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人獣見聞録 猿の転生Ⅸ Side-B:ルシファー・イン・ザ・ブラッディナイフ  作者: 蓑谷 春泥
第1章 血染めのルシファー
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第1話 天国と地獄

 廊下は墨を流したように暗かった。ただ星々のようにライトが散らばって、壁際にはめ込まれた古生物の化石たちに古いきらめきを与えているばかりであった。

 エデン最主要基地・「大本営(ヘヴンズ・エンド)」最下層。地を這うような根の模様が、組織の長たる者の座す最奥の間へ、標(しるべ)のように続いている。

 阿舎利(あじゃり)吉留(よしる)は、彼女の頭領であるところの「猊下(げいか)」の部屋の前に立った。音も無く扉が開き、広々とした部屋の奥に座る赤銅(しゃくどう)色の骸骨と視線が交わる。「灰色の枢機卿(すうききょう)」。エデンの長であり機械の髑髏にその身をやつす正体不明の男。

 小さなホールのような空間を支柱が支え、その内部にはめ込まれた水槽の中を鰻のような大魚が泳いでいる。阿舎利は口を開き目だけでその生き物を見上げた。

「エオアンギラという古代魚だ」

 枢機卿が口を開いた。機械を通して別室から流している音声だ。別室どころか基地の外ですらあるかもしれなかった。全く別の安全な場所に居て、アジトには訪れないという噂すらある。

「既に絶滅した生物だが、クローン技術を用いた再生プロジェクトの一環でこの世に蘇らせた。もうずいぶん前になる」

「お詳しいんですね……」

「これでも若い頃は優秀な方でね。私もそのプロジェクトに参加していたのだ。しかし、個人でできることには限界がある。出資者として、より秀でた頭脳たちを動かす方が、目的に近づく……」

 心なしか懐かしむような声音の言葉に、阿舎利は困惑した。正体を秘匿している枢機卿が、自身の過去について話すのは、珍しい。それも自分のような一介の構成員に対してだ。枢機卿は阿舎利の戸惑いを見透かしたかのように、灰色の瞳で彼女を見下ろした。

「このような昔話は嫌いかね」

「いえ……。ただ、なぜ私のような者に、と」

「謙虚だね。旧エデン製薬・元社長釈迦仏尼(にくるべ)の実娘(じっし)にして戦闘大連隊の参謀が、ずいぶんと謙遜するじゃないか……」

 枢機卿が掠れた声で言い、掌を仰向けに片手を挙げた。

「2ヶ月前の伏魔殿侵攻……。あの功績は大きかった。あの時真虫(まむし)君が捥ぎ取った真白雪の狂花帯の一片……。そのおかげで我々の計画は次の段階へと入った。彼は良い仕事をしてくれた」

「人類に永遠の命をもたらすエデンの悲願。12種類全ての狂花帯に変幻する真白くんの器官がそれに一役買うことは想像できますが、具体的にどのような手段で実行されるんでしょう……?」

 実のところその方法は幹部にすら知らされていなかった。いや、正確には布告されていたようだが、そのプランに連隊長である海土路(みどろ)佑介は疑問を抱いていたみたいだった。弟の佐介は枢機卿に全幅の信頼を寄せていたが、佑介の方は計画の実効性が意図的に巧妙にぼかされていると、以前から阿舎利に漏らしていた。

 人類に、という言葉に枢機卿は微かに反応したようだったが、すぐにその気色(けしき)を隠すように手を組んだ。「今はまだ君の知るところではない。狂花帯を用いた人類規模の変革は高度に専門的かつ理論的な話だ。その全容を正確に理解できるのは邇凝(にこら)博士しかいない。君は私の決めた目標を実現するために作戦を立案する、そのことに集中していれば良い」

 そうすれば君の願いは叶う。枢機卿は阿舎利の懸念を払拭するように力強く肯いた。阿舎利は頭を下げた。

「だが、君にエデンの中核としての自覚が芽生えてきたのは喜ばしいことだ。知っての通り、2ヶ月前の伏魔殿侵攻同日、御黒(みぐろ)闇彦の攻撃によって我がエデンの幹部連たちは残らず灰となった。生き残ったのは現地に赴いていた雨乞君と連隊長の海土路兄弟のみ。その海土路兄弟も御黒闇彦に敗北しあの状態……。今連隊を実質率いているのは君だ。幹部に等しい地位、その責任をよく噛み締めなさい」

「は……」

 幹部たちの後任は現在も選出されていない。恐らく意図的なものだろう。雨乞(あまごい)烏合(うごう)一人の意見では枢機卿の決定を左右できるはずもなく、阿舎利もまた特段逆らうつもりはない。幹部連は有名無実化していた。現在のエデンは、枢機卿のワンマン状態だ。これだけ大きな組織の稟議(りんぎ)が突然集中するようになったにも関わらず、滞(とどこお)りなく運営を維持し続けている彼の手腕には、事実上の新幹部として関与するようになった阿舎利も舌を巻かざるを得なかった。いや、なんとなれば組織の計画は、維持どころか次の段階に進もうとすらしていた。

「主力の雨乞君たちには例の作戦に集中してもらうとして……。虫の息の伏魔殿(ふくまでん)の現状は、どうなっているかね」

 促され、阿舎利が資料を提示する。

「真白くん達の現在ですが……」


〇


 グラウンドを回る隊員たちの掛け声が、教室の窓から微かに聞こえていた。

 私立更科(さらしな)学院高校・高等部校舎。改築されたその3階教室は今は物置になっており、机は撤去され教卓と黒板だけが学び舎の名残として残っていた。真白雪は教壇の上に上り、声のする地上を見下ろした。今は射撃練習場となっている弓道場がグラウンドの横にはあり、駐車場がその前に整備されていた。いつかそこに座ってのまえの資料を読んでいた雪に、担任として話しかけてきた跡星(あとぼし)の姿が思い起こされる。短いながら、教師であり、敵であり、味方でもあった男だ。今は亡き者でもある。雪は無言のまま教卓に手を乗せた。

「感傷的じゃん。珍しく」

 教室のドアが空いて7号の煙草森(たばこもり)鳰(にお)がドア枠にもたれかかった。茶髪に近い桜色の髪が頬にかかる。若干17歳の少女の制服は他の学校のものだが、今に始まったことではなかった。

 エデンが行った、2か月前の本部侵攻によって、伏魔殿は甚大な被害を受けた。本部施設の大半が崩壊し、死傷者は戦闘員・戦闘員を問わず夥しい数に上った。

 本部の移転を余儀なくされた伏魔殿は公安の力を借り、旧大戦時の不発焼夷弾(しょういだん)が大量に埋まっているという名目のもと学園の土地を買い取り新本部として改築した。もともと悪童隊(あくどうたい)の訓練施設を併設していたとは言え、既にエデンに割れている土地を拠点としたのは、有力な移転候補支局がことごとくエデンの襲撃によって損壊していたからである。雪もこの二か月の間何度も支局防衛に駆り出されていた。支局潰しが始まっていたのだ。先(せん)だっての本部侵攻によって伏魔殿は多くの捕虜を獲得していたが、それはエデン側も同様であった。むしろ階級の高いオペレーターを拉致している分、情報戦は向こうに分があるとさえ言えた。いずれにせよ移転計画の内情が洩れているとなると、既存のプランは白紙に戻し新たな候補地を探すしかない。大敗によって大幅に削減された予算上、新たな大基地を新設する余裕も無かった。そこで既にある程度設備が整っていた学園に、白羽の矢が立ったのである。

 あえて積極的な理由を挙げるならば、戦闘員の大部分を占める学生隊員に対して、少しでも「日常」を取り戻させたいという、局長や葎の配慮もあったのかもしれない。それほどに、学生たちは心を疲弊させていた。

「五頭(ごず)ならここじゃないけど」

 近頃煙草森とつるんでいる様子の五頭の名前を、雪は口にした。

「あいつを探してたわけじゃない」

煙草森は大袈裟にむっと顔をしかめてみせた。

「そうなのか。馬飼(うまかい)から君らの話を聞く機会が増えたから、仲良くしてるのかと」

「あいつは私の護衛を任されることが多い。そんだけ……。なんか他意ある?」

 煙草森がじっとりと目を細めると、首元にハメられたチョーカーがほんのりと紅く光った。雪の思考に裏が無いことを読み取ったのか、煙草森は納得したように息を漏らした。

「五頭は進んで汚れ役を引き受けてるんだよ。心を覗ける人間と組みたい奴はなんて、そういないでしょ」

「そんなことはないと言っておきたいけど、いざ目の前でやられると、たしかに気まずいな」

 雪が首元を指す。悪かったと言う風に煙草森が両手を上げた。チョーカーのサインが消えた。

 煙草森がつけているチョーカーは、彼女が伏魔殿入りするにあたって副局長が開発させたものだ。本部防衛戦の結果には彼女も思う所があったのだろう。家族の安全と彼女自身の非拘束を条件に、正式な伏魔殿への入隊を受け入れた。組織の情報が筒抜けになりかねないピーキーさはあるにせよ、今の伏魔殿に〈12人〉という最大戦力を拒む余裕はなかった。

とはいえ、公安組織としては対策をしないわけにもいかなかった。上層部の管理による能力の抑制という案も出たが、いざという時に本領を発揮できなければ困る。入隊時の約束もあるし、自衛の観点から言っても煙草森は渋るだろう。議論の末、彼女の行動を制限しない範囲でリスクを減らす方法として、表示装置が創案された。電極を通して狂花帯の活性反応を感知し、チョーカーが点灯する。能力を発動すると、それが傍目からも分かるという設計だ。単純だが組織上の効果は大きい。

 アイデアは副局長が出したものだが、葎(むぐら)や局長がそれを受け入れたのは、煙草森を隊に溶け込ませようという配慮もあってのことだろう。煙草森が能力を使っていないことを保証する安心材料は、組織のみならず周囲の人間にも有益なものだ。他隊員の疑心暗鬼を防ぐことで、煙草森が隊内で孤立せずに済む。局長や葎らしい発想だ。

 口には出さないが、煙草森もその効用には充分な利を感じたのだろう。チョーカーの開発には惜しみなく貢献した。上層部に信用を持たせるためか、現状、新本部への常駐や支局防衛にもかなり協力的である。あくまで能力の使用不使用が分かるというだけなので、煙草森が裏切れば組織が崩壊するというリスクは依然残っているが、どのみち雪や煙草森抜きの伏魔殿に勝ち目はない。もはや一蓮托生と、本部は考えたのだろう。

「ま、ちょっと失礼だったかもだけど……。大目に見てよ。あんたの『頼み』聞いてきてあげたんだから」

 煙草森の言葉に雪がぴくりと反応する。「調べてきてくれたか。いつだった?」

 煙草森は薄桃色の髪を透かして、親指を後方に向けた。

「これからだよ。1時間後。裏門から出る」

「そうか……」

 ありがとうと短く礼を述べて、雪は教壇を下りた。

「水臭いって言うべきかな。これくらいのことは協力してあげる」雪のために道を開け、煙草森は通り抜けていく雪の肩にぶっきらぼうに付け足した。「……家族と別れる時くらいは」

 雪の育ての母にして伏魔殿局長・注連野(しめの)紫に辞令が下され、本部を去る刻限が迫っていた。


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