幕間 『月虹下の紅き姫』
紅く紅く染まった黄昏時の色彩が、結城家の縁側に染み込んでいく。この時間は学校が終わった直後の時間で、にぃとゆっくりできる大切な時間だ。
そんな時間がくぅは大好きで、何よりも大切だった。
「にぃ〜!」
この幸福感をいっぱいいっぱい──疲れちゃうくらいに抱き締めて、くぅは縁側に座るにぃに抱きつく。にぃの匂い。陽だまりの匂い。大好きな匂い。
「紅葉ちゃん」
にぃは柔らかく微笑んで、くぅの頭を優しく撫でた。幸福な時間が流れて、だけどそれも一瞬で終わる。
「千羽、こっちも見てよ!」
不満そうににぃの袖を引っ張るゆぅは、くぅの従兄だ。同じ家に住んでいないのに、いっつもいっつもにぃを独占してくる悪いやつ。
「ダメ! 今はくぅの時間なの! ゆぅはすっこんでてよ!」
「先約はこっちだもんっ! 紅葉はもうちょっと待ってて!」
「二人とも、喧嘩しないの。僕はどこにも行かないから」
くぅとゆぅを止めたにぃは、きっと誰よりも優しい。ゆぅが考えた術式にいっつもアドバイスをしてあげていて、実践で使えるように鍛えている。
それがくぅにとっての唯一の不満で、ストレスだった。
「むぅ〜……」
「紅葉ちゃんももっと勉強しないと。結希くん、この術式は土地神様の力を借りないと実現が不可能そうだから……こうやって組み立ててみるのはどうかな?」
にぃは筆を持って半紙に術式を羅列し、満足そうにゆぅに見せる。
ゆぅは瞳を輝かせてそれを受け取り、「ありがとう!」と嬉しそうに笑った。
「今度はなんの術なの?」
にぃに抱きついたままくぅは尋ねる。ゆぅの考える術式はいつだって突飛で、使いどころがよくわからないものだらけだ。実践で使う機会があるのかも怪しい。
「これはねぇ、瘴気を一瞬で消せるんだっ! すごいだろ〜!」
えっへんと胸を張って、ゆぅはこの術式がいかにすごいものなのかを熱弁する。でも、くぅには何がすごいのか理解できなかった。意味のないものだと思っていた。
「自画自賛すぎぃ」
「そんなことないよ、紅葉ちゃん。瘴気を消すなんて誰にも思いつかなかったことなんだから」
「でもぉ……」
「そんなことよりも千羽! 次はね、妖怪の心を癒す術式を考えたいんだ! 何かいい方法ない?!」
くぅの不満に気づきもしない。そんな無神経な従兄がまた何かバカらしいことを考えている。
「妖怪の心を癒す?」
ほら、にぃだってきょとんとした表情で尋ねている。
「うん! なんかね、豆狸がそこの公園でずっと泣いてたんだ」
「はぁ? 何言ってるの? 妖怪が泣くわけないじゃん!」
「でも、本当に泣いてたよ。だからぼく、狸さんに絶対に治してあげるねって約束したんだ」
「絶対泣かないし! ゆぅの嘘つき!」
でも、ゆぅはくぅが何を言っても主張を変えることはしなかった。
どうしてゆぅはこんなにも嘘つきで、バカで──頑固なんだろう。
「ねぇ結希くん。君は今瘴気を消す方法を考えたけれど、それを纏う妖怪の心を癒したいってどういうこと? 君は妖怪をどうしたいの?」
にぃの問いかけに、ゆぅは一瞬きょとんとして。
「──一緒に遊びたいっ!」
きっと誰にも理解されないような、家族でさえ難色を示すような、バカなことを高らかに言った。
妖怪と遊びたいなんて、本当に愚かな発言だ。くぅはそう思ったけれど、多分にぃは笑わない。
この時も、にぃはゆぅを否定せずに──「一緒に遊べたら楽しいだろうね」と肯定した。
ねぇ、にぃは──本気でそう思ってるの?
*
「ッ、にぃ!」
いつもなら笑って安心させてくれるのに、にぃは顔を強ばらせたままくぅの手を引っ張って走っていた。
黄昏時から色を変え、真夜中になって数多の妖怪が蠢き出す。濃い瘴気をその腐った身に纏い、禍々しく行進を続けている。
百鬼夜行は、ある日突然訪れた。
くぅとにぃは妖怪に追われたまま鴉貴家の蔵を目指し、何もない森の道を全速力で駆け抜ける。振り返ると、どす黒い瘴気を纏った妖怪どもがくぅとにぃを狙っていた。
「ひゃっ……!」
「振り向かないで!」
にぃに従う。にぃに従っていれば間違いはない。
でも。
「に、にぃ……!」
頬が引き攣る。瘴気が視界を覆ったのだ。
「札を貼りなさい! 退魔を!」
震える手で、くぅはにぃの背中に札を貼りつける。
「紅葉ちゃん! 君にも貼るんだ!」
そして、首を左右に振った。札は、にぃに貼った札で最後だった。
「紅葉ちゃん!」
生まれて初めてにぃの怒声を聞いた気がする。でも、くぅは首を左右に振り続けた。
真夜中の山道。百鬼夜行最中の妖怪から妹を連れて逃げるなんて、あまりにも無謀で。そんなことは八歳のくぅでもわかっていて。
「生きて、にぃ……」
くぅは失敗作だ。だからせめて、王に相応しいにぃを守って、生かして、死ななくちゃいけない。
「……この町を、守って……」
するりとにぃの手を離す。
これでいい。これが正しい。みんながくぅのことを悪い子と言うけれど、にぃを守って死ねたらきっといい子って言ってくれるから。
お父さんとお母さんが、これ以上哀れな目で見られることがなくなるから。
「紅葉っ!」
ねぇ。にぃは、本気で妖怪と遊びたいって思ってる?
くぅを殺した妖怪と一緒に、にぃは未来で笑ってくれる?
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前!」
がくんっと足から力が抜けた。
にぃはくぅを抱き締めて、真後ろにいたはずの妖怪を殺す。
自分の式神が死んだばかりなのに、にぃはそれでも強かった。
「にぃ……!」
「ッ、紅葉ちゃんは札を貼ってここにいて! 周囲の妖怪を倒したら必ず戻るから!」
にぃは自分の背中に貼られた札を剥がし、くぅの額に貼りつける。
「そうしたら、一緒に避難しよう!」
くぅを庇う位置に立ったにぃの背中は、大きかった。紺碧色の着物を翻し、生身の体で妖怪に立ち向かう様は偉大だった。
「にぃ……!」
名前を呼ぶことしかできないほどに怯えきって、くぅは涙をぼろぼろと流す。
「助けてっ! 助けてるいっ! にぃを助けてぇっ!」
生きたまま腐敗していくにぃの体をその目に焼きつける。
にぃの無言の絶叫と苦痛で歪んだ顔をするりと流し、くぅは地面に視線を落とした。
あれはにぃじゃない。今目の前で消えゆく命は、にぃのものなんかじゃない。
ぎょろりとくぅを見た妖怪は、誰かを殺したその体をくぅの下へと滑らせた。瘴気がバカみたいに濃い。でも、札を貼られたくぅは何も辛くない。
このまま効果が切れるのを待てば、にぃと一緒にどこかに行けるのだろうか。
ざらざらとした妖怪の表面が見えるほど近く。悪臭は鳥肌を立たせている。そして、おどろおどろしいそれが覆い尽くすように逃げ道を断つ。
やだ。
死にたくない。
効果が切れる瞬間にそう思い──
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前!」
──黒々とした星のない空を見上げた。
「紅葉っ!」
それは妖怪の腹の中ではなく、本当に空で。くぅはくぅに向かって手を伸ばす、〝ゆぅ〟の手を握り締めた。
「……ゆぅ」
るいじゃなかった。あんなにも強いるいじゃなくて、バカなことしか考えていないバカだった。
「行くよ!」
ゆぅはくぅの手を引いて、鴉貴家がある山道を駆け抜ける。
ゆぅは、にぃよりも早く──生まれた時から貰っていた式神のスザクを呼び出した。そんなスザクが殿を務めて、くぅたちを逃がそうとしてくれている。
「ゆぅ、るいは……?」
「涙は来れない! 生徒会だからって!」
「どうして……! どうしてくぅたちを助けてくれないの?!」
ゆぅは答えなかった。るいは、中学生になってからくぅたちと過ごす時間を減らしていた。一番下のくぅはるいと遊んでも遊び足りなかったのに、るいはくぅよりも最優先すべきことがあるって言ってどこかに行ってしまった。
闇夜に殿を務めるスザクの刃を薙ぐ音だけが聞こえる。るいが駆けつけてくれる音だけが何故か聞こえない。
「どうして?! くぅたちは家族でしょ?!」
目頭が痛かった。心も痛かった。すべてが痛かった。
何もかもが壊れるような音がするのに、ゆぅの手は残酷なほどに温かい。
「紅葉! この中に入って!」
気づけばそこは鴉貴家で、ゆぅはくぅを蔵の中へと突き飛ばした。
「……え?」
振り返ると、踏ん張って扉を閉める──ゆぅの必死な形相が見えた。
「待ってゆぅ! どうして?! どうして一緒に逃げないの?!」
「だって、ぼくしかいないから!」
そして、ゆぅはぽろぽろと泣いていた。
「千羽が死んじゃったからっ! ぼくが代わりにこの町を守らなきゃ……!」
やがて大泣きし、ゆぅは無慈悲に扉を閉める。寄り添うことさえ許さないまま、ゆぅは一人で決意して──るいみたいに、にぃみたいに、どこかに行ってしまうと言うの?
泣くほど怯えているのなら、怖いって素直に言えばいいのに。
どうして──
『だからお願い、紅葉を守って!』
──どうしてゆぅは、そこまで強く在れるの?
「行かないでっ! ゆぅ!」
重厚な扉を殴るけれど、それはびくともしなかった。
八歳の自分の手でどんなに殴っても、それはくぅを閉じ込め続けていただけだった。
「開けてよゆぅっ!」
その心の扉も一緒に開いて、笑って、くぅを連れてって。この血なまぐさい蔵から──連れてって、一緒に戦わせて。
そう思うのに、この気持ちはゆぅには届かない。るいにも届かない。
かたんと音がして、振り返る。
そこにあったのは地下へと通じる階段ではなく、辺り一面に飛び散った赤黒い液体と──少女の前でくたばった鴉天狗の遺体だった。
*
「ごめんね、紅葉。結希くんをよろしく」
「……わかった」
お母さんが申し訳なさそうに結城家を出る。
お父さんも、るいも、くぅの傍にいることができないくらいに忙しくて。くぅは、縁側に置かれた車椅子に座るゆぅを一瞥した。
百鬼夜行は、くぅのすべてを奪っていった。
そんな百鬼夜行を終わらせた従兄のゆぅは、記憶を失くしたままぼうっと宙を見つめていた。
目が覚めたのはつい最近だけれども、そこにいたのはゆぅであってゆぅではない。抜け殻のようにただそこに在って、歩くことも食べることも今はまだ困難な状態だった。
「ゆぅ、食べて」
お母さんが作ってくれた夕御飯を、ゆぅの口元に運ぶ。ゆぅは光のない、焦点さえ合ってないような濁った瞳で口元に差し出された粥を見た。
「食べて」
じゃないと、ゆぅが今よりももっともっと衰弱していく。
ゆぅの式神はそのせいで寝込んでいて、日に日に弱っていくとくぅの初めての式神になったビャッコが言っていた。
もぐもぐとお米を咀嚼するゆぅの口元から汁が垂れる。その一筋の唾液を見つめ、くぅは嫌というほど顔を歪めた。
「…………」
誰が、こんなことを望んだんだろう。
誰が、こんなになるまでゆぅのことを痛めつけたんだろう。
「姫様、そのような仕事は火影が致します」
顔を上げると、名乗り出たのは居間から姿を現した火影だった。
「やめて。これはくぅの仕事なの」
「ですが……」
「ゆぅに触れないで!」
火影が伸ばした手を払い、くぅはゆぅを守るように抱き締める。
そうだ。絶対に──絶対に、ゆぅには触れさせない。ゆぅは他人が触れていいような人じゃない。
ゆぅは、くぅの大切な従兄なのだ。
「……承知致しました」
火影はすごすごと下がっていく。くぅはタオルをゆぅの口元に当て、零れたものを丁寧に拭き取った。
ゆぅのことは嫌いだ。そうだったはずなのに、今だからすべてわかってしまう。
百鬼夜行のあの日、ゆぅはにぃと作ったあの術を──瘴気を消すというあの術を唱えたのだ。
蔵に閉じ込められる前と後で見た瘴気の量が圧倒的に違う。あれは、ゆぅがすべてを消し去ったからだ。
ゆぅとにぃが作っていたものは、意味のないものなんかじゃない。意味のある、大切な人を守る為の術式の数々だったのだ。
それに気づけなかったくぅはゆぅとにぃの邪魔をしていただけだった。
くぅはどこまで愚かで悪い子なんだろう。
にぃじゃなくてくぅが死んでしまえば良かったのに。
月明かりが縁側を照らす。視線を上げると、月虹が黒の世界を彩っていた。
にぃを殺したこの時間帯は嫌いなのに、ほんの少しだけ言葉にならない声を漏らすゆぅを確かに救っている。その瞳に月虹を映し、ゆぅは確かに息をしていた。
「姫様、お風呂が沸きました」
「わかった。すぐに入るからゆぅを見てて」
「承知致しました」
「でも、ゆぅには絶対に触らないで」
火影を制し、くぅは空になった食器を置いて風呂場へと走る。
ゆぅの面倒を見るのはくぅだ。火影じゃない。その役目だけは絶対に譲らない。その一身で駆け抜けた。
服を脱ぎ風呂場の戸を開けシャワーを浴びて湯船に浸かる。早く、早く、すぐにゆぅの下に行って彼を守らないと。
口元まで浸かってぶくぶくと泡を立てる。寂しさを紛らわせようとしたのにどうしても無駄で、くぅにはどうすることもできなくて、また泣きながら体を洗う。
ゆぅを守る為にすぐに上がり、びしょびしょに濡らしたままの髪を乱して廊下を駆ける。
──ゴッ
刹那、鈍い音が響いて消えた。
「ッ?!」
慌てて居間に駆け込むと、後ずさる火影が見つめていた先にいたはずのゆぅがいない。車椅子さえ見つからなくて、からからと中庭から見える車輪の一部がすべてを物語っていた。
「ゆぅ!」
鋭い声を上げて縁側から中庭を見下ろすと、縁側の踏み台に頭を向けたゆぅが呻き声を上げながら倒れている。
「ゆぅ?!」
踏み台にはありえないほどの量の血痕がこべりついており、頭を抑えるゆぅの痛々しさに胸を刺された。
「やだっ……やだぁっ!」
このままではゆぅが死んでしまう。直感でそう思った。
裸足のまま中庭に飛び下り、くぅは必死になってゆぅを仰向けにする。
額から血を流すゆぅは痛みに顔を歪めていて、不意にその顔があの時のにぃと重なって、込み上げてくる吐き気に耐えられなくて、本当にその場でくぅは吐いた。
月虹がくぅたちを憎たらしいほどに美しく照らしている。どうしてこんな日に限って空は美しいのだろう。星のないあの時の空の方が、数百倍も愛せたのに。
「くぅを一人にしないで…………」
その時くぅが思ったのは
「…………〝にぃ〟」
かけがえのない、たった三人だけの〝にぃ〟だった。
「…………ぁ、あぁ」
ハッと体を強ばらせる。
視線を動かすと、ゆぅがくぅを見て──手を、伸ばしていた。
「…………ゆぅ?」
その手が下ろされる。
「…………〝にぃ〟?」
まさかと思ってもう一度声に出すと、ゆぅはその手を再び伸ばした。
くぅの瞳をあの日以来初めて見つめていて、泣かないでって訴えるように頬に触れている。
「…………〝にぃ〟」
頬に伝った涙がそのまま、ゆぅの指を伝って腕に流れた。
「…………〝にぃ〟」
だいすき。
あの日妖怪に殺されたのは、にぃであってゆぅだった。
妖怪と遊びたいと純粋に言っていた大切な人たちだけが殺されて、くぅだけがこうしてのうのうと生きている。その事実だけで胸が張り裂けそうだった。
くぅはゆぅに覆い被さるように抱き締めて、嗚咽を上げる。
あの時のくぅは、何もできなかった。それだけの後悔と今の自責を詰めに詰め込んで、涙を流す度に体を動かしてくぅを気遣うゆぅにまた泣かされる。
不意に視線を感じて顔を上げると、ショックを受けたような表情で立ち尽くす火影と何故か目が合った。
*
「…………なんで、あんたがここにいるの」
にぃが今にも消えそうって時に、あの時とまったく同じ表情をした火影と目が合う。
「姫様の、泣き声がして」
泣きじゃくった顔をそのままに、くぅは嫌悪感を剥き出しにして火影に噛みついた。
「ふざけるなっ! どっか行けっ!」
くぅは火影の見世物なんかじゃない。
本当は連れ戻したかったのに、不意にあの時の火影を思い出して無性に腹が立った。
見ていてと頼んだのに、本当に見ていただけで助けようとしなかった火影に腹が立った。
いつだってくぅの言ったことしかできない火影が嫌いだ。
いつまでも人の気持ちがまったくわからない火影が嫌いだ。
火影はくぅの表情に顔を強ばらせ、背中を向けて走り去っていく。
くぅとゆぅとスザクが駆け抜けたあの日のあの道を、火影はたった一人で駆けて行く。
「…………ダメだよ、紅葉ちゃん。友達には優しくしないと」
「あんなのはもう友達じゃないもん!」
いや、そもそも友達なんかじゃなかったけれど。くぅと火影は友達じゃなくて、主従とも言い難いもっと別の何かだった。
にぃは不安そうにくぅを見下ろし、火影が去った方を見る。
そっちを見ないで。お願いだからくぅだけを見ていて。お願いだから消えないで。
「千羽、体が……!」
ゆぅの声で目を見開いた。半透明だったにぃの体が、足だけを残してはっきりと見えるようになっている。
「なんで……!」
ゆぅは困惑気味ににぃを見上げた。
視界に入ったゆぅはやっぱりあの頃のゆぅとは違っていて、だけど匂いはまったく同じで。何もできなかった六年前のゆぅが嘘のように素早くにぃの下へと駆け寄って、にぃの体をまじまじと観察した。
「心残り、ですか?」
何もしなかったるいが問いかける。
にぃは困ったように眉を下げ、くぅを見た。
「…………」
ゆぅもるいもくぅを見る。
「あ、う……」
くぅは言葉を漏らし、責められているような気になって視線を落とした。
「……ここにいて、くれるの?」
涙を拭って問いかけると、冷気がこの辺りを支配した。見つめていないと消えてしまう──そう思って必死に顔を上げる。
にぃはさっきと同じように困ったような顔をしていた。行かせたくないのに、にぃが困っている。そんなのはもっと嫌だ。生まれて初めてそう思った。自分の幸せよりも、にぃの幸せを願わないと──。
「うん。まだ行けないみたい」
なのに、にぃはちょっぴり面白おかしそうに笑っていた。
笑い事じゃないのに、にぃはそうやっていつも笑って──くぅを安心させてくれる。
「思い出したんだ、僕」
「思い出した、って?」
「お肉をお腹いっぱいに食べたい」
「お、お肉ぅ……?」
くぅはぽかんと口を開け、お腹を擦るにぃを見た。
「最後の晩餐はお肉がいいなぁって。あ、でもこの体ってご飯食べられるのかな?」
「いや、心配するとこそこじゃない! 本当に成仏できないのか?! 千羽!」
「千羽、無理は禁物です! この世の理を変えることは禁忌です! 千羽っ!」
ゆぅとるいの声に耳を傾けず、にぃは首を振って否定する。
「本当に消えないんだ。もちろん、もう祓ってほしいとも思っていないけれど」
ふわふわと揺れるにぃはお気楽そうで、それがあまりにもにぃらしくて。
誰にも心配をかけさせない、優しくて強い大好きなにぃが確かにそこにいた。
「……お肉を食べたら、行っちゃうの?」
「どうだろう。そのお肉次第かなぁ」
「……お肉をここまで、持ってくるの?」
「その必要は多分もうないよ」
どういう意味? くぅはよくわからなくて、ちらりとゆぅの方を見る。
「地縛霊じゃなくなったってことか?」
「そうみたい。この土地に縛られる必要はもうないからね」
ゆぅは悟ったような瞳でにぃを見ていた。それはもう、光のない濁ったような瞳なんかじゃない。
あの頃よりも大人びたゆぅは唇を引き、「そうか」と短く相槌を打った。あの時と同じように何を考えているのかよくわからない表情で視線を逸らす様は、くぅを少しだけ不安にさせる。
「千羽。ならばこの先はどうするつもりですか」
「結城家に帰ろうかな。ここの景色はもう見飽きちゃったし……六年でこの町がどう変わったのかも見てみたいしね」
「一緒に帰れるの?」
その不安を拭ってくれるにぃは頷き、くぅの傍に降り立った。
「帰ろっか、紅葉ちゃん」
六年前、にぃと二人で出かけた先で遭遇したのが百鬼夜行だった。
一緒に避難しようとして、一緒に帰れなくて、今日──やっと、一緒に帰れる。
「……ッ!」
四人で、一緒に帰れる。
アメリカからやっと帰ってきて、仕事が安定し始めたるいと。記憶を失くしてしまって、だけど心を開いてくれたゆぅと。くぅと。にぃと。四人で一緒に、肩を並べて。
くぅはゆぅとるいの腕を掴んだ。引き寄せて、触れないにぃがるいの隣に立つのを見上げる。
「烏ぅ〜なぜ啼くのぉ〜」
嬉しくてつい歌ってしまった。それは昔、くぅたちが好きだった童謡だった。
「烏は山にぃ〜」
くぅににぃが続く。
「可愛七つの子があるからよぉ〜」
それを覚えていたるいも歌う。
「えっ、何その歌。俺知らないんだけど」
ゆぅはゆぅのままでいい。これからは、四人の新しい思い出が作れるのだから。




