴方のことも、これからは火影が守るから……!』
小さな手を胸の前で握り締め、小刻みに震える火影は当時八歳の少女だった。
泣くほど怯えているのなら、怖いって素直に言えばいいのに。火影は決して、紅葉と同じように弱音を吐かなかった。
『一緒に、紅葉を助けよう?』
火影独りには背負わせたくない。そう思って小指を差し出し──結希は火影と指切りをして無理矢理彼女に誓わせる。
それが、火影との最古の記憶だった。
「…………そうか」
ただ、今の結希は一緒に背負おうとは言えなかった。
火影が今独りで背負っているものは、紅葉に対するものではない。今彼女の目の前にいる結希に対するものなのだ。
火影が何を思って紅葉や結希の為に自分の身を犠牲にするのかはわからないし、これ以上かける言葉を結希は持っていない。
今回も口を閉ざし、結希は紅茶を喉に流し込むことですべてを忘れた。
「いとこの人、さっさと飲んでください。火影には姫様に紅茶を届けるという大切な使命があるんです」
「ッ?!」
背中をばしばしと叩かれて、結希はむせながらもカップを火影に返す。
受け取った火影は軽く水に流してカップを放置し、真新しいカップとティーポッドを持って結希に目配せをした。
無言で家庭科室の扉を開け、火影が通る道を結希は作る。先を急ぐ火影の背中は徐々に徐々に小さくなり、不意に振り向いた結希は千羽と目を合わせた。
「ふふっ」
千羽は楽しそうにオーケーサインをし、結希の傍に下りて火影を見送る。
「しばらく二人っきりにしてあげようか」
紅葉の様子を尋ねたかったが、千羽の様子を見る限り大丈夫そうだと判断した結希は何も聞かなかった。
*
「……ただいま」
「ただいま」
「ただいま、お母さん」
「おかえりなさい。紅葉、結希くん、千羽」
居間から姿を現した朝羽は、「ご飯、今から温めるわね」と微笑して台所へと赴く。三兄妹は短く返事をし、九時を回った時計を一瞥して居間に入った。
あれから稽古を重ねて他の生徒と大差ないクオリティに仕上げた紅葉と火影は、学園から出ても一言も言葉を交わさなかった。「明日は頑張ろうね」や「また明日ね」さえ言わず、無言でそれぞれの帰路を歩く。
紅葉は火影の帰路や現在の住まいを気にする素振りさえ見せず、火影もまた従者として彼女を見送ることさえせずに背中合わせにして離れていく二人を結希と千羽だけが見つめていた。
「はい。遅くまでお疲れ様」
盆に乗せて夕食を運んできた朝羽は紅葉と結希の前にそれぞれ並べ、千羽の前に椀を置く。千羽は結局食べることができなかったが、朝羽なりの母親としての愛があるのだろう。千羽は「いただきます」と結希と共に合掌し、無言で夕食に手をつける紅葉を叱咤した。
「……いただきます」
しょげながらも合掌する紅葉は今も元気がなく、そんな娘にちゃんと気づいている朝羽は優しい声色でこう問うた。
「火影とはちゃんと仲直りしたの?」
「……あんなのもう知らないし」
「紅葉」
「何よ」
あまり反抗的な態度を取らなかった母親にさえ紅葉は噛みつくように睨みつけ、母親の真剣そうな表情にすぐさま怖じ気づく。
「陰陽師として、人との縁は大切にしなさい」
「えに……し?」
眉間に皺を寄せ、聞き慣れないであろう単語を呟き紅葉は手を止めた。
「それが立派な陰陽師になる為の第一歩よ。結希くん、あなたもちゃんと覚えておいてね」
「はい」
結希は首肯し、母親の朝羽と似たような柔らかな表情をする千羽を一瞥する。千羽はその意味を知っているのか、一人だけ何も言われず一人だけ何も言わなかった。
「まぁ、結希くんは心配なさそうだけれど」
朝羽は微笑み、甥の顔を覗き込む。
「縁は絆。そして、運命」
「え?」
「希望はいつでもここにあるわ」
そして結希の心臓の部分を指差し、困惑する彼を面白可笑しそうに眺めていた。そんなところが結希の母親である朝日に似ており、結希は間宮家の生き残りである二人の忌み子の共通点に気づいてしまった。
姉の朝羽も、妹の朝日も。物事を主観で捉えることができないのだ。いつだって他人事で、あくまでも傍観者を貫こうとする。そして多くを語らず、自分を語らない。
祖父の言いなりになって生きてきた姉妹は、そんな哀れな木偶の姉妹だった。結希は祖父のことを覚えていないが、覚えていない方が幸せなような気がして間宮家に蔓延る闇を見なかったことにする。
「希望って?」
「貴方でしょう? 結希くん。間宮家の最後の子孫で、間宮家唯一の希望の星。千年前に陰陽師を裏切った間宮宗隆の汚名を貴方が晴らしてくれたら──常世にいる三人のお祖父さまも喜ぶわ」
だが、予想外のところで千年前の話が出た。
「裏切った、って?」
声が震える。思えば結希は、間宮家であれば知らなければならないことを何一つ知らされていない。
「千年前、陽陰町に鬼がいた。間宮は鬼を愛し、裏切り者と呼ばれた。芦屋は鬼の声を聞き、隠居した。結城は鬼の首を切り、陰陽師の王となった」
「それが陰陽師全家に伝わる言い伝えなんだって」
「そんな意味わかんないことを信じる奴の気が知れないんだけどぉ? 鬼なんてそこら中にいるのにさぁ」
だが、結希は知っているような気がした。
『太刀、銘八条──名物、《紅椿》。同じく千年前、八条国成が鬼と共に打ったとされる妖刀ですね』
あの時確かに感じた、〝何か〟の気配が。
心臓を鷲掴み血を流させる、〝何か〟の狂気が。
──呪われていると本気で思った、〝何か〟の縁が。今、確かに繋がったような気がしたのだ。
「……紅椿」
愛したが故に呪われる。
愛したが故に引き剥がされる。
当時の二人と、今目の前にいる紅葉と火影が微妙に重なり合うような気がして結希は息を止めた。
紅葉の中にある間宮家と結城家の血が呪われているが故に引き剥がされたように思えた。
鬼である百妖家の眷属──火影との別離は呪いの一部だ。そう思わせるような縁がそこには何よりも深く広がっていた。




