第30話 Side-Blood:エンジェル・フォール
肩口から斜めに振り降ろされた刃は、静かなほど一直線に胸を裂いて、のまえの脇腹へ抜けた。
苦しむ間もなくのまえの目が虚ろな硝子になり、上がる血飛沫と共に小さな体が崩れ去った。
それが、『4秒後』の出来事だった。
雪は脳裏に広がった確定された未来の景色を前に叫んだ。
タワーへと東京の街を駆け抜けた雪の予見した未来は、既にあと数秒に迫っていた。タワーは既に遠景に見えていた。
雪は加速能力を使い、最速で向かっていた。だが、入り組んだ東京の街、最短の経路で進んだとて、のまえが凶刃に倒れるのに、一瞬だけ間に合わない。ただ窓の前に手を伸ばし、虚しい叫びを上空に響かせながら手遅れの光景にぶつかるしかない運命だ。
そのはずだった。
雪の中で何かが弾ける音がした。透き通った視界が直線の経路を導き出す。踏みつけたアスファルトが衝撃に砕け、宙に跳ねた雪の軌跡に炎の羽根が舞った。
〇
超音速の衝撃波でビルの窓たちが一斉に割れる。死の刃が到達する目前、突き抜ける巨大な気配にのまえは反射的に目を開いた。
轟音が鳴り響き血刃が溶けて飛沫に変わると同時に、のまえを抱えた一筋の旋風が天井に着地して亀裂を入れた。衝撃に天井が波打ち、遅れてきた空気の壁が突風となって袈裟丸を吹き飛ばした。
強大な、それでいて温かく見覚えのある腕の感触に、のまえは顔を上げた。
「雪くん」
雪の斑になった瞳が、のまえに応えた。
その背中には吹き出した炎が翼となり、それでいてのまえの体を焼いてしまわぬようコントロールされていた。この展望台へ、一直線に突入したスピードにのまえが傷つけられぬよう、衝撃の反動さえ制御されていた。
「色々と、待たせてごめん」泰然とした表情で、雪は微笑んだ。「でも、間に合った」
「制御できたんだね」
「ああ」
地上とタワーの鉄骨、本来なら地上を進まなければならなかったルートを、スピードはそのまま3号の反重力と御黒の熱噴射で空を飛び、捌光の透過能力で障害物を通過することでショートカットしてきた。それによって雪は、届かなかったはずの数秒を縮めることに成功した。
「二人して話を進めないでくださいよ」
自身の上に折り重なった屍を弾き飛ばし、袈裟丸が立ち上がった。
「! 袈裟丸……」雪は困惑した瞳で袈裟丸を見つめ、それから床の上に転がった後原に気付き目をやった。
「!」
袈裟丸が目で追った時には既に、雪の体は地上にあり足元に後原を運んでいた。いつの間にかのまえも床に下ろしている。雪が触れた手の下で後原の腹に開いた穴が塞がっていく。
「なんで……、そいつらっ……。私のことは!!」袈裟丸の背中に血の刃の羽根が広がる。「私を見て!! 私だけを見てよ!! お兄ちゃん!!!」
「雪くん……」「ああ」
後原の傷を塞ぎきり、雪はどう受け止めてよいか分からぬ現実に目を向けなおした。その目は煙草森の透徹した瞳のように、全てを見透かしたような光を帯びていた。
「伊舎那の罠だと……、ここに来るまでは、思ってたけど。全部本当のことなんだな。袈裟丸」
袈裟丸が三日月のように口角を上げる。雪は感じたことの無い黒い圧力で袈裟丸の内部から追い出された。無意識、恐らくは深層心理レベルから湧き上がる本能のようなものに締め出されたのだ。煙草森から精神感応の感覚は教わっていたが、こんな対処のされ方は聞いたこともなかった。
「女の子の内側、勝手に覗いたらダメだよ?」
無数の血の刃がのまえに向かう。雪は細く固めた墨の剣の群れでそれを弾き落とす。
なんて剣捌きだ!! 雪は驚嘆する。能力ではこちらが圧倒しているはずなのに、袈裟丸は互角に斬り結んでいる。予知に匹敵する反射、読心を退ける無我の境地、野性の本能が局所的に雪を
「やめろ袈裟丸! 今の僕なら、お前の殺人衝動を取り除ける! 伊舎那にも副局長にも利用させない! いつものの袈裟丸に戻ってくれ!」
「嬉しいよお兄ちゃん、でも『いつもの私』に戻っても……、私は妹止まり。それじゃ駄目なの。こいつを殺さない限り、お兄ちゃんは私のものにならないの!!」
降り注ぐ血の雨が鮮烈を極める。墨の剣を楯にして、どうにか凌いだ雪は重力を一点に集中させた。強烈なGに袈裟丸の体が沈み込み、血の鞭が地面に叩きつけられる。踏ん張る腕の骨が折れる音が聞こえる。雪は苦し気に顔を背けかけたが、すぐに袈裟丸に向きなおった。
「僕にお前を治させてくれ」
雪の掌が袈裟丸の頭部に触れた。
極彩色の紅い景色が続いていた。
その部屋は騒がしく熱い。現像室のような、一面に赤い光を照らした壁に、数珠つなぎになった顔の無い人々の写真が張り付けられている。
袈裟丸の『根源』だった。
雪は、袈裟丸の赤い部屋の中に佇み、ただ圧倒される気持ちでその内面を眺めた。
そこには暴力と、欲動の過剰な奔流だけがあった。血に塗れた狩猟の道程。だが、そこにはおよそ予想できるような、どす黒い憎しみの片鱗や悪意の欠片さえ感じられなかった。それはただの衝動であり、善も悪も介在しない極端な原初だった。獣が獲物を屠る時に見せる、あの興奮と冷徹さだけを剥き出しにして置いた、人間の獣性。
雪はそれが、自身の手に負えるものでないことを悟った。ここまで奥深く、中核に根付いた本能を取り除けば、袈裟丸の精神は永遠に分解される。あの初めて会った時のような、いやそれ以前の廃人同然の無機状態に戻るだろう。そして二度と正気には戻らないのだ。それは袈裟丸を殺すことと同義と言えた。……そもそも、人間の道徳の及ばぬ、自然の荒々しさとでも呼ぶべきこの本能を消し去ることが、人の身に許されるのだろうか?
雪の周りに赤と青の波が流れ込んできた。嬌声の濁流が体を包み込む。
『やっと本当の私を見せられた』
『一つになりましょう? 兄さん』
『お兄ちゃん』『兄さん』
肉の襞に柔らかに押しつぶされるように、血の流れに溶けあうように、雪の心は輪郭を失っていく……。
「雪くん!!」
肩に触れる柔らかな指の感触に雪は我を取り戻した。気づくとのまえがすぐ後ろまで近づいていて雪の肩を揺さぶっていた。感謝を述べる、間もなく、のまえが近づけるほどに弱まった周辺の重力に雪は気が付いた。既に袈裟丸が唸り声をあげて立ち上がろうとしている。
「袈裟丸!!」雪が両手の間に空気を圧縮する。
「また邪魔をする……」
袈裟丸が獣の目でのまえを睨む。
「お兄ちゃんが私のものにならないなら……、誰のものにもさせない!!」
地面から、影を縫うように無数の血の針が飛び出した。同時に、雪の放った衝撃波が雷を伴って袈裟丸を吹き飛ばした。
デッキ中の窓が割れ、振動がタワーの骨を震わす。
床から突き出た血の棘は、複雑に枝分かれし鮮血の針の山となって、全方位隙間なくデッキを埋め尽くしていた。ただ一箇所氷の壁に覆われた区画だけが、血の剣の分岐を鈍らせその内ののまえを守っていた。
雪は血棘に両腕と足を貫かれたまま、のまえの無事を声で確認し、袈裟丸の姿を探した。地上300メートルの風が吹き込む割れた窓枠の下でむっくりと起き上がる袈裟丸の姿が見えた。
袈裟丸は氷壁と、四肢を刺し通された雪の姿を目で捉えた。のまえの防御と反撃のために、躱せるはずの攻撃を受け入れた雪だったが、それでもなお急所は守れるだけの余裕はあったようだった。
喉の奥から漏れるような笑いを、袈裟丸は漏らした。「何がおかしいんだ」雪は胸を掴まれたような声で問うた。
「だって……。分かっちゃったんだもん。お兄ちゃんにとってそいつは特別なんだ。たとえ殺せても、お兄ちゃんの心は帰ってこない」
雪の眉が僅かに緩む。「……そうだよ。だからこれ以上は……」
「そいつを殺せば、そいつはお兄ちゃんの『永遠』になる」ナイフのように冷えた言葉が、雪の喉元に突き付けられる。
絶望を押し込むように、袈裟丸が続ける。
「お兄ちゃんが死ねば、お兄ちゃんは私の中で『永遠』になるんだ」
掌に躍らせたナイフを窓枠の間に刺し込む。柄に掴まって、窓の外に身を乗り出す。強風が髪と、制服のスカートをたなびかせた。逆光が袈裟丸の影をどうしようもないほど濃くする。「だから、次は殺すね、お兄ちゃん」
雪の瞳の中で袈裟丸が愉楽的な笑み弾けさせ、手を離し宙に身を投じた。針から四肢を引き抜いた雪が妹の名を呼び窓に駆け寄ったが、再び目にした袈裟丸の背は既に遥か下、蜘蛛のように器用に鉄骨の間を飛び移っていくところだった。窓際に突き刺さったナイフが、紅い反射の中にその姿を小さく映していた。




