第7話 血器(ちき)
人を殺したのは4歳の時でした。
それまでにもきっと、野良猫や金魚などを殺していたのでしょう。虫なんかは数えきれないほど殺していたはずです。小さい時の頃なので覚えていませんが、近所のお友達の耳を潰して怪我をさせた時に、初めて両親は私を病院に連れて行く覚悟を決めたようでした。
『……驚きました。NA過剰症候群です』
女のお医者さんの説明は私には難しく、ただそれを聞いている両親の血の気が見る間に引いていくのが分かるだけでした。
『10万人に一人の稀病ですよ。動物の本能を司るノルアドレナリン……、その過剰分泌が特徴です。現代人が失ったとされる生存本能が、極めて発達したαノイドと呼ばれる人々の存在はたびたび報告されてきました。ですがNA過剰症はさらに稀少、αノイドとは反対に狩猟本能に特化した存在……。有効な治療法は見つかっておらず、一度完全に定着してしまえば、生涯を隔離病棟の中で過ごさせざるを得ません』
お医者さんは慎重に言葉を選ぶように続けました。
『ただし、すべての患者さんが発症するわけではありません。潜在的な病状を持っていたとして、反社会的な行動をとるに至るケースはさらに数パーセントです。幼少期の道徳教育や生育環境……、本人の生まれ持った資質次第で、発症に至らずに終わることがほとんどです。……まあ、蟻を潰して遊ぶ程度の残虐さは、子供は皆持っていますからね。我々もサポートします。お子さんは既に半覚醒状態ではありますが、これからの生活、第二次成長期を迎えるまでの間にこれ以上の経験を与えないよう注意して見守っていけば……』
家に帰った後、お父さんとお母さんは泣いていました。泣いているのが可哀相だったので、私は一人病院に戻って先生を殺しました。帰り道、誰にも会わなかったのは運が良かったです。病院へ行って先生をロープで絞め殺すまでの道筋は、不思議なことに『視えて』いました。誰にも邪魔されず目的を実行するための経路が本能的に理解できていたのです。先生の血や爪や髪の毛が食い込んだロープを見せると、お父さんとお母さんは狂ったように喚いたので驚きました。私はただ二人に喜んでほしかったのです。お父さんとお母さんを哀しませる先生がいなくなれば、二人はまたいつもに戻ってくれると思ったのです。
二人が何を叫んでいたのかは分かりません。途切れ途切れ聞こえたのは、「この子を殺して私も死ぬ」というような言葉だったと思います。無理心中というやつだと後で覚えました。私は私を殺す人間を殺して良いと思ったので、本能的に次の標的を定めました。
冷たいハサミの鉄の部分が、流れる血で温かくなっていきます。気づくと私の体の上で二人は死んでいました。ちょうどいつも布団の中で私を抱きしめる時のような格好で。静かな満足感で満たされました。私は両親の体をどうにか押しのけ、血まみれの服や腕をさすりました。脂がのってべたべたと気持ち悪く、私はおかあさんと声を上げました。いつも呼べば来てくれるはずの母が姿を見せず、私はもうお母さんはいなくなったのだとその時理解しました。少しの寂しさと、この不快感をどうにもできないもどかしさを感じて、私は初めて泣きました。
世間ではちょうど同じころ、絞殺をなりわいにする殺し屋の兄妹がいたようです。私は気まぐれに人殺しを続けましたが、いくつかの事件は私になすりつけられたみたいでした。獲物を串刺しにする鳥の異称からとった『絞め殺す堕天使』という名前が、いつからか新聞に載るようになりました。父と母のことは、すぐにどうでもよくなりました。どうも私はそういう気持ちの切り替えが早いようです。殺したあとの始末がおざなりだったので、私はすぐに捕まってしまいました。とはいえその兄妹のおかげで捜査が攪乱され、2か月以上の間逃げ切ることができたので私は感謝しています。
捕まった私は精神病院ではなく、奇妙な実験施設に入れられました。少年院とは名ばかりの、私のような重度の未成年犯罪者を「更生」させる施設だったようです。脳味噌のそこかしこをいじられ、食事代わりに薬を与えられ、次第に私の心は失くなっていきました。囚人たちの間、受刑者と警邏の間で暴力や暴行がありましたが、それに抗う気持ちも気力も失っていたのです。全ては等しく無でした。ただ砂のように味の無い感情を力なく噛み潰して、日々は過ぎて行きました。
どれくらい経ったでしょう。
激しい音と地響きのような衝撃が遠くで鳴っていました。そのころいつも見るようになっていた幻覚や幻聴ではないようでした。その証拠に同じような衝撃がして、私を閉じ込める冷たい壁が破壊されたのです。
仄白い人工の光が差し込んできました。
「お前も実験体か」
『彼』はそう言いました。耳元に手を当てて、何か確認をするように話していましたが、すぐにこちらへ手を差し延べました。
「生き残る意志のある者は保護するそうだ。お前も来るか?」
彼の服は血に塗れ。
その眼は暗く、真っ白な絶望に彩られ、まだ何者にも染められない健やかな虚無がありました。
彼は私と同じ人殺しで、私よりずっと透明で、煌めいていた。
後に兄と呼ぶことになるその人の手を、私は思わずとった。人の血と肉の温かさを、思い出した。
それが真白雪(お兄ちゃん)との、最初の出会いだった。
「……その殺人鬼の名前を、私に? 言いがかりの言葉にしては鋭利すぎるんじゃあないでしょうか。眼目さん」
雑踏の中に立ち止まり、袈裟丸は静かな落ち着きを湛えて問い返した。
「『絞め殺す堕天使』」
また負けず劣らずの沈着さで、眼目は答える。
「かつて世間を震撼させた少年殺人鬼を、マスコミはそう名付けました。少年法によって実名や顔写真は伏せられたものの、都市伝説のようにその存在は広まった。少女のその後の足取りは、政府の極秘部隊にリクルートされているとも、違法な人体実験施設に幽閉されているとも言われている。……言いがかりのつもりはありませんよ。私は木葉下副局長殿の指示でここに来たのです。そう言えばお分かりになりましょう?」
その言葉に、袈裟丸の顔つきが変わる。背部に下げたバットケースを下ろして眼目は続ける。
「当然私は全てを聞いているわけです。何を隠そう、あなたを政府筋の人体実験施設から救い出したのは伏魔殿。当時命を下したのは木葉下殿です。当時海外任務で座を離れていた局長殿は、自身の腹心である副局長殿を介し極秘の任務を出させた。違法な人体実験施設の隠蔽。政府の尻拭いですな。雪殿を含む突入部隊にはエデンの施設という嘘の情報を与え、違法施設の証拠を破壊させた」
ジッパーを下げる音が雑踏の中に吸い込まれる。
「『堕天使』に関する噂は部分的に的を射ていたわけですな。生き残った被験者たちは、伏魔殿の実働部隊として木葉下殿の直属の部隊に配属された。強化手術の確立されていない当時、殺人も厭わないエージェントを育てるのは時間がかかった。あなた方のような重度の少年犯は都合が良かったのでしょう。……残念ながらあなたは、その殺人癖を抑制し一介のオペレーターとして所属することになったわけですが」
だが最も期待される袈裟丸はいつか殺しの現場に戻ってくると木葉下は確信していた。だからこそ自身の管理下から外し一般職員として所属させることを許したのだった。
「しかし不思議なものですねえ。私のようなただの乱闘好きとは一線を画す『NA過剰症』……、そのあなたが3年もの間殺人の衝動を抑え続けることができていたとは。どういう風の吹き回しです?」
「愛の力ですよ」
袈裟丸はにこりと笑って答えた。それから周りの雑踏を見渡す。
「ここまでバレているなら仕方ないですね。……でも、こんな場所でやるつもりです? こんな『肉の壁』だらけの場所で」
「それならご安心を」
眼目が刀を抜き放つと同時に、辺りを歩いていた人々が一斉に袈裟丸へ銃を向けた。よく見ればひとりひとりが『十三蝦夷』や『熊嵐』のメンバーである。袈裟丸に気取られぬよう、念入りに変装を施していた。
「用心には越したことないだろう。周囲には京の『聖者の行進』で一般人が立ち入れないよう結界を張っている」
眼目の横に現れた羆が言った。部隊長二人……、それぞれの部下一小隊分ずつに加え『淀』のメンバーまで……。先の防衛戦で捉えた敵兵を煙草森の洗脳で味方に引き入れたとは聞いていたが、既に実践投入されていたとは。
「袈裟丸さん、あなたは殺しすぎたんですよ。それも味方や関係のない一般人まで……。これが最後の警告です。改めて木葉下殿の下に付き、戦闘員として参加するのであれば、荒事は止すと副局長殿は仰せです」
「嫌ですよ」袈裟丸は即答した。
「それじゃあお兄ちゃんにバレちゃうじゃないですか。私が血で汚れた殺人鬼だって……」
すらりと伸ばした片手の平に、すっと緋い染みが滲む。大量の血液が飛び出して、流動的な一本の鎌の形を形成した。「それじゃ可愛くないでしょう?」
その凶器は禍々しく、身の丈はあるほどに大きかった。報告にあったとおりの能力だ。木葉下の握りつぶした監視映像に、防衛戦の時の袈裟丸の姿が捉えられていた。もはや与えるべき猶予はない。羆が叫ぶ。「かかれ!!!」
と同時に袈裟丸の血刃が空を刈る。包囲する兵たちの首や手足が瞬く間に宙に浮く。
目にもとまらぬ早業。隊員たちは袈裟丸を既に敵と認め、幼い少女を狩る覚悟を決めたように引き金を引いた。
一斉に襲い掛かる散弾を血の刃が弾き飛ばす。俊敏に、驚く隊員たちの懐に潜り込んで腸を裂きまくる。
「能力に怯むな! 所詮は非強化人間です、一撃でも入れれば終わる‼」
血の一太刀が周囲の隊員たちを薙ぎ払った。中央に構えた袈裟丸が、心臓を一突きにした隊員の胸に顔を埋める。まるで現代に蘇った吸血鬼のように血を啜る。「化け物が」吐き捨てて羆が猛烈なタックルを浴びせる。
ひらりと躱した袈裟丸が死体を捨て刃を向ける。鋭い突きの攻撃を羆は裏拳で弾いた。攻勢に転じるかのように繰り出される羆の重いラッシュ。が、袈裟丸の軽やかなステップはその一撃一撃を空に空回りさせていく。
何故だ。
拳を放ち続ける羆の額には汗が浮かび、当惑の念を表しているかのようだった。贋作とはいえ、こいつは強化手術も訓練も受けていない一般人のはず。……なのに何故……、当たらない?
空を叩く羆を嘲笑うかのように袈裟丸が哄笑と共に宙へ返る。と同時に肩口から放たれた第二の血刃が羆の胴を撫で斬りにした。
だが、思ったよりも浅い。羆が唸り声を上げる。「小娘が……ッ! 手加減もここまでだッ‼」
獣化能力を解放し羆の肉体が野生のヒグマへと変わっていく。知性ある獣が咆哮を上げ襲い掛かる。対峙する袈裟丸が妖艶な笑みを浮かべる。両肩に、幾本もの血刃が羽のように広がる。
「なっ……」
羆の肢体を血の槍が突き通した。
急所を防ぎつつも自由を奪われた羆の首を落とそうと、袈裟丸の刃が迫った。




