なんでも解決してあげる
あの子の手は、ぼくの手の上に、ずっと重なったままだった。
冷たくもない、あたたかくもない。重さも、ない。ただ、これ以上ページをめくらせない、という意志だけが、そこにあった。
ぼくは、めくるのを、やめた。
「いい子だね、悠」
あの子は、そう言って、すうっと手を引いた。
まるで、ぼくがいい子にしているうちは、何も心配ないよ、というふうに。
ぼくは、膝の上の日記を見おろした。
二ページ目から先は、あの子の手が許してくれない。めくろうとすれば、また、あの何も感じない手が伸びてくる。
でも、ぼくは、知りたかった。
ぼくが、何を頼んだのか。「頼んでしまった」のあとで、何が起きたのか。
読めないなら、と、ぼくは思った。
思い出せばいい。
日記に書いてあることを、ぼく自身が、覚えていないはずがない。だって、これを書いたのは、ぼくなのだから。
ぼくは、目を閉じた。
あの子が来た、あの夏のことを。出会いの次の日からのことを。
白い霧の向こうへ、もう一度、手を伸ばした。
* * *
【七年前・小学三年生の夏】
次の日も、ぼくは公園に行った。
行かずにはいられなかった。きのうのあの子の言葉が、一晩じゅう頭の中で光っていたから。
——明日も、ぼく、ここにいるから。
そんなことを言ってくれた人は、今まで、一人もいなかった。だから、ほんとうにいるのか、それともぼくの見た夢だったのか、確かめずにはいられなかった。
公園に着くと、あの子は、すべり台の上にいた。
きのうと、まったく同じ場所に。まったく同じ、半袖のシャツで。色のうすい髪を、夕日に透かして、白っぽく光らせて。
ぼくを見つけると、あの子は、にこっと笑った。
「来たね、悠」
ぼくは、うれしくて、何も言えなかった。
ただ、こくんと、うなずいた。
その日も、ぼくたちは、二人でブランコに座っていた。
あの子は、ぼくのとなりで、ゆらゆらと揺れていた。せみが鳴いていた。アスファルトが、昼間の熱をまだ残していて、足の裏が、ほんのりあたたかかった。
ぼくは、その夕方が、ずっと続けばいいと思った。
「学校、いやだね」
あの子が、揺れながら、ぽつりと言った。
「……うん」
「明日、行きたくないね」
「……うん」
ぼくは、うなずいた。
あの子は、ぼくが言わなくても、ぼくのいやなことを、ぜんぶわかってくれた。上履きのことも。机のことも。家のことも。ぼくが口に出さなくても、あの子はもう、知っていた。
だから、ぼくは、あの子の前では、強がらなくてよかった。「べつに」と言わなくて、よかった。
「ぼくが、解決してあげようか」
あの子は、その日も、そう言った。
ぼくは、ブランコの鎖を、ぎゅっと握った。
手のひらに、鉄の錆びたにおいがついた。きのうと、同じにおい。
「……いいよ」
ぼくは、そう答えた。
なぜ断ったのか、理由は、自分でもうまく言えなかった。あの子がいやだったわけじゃない。むしろ、うれしかった。ただ、なんだか、こわかった。「解決してあげる」という言葉の奥に、底の見えない井戸みたいなものが、ちらっと見えた気がして。
ぼくは、それをのぞきこむのが、こわかった。
「そう」
あの子は、ちっとも気を悪くしなかった。
ただ、にこにこ笑って、また、ゆらゆらと揺れた。
「いいよ。悠が、頼みたくなったら、いつでも言ってね」
* * *
それから、何日か、同じような夕方が続いた。
ぼくは、毎日、公園に通った。
学校が終わると、まっすぐ家には帰らずに、あの公園へ行った。あの子は、いつもそこにいた。一度も、いなかったことがなかった。
ぼくが「ただいま」も言わないのに、あの子は「おかえり、悠」と言ってくれた。家ではだれも言ってくれない言葉を、あの子は毎日くれた。
二人で、いろんな話をした。
話したのは、ほとんど、ぼくのほうだった。あの子は、聞き役だった。ぼくが、ぽつぽつと、学校であったいやなことを話すと、あの子は、うんうん、とうなずいて、聞いてくれた。
ぼくは、生まれて初めて、自分のことを、だれかに話していた。
「今日はね、上履き、また片っぽなかったんでしょう」
あの子が、ぼくが話すより先に、そう言った日もあった。
「……なんで、わかるの」
「だって、ぼく、悠のことぜんぶ知ってるもん」
あの子は、にこっと笑った。
ぼくが口に出さないことまで、あの子は、もう知っていた。それが、こわいような、うれしいような、へんな気持ちだった。
そして、話の最後に、あの子は、いつも同じことを言った。
「ぼくが、解決してあげようか」
ぼくは、そのたびに、「いいよ」と答えた。
毎日、毎日、あの子は同じことを言って、ぼくは、毎日、同じように断った。
断りながら、ぼくの中で何かが、少しずつ、ぐらぐらしはじめていた。
だって、あの子は、ぼくのことを、ぜんぶ知っている。
ぼくのつらさを、ぜんぶわかってくれて、それでも「気持ち悪い」と言わない。机を、すうっと遠ざけたりしない。むしろ、「解決してあげる」と、手を差しのべてくれる。
そんな子は、今まで、一人もいなかった。これから先も、もう、現れないかもしれなかった。
なら、頼んでみても、いいんじゃないか。
ぼくは、だんだん、そう思いはじめていた。
あの井戸の底みたいなこわさは、まだ胸の奥に残っていた。けれど、それよりも「だれかに助けてほしい」という気持ちのほうが、日に日に大きくなっていった。
今のぼくなら、わかる。
あれは、あの子が、待っていたのだ。
ぼくのほうから、「お願い」と言いだすのを。
* * *
その日は、よく覚えている。
覚えている、はずだ。
学校で、いやなことがあった。
何があったのか——それを思い出そうとすると、頭の奥に、すうっと、白い霧がかかる。上履きのことだったのか、机のことだったのか、もっと、別の何かだったのか。
ぼくは、それを、思い出せない。
ただ、その日のぼくは、いつもよりずっとつらかった。それだけは覚えている。胸のいちばん下のほうに、大きな石をずっと抱えていたような、あの感じ。
ぼくは、ぼろぼろになって、公園へ行った。
夕日が、いつもより赤かった。すべり台が、血の色に染まっていた。あの子は、その下に立って、ぼくを待っていた。
ぼくの顔を見て、あの子は、すこし、首をかしげた。
「どうしたの、悠。今日、元気ないね」
ぼくは、何も言えなかった。
言葉にしようとすると、のどの奥が、つまった。かわりに、目のふちが、熱くなった。
ぼくは、あの子の前で、初めて、泣きそうになっていた。
「つらいことが、あったんだね」
あの子は、そっと、ぼくのそばに来た。
ぼくのとなりに立って、ぼくと同じほうを向いた。赤い夕日のほうを。
あの子の足元には、影が、なかった。あんなに赤い光が差しているのに、ぼくの影だけが、長く、長く、地面に伸びていた。
でも、その日のぼくは、もう影のことなんて、どうでもよかった。
「ねえ、悠」
あの子の声が、夕暮れの中に、やわらかく落ちた。
「ぼくが、解決してあげようか」
その日も、あの子は、同じことを言った。
毎日、毎日、聞いてきた、同じ言葉。
ぼくが、毎日、「いいよ」と断ってきた、同じ言葉。
でも、その日は。
ぼくは、口を開いた。のどの奥が、からからに渇いていた。くちびるが、ひとつ、言葉の形をつくろうとして、ふるえた。息を吸って——
……ここで、霧が、いちばん濃くなる。
ぼくは、たしかに、何かを言った。
あの子に、何かを、頼んだ。生まれて初めて、自分から、「お願い」と言った。
その瞬間のことを、ぼくは、思い出せない。どんな言葉だったのか。何を、頼んだのか。声に出したのか、心の中で願っただけなのか。
全部、白い。
まるで、その一瞬だけ、ぼくの記憶から、だれかがそっと切り取ってしまったみたいに。
覚えているのは、頼んだ「あと」のことだけだ。
あの子が、笑った。
今まで見たことがないくらい、うれしそうに、笑った。
「うん。いいよ」
あの子は、言った。
「ぼくが、ぜんぶ解決してあげる」
その瞬間、胸の中のあの大きな石が、すうっと軽くなった。
ずっと、ずっと、抱えていた重たいものが、だれかに、そっと、持っていってもらえたような。
ぼくは、ほっとした。心の底から、ほっとした。
ああ、もう、大丈夫だ。あの子が、解決してくれる。ぼくは、もう、一人で苦しまなくていい。
あの子は、ぼくの手を、にぎってくれた。
冷たくもない、あたたかくもない、何も感じない手で。
でも、その日のぼくは、その手を、世界でいちばんあたたかいものだと思った。
「ぼくがいれば、大丈夫だよ」
あの子は、笑って、そう言った。
* * *
その夜、ぼくは、日記を書いた。
いつから日記を書いていたのか、ぼくは、覚えていない。
でも、その夜のことは、なんとなく、覚えている気がする。机に向かって、鉛筆をにぎって、その日にあったことを、書こうとした。
あの子に、初めて頼んだこと。胸の石が、軽くなったこと。もう、大丈夫だと思えたこと。
うれしかったことを、ぜんぶ、書こうとした。
でも、ぼくの手は、たった一行しか、書かなかった。
——今日もあの子に頼んでしまった。
書いてから、ぼくは、その一文を、しばらく見ていた。
頼んでしまった。
うれしかったはずなのに。ほっとしたはずなのに。
なのに、ぼくの手は、「頼んだ」とは書かなかった。「頼んでしまった」と書いた。まるで、いけないことをしたみたいに。取り返しのつかないことを、してしまったみたいに。
胸のいちばん下のほうに、小さく冷たい石が、ぽとんと落ちた。
さっき軽くなったはずの、あの大きな石とは、別の石。もっと小さくて、もっと冷たい、別の石。
九歳のぼくは、それが、なんなのか、わからなかった。
わからないまま、ぼくは、鉛筆を置いて、ふとんに入った。
その夜は、なぜか、なかなか、眠れなかった。
* * *
【現在】
ぼくは、目を開けた。
夕暮れの部屋に、ぼくは座っていた。
膝の上には、七年前の日記。窓の外は、あのときと同じ、赤い夕焼け。
ぼくの影が、畳の上に、長く伸びていた。となりに座っているあの子の足元には、やっぱり、影がなかった。
思い出した、と思った。
あの子に、初めて頼んだ日のことを。胸の石が軽くなり、ほっとして、その夜に初めて「頼んでしまった」と書いた——あの日のことを。
でも——いちばん大事なところが、抜けていた。
ぼくが、何を頼んだのか。それだけが、どうしても、思い出せなかった。
ぼくは、日記に、目を落とした。
二ページ目。あの子の手が、もう離れたから、今は、見ることができた。
——今日もあの子に頼んでしまった。
その一文の、上のほうに、小さく、日付が書いてあった。
ぼくは、それを見て、息を、のんだ。
一ページ目の日付と、二ページ目の日付。
その二つは、たった一日しか、違わなかった。
あの子と出会った日。それが、一ページ目。「あの子が来た。なんでも解決してくれるって」。
その、次の日。それが、二ページ目。「今日もあの子に頼んでしまった」。
ぼくは、その「も」という字を、見つめた。
「……今日、も」
声に出してみると、その一字が、やけに重たかった。
今日「も」。まるで、その前の日にも、頼んでいたみたいに。
でも、おかしい。
ぼくの記憶では、あの子に初めて頼んだのは、出会ってから何日もたった、あの赤い夕日の日だったはずだ。それまでの数日間、ぼくは毎日「いいよ」と断っていたはずだ。
なのに、日記では、出会った次の日には、もう「今日も頼んでしまった」と書いてある。
まるで、出会ったその日に——あの子と初めて会った、あの夕方に——ぼくは、もう何かを頼んでいたみたいに。
ぼくは、頭の奥の霧を、必死に、かき分けようとした。
あの子と、初めて会った日。ブランコ。せみの声。「ぼくは、悠の友だちだよ」。「ぼくがいれば、大丈夫だよ」。
その夕方、ぼくは、あの子に、何か——
また、霧が、濃くなった。
いちばん知りたいところで、いつも、白くなる。
「思い出せた?」
あの子の声が、すぐ、となりでした。
ぼくは、振り向いた。
あの子は、笑っていた。赤い夕日の中で、影も落とさず、七年前と同じ姿のまま、にこにこと笑っていた。
でも、その笑顔の奥に、ぼくは初めて、何かを見た気がした。
うれしくて、たまらない、というような。ずっと待っていたものが、やっと来た、というような。
「悠が、いちばん最初にぼくにお願いしてくれたこと」
あの子は、ぼくの顔を、のぞきこんだ。
底の見えない目で。
「ほんとうは、もう思い出してるんでしょう?」
ぼくは、何も言えなかった。
胸のいちばん下のほうで、あの小さな冷たい石が、ことり、と音を立てた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第3話は、悠が「初めてあの子に頼んだ日」を描きました。といっても、いちばん肝心な「何を頼んだのか」だけが、白い霧の向こうに消えています。これは書き落としではなく、悠の記憶のほうが、そこだけを切り取ってしまっているのです。
実は、この話を書くとき、いちばん悩んだのが「日付」でした。出会いが一ページ目、その次の日が二ページ目の「今日も頼んでしまった」。この一日のずれと、「今日も」の「も」の一字。これだけで、悠の記憶と日記が食い違っていることを、説明ぜりふなしに置けないかと、何度も書き直しました。悠が数日かけて心を開いたと「覚えている」出来事は、日記の上では、出会ったその日に、もう終わっているのです。
あの子が初めて見せた、笑顔の奥の「うれしさ」。ずっと待っていたものが来た、という顔。あの子は、嘘を一つもついていません。ただ、悠が忘れているだけで。
次回は、その「頼み」の結果が、悠の日常に現れます。霧の向こうから、最初に消えるのは、だれなのか。引き続き、おつきあいいただけたら嬉しいです。
それでは、また次の話で。
たいちゃん




