あの子が来た夏
あの子が来た日のことを、ぼくはまだ覚えている。
覚えているはずだ。なつかしいと、ちゃんと思える。
なのに、その「なつかしい」のいちばん奥に、なぜか触りたくない場所があるのは、どうしてだろう。
夕暮れの部屋で、ぼくは日記の最初のページを、もう一度見ていた。
——あの子が来た。なんでも解決してくれるって。
たどたどしい、九歳の自分の字。
この一文を読むと、頭の奥にかかっていた白い霧が、ほんの少しだけ薄くなる気がする。霧の向こうに、夏のにおいがする。アスファルトと、汗と、プールの塩素のにおい。
ぼくは、ゆっくりと目を閉じた。
あの子のことを、もう一度、思い出してみよう。
あの子が、初めてぼくの前に立ったときのことを。
◇
【七年前・小学三年生の夏】
あの夏、ぼくは九歳だった。
今のぼくがそう書くと、まるで他人のことみたいだけれど、たしかにそれはぼくだった。前髪が今より短くて、もっと小さくて、もっと、こわがりだった。
その夏、ぼくには味方が一人もいなかった。
学校では、毎日いやなことがあった。
ぼくの上履きは、よく片方だけなくなった。次の日に見つかるときは、たいてい男子トイレのいちばん奥の床に落ちていて、誰かの足あとがついていた。
誰がやったのかは、わかっていた。でも、わかっていることと、それをどうにかできることは、まったく別だった。
給食の時間、ぼくの机だけ、班から少し離されていた。
みんなが机をくっつけて、四つの島をつくるとき、ぼくの机は、いつも誰の島にも入れてもらえなかった。先生が「棚橋くん、どこかの班に入りなさい」と言っても、どの班も、ぼくが近づくと、机をすうっと遠ざけた。
ぼくは、その「すうっ」という音が、いちばん嫌いだった。
怒鳴られるより、たたかれるより、その音のほうが、ずっと痛かった。
誰かに言えばよかったのかもしれない。
でも、言える相手がいなかった。
◇
家は、もっと、息がつまった。
うちのことを、ぼくはうまく説明できない。
九歳のぼくは、たぶん、それを説明する言葉を持っていなかった。今のぼくも、ほんとうは、あまり思い出したくない。思い出そうとすると、また、あの白い霧がかかるから。
ただ、はっきり覚えていることが一つだけある。
家にいても、ぼくの居場所はどこにもなかった、ということ。
ぼくは、自分の部屋でも、息をひそめて暮らしていた。
足音を立てないように、ドアを静かに閉めるように、できるだけ、いないみたいに過ごすこと。それが、あの家でぼくが覚えた、たった一つの生き方だった。
学校でも、家でも、ぼくはいないみたいにしていた。
いないみたいにしていれば、誰もぼくをいじめないし、誰もぼくを困らせない。
そうやって、自分を小さく小さく折りたたんで、夏の終わりまで、なんとかやり過ごそうとしていた。
でも、いないみたいにしていると、ほんとうに、いなくなりそうになる。
体はちゃんとここにあるのに、心のほうが、だんだん、うすくなっていく。
ぼくは、毎晩、ふとんの中で思っていた。
——だれか、いてくれたらいいのに。
——ぼくだけの、みかたが、いてくれたらいいのに。
◇
その日のことは、よく晴れていた。
夏休みが、もうすぐ終わろうとしていた。八月の終わりの、あのいやな感じ。宿題が残っているとか、そういうことじゃなくて、もうすぐまた、学校が始まってしまう、というおそろしさ。
ぼくは、それから逃げるみたいに、家を出た。
行く場所なんて、なかった。
ぼくは、近所の公園に行った。団地のあいだにある、小さな公園。すべり台と、ブランコと、夏草の生えた砂場しかない、だれもいない公園。
夕方の、人のいない公園のすみで、ぼくは一人でブランコに座っていた。こいでもいなかった。ただ、ゆらゆらと、足で地面をけって、揺れていた。
せみが鳴いていた。
空がオレンジ色になりはじめて、ぼくの影が、砂の上に長く伸びていた。
ぼくは、その自分の影を見ていた。影だけが、ぼくの隣にいてくれる、たった一人の友だちみたいに思えた。
「ねえ」
声がした。
ぼくは、顔を上げた。
いつのまにか、すべり台の上に、一人の子が立っていた。
ぼくと同じくらいの、小さな子だった。
半袖のシャツを着ていた。髪は、色がうすくて、夕日に透けて、白っぽく光っていた。
その子は、すべり台の上から、ぼくを見おろして、にこにこ笑っていた。
「きみ、棚橋悠くん、だよね」
ぼくは、びっくりした。
なぜなら、ぼくは、その子を見たことがなかったからだ。同じ学校の子じゃない。近所の子でもない。
なのに、その子は、ぼくの名前を知っていた。名字も、名前も。
「……だれ」
ぼくは、やっとそれだけ言った。
「ぼく?」
その子は、すべり台をすべりおりてきた。
すべり台の銀色の滑り面を、するすると下りてきて、ぼくの前に立った。近くで見ると、その子の目は、不思議な目だった。きれいなのに、奥のほうが見えない。底のない井戸をのぞいているみたいな目。
でも、笑っていた。やさしく、笑っていた。
「ぼくは、悠の友だちだよ」
ともだち。
その言葉を、ぼくは、ずいぶんひさしぶりに聞いた気がした。
ぼくに、友だち。そんなもの、いるはずがなかった。学校にも、家にも、どこにも、ぼくの味方なんて一人もいなかった。
「友だちなんて、いないよ」
ぼくは、下を向いて言った。
ブランコの鎖を、ぎゅっと握った。手のひらに、鉄の錆びたにおいがついた。
「うん。知ってる」
その子は、あっさりと言った。
「悠、ずっと一人だよね。学校でも、おうちでも」
ぼくは、はっとして顔を上げた。
なぜ、それを知っているんだろう。学校のことも。家のことも。ぼくは、その子に、何も話していないのに。
ぼくの上履きが、トイレの床に落ちていたことも。机が、どの島にも入れてもらえないことも。家で、いないみたいにして暮らしていることも。
ぼくは、だれにも、言っていないのに。
「どうして、知ってるの」
ぼくの声は、少しふるえていた。
「だって」
その子は、首をかしげて、にこっと笑った。
「ぼく、悠のこと、ぜんぶ知ってるもん」
◇
ふつうなら、こわがるべきだったのだと思う。
今のぼくなら、わかる。知らない子が、自分のことをぜんぶ知っている。それは、ふつう、こわいことだ。
でも、九歳のぼくは、こわくなかった。
むしろ、ぼくは、ほっとしていた。
だって、ぼくのことをぜんぶ知っていて、それでも「友だち」と言ってくれる子が、生まれて初めて、目の前にいたのだから。
いじめられていることも、家がつらいことも、ぜんぶ知っていて。
それでも、その子は、ぼくを気持ち悪がらなかった。机をすうっと遠ざけたりしなかった。
ただ、笑って、ぼくの隣に来てくれた。
その子は、ぼくの隣のブランコに座った。
ぼくと同じように、足で地面をけって、ゆらゆらと揺れた。
二人で、せみの声を聞いていた。空が、だんだん、紫色になっていった。
「悠は、つらいことがいっぱいあるね」
その子は、揺れながら、ぽつりと言った。
「うん」
ぼくは、うなずいた。
なぜか、その子の前では、すなおにうなずけた。学校の先生にも、家の人にも、ぼくはずっと「べつに」「なんでもない」と言いつづけてきたのに。
「上履きのことも。机のことも。おうちのことも」
「……うん」
「ぼくが、ぜんぶ、解決してあげようか」
ぼくは、その子の顔を見た。
その子は、にこにこ笑っていた。冗談を言っているようには見えなかった。からかっているようにも、見えなかった。
ただ、ほんとうに、ぼくのために、そう言ってくれているように見えた。
「……かいけつ?」
「うん。なんでも、解決してあげる」
その子は、もう一度、はっきりと言った。
「悠のいやなこと、ぜんぶ。ぼくがなんとかしてあげる。だって、ぼくは悠の友だちだもん」
ぼくは、なんと言っていいか、わからなかった。
なんでも解決してあげる、なんて。そんなことを言ってくれた人は、今まで一人もいなかった。先生だって、家の人だって、だれも、ぼくのいやなことを、なんとかしてくれなかった。
なのに、この子は。会ったばかりの、名前も知らない、この子は。
胸の奥が、あたたかくなった。
うすくなりかけていたぼくの心に、ぽっと、小さな灯りがともったみたいだった。
「……ほんとうに?」
ぼくは、おそるおそる聞いた。
「ほんとうだよ」
その子は、ブランコをこぐのをやめて、ぼくのほうを、まっすぐ見た。
「ぼくがいれば、大丈夫だよ」
◇
それから、どれくらい、二人で公園にいただろう。
気がつくと、空はすっかり暗くなっていた。
団地の窓に、ぽつぽつと明かりがついていた。どこかの家から、夕ごはんのにおいがしてきた。せみの声はやんで、かわりに、すずむしが鳴きはじめていた。
ぼくは、立ち上がった。
帰りたくなかった。あの息のつまる家に、帰りたくなかった。でも、帰らないわけにもいかなかった。
その子も、立ち上がった。
「もう帰るの、悠」
「……うん」
「そっか」
その子は、ちっとも残念そうじゃなかった。
なぜなら、と、その子は言った。
「明日も、ぼく、ここにいるから」
ぼくは、うれしかった。
明日も会える。この子に、また会える。ぼくのことをぜんぶ知っていて、それでも友だちでいてくれる、この子に。
ぼくは、何度もうしろを振り返りながら、公園を出た。
その子は、すべり台のそばに立って、ぼくに手を振っていた。
街灯が、ぽつんとついていた。
その光の下で、ぼくは、ふと、おかしなことに気づいた。
ぼくの足元には、街灯の光で、影が伸びていた。
でも、その子の足元には、影がなかった。
同じ光の下に、二人で立っているのに。
ぼくの影だけが、地面に伸びていて、その子の影は、どこにもなかった。
ぼくは、それを、しばらく見ていた。
でも、九歳のぼくは、すぐにそのことを忘れた。
影がないことより、明日また会えることのほうが、ずっと、ずっと、大事だったから。
その子は、笑って、手を振っていた。
ぼくも、手を振りかえした。
あれが、あの子が来た夏。
ぼくに、初めての味方ができた、夏だった。
◇
【現在】
ぼくは、目を開けた。
夕暮れの部屋に、ぼくは座っていた。
膝の上には、七年前の日記。窓の外は、あのときと同じ、オレンジ色の夕焼け。
時間が、七年分、巻きもどって、また戻ってきたみたいだった。
あの子に会えて、よかった。
ぼくは、そう思おうとした。
だって、あの夏のぼくは、ほんとうに、一人ぼっちだったから。だれも味方がいなくて、心がうすくなりかけていて。そんなぼくの前に、あの子は来てくれた。ぼくのことをぜんぶ知っていて、それでも友だちでいてくれた。
あれは、救いだったはずだ。
ぼくの、たった一つの、救い。
なのに。
ぼくは、日記の二ページ目に、目を落とした。
——今日もあの子に頼んでしまった。
頼んでしまった。
「頼んだ」じゃなくて、「頼んでしまった」。
なつかしさの中に、どうしても、この一文だけが、とげみたいに引っかかる。
あの夏の出会いが、ほんとうに救いだったのなら。
なぜ、九歳のぼくは、こんな後悔みたいな書き方をしたんだろう。
「あの子に会えてよかった」と、なぜ、ぼくは、すなおに思えないんだろう。
胸のいちばん下のほうに、また、あの小さな冷たい石が落ちた。
それがなんなのか、ぼくには、やっぱりわからなかった。
「悠」
あの子の声がした。
ぼくのすぐ隣に、あの子がいた。
いつのまにか、座っていた。あの夏のブランコのときと同じ、近さで。半袖のシャツ。色のうすい髪。底の見えない目で、にこにこと、ぼくを見ていた。
七年たっても、あの子は、何も変わっていなかった。
「楽しかったね、あの夏」
あの子は言った。
「ぼくが来た日のこと、ちゃんと思い出せた?」
ぼくは、うなずこうとした。
でも、できなかった。胸の石が、うなずくのを、邪魔した。
ぼくは、日記のページに、また手をかけた。
二ページ目から先は、きのう、もう確かめていた。めくってもめくっても、同じ一文の繰り返し。「今日もあの子に頼んでしまった」。日付だけが進んでいって、言葉は、ずっと、同じ。
でも——もし、どこかに。この繰り返しが途切れる場所が、たった一行でも違う言葉が書かれた場所が、あるとしたら。ぼくは、それを探したかった。あの子に会ったあと、ぼくが何を頼んだのか。「頼んでしまった」のあとで、何が起きたのか。その答えが、後ろのページのどこかに、残っているかもしれない。
ぼくの指が、ページの端をつまんだ。
めくろうとした、そのとき。
あの子の手が、そっと、ぼくの手の上に、重なった。
冷たくもない、あたたかくもない、何も感じない、あの子の手。
「ねえ、悠」
あの子は、笑っていた。
いつもと、同じ笑顔で。やさしくて、無邪気で、ぼくを安心させる、いつもの笑顔で。
でも。
「つづきは、読まないほうがいいよ」
ぼくは、その言葉を聞いて、はっとした。
あの子は、ぼくの願いを、一度も否定したことがなかった。
ぼくが何かをしたいと言えば、いつだって「いいよ」と言ってくれた。なんでも解決してあげる、と。ぼくのやりたいことを、言葉で止めたことなんて、一度も、なかった。
きのうも、あの子は、この日記の束に、そっと手を伸ばしてきた。これ以上めくらなくていい、というように。でも、あのときは、何も言わなかった。ただ、手が伸びてきただけだった。
なのに、今、あの子は。
初めて、はっきりと言葉にして、ぼくを止めた。「読まないほうがいい」と。
やさしい声のまま。笑顔のまま。
でも、たしかに、止めようとしていた。
ぼくの手の上に重なった、あの子の手は、動かなかった。
ページは、めくれなかった。
「……どうして」
ぼくは、聞いた。
あの子は、首をかしげて、にっこり笑った。
「だって、ぼくがいれば、大丈夫だから」




