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ひとりの家

 この家には、ぼく以外に誰もいない。

 それを寂しいと思ったことが、ぼくには一度もない。

 いつからそうだったのか、思い出せないのが、ほんとうは一番おかしいのだけれど。


 夏の朝はいつも、台所の窓から始まる。

 ぼくは一人分の卵を割って、一人分のごはんをよそう。茶碗は一つしか出さない。食器棚にはほかにも何枚も茶碗が並んでいるのに、ぼくの指は迷わず同じ一つを取る。

 もう何年も、そうしている。


 冷蔵庫には、ぼくの好きなものしか入っていない。

 誰かのための牛乳も、誰かのためのビールも、誰かのための作り置きもない。それを当たり前だと思っている自分に、ぼくはたまに、ほんの少しだけ立ち止まる。

 でも、すぐに忘れる。


「おはよう、悠」


 声がした。

 振り向かなくても、そこに誰がいるかはわかる。台所の隅、冷蔵庫のそばのいつもの場所に、あの子が立っている。

 半袖のシャツ。色のうすい髪。季節がどれだけ変わっても、あの子の格好は変わらない。今は夏で、ぼくは汗ばんでいるのに、あの子の額には汗の一粒も浮いていない。


「今日も暑くなるね」


 あの子は笑っている。あの子はいつも笑っている。

 ぼくはうなずいて、卵を箸でほぐした。黄身がごはんの上で崩れていく。


「……うん」


 返事はそれだけだ。

 でも、あの子はそれでいい、というふうに、にこにこしている。ぼくが言葉を多く返さないことを、あの子は一度も責めたことがない。

 たぶん、世界でただ一人、あの子だけが。


          ◇


 学校に着くと、ぼくの席のまわりだけ、空気が違う。

 うまく言えないけれど、空いている。物理的に、机が空いているというのもある。ぼくの右隣も、左隣も、前の席も、なぜかいつも誰かが休んでいるか、移動してしまっているか、そういうことになっている。

 ぼくの周りには、半径一メートルくらいの、誰もいない円がある。


 最初は気のせいだと思っていた。

 でも、二年生になってもそれは変わらなかった。クラス替えがあっても、変わらなかった。

 ぼくが座ると、そこを中心に、人がいなくなる。


 朝のホームルームで、先生が出席を取る。

 ぼくの名前が呼ばれて、ぼくは小さく手を挙げる。誰もこっちを見ない。

 昼休み、ぼくは一人で弁当を食べる。教室のいちばん隅で、壁を見ながら。

 誰も話しかけてこない。ぼくも話しかけない。


 ぼくは、いつから一人で給食を——いや、もう給食じゃない、弁当を——食べるようになったんだっけ。

 考えると、頭の奥がぼんやりとかすむ。

 思い出そうとすると、いつも同じところで霧がかかる。だからぼくは、考えるのをやめる。

 べつに、いい。


 あの子は、学校には来ない。

 来ないというより、ぼくが家を出るとき、あの子はいつも玄関で「いってらっしゃい」と言って、それきりだ。学校でぼくの隣にあの子がいたことは、たぶん、ない。

 だから昼休みのぼくは、ほんとうに、一人だ。


 でも、放課後になると、あの子はまた現れる。

 家のドアを開けると、そこにあの子がいる。「おかえり、悠」と言って。

 ぼくは、その瞬間だけ、息がしやすくなる気がする。


          ◇


 その日、ぼくは押し入れの掃除をしていた。

 べつに、誰かに言われたわけじゃない。夏休みが近くて、なんとなく、家の中の手をつけていない場所が気になっただけだ。

 一人で暮らしていると、掃除をする理由なんて、ほとんど自分で作るしかない。


 押し入れの下の段は、使っていない布団と、古い段ボールでいっぱいだった。

 ぼくはそれを一つずつ引き出していった。ほこりが舞って、夏の西日の中で金色に光る。あの子は部屋の真ん中に座って、ぼくの作業をじっと見ていた。


「手伝おうか、悠」


「……べつに、いい」


「そう」


 あの子はそれ以上、何も言わなかった。

 ただ、にこにこして、ぼくを見ている。あの子の座っている場所には、影がない。西日が部屋に差し込んでいて、ぼくの影は長く伸びているのに、あの子の足元には、影がない。

 ぼくはそのことに、もう、慣れている。

 慣れているということに、ときどき、自分でも背筋が冷たくなる。けれど、それも、すぐに忘れる。


 いちばん奥の段ボールを引き出したとき、その後ろに、小さなお菓子の缶があった。

 錆びた、四角い缶。子どものころ、クッキーか何かが入っていた缶だと思う。

 ぼくはそれを、見覚えがあるような、ないような、不思議な気持ちで手に取った。


 ふたを開けると、中にはノートが何冊も入っていた。

 古い、よれた大学ノート。表紙が日に焼けて、茶色くなっている。

 いちばん上の一冊を取り出すと、表紙に、子どもの字で「にっき」と書いてあった。


 ぼくの字だ。

 たぶん、ぼくの。


「なつかしいね」


 あの子の声が、すぐ後ろで聞こえた。

 いつのまにか、あの子はぼくの背中のすぐそばまで来ていた。けれど、その息も、体温も、ぼくには感じられない。

 ぼくは缶を抱えたまま、振り向かなかった。


          ◇


 ぼくは床に座り込んで、ノートを開いた。

 夏の夕方の、ぬるい空気の中で、紙のにおいがした。古い紙の、少し甘いような、かびたような、なつかしいにおい。


 最初のページに、こう書いてあった。


 ——あの子が来た。なんでも解決してくれるって。


 たどたどしい、小学生の字。

 鉛筆の線が、ところどころ濃くなったり薄くなったりしている。日付は、七年前の、夏の日。

 ぼくが九歳の、小学三年生のとき。


 読んだ瞬間、胸の奥が、きゅっとなった。

 なつかしさだった。たしかに、なつかしかった。

 あの子が来た夏のこと。あの子が「なんでも解決してあげるよ」と言ってくれた、あの夏のこと。

 ぼくは、それを覚えている。覚えている、はずだ。


 でも、なぜだろう。

 なつかしさと一緒に、なにか、別のものがこみあげてきた。

 うまく言えない。胸のいちばん下のほうに、小さな、冷たい石が落ちたみたいな。

 それがなんなのか、ぼくにはわからなかった。


「それ、悠が書いたんだよ」


 あの子が、ぼくの肩越しにノートをのぞきこんで言った。


「ぼくが来た日のこと。ちゃんと書いてたんだね。えらいね、悠」


 あの子の声は、いつもと同じだ。やさしくて、無邪気で、ぼくを褒めてくれる声。

 ぼくはうなずこうとして、けれど、なぜか、うなずけなかった。


 ぼくは、ページをめくった。


 二ページ目。

 そこにも、ぼくの字があった。


 ——今日もあの子に頼んでしまった。


 ぼくは、その一文を、しばらく見ていた。

 頼んでしまった。

 頼んだ、ではなく。頼んでしまった。


 なぜ、こんな書き方をしたんだろう。

 九歳のぼくは、あの子に何かを頼んで、嬉しかったはずだ。なんでも解決してくれる友だちができて、嬉しかったはずだ。

 なのに、なぜ、「しまった」なんて。


 まるで、いけないことをしたみたいに。

 まるで、後悔しているみたいに。


 ぼくは、もう一枚めくった。


 ——今日もあの子に頼んでしまった。


 三ページ目にも、同じ一文があった。

 日付だけが違う。文字は、同じ。

 ぼくは、また、めくった。


 ——今日もあの子に頼んでしまった。

 ——今日もあの子に頼んでしまった。

 ——今日もあの子に頼んでしまった。


 四ページ目。五ページ目。六ページ目。

 めくってもめくっても、同じ一文が並んでいた。

 日付だけが一日ずつ進んでいって、書かれている言葉は、たった一つ。同じ言葉。


 今日もあの子に頼んでしまった。

 今日もあの子に頼んでしまった。

 今日も。

 今日も。


 ぼくの手が、止まった。

 夏の夕方なのに、指先が冷たかった。

 ノートのページが、ぼくの汗ばんだ指の下で、かすかに音を立てた。


 ぼくは、これを書いた覚えが——あった。

 あったはずだ。毎日、書いていたのだ。毎日、あの子に頼んで、それを毎日、ここに記していた。

 でも、何を頼んだのかは、一行も書いていない。

 ただ、「頼んでしまった」とだけ。


 頼んでしまった、何を。

 あの子に頼んで、ぼくは、何を解決してもらったんだろう。

 その「解決」のあとで、ぼくの周りからは、何が——誰が——


 考えようとした瞬間、いつもの霧が、頭の奥にかかった。

 思い出そうとすると、必ずそこに立ちこめる、白い霧。

 ぼくはそれをかき分けようとして、けれど、できなかった。


「なつかしいね」


 あの子が、ぼくのすぐ後ろで、もう一度言った。

 さっきと、まったく同じ言葉。まったく同じ、やさしい声。


 ぼくは、ゆっくりと振り向いた。

 あの子は、笑っていた。

 西日の中で、影も落とさず、汗もかかず、七年前と同じ姿のまま、あの子は笑っていた。


「ぼくがいれば、大丈夫だよ」


 あの子は言った。

 その手が、ぼくが抱えているノートの束に、そっと伸びてきた。

 まるで、これ以上めくらなくていい、というように。

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