第26話 史士
その男は死んだように動かない。それでも浅く不規則に繰り返される呼吸と、弱々しく胸を叩く心臓の音が、立ち止まった少年の耳には確かに聞こえた。
「……親父」
その声に反応したように、ゆっくりと、捌光が首をもたげた。「……見か」
『鴛原隊員。オペレーションルーム付近に八号が侵入したとの情報がある。そちらは異状ないか』
インカムからラクシュマン長官の声がした。
「長官」
見は躊躇うように耳に手を当てた。
「……侵入者の気配はありません。捌光は別の場所へ移動した模様です」
『……了解した。……それと幣原代理だが、先ほど指令室に突入した第七中隊によって死亡が確認された。伏隊員も同様だ。中はもぬけの殻、染隊員の姿は無かった。総指揮は本部で引き継ぐ。君は付近のオペレータールームに避難してくれ』
「そうですか……。分かりました」
通信を切り、見は捌光を見下ろした。
「やっぱり……」
見は痛まし気に唇を引き締めた。「あんたなんだな。左衛門三郎捌光!」
少年が銃を向ける。捌光は、訪れる運命を静かに受け入れた表情で、薄く息を吐いた。その顔には、いずれこうなることを予期していたかのような清い諦観が見える。
「その名は……、世を忍ぶ……、仮の名前。我々の先祖から採った」
「あんたは……、どうしてエデンにいる。エデンに忠誠を誓ったのなら、なぜあの時僕を助けたんだ? もし息子だからと言うなら、なぜ……」
見の銃口が震える。「……どうして家族を捨てた‼ 答えろ‼」
捌光はただ息をついている。瞳を巡らせて見を見つめた。
「八栄は……。お前の母は息災か」
質問に重ねられた問いに、見は堪えるように奥歯を噛み締める。
「元気で暮らしてるさ。……母さんは、『捌光』(あんた)のことを知っていたのか?」
「あいつは、何も知らない。何も知らせずに……、家を去った。お前と同じ」
切れ切れに捌光が答える。「知らなければ、関わることもない。エデンに……。呰部圷比古に」
「! 呰部……」幹部すら知るはずのない枢機卿の本名に、見は思わず聞き返した。「枢機卿の正体を知っているのか?」
「エデンは……、圷比古と邇凝、我々3人から始まった。奴は我が旧知の友。知っているのも道理」
捌光は観念したように目を閉じた。「少し……、昔話をしよう」
〇
今から約20年前、呰部圷比古・和喰邇凝博士と共にエデン製薬に潜入した左衛門三郎捌光は、その優れた武力を認められ、エデン製薬の「露払い」を担当するエージェントたちを率いた。圷比古は影の役員として、邇凝博士はエデン製薬の中核を成す最高研究顧問としてそれぞれにエデン製薬の要所を掌握していった。
高い肉体的強度を持つ捌光は、圷比古の身体データと隕石の破片から得られた遺伝情報をもとに邇凝博士の発案した『12人の怒れる男』プロジェクトの第一被験者群に選ばれた。第一群に参加していたメンバーで狂花帯に適合した素体は、捌光の他に昼神イヴのみであり、その点から言っても捌光はプロジェクトの古参メンバーと言って良かった。ともかくも8号狂花帯に適合した捌光は昼神ほどではないものの、人間離れした超常的能力を手に入れ、エデン製薬の陰の暗殺者として無くてはならない存在となる。
貴重な実験成功者である捌光にはその後さまざまな追加調査が行われた。その過程で提唱された仮説に、『12人』の狂花因子が遺伝するのではないかという議題があった。後に「贋作」と呼ばれる彼らの存在は当時はまだ蓋然的にしか予想されておらず、『12人』の子孫については多くの研究職員らの関心の的となった。遺伝子の設計図は先天的に決まっており、狂花帯のような後天的に獲得した形質は本来遺伝しないというのがそれまでの常識であった。しかし狂花帯移植後の被験者のDNAには明らかな変異が見られ、未知の遺伝の可能性が示唆されていた。
ちょうど同じころ、捌光はある一人の女を愛し、その女との間に子供を身籠らせていた。遺伝の可能性については捌光が聞かされたのは、彼女の妊娠を知った少し後のことだった。
捌光は自身の「仕事」について彼女には打ち明けていなかった。表向きはともかく、自分たちが裏で進めているプロジェクトは、人類の光明とも災厄ともなりかねない。結婚し、家庭を築くということは、家族を巻き込みかねない危険な行為でもあった。
同時期圷比古や邇凝は家庭を持ち、邇凝は既に7歳になる娘を育てていた。邇凝と違って家族の存在を公にしなかったのは、自身の精を受けた彼女やDNAを受け継いだ子供に対し、製薬の干渉が入ることを嫌ったためである。邇凝の実験がいかに人道に反し容赦のないものであるか、自身の身をもって体験していた。たとえ捌光の妻や子供であったとしても、惨たらしい実験と観察に曝されることは容易に予想がついた。逸脱した天才によく見られるように、邇凝にはその手の倫理が欠落していたのだ。
事実、既にその時期には5号被験者の複製生産が立案され、その複製体〈Q〉を施設で飼いならしていく計画が持ち上がっていた。捌光は事実を公にせず、製薬とは離れた土地に彼女を住まわせ、出産させた。産声を上げたその赤子は何物にも代えがたいほど愛らしく、捌光はその目で世界を見、人々との出会いに恵まれるようにと、その子供に「見」と名前を付けた。見が無事に生まれ母親の予後が安定したことを見届け、捌光は二人のもとを去った。全てはエデン製薬から彼らを遠ざけておくためであった。血の涙を飲み、自らを再び孤独の中に追いやった。
だが秘密はいずれ暴かれる時が来る。およそ12年後、彼の血の轍は、思わぬ形で圷比古の知るところとなる。
〇
圷比古は1枚の写真を机の上に置いた。エデン製薬が崩壊し新たにエデンの枢機卿となった圷比古の執務室に招かれた捌光は、初めその写真に写った少年の顔を見て戸惑った。だが枢機卿の雰囲気を看取してすぐにそれと察した。少年は成長した見であった。
顔立ちには母親の輪郭があり、耳や目の形は自分に面影があった。別れて以来一度も会ってはいなかった。ただ年に一度、見の誕生日には彼のもとを訪れ、遠くからその姿を眺めるにとどめていた。しかしエデン製薬が滅びてからというもの、公安の監視の目やエデンの発足に伴う内部の警戒が激しくなり、ここ数年はそれすらも難しくなっていたところだった。圷比古が何も言わず写真を出して来たということは、既に確証は得ているということだ。いたずらに誤魔化すことはせず、捌光は必要なことだけを訊いた。
「息子の身は、安全なのか」
捌光の問いに、機械の骸骨は溜息のような音で答えた。
「やはり君の子か。まだ我々の手に捕えてはいない。事実関係から親子関係だと推定していただけだ。かなり強い推測だったがね」
次の言葉を待つ捌光に枢機卿は機械の目を向けた。
「狂花因子の遺伝性については、今では実験で確認がとれている。3号や4号の子を幾人かの女に身籠らせ、その子供が因子を持って生まれるのか調査が行われた。生後間もないころから狂花因子の発現が見られ、まだ5年程度だが、追跡調査では既に狂花帯を発現している者もいる。細胞移植による贋作の作成も順調だ。つまり、お前の息子を実験に使う必要はない」
捌光は安堵の表情を見せず続きを待った。
「だが、狂花因子を持っているはずの少年をむざむざ野放しにする気はない。公安によるエデン製薬の強制捜査から2年……。今は治安維持局と呼ばれているそうだが、彼らの脅威は身をもって感じているだろう。彼らに見少年を取り込まれるのは避けたい。何より……、既に一度離反を経験した我々は、内部に背信者の隠れていることを最も恐れている」
骸骨はひらりとまた1枚の写真を隣に放った。捌光が唇を引き結ぶ。自身の妹家族の姿が捉えられていた。
「教えに背こうとする者には、踏み絵が必要だ」
枢機卿が顎の下で手を組み、宣告する。「愛する息子と妻か、血を分けた妹夫婦か。どちらを生かすか選べ」温度の無い冷たい眼光が、拳を握りしめる捌光に突き刺さる。
「手を下すのは、お前自身だ」
その夜、青森の住宅地の一角に、巨大な火の手が上がった。燃え盛る家屋の中で、捌光は返り血を浴びた無表情で、鮮血滴る刀を下げたまま直立した。
「妹さんとその旦那さんの『処置』、確かに確認しました」
「付き人」として配置された10代の部下が、口の中で飴を転がしながら近づいた。がたりと物音がして振り向く。火の手の浅い物置の陰から、制服姿の少女がこちらを見上げていた。
「伯父さん……?」
少女は捌光を見据えてそう呟いた。呆然とした顔で、地に伏した両親と捌光を見比べる。「なんで……?」
「娘がいたのか。調査部は何をしてる」部下が舌打ちして銃を向けた。その目が、少女から自身の首に差し出された捌光の刀に移る。ころりと飴玉を転がす音をさせて、部下の目が捌光を睨む。
「どういうつもりっすか。捌光さん」
炎の反射する捌光の黒い眼は、床に向けられている。「標的と告げられたのは、夫婦だけだ。子供は含まれていない」
「んなもん言葉の綾でしょう」部下は煙たそうに顔を顰める。「娘の存在が報告に上がってれば、間違いなく標的に含まれてましたよ。知ってた上で伝え違えたのかもしれないし。ニュアンスは一家を殺せってことだったでしょ。それ以前、全部目撃られちゃったし」
捌光は刀を突きつけたまま少女の方に進む。唖然とする少女の前にしゃがみ込み、部下の首から刀を外す。「ただで生かすつもりはない」
少女の髪を掴み、抵抗する彼女の顔を火に突き付ける。炎が顔を焼き、声にならない叫びが少女から迸った。
ひゅうと部下が口笛を鳴らす。燃えたままの少女を炎から引き出し、床に転がす。捌光は自身も火傷を負った手で構わず姪の面を撫で払った。炎が消え、焼けただれた皮膚が残る。細い悲鳴を上げ、ショックと痛みで少女が気絶する。
「そんだけ痛い目合わせたら、ショックで証言もあやふやになるかもっすね。まー殺されるよりはましか。こんな酷い顔、俺なら自殺しちゃうけど」
両手を頭の後ろに組んで、部下が言った。立ち上がり、捌光は何も言わず部下の心臓を貫き通した。
信じられないものを見るように、ぱかりと口を開け部下の口からキャンディが零れ落ちる。刀を引き抜くと、掠れた息を出し部下はあっけなく倒れ伏した。
気を失った少女を、捌光は担ぎ上げた。痛ましくその顔を眺め、捌光は目を閉じて独り言ちった。「……追われるよりは良いだろう」
焼け落ちる家を、少女を抱えた捌光が後にする。転がった飴玉が床の上で溶けだしていた。
鴦原家炎上の件は事故として片付けられ、焼け跡から運び出された3つの死体は一家3人のものと報じられた。捌光によってエデンに連れ込まれた鴦野聴は、死亡した部下の名前を引き継ぎ、「野一色靜馬」として組織のエージェントへと育てられることとなった。精神的・肉体的苦痛と鎮痛剤として与えられたティア・ドロップへの依存。聴の自我と記憶は混濁し曖昧の淵へ沈んだ。激しい訓練と任務の日々。変身の狂花帯を与えられ顔を変えるようになった聴は、やがて自分の本当の素性さえ見失った。
〇
「聴姉さんを殺したのは親父……?」
捌光が話を終えると、見は膝を付いた。「でも、従姉さんは生きて……、いや、今の話じゃ、従姉さんの今の姿は……」
どうと爆発が起こって天井の一角が崩れた。「おー、いたいた、捌光のおじさん」
見が振り返る。「この声……!」
粉塵の向こうから、記憶そのままの少女が現れる。「あれ、見もいるんだ。久しぶりじゃん。……って、何度か会ってたっけ……」
遠くから追えというような声と慌ただしく駆ける複数の足音が反響する。後ろの方をちらりと見て、素早く地面に降り立った靜馬が、瞬時に捌光の前に立つ。その手には拾い上げた捌光の刀が握られている。見が反応する間もなく、靜馬は捌光の胸に刀を突き立てた。
透化をする余力もない捌光に、愛刀「捨毘厭天」は容易に突き刺さった。口の端から静かに血を垂らし、捌光は刀を生やしたまま横向きに倒れる。「親父!」見が叫ぶが全ては後の祭りである。
「見には悪いね。でもこいつ、私のお父さんとお母さんを殺したんだ。報いはきっちりと受けさせなきゃ」
ぐらぐらと地面が蠢き、硬い地盤が泥のようにねじ曲がっていく。「……そろそろ時間か。阿舎利をここまで使うってことは、上も相当火がついてるな……」
地面が渦を巻いて地底空間を飲み込んでいく。鴦原聴は壁を蹴ってひらりと上層の穴に飛び戻ると見を見下ろした。
「追われてるし……、今日は時間もない。積もる話はまたの機会にしよう。見」
「従姉ちゃん……!!」
聴は上部空間に姿を消し、見は動き出した洞壁に頭を打たれた。転がった先で父親が地面に飲み込まれていく。捌光が最後の力を振り絞り、〈沙毘厭天〉を投げて寄越す。
「然らばだ……、息子よ」
言葉一つ残し、見の叫びと共に捌光は地中に呑まれた。手を伸ばす見を、渦巻く大地が包み込んでいく……。




