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03 旅立ちの準備

その日のうちに、俺は聖都へ向かう準備を始めることにした。


聖都へ行くのは初めてだ。


何が必要になるのかも、どこまで準備すれば十分なのかも分からない。


とりあえず、着替えや食料、水、仕事道具、身分証など、必要になりそうなものを用意していく。


そして、鞄の中にはエドガーさんから預かった一通の手紙がある。


聖都にレオンさんがいるとは限らない。


どこに住んでいるのかも、何をしている人なのかも分からない。


それでも、今の俺にはこの手紙が唯一の手がかりだった。


リーベルから聖都セレディアまでは一日半。


往復すれば三日になる。


探す時間まで考えれば、余裕があるとは言えない。


「……なるべく早く見つけないとな」


そう呟きながら、荷物をまとめていると、扉を叩く音がした。


「カイー?」


聞き慣れた声に、俺は顔を上げた。


「ミーナ?」


「そう。開けて!」


「手がふさがってるのか?」


「そう。だから開けてって!!」


「何を持ってるんだ?」


「んー、ひみつ」


ミーナが楽しそうに答える。


「……秘密なら、なおさら開けられないな」


少し意地悪を言ってみる。


「なんで?」


「何か変なものを持ってきてたら困るだろ」


扉の向こうで、ミーナが吹き出した。


「えぇ~、何それ。ふふっ、疑いすぎじゃない?」


「秘密って言ったのはミーナだろ」


「そうだけど」


声を聞いただけで、ミーナが少し口を尖らせている姿が目に浮かんだ。


俺は少しだけ扉を開けると……


やっぱりミーナは口を尖らせて立っていた。


栗色の髪を後ろでまとめ、生成り色のブラウスに茶色のロングスカート。


濃い茶色のエプロンには、いつものように小麦粉が少し付いている。


19歳になったミーナは、以前より少し大人びて見えることがある。


それでも、こうして口を尖らせていると、知り合った頃から変わらないおちゃめな一面が顔を出す。


ミーナは両手に、布で包んだものを抱えていた。


「はい、これ」


「……何?」


「パン」


「また?」


「また」


ミーナは悪びれる様子もなく答えた。


「この前ももらったぞ」


「知ってる」


「じゃあ、なんで?」


「聖都まで行くんでしょ?」


「ああ」


「なら、持っていって。ちゃんと食べるんだよ」


「分かってる」


「本当に?」


「……たぶん」


「もぉ~たぶんじゃないの」


ミーナが呆れたように笑う。


「分かった。ちゃんと食べる」


「うん。それならいい」


ミーナは満足そうに頷いた。


布包みを受け取ると、焼きたてのパンから香ばしい匂いが広がった。


その匂いを嗅いだ瞬間だった。


頭の奥に、見覚えのない光景が浮かんだ。


丸く広がった生地。その上に乗せられた具材。


焼き上がった表面から、湯気が立ち上っている。


――ピザ!?


「……あっ!」


「どうしたの?」


「ピザ……」


「ぴざ?」


ミーナが不思議そうに首を傾げる。


「……今、思い出した」


「何を?」


「俺、ピザが好きだった」


口にしてから、自分でも驚いた。


さっきまで、その言葉すら頭になかった。


なのに、今は不思議なくらいはっきりしている。


薄い生地に乗ったチーズ。


その上に並んだ具。


焼けた香り。


熱いうちに口へ運んだときの味まで、ほんの少しだけ思い出せる。


……なんで今、思い出したんだろう。


考えてみても、答えは出なかった。


「ピザって、どんなもの?」


ミーナの声に、意識を戻す。


「パンみたいな生地に、チーズとか具を乗せて焼くんだ」


「へえ……おいしそう」


「ああ。かなりうまい」


「じゃあ、帰ってきたら作ってあげる」


「作れるのか?」


「パン屋だよ?」


「……それもそうか」


ミーナが笑った。


「カイが好きだったものなら、私も食べてみたい」


「……そうだな」


何気ない言葉だった。


それなのに、なぜか胸に残った。


俺は、自分の過去についてほとんど覚えていない。


どこで暮らしていたのか。どんな人たちと過ごしていたのか。何をしていたのか。


自分の名前以外、確かなことはほとんど分からない。


それでも、こうして何かをきっかけに、突然ひとつだけ記憶が浮かぶことがある。


今まで忘れていたはずのものが、そこだけ切り取られたように、鮮明によみがえる。


ピザが好きだった。


たったそれだけのことだ。


けれど、俺にとっては、自分の過去につながる大切な手がかりなのかもしれない。


「帰ってきたら、ちゃんと教えてね。私が作ってあげるから」


ミーナはそう言って、少し嬉しそうに笑った。


「……楽しみにしてる」


「うん」


その笑顔を見ていると、聖都へ行くということが、少しだけ遠く感じられた。


帰ってきたら、ミーナがピザを作ってくれる。


そんな約束ができたことが、思っていたより嬉しかった。


「じゃあ、気をつけてね」


「ああ」


「聖都って、人も多いんでしょ?」


「たぶんな」


「迷子にならない?」


「子供じゃないぞ」


「でも、聖都行ったことないんでしょ?」


「ない」


「……やっぱり心配」


「大丈夫だよ」


俺が苦笑すると、ミーナも笑った。


「じゃあ、帰ってきたら、聖都の話を聞かせてね。約束だよ」


「分かった」


「じゃあね」


「うん」


ミーナは扉の前で振り返った。


「パン、ちゃんと食べてよ」


ミーナはいつものように笑って、扉を閉めた。


部屋に静けさが戻る。


俺は手元のパンを見る。


さっきまで、ただのパンだった。


けれど、今は違う。


思いがけず、忘れていた記憶を呼び起こしてくれたものだ。


「……食べないわけにはいかないな」


思わず笑ってしまった。


聖都から帰ったら、ミーナとピザを作る。


それを楽しみにしながら、俺は布包みを大切にテーブルへ置いた。


 ♢♢♢♢♢


翌朝。


俺は予定より少し早く目を覚ました。


外はまだ静かだった。


身支度を整え、荷物を確認する。


忘れ物はない。


俺は家を出た。


向かう先は、リーベルの教会。


エドガーさんを、そこで神聖保存してもらうためだ。


村を出て、いつもの道を歩く。


昨日までなら、リーベルへ行くことは珍しいことではなかった。


けれど今日は違う。


聖都へ向かうための準備をする。


そのために、エドガーさんの身体を預ける。


目的が決まっているだけで、同じ道でも少し違って見えた。


リーベルに着いた頃には、街はすでに動き始めていた。


店を開ける人、荷車を引く人、行き交う人々。


その中を抜け、俺は教会へ向かった。


白い壁の建物が見えてくる。


何度来ても、この場所だけは街の喧騒から少し離れているように感じる。


大きな扉を開け、中へ入った瞬間、外の音が遠くなった。


高い天井の下には木の長椅子が並び、壁から差し込む柔らかな光が礼拝堂を照らしている。


いくつかの場所には蝋燭が置かれ、正面にはアステラの象徴が静かに掲げられていた。


「気になりますか?」


後ろから声がした。


「神父様」


振り返ると、アルベルト神父様が立っていた。


「今、アステラの象徴を見ていたでしょう」


「はい」


俺は正面を見たまま答える。


「前から思っていたんですが……あれには、どういう意味があるんですか?」


神父様は俺の隣に立った。


「アステラを表すものです」


「女神様を?」


「ええ」


神父様も正面を見る。


「アステラは、生きている者の明日を見守り、死した者には安らぎを与えるとされています」


俺は、昨日聞いた言葉を思い出した。


「生きる者には明日を、死した者には安らぎを」


「そうです。それがアステラ教の教えです」


「亡くなった人のためだけの教えじゃないんですね」


俺が言うと、神父様は少し微笑んだ。


「ええ。亡くなった方を見送ることも大切ですが、残された人が、その人との時間を抱えたまま明日を生きていくことも大切なのです」


俺は黙って聞いていた。


それは、俺がここで仕事を始めてから考えてきたことにも近かった。


「だから、残された人が悲しむことも否定しません」


「悲しんでもいい?」


「もちろんです。大切な人を失えば、悲しいのは当たり前です」


神父様は静かにそう言った。


俺は小さく頷いた。


やがて、神父様が話題を変える。


「さて、今日の目的は神学の話をすることではありません」


「そうでしたね」


俺は苦笑した。


 ♢♢♢♢♢


神父様とともに、教会の奥へ向かう。


奥には、小さな部屋があった。


外の礼拝堂とは違い、必要なものだけが置かれている。


石造りの台、蝋燭、水。


そして、その上にエドガーさんが静かに横たわっていた。


俺は近くへ行く。


昨日と変わらない姿だった。


眠っているようにも見える。


けれど、もう目を開けることはない。


俺はエドガーさんを見ながら尋ねた。


「神聖保存というのは身体を腐らせないための魔法、ですよね?」


「正確には、少し違います」


神父様が答える。


「神聖保存は、残された人が別れを受け入れるための時間を与えるためのものです」


「時間……」


「ええ。最長で七日」


俺は頷いた。


「七日間だけ、身体を安定した状態に保つ」


「そうです」


「それ以上は?」


「できません」


神父様ははっきりと言った。


「神聖魔法であっても、死そのものを覆すことはできません」


「蘇生はできない?」


「できません」


その答えには迷いがなかった。


「アステラ教では、死を間違いとして扱いません。だからこそ、神聖保存も死者をこの世に留めるためではなく、残された人のためにあるのです」


「……なるほど」


神父様はエドガーさんへ近づいた。


その前に、ふと足を止めた。


「……カイ」


「はい?」


「少し、いいですか?」


神父様がエドガーさんの顔を見る。


俺もその視線を追った。


「昨日、エドガーさんが運ばれてきた時から気になっていたのですが……」


「何かありますか?」


神父様はエドガーさんの顔をしばらく見つめていた。


「とても穏やかな顔をされていますね」


「はい。できるだけ、生前の面影に近づけました」


神父様は驚いたように目を細めた。


「生前の面影に……。どうやって、これほどまでに?」


「……分かりません」


「分からない?」


「はい。やり方を教わった記憶はないんです。でも、こうすればいいというのが、なぜか分かるんです」


神父様は少し考えるようにエドガーさんの顔を見る。


「身体が覚えている……ということでしょうか」


「たぶん」


俺自身にも、それ以上は説明できない。


「昔のことは、あまり覚えていないんです。ただ、こういうことだけは……なぜかできる」


「不思議なものですね」


「俺も、そう思っています」


神父様はもう一度、エドガーさんの顔を見る。


「それでも……見事なものです」


穏やかな表情で頷く。


「これなら、最後に顔を見たいという人が来ても、きっと安心して向き合えるでしょう」


「そうなればと思って整えました」


神父様は少し黙った。


それから、エドガーさんへ視線を戻す。


「カイさん。あなたに頼んでよかった」


思いがけない言葉に、俺は少し戸惑った。


「俺は、できることをしただけです」


「その『できること』が、大切なのですよ」


神父様は穏やかに笑った。


「では、保存を始めましょう」


神父様は胸元の銀色の聖印に手を添えた。


そして、静かに目を閉じる。


「アステラよ」


声が部屋に響く。


「生きる者には明日を」


その言葉に合わせるように、銀色の聖印が淡く光った。


「死した者には安らぎを」


次の瞬間、神父様の手から、白に近い淡い光が流れ出した。


光は指先からゆっくりと広がっていく。


エドガーさんの身体を包む。


薄い布をかけるように、頭から足元へ。身体全体を淡い光が覆っていく。


それは強い光ではなかった。むしろ、蝋燭の火よりも静かだった。


けれど、不思議と目を逸らせなかった。


やがて光は薄くなり、何事もなかったように消えた。


神父様がゆっくりと手を下ろす。


「これで完了です」


「……これが神聖魔法」


「はい」


俺はエドガーさんを見る。


見た目は、昨日と何も変わらない。


けれど、今から七日間。この身体は、エドガーさんが亡くなった直後に近い状態を保つ。


残された人が、最後の時間を過ごすための魔法。


そう聞いて、俺はふと思った。


あのとき、俺が使った力も――。


もしかしたら、これと似たものなのかもしれない。


……そういうことだったのか。


今まで、自分に何ができるのか深く考えたことはなかった。


ただ、身体を整えるときには、自然と手が動いていた。


けれど今なら、少しだけ分かる気がする。


……俺にも、何か力がある。


それが何なのかは、まだ分からない。


俺はエドガーさんを見る。


残された時間。


そして――俺が手紙を届けるための時間。


「七日間、でしたよね」


「ええ。最長で七日です」


俺は頭の中で計算する。


リーベルから馬車で聖都まで一日半。


往復で三日。


「……これなら、探す時間も取れそうですね」


「ええ」


神父様が頷く。


「ただ、焦らないことです」


「はい」


俺は鞄の中の手紙に触れた。


「できるだけ早く、レオンさんを見つけます」


神父様は俺を見て、少しだけ表情を和らげた。


「……無事に戻ってきてください」


俺は静かに頷いた。


 ♢♢♢♢♢


教会を出たあとは、明日の朝に聖都へ向かうため、最後の準備を進めた。


街で必要なものを買い足し、聖都までの道についても確認しておく。


あれこれと動いているうちに時間は過ぎ、気づけば夕方になっていた。


俺はリーベルを出て、ルーデン村へ戻った。


村へ着くと、家の前に見慣れた男が立っていた。


……ロイドだ。


「遅かったな。聞いたぞ」


「何を?」


「聖都へ行くんだろ」


「はい。明日の朝には出るつもりです」


「そうか」


ロイドはそれだけ言って黙った。


「神父様から聞いたんですか?」


「いや。ミーナからだ」


「……なるほど」


村で話が広まるのが早い理由が、ようやく分かった気がした。


俺は苦笑した。


「いつ帰る?」


「順調なら6日後くらいですね」


「そうか」


ロイドは俺の荷物を見る。


「気をつけろ」


「はい、ありがとうございます」


「聖都は遠い」


「一日半ですよ?」


「一日半でも遠い」


「……確かに」


ロイドは少しだけ笑った。


「お前は、変なところで無茶するからな」


「そんなに?」


俺が聞くと、ロイドは迷わず答えた。


「する」


「即答ですね」


「即答だ」


俺も笑った。


ロイドが俺の肩を軽く叩く。


それだけだった。でも、十分だった。


 ♢♢♢♢♢


翌朝、まだ空が明るくなりきる前に、俺は村を出た。


背中には荷物。腰には道具入れ。


そして、鞄の中には一通の手紙。


村の出口まで歩き、振り返る。


見慣れた村、いつも通っている道、何度も見た景色。


それをしばらく眺めてから、俺は前を向いた。


――聖都セレディア――


そこにレオンがいるとは限らない。


すぐに見つかるとも限らない。それでも行く。


エドガーさんが最後に残したものを、届けるために。


「……行くか」


俺は歩き出した。


朝の道を、まだ見たことのない聖都へ向かって。

最後まで読んでくださり、ありがとうございます。


少しでも「面白そう」「続きがきになる」と思っていただけましたら


ブックマークや★星を入れて頂けますと嬉しいです!


何卒応援のほどよろしくお願いいたします。

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