第9話 降臨
少年の灰色の影が、砕けたアスファルトよりも暗く濃く伸びた。袈裟丸の膝から流れ落ちた血が皹の中を這う。
「迎えに来た?」
袈裟丸は怪訝そうに眉を顰める。「あなたとは初対面だと思いますけど。一介のオペレーターにエデンが何か?」
路地に湧いた黴の匂いと血の臭気が混ざり合う。伊舎那は口を開いた。
「一介のオペレーターとは謙遜するじゃないか。君の殺戮の技能と天稟は今まさに拝ませてもらったよ」
伊舎那の足の下で一番合戦が掠れた声を出す。
「……っ、伊舎那、てめえ……‼」
「黙れ」
手刀を真下に落とす。一番合戦の心臓に突き刺さって末期の息を漏らさせた。「端役に用はない」
一番合戦の目が光を失う。伊舎那は一番合戦の背中から降りて袈裟丸目前から見下ろした。鳥のかぎ爪のように鋭く三叉に分かれていた足は既に人のそれに戻っている。報告で見た進化能力だ。その異形で一番合戦を切り裂いた。
「それにしても部隊長程度の一撃に追い詰められるとは……。僕が割って入らなければ危うい所だった。不意打ちとはいえ少しがっかり……」
伊舎那はなんら警戒する様子なく値踏みするように袈裟丸を観察し、その手を興味深げに眺めた。
懐から出したナイフが握られている。伊舎那は満足げに吹き出した。
「ははは! これは失敬、余計な手助けだったか。それもそうだ、君は狂花帯など得る前から人殺しの天才を持っていたのだったね」
傷だらけのコンクリートにからからと笑いが零れる。
「安心したよ……。強化手術を受けずしてこの身体能力……、反射……、技術。君は僕ら『アンタイ・エデン』に入るに相応しい」
「アンタイ・エデン」
エデンの別働隊。枢機卿直属の精鋭たち。
「その通り。僕をリーダーとした、王の眠りを守る7人の小人さ。ちょうどこの間の伏魔殿侵攻で、定員から一人欠けてしまってね。まあ、役割的にも性格的にも君が穴埋めに適してると思ったんだ。何しろ同じ殺人狂だからね」
伊舎那は片手をぶらりと下げて袈裟丸に向けた。「どのみち伏魔殿(副局長)は君を排除したいようだよ? エデンに来れば君のありのままの自由を保証しよう。『獲物』にも不自由しないしね」
「何を勘違いしているのか知りませんけど」
袈裟丸はナイフを下ろして冷たく返す。
「私は自分の意志でこの本性を隠してるんです。お兄ちゃんが好きなのは、殺人鬼より愛らしくて可憐な女の子だから。……それに」
刃についた血痕を綺麗に舐めとり、ナイフを懐に仕舞う。伊舎那を一瞥すると、話は終わりと言うように横を素通りした。
「木葉下さんはこれ以上追ってきませんよ。勧誘は続くかもしれませんが……。手に入れたばかりの優秀な手駒を撃退したんです。しばらく大人しくしていれば、身内で戦力を削り合うより、潜在的な戦闘力として私を留めておく方が得になると、計算するはずです。合理的な人ですから」
〇
「神……、『12人』1号だあ?」
訝し気な目で馬飼が聞き返す。教室には水面にさざ波を立てたようなざわめきと戸惑いが伝播していた。机から教壇に下りた少女は腰に手を当てたまま悠然と馬飼を見下ろしている。
「……伊達や酔狂で言ってるわけじゃなさそうだな。だが1号が入団したなんて話は聞いてねえ。分かってるのは正体不明の女が本部に潜り込んでたってことだけだ。どうやってここに入った?」
「なに、ちょっとばかり現実を塗り替えさせてもらっただけさ。汝が入隊しこの集いに招かれているという望みに合うように、現実のデータや状況を書き換えた。だからこうして正式な隊員証を持ち、五頭少年の部隊名簿にも名前が追加されている」
昼神と名乗る女は隊員が携帯する磁気カードを掲げてみせた。たしかに本物に相違ない外見であり、隊員データを読み取ることもできた。そこには一年前から悪童隊の一員としの活動記録が記されている。
……だが無論、その情報は、
「俺たちの記憶とは相違する」
五頭が眉根に皺を寄せて確かめる。「データの改竄か。最新の偽造防止技術が使用されている隊員証を用意した技術力は褒めてやるが……」
「そんなちんけな小細工と一緒にされたくはないねえ。まあ仕方ないか。神を名乗るなら、もう少し大それたことをやってみせなければならないだろうね」
言うなり昼神はすっと指を立て窓の外を指して見せた。一同の視線が外に向かう。夕刻に近づいた西日の空がそこにあるだけだ。が、隊員の一人があっと指さした。
何かに気付いたように一人また一人と視線が空に向かっていく。五頭と馬飼たちも隊員らの目線の先に引き寄せられた。そこには気の早い月が昇っており、半月の姿を見せ……、て、いないことに馬飼は気付いた。
「まじかよ……」
驚嘆が零れる。月は半月よりさらに欠け、そう、文字通りに「欠けて」いた。
月は弓なりにではなく、大小7片程度の巨大な欠片となって宙に浮いていた。
「ありえんのかよ……、あんな……、天体だぞ⁉」
隊員たちの大きなざわめきを心地よさそうに聞いていた少女だったが、五頭が躊躇なく腰のブレードを抜いた。
「五頭、ちょっと待って」
女に機械刀を突きつける五頭に、煙草森が意外な制止をした。その首筋に掛けられたチョーカーが紅く色づいていた。
「多分、こいつを知ってる。1号という話もあながち虚構じゃない。……葎さんたちを呼んできて」
〇
1号・昼神イヴを名乗る少女の出現という報告に、上層部は速やかに駆け付けた。取調室のような簡素な部屋に少女を押し込め、防護マジックミラーと監視カメラ越しにその様子を監視した。煙草森を筆頭に新局長、木葉下、葎とオペレーター長の慶留間長男が謎の女を見定める。女は意に介した様子もなく足を組んで正面を見ている。部屋の中に居合わせた慶留間三男が気まずそうに唇を結ぶ。
幣原が木葉下を呼びつけて部屋の隅に向かった。
「例の……、殺人少女の状況は?」
「『堕天使』ちゃんですか。交渉し、狂花帯付近に抑制器具を取り付けさせることで合意を得ました。狂花帯が活動すると自動的に電流が流れ、狂花帯を麻痺させる。強化人間には効きが弱い言うて持て余しとった装置ですが、役に立ちましたわ」
「彼女はそれで納得したんですか」
「一応ま、正体バラされて困るんは向こうですからね。しばらくは大人しくしとこ、いうことでしょう」
幣原は葎たちに聞こえないよう小声で続ける。「彼女の異能は貴重なものです。引き続き協力を仰げるよう交渉し続けてください」
ドアが開く。入って来た煙草森を見て、幣原たちは中央に戻った。
「来ましたか。あなたは彼女と面識があるそうですね。煙草森さん」
マジックミラー越しに女を観察しながら、幣原が問う。きいきいと音のなるワークチェアに座ったまま、煙草森は適当な言葉を探すように視線を巡らせる。
「面識がある……、という言い方は、正確じゃない」
情報として知っていたか。それともエデンに潜入してた時期に、敵の記憶から読み取ったのか。
幣原の追究に首を横に振る。
「……本部防衛戦の直前……、彼女と同じ神々しさを纏った謎の存在から接触を受けた。現実空間じゃない。意識の中で。彼女は、そこでは特定の象をとってはいなかったけど……、多分同一人物。彼女は私の無意識に直接干渉して、こう言った。『自分は神だ』と……」
「あの娘が言ってることと同じやね」
木葉下が大きな眼球でぎらぎらと眺めながら相槌を打つ。その横で幣原は葎に視線を移した。
「私達は写真ですら昼神を見たことが無い。この中で直接会った経験があるのはあなただけです。どう見ます? 苦竹室長」
注意を向けられた葎は白衣の袖から伸びた手を顎に添えて、煙草森と同じように言葉を探した。底の見えない水槽に手をくぐらせて、奥底から真実を掬いあげようとするかのようだった。
「……あの少女の外見は、私の知る昼神イヴのものではありません」
ようやく発した言葉に、一同は虚を突かれて振り返った。ならば、あれは昼神を騙る別人なのか? その疑念に答えたのも葎だった。
「容姿は違います。年齢も、本来は20代前半のはずで今の彼女は若すぎる。けれども……、こんなことを言うのもおかしいですが、直観的に分かる。彼女は昼神イヴに相違ないと」
「おかしいやんなぁ……、あの苦竹先生がそんなこと言うってことは多分、逆に真実らしいけども……。そもそも雪君からの報告では、昼神の亡骸を御黒闇彦が目撃してるっちゅうことやったやないですか。ただの亡骸やのうて、その脊髄とか脳味噌とかホルマリン漬けになったやつですけど」
「仮説を立てるなら……、彼女の能力は精神ごと肉体を渡る能力。煙草森さんへの介入や直観への働きかけもこちらの心理に訴えかけるものだとすれば筋は通る。ただその説だと、彼女の能力は7号(精神感応)系ということに……」
『どうも理解に苦しんでいるようだね』
スピーカー越しに少女の声が響く。木葉下が即座に次男の方を振り返る。計器を確認して長男が首を振る。「マイクはオフのままです。こちらの声が聞こえるはずが……!」
『そんなもの使わずとも聞き取れるんだよ。汝は全知の存在なんだ』
少女が得意げに答えてこちらを向く。体は座ったままで、首だけを直角に曲げてマジックミラーを見つめる。向こうには見えていないはずなのに、目が合っているように感じる。
『同時に全能でもある。だから、こんなこともできる』
手錠をはめられた手を机の上にどんと載せる、と、そのはずみでいとも簡単に手錠が外れる。止める間もなく、手錠の鎖の部分に指を入れてくるくると回す。と、その軌道が輪郭を描くようにしてワイングラスが出現していた。無造作に手を伸ばし、ステンレス製のの端を音も無く千切り取る。少女が鉄屑を握ると、それはパンの欠片に代わっていた。
『お分かりかな? 土屑をパンに、その血をワインに変えることも可能だ。……月を七分割することもね』
パンをぎゅっと握るとそこから赤紫の豊潤な液体が絞り出され、勢いよくグラスに満ちた。グラスをぐっと傾ける。
『せっかくだから、君たちの疑問を解決してあげよう。汝は現実……、というか、この宇宙が内包するあらゆるものに干渉することができる。宇宙そのもののルールに則り……、つまり物理法則の範囲で起こる事柄は、なんであれ大概引き起こすことができるし知ることができる。このくだり、のまえちゃんの時やらなかったかい?』
たしかに彼女の力はのまえに似ていた。のまえの確率操作能力……、確率上そこで起こりうる事柄はなんであれ実現することができる。いや、むしろ環境や状況を選ばず事象を再現できるなら、それはのまえの能力の上位互換であるとさえ言える。
「のまえちゃんは机をパンに変えられへんけど……」
「昼神イヴなら可能。鉄が麦に偶然変わることはない。でも能動的に変えることは可能……。原子崩壊を起こすことができれば、物質を別の物質に変えることはできる。少なくとも物理的には、だけど」
「そこまでの能力があるなら、月を破壊することも容易いでしょう。出力の観点から見ても1号なら納得が行く。煙草森さんに接触できたのは……、『現実』の中に精神も含まれているから?」
『察しが良いね。精神もまた宇宙に存在する事象の一つ……。集合無意識を通して個人の意識にアクセスした。つまりこの宇宙で起きたこと……、誰かが心の内でひっそりと思ったこと……、汝には全て、筒抜けと言うわけさ』
それで全知全能ってわけや。木葉下が半信半疑の体で肯く。「ほなら、枢機卿の正体と居場所も分かるやろ」
『残念だが、いくつかの理由で、その希望に答えることはできない。……本来の汝は全知だが、実を言うと今は力が制限された状態にある。さきほど葎先生が言ったように、汝は依然と異なる肉体を使用している。これは汝が月に保存していた依り代で、汝がこの世に顕現するための器のようなものだ』
グラスを指の先で弄ぶ。
『以前の肉体を海土路兄弟との戦闘で失った後……、汝は真の力に目覚め超越的存在となった。全知全能は正確にはその状態の力。こうして固有の肉体に収まっているうちは人間大の力しか使用できない。……簡単に言うと、人間の脳味噌に保存できる情報の量は決まっている。邇凝博士のように情報圧縮術を利用したとしてもね。人間の小さな脳に収まりきるほど、この宇宙の情報は少なくないんだ。だから今、汝が知りうる情報は限られてるし、また人間の脳で理解や言語化できないような概念についても、教えることは不可能だ。13次元空間の中はどんな風になっているか、とかね』
「けったいな神様やね。ほんまに全知全能だったん?」
『ずいぶんな言われようだけど、無理もないか。だがそうだね、例えばそこに居る慶留間四男と君らの部屋にいるその兄、彼らは四つ子という設定で通してるけど、本当は数少ないクローンの成功作だね? 『Q』を造るための実験か……。それも遺伝子のオリジナルは木葉下くん、君とはね』
「!」
木葉下が珍しく怯んだように口を引き攣らせる。煙草森は意外なものを見るように二人を眺めた。長男も手を止めてガラスの向こうを見上げていた。幣原がマイクに顔を近づける。
「けっこう。あなたが1号昼神ということは認めましょう。それで、あなたがここに来た理由は?」
昼神が小さく微笑み、立ち上がってつかつかとマジックミラーの前に立った。手を伸ばす。ぎ、と古い蝶番のような音を立てて、強化ガラスのミラーが壁ごと扉のように開いた。壁を通り抜けるでもなく、破壊するでもなく、文字通り鏡が突如として扉になったのだ。全員が息を呑んで、現れた少女から一歩すさった。
「そう怯えないでくれ。汝は君たちに力を貸しに来たんだ。……知りたくはないかい? エデン本部がどこにあるのか」




