02 聞こえた声
春の朝。
俺は、いつものようにルーデン村を出た。
目的地はリーベル。
村から歩いて、およそ1時間ほどの場所にある街だ。
距離にすれば、それほど遠くない。
村からリーベルへ買い物に行く人もいるし、仕事で行き来する人もいる。
俺にとっても、今では珍しい道ではなかった。
歩き慣れた道を進んでいく。
朝の空気には、まだ少し冷たさが残っている。
けれど、冬とは違う。
道端には小さな草が顔を出し、木々にも少しずつ緑が戻ってきている。
春が来たのだと、歩いているだけでも分かる。
しばらく歩いていると、前方に人の姿が増えてきた。
荷車を引く男、籠を抱えた女性、馬に乗った商人らしい男。
ルーデン村の近くでは見慣れない人間も多い。
リーベルが近づいてきた証拠だった。
やがて、道の先に街が見えてくる。
♢♢♢♢♢
--リーベル--
人口は、およそ2万5千人。
この世界の街の規模を正確に比較できるわけではないが、地方にある中規模の街といったところだ。
ルーデン村とは、比べものにならない。
村では、少し歩けば知っている顔に出会う。
誰がどこに住んでいるのかも、だいたい分かる。
けれど、リーベルでは違う。
何千、何万という人間が暮らしている。
道には人が行き交い、荷車が通り、店が並んでいる。
村から1時間しか離れていないのに、街へ入ると空気そのものが違って感じられる。
俺は街の入口へ向かった。
大きな門の前には、すでに何人かの人が並んでいる。
商人、旅人、冒険者らしい格好をした男たち。
それぞれが順番を待っていた。
リーベルには冒険者ギルドもある。
街を歩いていると、剣や大きな荷物を持った冒険者を見かけることも珍しくない。
俺自身は、冒険者として何かをするつもりはない。
俺には俺の仕事がある。
列が少しずつ進んでいく。
やがて、俺の番になった。
「身分証を」
守衛に言われ、俺は腰から身分証を取り出した。
ルーデン村の村長、マルセルに発行してもらったものだ。
守衛が身分証を確認する。
「カイ。ルーデン村」
「はい」
「仕事か?」
「そうです」
短いやり取りを終えると、身分証を返された。
「通っていい」
「ありがとうございます」
俺は身分証をしまい、街の中へ入った。
途端に、人の声が増えた。
店先から聞こえる声。荷車の車輪が地面を擦る音。
馬の蹄の音。行き交う人たちの話し声。
いくつもの音が重なっている。
街の中には、様々な店が並んでいる。
食べ物を扱う店、道具を売る店、薬を扱う店、宿屋、
少し歩けば、教会もある。
俺は人の流れに合わせて、大通りを進んでいった。
リーベルに来るようになったのは、俺の仕事が少しずつ知られるようになったからだ。
俺がこの世界で始めた仕事。
亡くなった人の身体を整える。
残された人が最後の時間を過ごせるようにする。
必要なことを一つずつ整理する。
そして、その人が生きていたことを、残された人たちが受け止めていけるように手助けする。
どうして自分にできるのかは、よく分からない。
昔のことは、あまり覚えていない。
それでも、こうすればいいということだけは、なぜか分かっていた。
最初はルーデン村だけだった。
それが少しずつ周りに知られるようになった。
村の人が誰かに話し、その人がまた別の誰かに話す。
そうして、リーベルからも声がかかるようになった。
だから俺は、こうして1時間の道を歩いて街へ来ている。
今日は、予定していた仕事がある。
まずは、それを終わらせる。
そう思いながら歩いていると、腹のあたりから「ぐぅ」と、小さな音がした。
……。
そういえば、朝はあまり食べていない。
そこで、ふと思い出した。
ミーナからもらったパン。
出かける前に、
「帰ってくるまでに食べるかもしれないでしょ」
そう言って渡されたものだ。
……今、食べるか
いや、仕事が終わったら食べよう。
そう決めて、歩き続ける。
♢♢♢♢♢
その日の仕事は、昼を過ぎる頃には終わった。
必要なことを一つずつ済ませ、道具を片づける。
依頼してくれた人に挨拶をして、俺は家を出た。
外へ出ると、街の空気は朝とは少し違っていた。
人通りも増えている。
店先には人が集まり、荷車も行き交っている。
俺は帰る前に、教会へ立ち寄ることにした。
リーベルに来たときは、仕事のあとに教会へ顔を出すことがある。
特別な用事があるわけではない。
神父様と少し話をしてから帰る。
それくらいのことだった。
教会へ向かう。
大通りから少し外れると、やがて白い壁が見えてきた。
リーベルの教会は、街の中でも比較的大きな建物だった。
白を基調とした壁。
中へ入ると、外の喧騒が少し遠くなる。
高い天井、中には木の長椅子が並び、その先にはアステラの象徴が掲げられている。
一本の細い線と、それを左右から包むような二つの曲線。
--生きる者を見守り、死した者に安らぎを与える--
アステラ教では、そう教えられている。
俺が教会の中へ入ると、奥から声がした。
「カイさん」
振り返るとアルベルト神父様が立っていた。
五十代ほどの男で、短い髪には白いものが混じっている。
穏やかな茶色の瞳。
短く整えられた髭。
白い聖職者の服には、控えめな金色の刺繍が入っている。
「神父様」
俺が頭を下げる。
「今日はもう仕事は終わったのですか?」
「はい。今終わったところです」
「そうですか」
アルベルト神父は静かに頷いた。
俺が死者を送る仕事をしていることは、もう知っている。
これまでにも何度か一緒に仕事をしてきた。
神父様が祈りを捧げる。
俺が亡くなった人の身体を整え、残された人が最後の時間を過ごせるようにする。
それぞれの役割がある。
俺は少し話をしてから帰るつもりだった。
けれど――
アルベルト神父様が、俺を見た。
そして、少しだけ目を見開く。
「……ちょうどよかった」
「?」
「実は、あなたにお願いしようと思っていたところなんです」
「俺に、ですか?」
「ええ」
神父様は奥の机へ目を向けた。
そこには、何枚かの書類が置かれていた。
「今日、亡くなられた方がいます」
「……そうなんですか」
「エドガーという男です」
名前を聞いたが、俺には聞き覚えがなかった。
「一人暮らしをしていた方で、普段なら朝になると外へ出る人だったそうです」
「それが、今日は?」
「昼近くになっても姿を見せなかったそうです」
近所の人が不審に思い、家を訪ねた。
何度か声をかけても反応がなかったため、中を確認したところ――亡くなっているエドガーさんを見つけた。
「身寄りについては?」
「近所の人も分からないそうです」
「住んでる場所も?」
アルベルト神父は首を横に振った。
俺は少し考えた。
一人暮らしだったのなら、身近な人間がすぐに来られるとは限らない。
だからこそ、誰かがその人をきちんと送る必要がある。
「それで、俺に?」
「ええ」
神父様は頷いた。
「ちょうど、あなたに頼めないかと思って、手配を始めていたところでした」
「そうだったんですね」
「まさか、その本人が来るとは思いませんでした」
神父様が少し微笑んだ。
「本当に、ちょうどよかったです」
俺も少しだけ微笑んだ。
「それなら、俺が行きます」
「頼みます」
「エドガーさんの家は、ここから遠いですか?」
「歩いて15分ほどです」
「分かりました」
俺は頷いた。
「行ってきます」
「お願いします」
俺は教会を出た。
街の音が、再び耳に戻ってきた。
人の声、荷車の音、馬の蹄。
さっきまでと同じ街なのに、少しだけ違って聞こえる。
亡くなった人がいる。
そのことを知っただけで、さっきまでの日常が少し遠くなったような気がした。
♢♢♢♢♢
俺はアルベルト神父に教えられた道を歩いていく。
街の中心から離れるにつれて、人の数が少なくなっていく。
やがて、住宅が並ぶ一角を抜ける。
さらに少し歩く。
15分ほど経った頃、教えられた家が見えてきた。
古い家だった。
大きくはない。
けれど、荒れているわけでもない。
長く使われてきたことが分かる家だった。
俺は玄関の前に立った。
そして、扉を叩く。
「すみません」
少し待つ。やがて、扉が開いた。
出てきたのは、年配の女性だった。
「どちら様ですか?」
「アルベルト神父様から伺って来ました」
そう伝えると、女性の表情が少し緩んだ。
「ああ……」
女性は小さく頷いた。
「どうぞ」
俺は家の中へ入った。
その先に、エドガーさんがいた。
白髪。
深い皺。
細い身体。
右の眉の上には、小さな古い傷跡がある。
長年働いてきたことが分かる、節くれ立った手。
色あせた茶色のシャツ。古いベスト。
何度も直した跡のあるズボン。
使い込まれた革靴。
身につけているものは古い。
けれど、雑に扱われているわけではなかった。
大切に使い続けてきたのだろう。
俺は、エドガーさんの前に立った。
そして、一度だけ深く頭を下げる。
「……お疲れ様でした、エドガーさん」
仕事を始める。
いつものように、身体を整えていく。
手や顔を清め、髪を整え、衣服の乱れを直していく。
一つひとつの作業を終えるたびに、少しずつ生前の姿に近づいていく。
けれど、顔だけは最後に残した。
亡くなったあとの顔は、生きているときとはどうしても違って見える。
血色が失われ、頬が落ち、表情も固くなる。
そういう変化を、俺は知っていた。
どうすれば元の顔に近づけられるのかも、なぜか分かる。
誰かに教わった記憶があるわけじゃない。
それでも、手を動かせば自然と分かった。
亡くなった人を、別人のように変えるわけじゃない。
その人らしさを残したまま、生前の顔に近づけていく。
それが、俺にできることだった。
その人が生きていた頃の面影を、できるだけ取り戻す。
家族が最後に顔を見たとき、
「この人だ」
そう思えるようにする。
俺はエドガーさんの顔を見つめた。
白髪。
深い皺。
右の眉の上にある古い傷。
残された特徴を一つずつ確かめながら、必要なところに手を入れていく。
色を重ねすぎない。
隠しすぎない。
あくまで、生きていた頃の顔に近づける。
しばらくして、俺は手を止めた。
「……これなら」
もう一度、少し離れたところから見る。
そこにいるのは、眠っている老人のようだった。
少なくとも、俺にはそう見えた。
近くで見ていた女性が、ゆっくりとエドガーさんのそばへ歩いてくる。
そして、顔を見た。
しばらく何も言わなかった。
やがて……
「……エドガーさん」
その声が、少しだけ震えた。
「生きているときの顔みたいです」
「そう見えますか?」
「ええ……」
女性はエドガーさんの顔を見つめたまま、静かに頷いた。
「いつも、こんな顔で話していました」
俺は何も言わずに頷いた。
それでいい。
亡くなった人を別の誰かにする必要はない。
最後に残された人が、その人の顔を見て、その人との時間を思い出せるなら、それで十分だ。
静かな時間だった。
外からは、街の音がかすかに聞こえている。
人が歩く音。
遠くの荷車。
誰かの話し声。
そんな日常の音の中で、俺はエドガーさんと向き合っていた。
そのときだった。
――レオンーー
……??
今、何か聞こえたような気がした。
けれど、家の中にいるのは俺と近所の女性だけだ。
俺は周囲を見る。
誰もいない。
気のせいか。
そう思った直後だった。
――あの子にーー
「……なんだ、今の?」
声に出してしまった。
女性が不思議そうに俺を見る。
「どうかしましたか?」
「いえ……」
俺は首を振った。
「何でもありません」
そう答えながら、もう一度エドガーさんを見る。
閉じられた目。
動かない口元。
もちろん、何も聞こえるはずがない。
それなのに、確かに声が聞こえた。
……レオン、あの子に。
その言葉だけが、頭に残っていた。
作業を終えたあと、部屋の中を見渡す。
そのとき、壁際に置かれたものが目に入った。
古い肖像画だった。
少し若いエドガーさん。
その隣に、一人の女性。
そして、その前に立つ少年。
3人で描かれている。
俺は絵に近づいた。
少年の顔を見る。
どこかエドガーさんに似ている気がした。
指先が少し肖像画に触れる。
そのときだった。
頭の中に、一瞬だけ別の光景が浮かんだ。
少年の声。
ーー俺、聖都へ行きたいーー
それに答える、少し年配の男性の声。
ーー駄目だーー
そこで途切れた。
「……」
俺は指先を離した。
今のは何だったのか。
夢でもない。
記憶でもない。
ただ、一瞬だけ何かを見た。
そして、聞いた。
けれど、その意味は分からない。
俺はしばらく肖像画を見つめていた。
その後、近所の女性と一緒に部屋の中を整理していると、一通の封筒が見つかった。
古い封筒だった。
表には、名前が書かれている。
――レオンへ。
……レオン
さっき聞こえた名前と同じだった。
俺は封筒を見つめる。
開けようと思えば、開けられる。
けれど、開けなかった。
これは俺宛ての手紙じゃない。
レオンへ宛てられたものだ。
俺が勝手に読むべきものではない。
「レオンという人を知っていますか?」
近所の女性に尋ねる。
女性は少し考えてから、首を横に振った。
「私は知りません」
「家族の方では?」
「そこまでは……」
エドガーさんは、家族についてほとんど話さなかったらしい。
女性も、レオンという名前を聞いたことがないという。
結局、その日はそれ以上のことが分からなかった。
俺は封筒を持ったまま、教会へ戻った。
♢♢♢♢♢
教会へ戻ると、アルベルト神父様へ報告をする。
「神父様」
「戻りましたか」
「はい」
俺は封筒を取り出した。
「これを、エドガーさんの家で見つけました」
神父様が封筒を見る。
「……レオンへ」
「はい」
「レオンという方について、何か分かりましたか?」
「いいえ」
俺は首を振った。
「近所の方も知りませんでした」
神父様もしばらく封筒を見る。
「教会にも、記録はありませんね」
「そうですか」
「エドガーさんが家族について話したことも、私は聞いたことがありません」
「……分かりました」
俺は封筒をしまった。
「神父様。この手紙、どうすればいいでしょうか」
アルベルト神父は少し考えた。
「宛名がある以上、本来はその人の手に渡るべきでしょう」
「俺も、そう思います」
「だが、レオンという方の居場所が分からない」
「はい」
神父様は俺を見る。
「カイ。あなたはどうしたい?」
俺はすぐには答えられなかった。
けれど、さっき聞こえた声が頭に残っている。
――レオンーー
――あの子にーー
そして、肖像画に触れたときの言葉。
――俺、聖都へ行きたいーー
「……探したいです」
「レオンを?」
「はい」
神父様は黙って俺を見る。
「エドガーさんが何を伝えたかったのかは、まだ分かりません」
一度、言葉を切る。
「でも、最後に残したものを、俺がここで止めてしまうのは違うと思うんです」
「……その手紙を届けたい、と」
「はい」
「だが、聖都にいると決まったわけではないですよ」
「分かっています」
俺は頷いた。
「聖都へ行きたいと言っていたのが、レオンさん本人だったのかも分かりません」
「それでも?」
「はい」
封筒を見る。
「今の俺には、それしか手がかりがないからです」
神父様はしばらく黙っていた。
俺も、それ以上は言わなかった。
やがて、神父様が静かに口を開く。
「死者の願いを届けるというのは、簡単なことではありません」
「はい」
「届けた先に、必ずしも望んだ答えがあるとは限らない」
その言葉に、俺は黙って頷いた。
手紙を渡せば、それで全部終わるわけじゃない。
レオンさんが何を思うのかも分からない。
エドガーさんに会いたいと思っているのか。
怒っているのか。
もう関わりたくないと思っているのか。
俺には何も分からない。
だからこそ、俺が勝手に答えを決めることはできない。
俺にできるのは――届けることだけだ。
「それでも、届けたいです」
神父様は、しばらく俺を見ていた。
「……分かりました」
穏やかな声が返ってきた。
「では、行ってきなさい」
「……はい。必ず届けてきます、神父様」
俺は封筒を大切にしまった。
行き先は、聖都セレディア。
そこにレオンさんがいるのかは、まだ分からない。
何が待っているのかも分からない。
それでも、一つだけ決まった。
この手紙を、レオンさんへ届ける。
それが、エドガーさんが最後に残したものだから。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
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