01 弔い屋
それから、約3か月が過ぎた。
俺は今も、ルーデン村で暮らしている。
目を覚ましたばかりの頃は、分からないことばかりだった。
自分の名前以外、思い出せることはほとんどない。
どうして森の近くで倒れていたのか、なぜ何も覚えていないのか。それさえ分からなかった。
そんな俺を、最初の頃から支えてくれたのがロイドだった。
森の近くで倒れていた俺を見つけ、この村まで運んでくれた男だ。
彼は、この村で狩人をしている。
俺より頭ひとつ分ほど大きく、がっしりとした体格をしている。
濃い茶色の短い髪に、少し無精ひげ。
日に焼けた顔には、森で暮らしてきた人間らしいたくましさがあった。
古びた革の上着に、動きやすそうな服。腰には、森へ入るための道具を身につけている。
口数は少ない。
けれど、困ったときには黙って手を貸してくれる。
そんな男だった。
♢♢♢♢♢
目覚めてからしばらくの間、俺はロイドの家で暮らしていた。
この村のことや、暮らしに必要なこと。分からないことを尋ねれば、ロイドは必要なことをひとつずつ教えてくれた。
村で生活していくためには、村長のマルセルにも世話になった。
白髪の混じった髪に、穏やかな目をした男だった。身元の分からない俺がこの村で暮らしていけるよう、必要なことを教え、困らないように気を配ってくれた。
2人に助けられながら、俺は少しずつこの村での生活を築いていった。
けれど、自分が何者なのか、どうして森の近くで倒れていたのかは、いくら考えても分からなかった。
分からないことを無理に考えても仕方がない。
そう思い、俺はまず、目の前の生活を大切にすることにした。
3か月も暮らしていれば、村での生活にも少しずつ慣れてくる。
今では、村を歩いていても、ここが自分の暮らす場所なのだと自然に思えるようになっていた。
♢♢♢♢♢
ルーデン村は、森の近くにある小さな村だった。
村人は800人ほど。農家や商人、森で働く狩人などが暮らしている。
大きな街ではない。
けれど、生活に必要なものは、それなりに揃っていた。
朝になれば、家の戸が開き、道を歩く人が増えていく。
荷物を運ぶ人や仕事へ向かう人、家の前を掃除する人。顔を合わせれば、短く挨拶を交わす。
誰かが朝を迎え、誰かが働き、誰かが家へ帰る。
そんな当たり前の日々が、毎日繰り返されていた。
俺は、ときどき村の様子を少し離れたところから眺めていた。
知らないことばかりの場所だった。
けれど、ここで暮らしている人たちにとっては、これが当たり前の日常なのだ。
笑って、働いて、飯を食べて、眠る。
そして、また次の日を迎える。
そんな姿を見ているうちに、俺も少しずつ、この村で生きていくことを受け入れるようになった。
自分が何者なのかは、まだ分からない。
それでも、今はここで暮らしていくしかなかった。
そんな日々を過ごしていた、ある日のことだった。
♢♢♢♢♢
村で暮らし始めて、半年ほど経った頃。
村の中で、人が亡くなったという知らせを聞いた。
俺がその家を訪ねると、室内には何人かの家族が集まっていた。
泣いている人もいれば、何も言わずに椅子へ腰掛けている人もいる。
誰もが悲しみの中にあり、これから何をすればいいのか分からず、戸惑っているようだった。
部屋の奥には、亡くなった人が横たわっていた。
俺は少し離れたところから、その様子を見つめた。
どうすればいいのか。
この村では、人が亡くなったとき、何をするのが普通なのか。
俺には、まだ分からなかった。
けれど、残された家族が困っていることだけは分かった。
亡くなった人を前にして、泣いている家族。
何をすればいいのか分からず、ただ立ち尽くしている人たち。
その光景を見ていると、胸の奥がざわついた。
どうしてなのかは分からない。
ただ、何かをしなければならないような気がした。
勝手に手を出していいのだろうか。
しばらく迷ったものの、何もしないまま立ち尽くしているわけにもいかなかった。
「……俺でよければ、やります」
家族の一人が、戸惑ったように俺を見た。
「何を……?」
「身体を整えます」
「あなたに、できるんですか?」
「はい」
そう答えながら、自分でも不思議に思っていた。
どうして自分にできるのかは分からない。誰かに教わった記憶があるわけでもない。
それなのに、何をすればいいのかは、なぜか分かっていた。
俺は、亡くなった人のそばへ向かった。
身体を清め、衣服を整える。顔を拭い、髪を整える。
ひとつずつ、急がずに進めていった。
手を動かしている間、不思議と迷いはなかった。
初めてのはずなのに、何をすればいいのか、どこに気を配ればいいのかが自然と分かる。
まるで、ずっと前から知っていたことのように。
けれど、なぜ知っているのかを考えても、何も思い浮かばなかった。
やがて、身支度が終わった。
俺は、亡くなった人の顔を見つめた。
少しでも穏やかな姿で、家族に最後の時間を過ごしてもらいたい。
そう思った、そのときだった。
指先に、かすかな熱を感じた。
「……?」
何かがある。
けれど、目には見えない。
身体の奥から、小さな力が指先へ流れていくような感覚があった。
俺は、亡くなった人の身体へそっと手をかざした。
すると――。
淡い光が、ほんの一瞬だけ指先に浮かんだ。
「……っ」
驚いて、思わず手を引きそうになった。
けれど、不思議と怖くはなかった。
このまま続けていい。
そんな気がした。
俺はもう一度、手をかざした。
淡い光が、亡くなった人の身体を薄く包んだ。
強い光ではない。
蝋燭の火よりも弱い、かすかな光だった。
それは、すぐに消えた。
何が起きたのかは分からない。
俺は、目の前の人を見つめた。
先ほどまでとは、どこか違っていた。
顔に残っていたこわばりが和らぎ、表情が穏やかになっている。乱れていた髪や衣服も整い、まるで静かに眠っているかのようだった。
俺は、しばらくその顔を見つめていた。
何をしたのか、自分でも分からない。
ただ、目の前の人が穏やかな姿になったことだけは確かだった。
「……終わりました」
そう告げると、家族の一人がゆっくりと近づき、亡くなった人のそばに座った。
しばらく、その顔を見つめていた。
やがて、小さな声が聞こえた。
「……ありがとう」
その人は、故人の顔をそっと見つめた。
「……まるで、眠っているみたいだね」
そう呟くと、もう一度、故人の手を握った。
俺は少し離れたところから、その様子を見ていた。
さっきまで、何をすればいいのか分からずにいた家族が、今は故人のそばで最後の時間を過ごしている。
その光景を見ていると、胸の奥に不思議な感覚が残った。
どうして自分に、こんなことができたのだろう。
その答えは分からない。
けれど、家族が故人のそばに座り、静かに語りかける姿を見ていると、ひとつだけ思うことがあった。
これは、必要なことなんだ。
人が亡くなったとき、残された人には、別れを告げる時間が必要なのかもしれない。
俺にできることがあるなら、それでいい。
そう思った。
♢♢♢♢♢
それから、少しずつ仕事を頼まれるようになった。
最初は、村の中だけだった。
依頼があれば、その家へ向かう。
亡くなった人の身体を整え、家族が最後の時間を過ごせるようにする。
それを繰り返しているうちに、少しずつ依頼も増えていった。
人が亡くなったとき、身体を整える依頼は、基本的に教会を通して俺のもとへ届く。
家族から直接頼まれることもあったが、仕事を続けるうちに、村の人たちにも少しずつ俺の仕事が知られるようになっていった。
しばらくして、俺はロイドの家を出て、村の中に小さな家を借りた。
一人で暮らすには十分な広さだった。
この村では、人が亡くなると、教会でアステラの礼拝を行う。その前に故人の身体を整え、家族が最後の時間を過ごすこともある。
村で暮らし、仕事を続けるうちに、そうした習慣も少しずつ分かってきた。
俺が依頼を受けると、故人の自宅へ向かった。
家族がそばにいる場所で、その人の身体を整える。
そして、残された人たちが最後の時間を過ごす。
俺にできるのは、その時間を作る手伝いをすることだった。
家を借りてからは、生活する場所と仕事の道具を置く場所を分けた。
それだけでも、仕事をするには十分だった。
いつの間にか、俺の家は生活する場所であると同時に、仕事の拠点にもなっていた。
家の前には、小さな木の看板を掛けた。
そこには、短くこう書いた。
――弔い屋。
この村に、同じ仕事をする人がいるわけではない。
だから、その名前は俺が自分で決めた。
最初は、何の仕事なのか分からないという顔をされることもあった。
それでも、一人、また一人と仕事を頼まれるようになった。
俺は、誰の仕事も雑に済ませることはしなかった。
亡くなった人を丁寧に整える。
残された家族の話を聞く。
最後に過ごす時間を大切にする。
それを、一つずつ続けていった。
やがて、俺に仕事を頼んだ人たちから、少しずつ話が広がっていったらしい。
「ルーデン村に、亡くなった人をきちんと整えてくれる奴がいる」
そんな話が、村の外にも伝わっていった。
仕事を始めてから、1年ほどが過ぎた頃には、リーベルの教会からも依頼の声がかかるようになった。
教会を通した依頼が増える一方で、個人から直接頼まれる仕事も続いていた。
それが、村の中だけだった俺の仕事が、少しずつ外へ広がっていくきっかけになった。
♢♢♢♢♢
「カイ!」
聞き慣れた声に振り返ると、ミーナが立っていた。
ミーナは、ルーデン村でパン屋を営む家の娘だ。
栗色の髪を後ろでまとめ、いつものエプロン姿でいる。
手には、焼きたてのパンがあった。
「また食べてないでしょ」
「食べてるよ」
「それ、昨日のじゃない」
「……よく分かるな」
「分かるよ」
ミーナは呆れたように言って、パンを俺に差し出した。
「これ、持っていって」
「いいのか?」
「いいから。ちゃんと食べて」
俺はパンを受け取った。
まだ温かい。
「ありがとう」
「仕事?」
「うん。リーベルまで行ってくる」
「そっか」
ミーナは少しだけ俺を見た。
「気をつけてね」
「ああ」
それだけだった。
でも、ミーナが心配してくれていることは分かった。
俺はパンを袋に入れ、歩き出した。
♢♢♢♢♢
ルーデン村を出る。
村を離れるにつれて、景色が少しずつ変わっていった。
やがて道は人の往来が増え、荷馬車とすれ違うことも多くなった。
向かう先は、リーベル。
ルーデン村よりも大きな街だ。
石畳の道。行き交う人々。店先に並ぶ品物。荷馬車の車輪が石を踏む音。
街の中には、村とは違う活気があった。
俺がこの街に来るようになったのも、弔い屋として仕事を続けてきたからだ。
依頼があれば向かい、家族の話を聞き、亡くなった人の身体を整える。
そして、最後の時間を過ごすための手伝いをする。
そんなことを繰り返しているうちに、少しずつ名前を覚えてもらうようになった。
街を歩いていると、顔を知っている人から声をかけられることもある。
この村での暮らしも、いつの間にか日常になっていた。
けれど、その日のリーベル行きは、いつもと少し違っていた。
これから受ける依頼が、どんなものなのか。
その先で、何が待っているのか。
このときの俺には、まだ分からなかった。
ただ、いつものように仕事をするため、街道を進んでいた。
この先で、俺は一人の老人と出会うことになる。
そして、その老人の死が――俺を、聖都セレディアへ向かわせることになる。
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