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現実とゲームは違うと思うのはこんなときだろうか、と葵紗は考える。
「う~ん」
取り敢えずマニュアルを読み流した葵紗は、思わず腕組みしながら唸る。
最初の感想としては、やはりちょっと不親切だな、というものだ。
ゲームの攻略本なら何処に行けとか、誰と会えとか、エンディングまでの流れを親切に、それこそサブイベントまで事細かに教えてくれるものだと思うが、やはりそこは現実だ。
この世界の名称や大まかな国と首都、通貨単位や価値、あとは種族、職業、魔法、スキルなど、ステータス画面で見られる情報の解説が載っているだけのようだ。
そりゃそうか、とも思う。
別に葵紗は死んで神様とかに呼ばれて何かを頼まれたわけでなく、お約束のように勇者だの巫女だのになってくれと召喚されたわけでもない。何の前触れもなく、ここに落ちてきただけなのだ。
何の目的もなく、この世界の人間として生まれたわけでもない自分は、これから何をして生きていけばいいのか。
ちょっとばかり途方に暮れた葵紗は、取り敢えずビールを取り出し、暫し現実逃避を図ったのだった。
* * *
ビールを一缶飲み干したところで、改めてマニュアル画面を見直してみる。
缶を飲み干すために見上げた空には、いつも見上げていたより明らかに大きく眩しい月。いつまでも夢だと片付けるほど妄想を働かせることのできない葵紗は、現状、これからの生活をどうするかで頭を悩ませなければならなかった。
何処の世界でも同じだが、確固たる身分と資金源がなければまともに生きていけない。
葵紗の場合、料理の腕は誰にも負けないと自負できるが、重要なのは。
このイストニアという世界において、葵紗の料理の腕前が通用するとは思えないことである。
マニュアルには載っていないが、漠然と、ここに自分が普段使う食材や調味料なんかないだろうな、とは思うのだ。大前提として、おそらく食事は洋食文化だろう。そのレベルがどれほどのものかはまだ判らないが、あまり期待できないかもしれない。
そもそも、葵紗はそれほど洋食が好きではない。日本食万歳な人間だ。
米とか、味噌とか醤油とか、日本人の遺伝子に組み込まれていると言っても過言ではないあの味はこの世界にはないんだろうなぁ、とちょっぴりたそがれてみる。普段そんなに食べない日本人でも、まったくないとわかれば無性に食べたくなるであろう、あの味が。
鰹節に昆布に干し椎茸、煮干とか。あぁ、あたりめも意外にいい味出す。梅干、沢庵、青菜に白菜漬、キムチ。漬物なんかもっての他か? いや、似たような植物があれば自分で漬ける。やり方は社員食堂のおばちゃんたちに教わった。でも梅干だけはできなそう。梅干一瓶あればレシピは無限にできるのに。
「うまみ」なんて言葉、この世界にあるかな。いや、絶対に世界中探し回ってでもその元を探してやると葵紗は誓う。
しかし何よりも。
「やっぱりビールもないのかな……」
葵紗の重点は、その呟きに収束されているようだ。
まだ暗い――月明かりはあるが――うちに移動するのは危険と判断し、葵紗は現在地に留まることを選択した。
ついでとばかりに、もしかしたら使えるかもしれない魔法を試すことにする。どうせこの状況で落ち着いて寝られるはずもないので、徹夜は決定だ。結構な時間気を失っていたため、幸いというか眠気は訪れない。
まずは安全確保のため、気配察知と探査能力を使ってみることにする。
気配察知は指定範囲内に存在する、魔力を有する動くものを教えてくれるスキルということだ。
マニュアルによれば、この世界に存在するものすべては微量でも魔力を有しており、それがなくなれば生きていられないのだとか。だが大気中には常に魔力が存在しており、それを呼吸するのと同じように自然と循環させているため、魔力が枯渇する状態になることはまずないらしい。
気配察知の反応は主に3種類。
動く動植物は緑。魔物は黄。人間など人型の生物を表す青。そしていずれも、こちらに敵意や害意を持った場合、赤に変わるらしい。
有効範囲は使用者の保持魔力量によって変わるということだが、最初はこれくらいかと半径50mほどを指定してみる。
一気に周囲の気配が迫ってくるような、異様な感覚に襲われる。
「っ、気持ち悪……」
飲んだばかりのビールが、胃の中でぐるぐる発酵しているような錯覚に、葵紗は顔を歪める。しかしその頭の中には、止める間もなく大量の情報が入ってくる。
このままだと吐く、と葵紗は意識を無理やりそちらから切り離した。
せりあがってくるような感覚を堪え、荒い息を吐くこと暫し。
「ちょっと、やりすぎた?」
初心者ならまずいちからやるべきだったと、額の汗を拭う葵紗であった。
初魔法、失敗。