09 失われざるもの 後編
セリアの身体は、もう動かなかった。
俺の腕の中で、あれほど力強く剣を振るっていた彼女が、今は目を閉じ、静かに横たわっている。
「……セリア」
名前を呼んでも、返事はない。
分かっている。
それでも、もう一度呼ばずにはいられなかった。
洞窟の奥には、戦いの痕跡が残っていた。砕けた岩、深く抉られた地面、そして血に濡れた大剣。
セリアが最期に口にした言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
――あの人が無事なら、それでいいわ
その言葉が誰を指していたのか、俺には分かっていた。
ユリウスだ。
俺は、彼女に嘘をついた。
ユリウスは無事だと。心配する必要はないと。
本当は、あの男がセリアを裏切り、鉱石だけを奪って逃げたことを知っていた。
彼女を守るどころか、置き去りにした男だ。
アモルディアを手に入れるためにセリアに近づき、恋人のように振る舞っていたにすぎない。
それなのに、彼女は最期までユリウスの無事を願っていた。
裏切られたことも知らず、あの男を心配し続けるセリアを見ているのが、たまらなく苦しかった。
俺は、彼女を安心させたかった。
だが、それだけではなかったのかもしれない。
最期までユリウスを想うセリアを見て、俺は嫉妬していたのだ。
もう一度、彼女の隣に立ちたいと願いながら、そんな自分の気持ちさえ伝えられずにいる。
そんな俺が、彼女の想いを否定することなどできるはずもなかった。
「……すまない」
謝罪は、届かない。
俺はセリアの身体を抱き上げた。
腕に伝わる重みが、彼女がもう帰ってこないことを嫌というほど教えてくる。
それでも、ここに置いていくことだけはできなかった。
洞窟を出る。
外の光が目に入った。
空気は冷たく、木々は何事もなかったかのように風に揺れている。
世界は、何も変わっていない。
セリアが死んだというのに。
俺は彼女を抱えたまま、歩き出した。
ユリウスを追うこともできた。
あの男を見つけ出し、奪ったものを取り返し、剣を突き立てることだってできるかもしれない。
だが、今は違う。
俺がすべきことは、セリアを家に連れて帰ることだ。
それだけだった。
♢♢♢♢♢
村に戻ると、道を行く人々が俺の姿に気づいた。
誰もが言葉を失い、道を空ける。
俺は誰とも目を合わせなかった。
彼女を抱く腕に、力がこもる。
かつて、俺はセリアの手を離した。
守るためだった。
そう言い聞かせて、彼女の気持ちを確かめることさえしなかった。
あのとき、もしも本当のことを話していたら。
もしも、一緒に来てほしいと伝えていたら。
彼女は、どんな答えを返しただろう。
そんなことを考えても、もう遅い。
俺は自宅に戻り、ベッドにセリアを横たえた。
乱れた髪をそっと整える。
頬に触れると、冷たかった。
「……着いたぞ、セリア」
俺はベッドの脇に座り、彼女の手を握った。
どれほど時間が過ぎたのか分からない。
ただ、握った手を離せなかった。
そのとき、扉を叩く音がした。
「ロイドさん!!」
ミーナの声だった。
俺は立ち上がり、扉を開けた。
ミーナは俺の顔を見ると、何かを言いかけて口を閉じた。
「……カイを呼んできます」
それだけ言い残し、彼女は駆けていった。
俺は再びベッドのそばに戻り、セリアの手を握り直した。
「……俺は、何をしていたんだろうな」
誰に向けた言葉でもなかった。
セリアと別れたのは、俺が26のときだ。
国から追われる身となった俺は、彼女を巻き込まないために、ひどい嘘をついた。
――もう、お前を愛していない
あの言葉で、彼女を遠ざけた。
それが彼女を守ることになると信じていた。
だが、本当にそうだったのか。
彼女には、何も選ばせなかった。
俺と一緒に逃げるかどうかも。
危険を承知で、それでもそばにいたいと思うかどうかも。
俺は彼女のためだと言いながら、彼女自身の気持ちを聞こうとしなかった。
そして16年が過ぎた。
再び出会った彼女には、別の男がいた。
俺は、それを見て何も言えなかった。
言えるはずもなかった。
彼女を手放したのは、俺なのだから。
「……遅すぎたんだ」
声が震えた。
「俺は、ずっと……」
その先は、言葉にならなかった。
失ったものの大きさを、今になって思い知らされている。
もっと早く、話していれば。
もっと早く、本当の気持ちを伝えていれば。
そんな後悔ばかりが、胸の中を埋め尽くしていく。
扉の向こうから、足音が聞こえた。
「ロイドさん、入ります」
カイだ。
俺は顔を上げた。
カイはベッドに横たわるセリアを見つめ、静かに近づいた。
そして、彼女の顔や身体の傷を確かめる。
「……まずは、身体を整えましょう」
その声には、いつもの落ち着きがあった。
俺はうなずいた。
「頼む」
カイは持ってきた道具を使い、丁寧にセリアの身体を整えていった。
乱れた髪を直し、傷ついた身体を清め、彼女が安らかに眠っているように整えていく。
その最中、カイの指先から淡い光がこぼれた。
光は彼の手を包み込むように広がり、セリアの肌へと静かに染み込んでいく。
カイ自身は、その変化に気づいていないようだ。
ただ目の前の彼女を整えることに集中し、いつもと変わらない手つきで処置を続けている。
けれど、俺の目の前では、確かに不思議な変化が起きていた。
毒に侵された影響なのか、紫色に変色していた肌が、少しずつ本来の色を取り戻していく。
傷ついた身体も、まるで時間を遡るかのように、生前の姿へと整えられていった。
淡い光が消える頃には、セリアの顔から苦しげな面影は薄れ、穏やかな表情が戻っていた。
まるで、ただ眠っているだけのようだ。
カイは最後に髪を整え、そっと手を離した。
「……ロイドさん」
「なんだ?」
セリアを見つめていたカイの目が、ゆっくりと俺へ向けられる。
「……あなたは彼女に、伝えておきたいことはありませんか?」
胸の奥が、強く締めつけられた。
伝えておきたいこと。
そんなもの、いくらでもある。
謝りたい。
本当は愛していたと伝えたい。
あのとき、どうして何も言わずに去ったのか、話したい。
そして、できることなら――もう一度、彼女の声を聞きたい。
「……ある。たくさん、ある」
ようやく、それだけ答えた。
カイは静かにうなずいた。
しばらくセリアの顔を見つめたあと、そっと彼女の手を取り、両手で包み込む。
何かを確かめるように、目を閉じて深く息を吸った。
俺には分からなかった。
カイが何を感じ取ろうとしているのか。
セリアの想いが、どこかに残っているのか。
ただ、カイが彼女の手を包む指先に、わずかに力がこもった。
「カイ?」
呼びかけても、カイは目を閉じたまま、セリアの手を握り続けていた。
そのときだった。
――音が、消えた。
風の音も、遠くから聞こえていた人々の声も、すべてが途切れた。
「……なんだ?」
カイの足元から、黒い光が放たれた。
次の瞬間、光は床も壁も区別なく、部屋全体を一気に覆い尽くした。
「カイ……!」
思わず手を伸ばしたが、カイの姿はすでに黒い光の中に消えていた。
俺自身も、光に包まれる。
視界が黒に染まった。
音も、気配もない。
何も見えなかった。
上下さえ分からない、真っ暗な空間。
俺は、戸惑いながら周囲を見回した。
「……ここは?」
そのとき、目の前に光が浮かび上がった。
細い光の輪郭が少しずつ広がり、やがて白い扉の形を成した。
俺は息を呑んだ。
何もない暗闇の中に、ただ一つ、白い扉だけが存在している。
これは、いったい何なのか。
答えが出ないまま見つめていると、扉の中央に細い光の筋が走った。
ゆっくりと、その隙間が広がっていく。
そして――
扉が開いた。
向こう側から、柔らかな光が差し込んでくる。
俺は、目を凝らした。
その先に広がっていたのは、どこまでも続く青い空だった。
扉の向こうから、穏やかな風が吹き込んでくる。遠くには緑の大地が広がっていた。
そして、その景色の中に、一人の女性が立っていた。
俺は、息をすることさえ忘れた。
そこにいたのは――。
「……セリア?」
彼女が、ゆっくりと振り向いた。
俺は言葉を失った。
そこにいたのは、16年前と変わらない、あの頃のセリアだった。
冒険者として共に過ごし、恋人として笑い合っていた頃の姿。
もう二度と見ることはないと思っていた彼女が、今、目の前にいる。
ふと、自分の手を見た。
年月を重ねたはずの手が、若い頃のものに戻っている。
腕も、身体も、あの頃のままだった。
16年前に置き去りにしたはずの自分が、ここにいた。
「……ロイド?」
セリアの声がした。
忘れたことなど、一度もなかった声。
俺は一歩、踏み出した。
彼女もまた、驚いたように目を見開いている。
「どうして……?」
セリアの唇が、かすかに震えた。
俺にも分からなかった。
なぜ、こんなことが起きているのか。
なぜ、死んだはずの彼女が目の前にいるのか。
けれど、今はそんなことはどうでもよかった。
この世界にいるのは、俺とセリアだけだった。
16年前、伝えられなかった言葉がある。
ずっと胸の奥にしまい込んできた想いがある。
今度こそ、伝えたかった。
俺は、彼女の前に立っていた。
もう二度と会えないはずだった、大切な人の前に。
「……会いたかった」
その言葉を、ようやく口にすることができた。
♢♢♢♢♢
セリアは、しばらく俺を見つめていた。
やがて、ゆっくりと一歩、こちらへ近づいてくる。
「……私もよ」
その声を聞いた瞬間、胸の奥に押し込めていたものが、込み上げてきた。
16年。
長すぎる時間だった。
もう二度と会えないと思っていた。
それなのに、今、目の前にセリアがいる。
あの頃と変わらない姿で、俺の名前を呼んでくれている。
「……セリア」
「……すまなかった」
セリアは、静かに俺を見つめていた。
「16年前のことも、今日のことも……俺は、お前に何も伝えなかった」
俺は視線を落とした。
「お前を守るためだと、自分に言い聞かせていた。俺がそばにいれば、お前まで危険に巻き込まれる。だから、嫌われても仕方がないと思っていた」
言葉にすると、ひどく身勝手な考えだった。
「けど、本当は怖かったんだ」
「……怖かった?」
「ああ。お前を巻き込むのが怖かった。お前を失うのが怖かった。だから、お前の気持ちを聞くことから逃げた」
セリアは何も言わず、俺の話を聞いていた。
「一緒に来てほしいと言って、お前が危険を承知でついてくると言ったら……俺は、きっと断れなかった」
自分の弱さを認めるように、言葉を続けた。
「だから、最初から選ばせなかった。お前のためだなんて言いながら、俺自身が決断することから逃げただけだったんだ」
16年前の俺は、それが最善だと信じていた。
けれど、今なら分かる。
守ることと、相手の人生を勝手に決めることは違う。
「……本当に、すまなかった」
セリアはしばらく黙っていた。
やがて、そっと口を開いた。
「ねえ、ロイド」
「……何だ?」
「私ね、あのときね、あなたが嘘をついているんだと思ったの」
「……何?」
「あなたが突然、私を愛していないなんて言うから。そんなの、信じられるわけがなかったわ」
セリアは、少しだけ目を伏せた。
「でも……本当は、怖かったの」
「……何がだ?」
「あなたが、本当に私を必要としていないんじゃないかって」
その言葉が、胸に突き刺さった。
「……違う。俺は――」
「うん。今なら、違うって分かるわ」
セリアは、俺の言葉を遮るように、そっとうなずいた。
「あなたが私を守ろうとしてくれたことも、国を出なければならなかったことも、今なら分かる。でも、あのときの私は、何も知らなかったのよ」
「……ああ」
「ただ、あなたに必要ないと言われたんだと思った」
声が、わずかに震えた。
「一緒に行きたいって伝えたのに、あなたは私を連れていこうとはしなかった」
俺は、何も言えなかった。
「危険があることくらい、分かっていたわ。それでも、あなたと一緒にいたかった。あなたがどこへ行くとしても、隣にいたかったの」
セリアは、ゆっくりと顔を上げた。
「でも、あなたは私を置いていった」
その言葉を、俺は受け止めることしかできなかった。
「……あなたが私を守ろうとしていたことも、今なら分かる。でも、あのときは、そんなことまで考えられなかった。ただ、あなたに必要とされていないんだと思って、悲しかったの」
セリアは、自分の手を見つめた。
「本当は、あなたに、私と一緒にいたいと言ってほしかった。危険だから連れていけないんじゃなくて、それでも一緒にいたいと思っているんだって……そう言ってほしかった」
胸の奥が、ひどく痛んだ。
俺は、彼女の気持ちを聞こうともしなかった。
彼女が一緒に行きたいと伝えてくれたのに、俺は自分の考えだけで別れを決めた。
彼女を守るためだと思っていた。だが、その選択が彼女をどれほど傷つけたのか、俺は考えようともしなかった。
「……ごめんなさい、ロイド」
セリアが、思いがけない言葉を口にした。
「……どうして、お前が謝るんだ」
「あなたの気持ちを、ちゃんと聞こうとしなかったから」
彼女は、俺を見つめた。
「あなたが嘘をついていると気づいていたのに、本当のことを聞こうとしなかった。あなたが何を考えているのか、どうして別れようとしたのか……ちゃんと聞けばよかった」
セリアは一度、目を伏せた。
「あなたに必要ないと思われたことが悲しくて……本当は、あなたの嘘を信じたふりをして、諦めたの」
その言葉を聞いて、俺はようやく理解した。
俺は、彼女を守るために別れを選んだつもりだった。
けれど、彼女には、俺が自分を必要としていないから去っていくように見えていたのだ。
そして彼女は、俺の嘘に気づきながらも、自分から手を伸ばすことができなかった。
どちらか一方だけが悪かったわけではない。
それでも、俺が本当のことを話していれば。
彼女の気持ちを聞いていれば。
少なくとも、彼女をひとりで悩ませることはなかったはずだ。
「……俺は、本当に馬鹿だったな」
セリアは、首を横に振った。
「ううん。私も、同じくらい不器用だったのよ」
そして、俺を見つめた。
「だから、今度はちゃんと伝えてほしいの。あなたが何を考えているのか。何を感じているのか」
俺は、彼女の顔を見つめた。
16年前、伝えられなかった想い。
今日まで、言葉にできなかった後悔。
もう、同じことを繰り返したくなかった。
「……セリア」
「あのときも、今も。私は、あなたの本当の気持ちが知りたかった」
その言葉に、俺は目を閉じた。
そして、今度こそ、目を逸らさずに伝えた。
「……愛している」
声が震えた。
「16年前も、今も。俺は、お前を愛している」
セリアの目に、涙が浮かんだ。
「……ありがとう、ロイド」
彼女は、ゆっくりとうなずいた。
「私も、あなたを愛していたわ」
俺は、彼女をそっと抱きしめた。
腕の中のセリアは、静かに俺を抱きしめ返してくれた。
たったそれだけの言葉を交わすために、16年もかかってしまった。
それでも、伝えられてよかった。
もう、過去をやり直すことはできない。
けれど、あのとき伝えられなかった想いを、今ようやく届けることができた。
セリアを抱きしめたまま、俺は静かに目を閉じた。
♢♢♢♢♢
「……ねえ、ロイド」
「何だ?」
「……あの人は、無事に逃げられた?」
「……え?」
思わず聞き返した。
「あの人って……ユリウスのことか?」
「ええ」
セリアは、まっすぐ俺を見ていた。
「私を置いて逃げたんでしょう? それで、無事に逃げられたの?」
俺は、ゆっくりと彼女から身体を離した。
「……気づいていたのか?」
「……あなた、嘘が下手だから、何かを隠していることは分かっていたわ」
セリアの言葉に、俺は何も言えなかった。
ユリウスは、セリアを利用した。伝説の鉱石を手に入れるために近づき、彼女の信頼を利用し、最後には置き去りにして逃げた。
それなのに、セリアは最期の瞬間まで、あいつの無事を気にかけていた。
俺は、彼女に嘘をついた。
ユリウスは無事だと。
あのときは、せめて最期くらい、安心してほしかった。
けれど、今、目の前にいるセリアを見ていると、もう隠し続けることはできなかった。
「……逃げたよ」
俺は答えた。
「鉱石を持って、お前を置いてな」
セリアは、静かに目を伏せた。
「……そう」
短く答えたあと、彼女は再び俺を見た。
「やっぱり、そうだったのね」
少しだけ、寂しそうな表情を浮かべる。
「でも、あのときは、もう聞くこともできなかったから」
何も言い返せなかった。
16年前も、今日も。
俺は、彼女を守ろうとして、本当のことを伝えなかった。
「……すまない」
ようやく、それだけを口にした。
セリアは、ゆっくりと首を横に振った。
「謝らないで。あなたが私を安心させようとしてくれたことは、分かっているから」
その言葉に、胸が締めつけられた。
「それでも、最後にあなたの声を聞けてよかった。あのとき、あなたがそう言ってくれたおかげで、私は少しだけ救われたの」
彼女は一度、息を整えた。
「……ねえ、ロイド。私、ユリウスのことを何もかも信じていたわけじゃないの」
思いがけない言葉に、俺は顔を上げた。
「……どういうことだ?」
「一緒にいるうちに、少しずつ違和感を覚えることはあったわ。私のことを気遣ってくれているようで、時々、何か別のものを見ているような気がして……」
セリアは、寂しそうに目を伏せた。
「でも、一緒にいるときは優しかった。私の頑張りを認めてくれたし、疲れているときには、無理をしなくていいって言ってくれた」
彼女は、ゆっくりと続けた。
「あなたと一緒にいた頃、私は、どんなにつらくても弱音を吐かなかった。あなたに追いつきたくて、強くなりたくて……自分がどれだけ頑張っているのか、誰かに分かってほしいなんて、言えなかった」
俺は、何も言えなかった。
セリアは、俺を見つめた。
「ユリウスは、そんな私に気づいて、言葉をかけてくれたの。頑張りすぎなくていい。誰かに頼ったっていいんだって」
彼女は目を伏せた。
「……あなたから、聞きたかった言葉だったのかもしれない」
胸の奥が、痛んだ。
俺は、彼女の強さを信じていた。
彼女なら大丈夫だと思っていた。
けれど、その強さの裏にある気持ちを、俺は聞こうとしなかった。
「ロイドと別れてから、私はずっと、誰にも弱いところを見せないようにしてきた。強くならなきゃって思っていたから」
セリアは、俺を見つめた。
「でも、本当は寂しかったの。誰かに大切にされたいって、思っていたのよ」
俺は、彼女の寂しさを知らなかった。
知ろうともしなかった。
「ユリウスと一緒にいると、少しだけ、その寂しさを忘れられたの」
セリアは、目を伏せた。
「だから、信じたかったのよ。あの優しさが、本当だったらいいなって」
「……そうか」
「もちろん、裏切られたことは悲しいわ。でも、あの人を信じた自分まで、間違いだったとは思いたくないの」
俺は、何も言えなかった。
彼女は、ただ騙されていただけではなかった。
寂しさを抱えながらも、自分なりに幸せを求めていた。
そして、その選択を自分自身のものとして受け止めようとしている。
「……それでも、俺は許せない」
思わず、口にしていた。
「お前を利用して、最後には置いて逃げた。お前がどんな思いで、あいつを信じていたのか……俺には分からない。けど、あいつがしたことは許せない」
拳に力がこもる。
「お前を置き去りにしたことも。最後まで、お前の気持ちを利用したことも……!」
言葉が途切れた。
思い出すだけで、怒りが込み上げてくる。
あのとき、もっと早く追いついていれば。
もっと早く、あいつの企みに気づいていれば。
そんな後悔と怒りが、胸の中で渦巻いていた。
「……ロイド」
セリアに呼ばれ、顔を上げた。
彼女は、じっと俺を見つめていた。
「許せなくてもいいのよ」
「……何?」
「無理に許す必要なんてない。あの人がしたことを、なかったことにする必要もないわ」
セリアは、静かに続けた。
「でも、私のために、あなたまで誰かを失う人にならないで」
その言葉が、胸に深く刺さった。
「……俺は」
「あなたがどうするかは、あなたが決めていいの」
セリアは、まっすぐに俺を見つめた。
「ただ、私のために、あなた自身のこれからまで決めないでほしいの」
俺は、何も言えなかった。
セリアは、そっと俺の手を握った。
「16年前、あなたは私を守るために、私の気持ちを聞かずに去った。今度は、私のために誰かを殺そうとしている」
彼女は、俺の手を握ったまま続けた。
「私のためだと言って、あなた自身のこれからまで決めないで」
俺は、彼女の手を握り返した。
「……俺は、どうすればいい」
「それは、あなたが決めることよ」
セリアは、静かに答えた。
「でも、私のために怒ってくれるのなら……その先の人生まで、私のために使わないで」
彼女は、俺の目を見つめた。
「私がいなくなったあとまで、私のために生きなくていいの。これからは、あなた自身のために生きて」
俺は、目を閉じた。
俺自身のために。
16年前、俺は冒険者を辞めて、静かに暮らしたいと思った。
だが、俺の力を必要とする者たちは、そう簡単に手放してはくれなかった。
冒険者を辞めると告げた途端、国から命を狙われる身となった。
それでも、俺は自分の生き方を変えたかった。
誰かの期待に応え続けるのではなく、自分の望む暮らしを手に入れたかった。
だからこそ、セリアを巻き込みたくなかった。
「……俺は、もう誰かに決められた道を歩くつもりはない」
ゆっくりと目を開けた。
「ユリウスのことは、法に委ねる。あいつがしたことを、なかったことにするつもりはない。だが、俺自身が復讐のために剣を振るうことはしない」
セリアは、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
その顔に、安堵が浮かんだ。
「ありがとう、ロイド」
俺は、彼女をそっと抱きしめた。
「礼を言うのは、俺の方だ」
セリアの身体を抱きしめたまま、俺は静かに告げた。
「……お前に、もう一度会えてよかった」
セリアは、俺の背中に腕を回した。
「私もよ」
♢♢♢♢♢
俺たちは、しばらくそのまま抱き合っていた。
やがて、セリアがゆっくりと俺から身体を離した。
彼女は俺の手をそっと握り直し、少しだけ表情を引き締めた。
「……ロイド。最後に、ひとつお願いがあるの」
「何だ?」
彼女の表情が、少しだけ真剣になる。
「私のジョブとスキルを、あなたに託したいの」
「……何?」
思わず聞き返した。
「私の《剣技師》を……あなたに受け取ってほしい」
「待ってくれ。そんなことができるのか?」
俺は彼女の手を握り返した。
「それに、お前の力を俺が受け取ってしまったら、お前は……」
「大丈夫」
セリアは、穏やかに答えた。
「これは、私が決めたことだから」
彼女は自分の手を見つめた。
「私は剣を振るうことが好きだった。強くなることも、誰かを守るために戦うことも。冒険者として生きてきた時間は、私にとって大切なものよ」
そして、俺を見た。
「でも、もう私は、剣を振るうことはできない」
その言葉が胸に刺さった。
彼女は、もう生きていない。
この世界で剣を握ることも、冒険に出ることも、二度とできないのだ。
「だからこそ、あなたに託したいの」
セリアは、俺の手を強く握った。
「……それに、驚いたわ」
「何がだ?」
「洞窟で、あなたが私の大剣を使ったときよ。まさか、あんなふうに扱えるなんて思わなかった」
セリアは、目を細めた。
「弓を使うあなたしか知らなかったから。剣を振るう姿を見て、驚いたわ」
俺は、あのときのことを思い出した。
彼女の大剣を手に取り、アラクネヴァを斬り伏せた瞬間。
セリアが、驚いた顔で俺を見ていた。
「ああ。お前の戦う姿に惚れていたんだ」
あのとき口にした言葉を、もう一度伝えた。
セリアは目を見開き、しばらく俺を見つめていた。
「……そんなこと、今さら言うの?」
「今さらだから、言うんだ」
俺は、彼女を見つめた。
「お前の剣は、昔から誰よりもまっすぐだった。強くなるために努力して、どんな相手にも立ち向かっていく。俺は、そんなお前をずっと見ていた」
セリアは、しばらく何も言わなかった。
やがて、照れたように視線を落とした。
「……もう。そういうところは、昔と変わらないのね」
その声には、懐かしさがにじんでいた。
「あなたなら、私の力を無駄にしないと思うの」
「……セリア」
「あなたがこれから、どんな道を歩むのかは分からない。どんな敵と戦うことになるのかも、私には分からない」
彼女は、まっすぐに俺を見つめた。
「でも、あなたには生きていてほしい。私のために自分を傷つけたり、復讐に囚われたりしないでほしいの」
「……ああ」
「そして、もし誰かを守るために戦うことがあるのなら……私の力も使って」
セリアの身体から、淡い光が生まれた。
光は彼女の手から俺の手へ、ゆっくりと流れ込んでくる。
その瞬間、胸の奥に熱が走った。
「……っ」
弓を握る感覚とは違う。
剣を構え、刃を振るい、相手の動きを読み切る。
そんな感覚が、記憶ではなく、身体の奥へ直接刻み込まれていくようだった。
けれど、それは俺の力を奪うものではなかった。
弓を扱うために積み重ねてきた技と、セリアが剣とともに歩んできた年月。
その2つが、ひとつに重なろうとしていた。
セリアは、静かに俺の手を離した。
「……これで、私の力はあなたと一緒にいられる」
彼女の姿が、少しずつ淡くなり始めていた。
「……セリア?」
俺は手を伸ばした。
「待ってくれ。まだ、話したいことがある」
「……うん」
「もっと、一緒にいたい」
彼女は涙を浮かべながら、微笑んだ。
「私もよ」
その姿が、さらに薄れていく。
「ロイド。あなたが生きていてくれて、よかった」
彼女の声が、遠くなっていく。
「……ありがとう。私を愛してくれて」
俺は、彼女の手を握ろうとした。
けれど、指先はもう届かなかった。
セリアは最後まで、俺を見つめていた。
「……さようなら、ロイド」
その声を最後に、彼女の姿は光の中へ溶けていった。
そして――。
何も見えなくなった。
♢♢♢♢♢
気がつくと、俺は自宅のベッドのそばに立っていた。
目の前には、静かに横たわるセリアの身体がある。
「……戻ってきたのか」
呟いた声が、部屋の中に小さく響いた。
つい先ほどまで、俺はセリアと話していた。
16年前に伝えられなかった言葉を交わし、ずっと胸の奥にしまい込んでいた想いを伝えた。
カイが何をしたのか、俺には分からない。
ただ、あの世界でセリアと交わした言葉も、彼女の声も、はっきりと覚えている。
夢や幻だったとは、思えなかった。
俺は、ベッドに横たわる彼女を見つめた。
それでも、先ほどまで聞いていた声が、まだ耳に残っていた。
「……ありがとう、セリア」
16年前、俺は彼女を守るために、ひとりで別れを決めた。
そして今日も、彼女の最期に本当のことを伝えられなかった。
ずっと後悔していた。
だが、今は少しだけ違う。
伝えられなかった想いを、ようやく伝えることができた。
セリアが剣に込めてきた想いも、彼女が歩んできた時間も、忘れることはない。
俺は、そっと目を閉じた。
胸の奥に残る悲しみは、消えていない。
それでも、もうただ後悔するだけではなかった。
「……お前が託してくれたもの、大切にするよ」
そう告げて、俺はカイの方へ視線を向けた。
ベッドのそばに座っていたカイも、こちらを振り返る。
「……ロイドさん」
「ああ」
「何があったのか、俺には分かりません。でも……少しは、伝えられましたか?」
俺はカイを見た。
あの不思議な世界で何が起きたのか。どうしてセリアと再び言葉を交わせたのか。
俺にも、すべては分からない。
それでも、答えは決まっていた。
「ああ。伝えられたよ」
カイは小さく頷いた。
「……そうですか」
それ以上、尋ねることはなかった。
その気遣いが、ありがたかった。
「カイ。ありがとう」
「……ロイドさんの力になれたなら、よかったです」
カイはそう答え、セリアへ視線を向けた。
「明日、教会でアステラの礼拝を行います。必要な準備は、俺に任せてください」
「ああ。頼む」
「分かりました。それでは、明日の準備がありますので、今日はこれで失礼します。何かあれば、いつでも声をかけてください」
カイは静かに頭を下げ、部屋を出ていった。
扉が閉まると、部屋には再び静けさが戻った。
俺はベッドのそばへ戻り、彼女の手にそっと触れた。
「……明日、ちゃんと見送るからな」
俺は、セリアの顔を見つめた。
今度こそ、最後までそばにいる。
そう決めて、彼女の手をそっと握り直した。
♢♢♢♢♢
翌日。
教会で、セリアのためのアステラの礼拝が行われた。
参列者は多くなかった。
セリアと親しかった者は、この村にはいない。
それでも、俺の大切な人を失ったことを知り、見送りに来てくれた村人が何人かいた。
ミーナも、その中にいた。
カイの隣に立ち、静かに柩を見つめている。
カイも、弔い屋としてその場に立ち会っていた。
俺は、柩のそばに立っていた。
整えられたセリアの顔は、穏やかだった。
まるで、長い冒険を終え、ようやく休息を得たかのように。
神父の祈りが終わる。
村人たちは、柩に向かって静かに祈りを捧げてくれた。
その気持ちが、ありがたかった。
やがて、村人たちが静かに教会を後にしていった。
最後まで残っていたのは、カイとミーナだった。
カイは柩のそばで足を止めた。
「……セリアさん。どうか、安らかにお休みください」
静かな声だった。
ミーナも、柩に向かってそっと頭を下げた。
俺は、二人に小さく頷いた。
そして、最後に柩の前へ進んだ。
「……セリア」
彼女の顔を見つめながら、俺はそっと頬を撫でた。
「……ゆっくり休んでくれ」
最後にそう告げ、俺は棺から離れた。
もう、振り返らなかった。
礼拝を終え、教会を出たところで、俺は足を止めた。
セリアを見送ることはできた。
だが、まだ終わっていないことがある。
ユリウス。
あいつは、セリアを置き去りにして逃げた。
伝説の鉱石を持ち去り、彼女が命を懸けて戦っている間、自分だけ助かろうとした。
その事実を、なかったことにはできない。
俺は拳を握った。
今すぐにでも、あいつを見つけ出したかった。
だが、ここで怒りに任せて動くつもりはなかった。
セリアは、俺に前を向いて生きてほしいと願っていた。
ならば、怒りに任せてあいつを傷つけるのではなく、犯した罪の責任を取らせる。
あいつには、責任を取らせる。
それだけは、決めていた。
俺は村を離れ、ユリウスの足取りを追い始めた。
♢♢♢♢♢
ユリウスを見つけるまで、そう長くはかからなかった。
冒険者として各地を渡り歩いてきた俺には、逃げた人間がどこへ向かうのか、ある程度の見当がついた。
情報を集めながら足取りを追い、街道から外れた場所で、ようやくあいつの姿を見つけた。
ユリウスは、ひとりだった。
荷物を肩に掛け、周囲を警戒しながら歩いている。
荷物の口から、布で包まれたものが少しだけ覗いていた。
俺は、ユリウスの背後から声をかけた。
「……ユリウス」
声をかけると、ユリウスはびくりと肩を震わせた。
振り返った顔から、血の気が引いていく。
「……ロイド?」
俺は黙って近づいた。
ユリウスは、逃げ道を探すように周囲を見回した。
「な、なんでお前が……」
「聞きたいことがある」
「ま、待て。話せば分かる。あれは、その……仕方がなかったんだ」
「仕方がなかった?」
俺はユリウスを見据えた。
「セリアが必死に戦っている間、お前は鉱石を持って逃げた。違うか?」
ユリウスは言葉に詰まった。
「……僕だって、死にたくなかったんだ!」
やがて、開き直ったように声を荒らげた。
「相手は伝説の魔物だぞ! あんなものに勝てるわけがない! 僕まで死んだら、何の意味もないだろう!」
セリアは、傷つきながらも最後まで剣を振るっていた。
その間、ユリウスは彼女を助けようともしなかった。
「……お前は、最初からセリアを利用するつもりだったのか」
ユリウスは目を逸らした。
「……セリアが強かったからだ。アモルディアを手に入れるには、あいつの力が必要だった」
「アモルディア……」
俺は、ユリウスの肩に掛かった荷物へ目を向けた。
「……その中身が、アモルディアなのか?」
ユリウスは、荷物を抱えるように押さえた。
「……ああ。そうだと思う」
「思う、だと?」
「伝説の鉱石だぞ。実物を見たことがあるわけじゃない。だが、この輝き……これほどの鉱石は、ほかにないはずだ」
ユリウスは、布の隙間から漏れる淡い光に目を奪われていた。
その瞳は、まるで鉱石の輝きに取り憑かれたかのように見開かれている。
「……間違いない。これがアモルディアだ……!」
ユリウスは、うっとりと鉱石を見つめた。口元には、抑えきれない笑みが浮かんでいる。
「これで……これで、僕は……!」
伝説の鉱石アモルディア。
俺も実物を見たことはない。
ユリウスも確かな根拠があって言い切っているわけではないのだろう。
それでも、こいつは手に入れた鉱石を失うまいと、必死に抱え込んでいる。
セリアが命を懸けて戦っていたというのに。
彼女が死んだことも知らず、今も鉱石の価値に執着している。
……こいつは、壊れている
そう思うと、胸の奥に冷たいものが広がった。
セリアに愛を囁き、結婚をほのめかし、彼女のために鉱石を手に入れたいと語っていた男。
その言葉は、すべて目的を果たすための嘘だった。
セリアは、そんなユリウスを信じていた。彼と一緒に未来を歩んでいけると願っていたのだ。
その想いを利用し、命懸けで戦う彼女を置き去りにしてまで、手に入れようとしたもの。
「……こんな石のために」
気づけば、声が漏れていた。
「……何?」
「こんな石のために、セリアは命を懸けたのか!!」
ユリウスは、荷物を抱え直した。
「ち、違う! 僕は、そこまで……!」
「もういい」
俺は一歩、近づいた。
「セリアは、お前を信じていた。最後まで、お前の無事を気にかけていたんだ」
ユリウスの顔が、わずかに歪んだ。
「……それは、あいつが勝手に……」
「黙れ……」
ユリウスは口を閉じた。
だが、すぐに顔を引きつらせ、叫んだ。
「……うるさい! お前に何が分かる!」
次の瞬間、ユリウスは荷物を地面に放り出し、腰の剣を抜いた。
「近づくな!」
刃先が俺へ向けられる。
その手は震えていた。
「僕は、ここまで来たんだ! アモルディアを手に入れたんだぞ! この石の価値を分かっているのか!? 滅多に市場に出回らず、魔道具の素材としても最高級の鉱石なんだ! これひとつで、どれだけの財産が手に入ると思っているんだ!」
ユリウスは、自分の正しさを訴えるように声を張り上げた。
「これさえあれば、僕は……!」
「……それが、セリアの命に見合うとでも思っているのか?」
「うるさい!」
ユリウスが斬りかかってきた。
俺は動かなかった。
ただ、意識を向ける。
その瞬間、ユリウスの動きが止まった。
剣は俺に届く寸前で静止し、ユリウスの腕が震え始める。
「……な、何だ……?」
ユリウスは動けなかった。
やがて、剣を握る指から力が抜け、ガシャン、と剣が地面に落ちた。
「ひっ……!」
ユリウスは尻もちをつき、這うように後ずさった。
俺は、ただユリウスを見下ろしていた。
「……な、なんなんだ、お前……」
声が震えていた。
先ほどまでの威勢は、もうどこにもない。
「……頼む。待ってくれ」
ユリウスは地面に手をついた。
「悪かった。あれは、仕方がなかったんだ。僕だって、死にたくなかった。そうだろう? 誰だって、自分の命が大事じゃないか!」
俺は、ユリウスを見下ろしたまま答えた。
「……セリアは死んだ」
俺は、ユリウスを見据えた。
「俺が助けた時、セリアはすでに毒に侵されていた。解毒薬も試したが、手遅れだった」
「……え?」
ユリウスの顔から、血の気が引いていく。
「セリアは、毒に苦しみながらも最後までお前のことを気にかけていた」
俺は、奥歯を噛みしめた。
「最期に、お前は無事なのかと尋ねてきた。だから俺は、お前は無事だと伝えた」
「……そんな……」
ユリウスは、呆然と俺を見つめていた。
「お前が逃げたことも知らず、セリアは最後までお前の身を案じていたんだ!」
「それなのに、お前は……」
俺は込み上げる怒りを押し殺し、ゆっくりと拳を開いた。
地面に落ちた荷物へ目を向ける。
「もういい。言い訳はギルドで聞いてもらう」
「ギルド……?」
「お前がしたことを、なかったことにはさせない。アモルディアも返してもらう」
ユリウスは、地面に落ちた荷物へ手を伸ばそうとした。
「触るな」
低く告げると、ユリウスはびくりと身をすくめた。
俺は荷物を拾い上げ、布越しに鉱石を確かめた。
淡い光は、何事もなかったかのように輝いている。
この石に罪はない。
だが、その価値を理由に、セリアの命まで踏みにじった男を見逃すつもりもなかった。
俺はユリウスの腕を掴み、立たせた。
「歩け」
「……どこへ?」
「冒険者ギルドだ」
ユリウスは、もう何も言わなかった。
さっきまで剣を振り回していた男が、今は抵抗することもできず、俺に腕を掴まれている。
それでも、怒りが消えたわけではなかった。
こいつを許すつもりはない。
だが、セリアの言葉が胸の奥によみがえった。
――私のために、あなたまで誰かを失う人にならないで
俺が復讐のためにユリウスを殺せば、今度は誰かがユリウスを失うことになる。
セリアを失った悲しみを、別の誰かにも味わわせることになるかもしれない。
それでも、こいつの罪を見逃すつもりはなかった。
俺自身が復讐のために剣を振るうことはしない。
ユリウスの罪は、法に裁いてもらう。
俺はユリウスを連れ、街道を歩き始めた。
♢♢♢♢♢
近くの冒険者ギルドへ向かい、俺はユリウスの身柄を引き渡して事情を説明した。
俺が知っている事実を伝え、必要な証言をした。
ギルドは事態を重く受け止め、ユリウスを当局へ引き渡すことになった。
アモルディアも、証拠としてギルドに預けた。
ユリウスは最後まで自分の行動を正当化しようとしていたが、俺はもう、この男の言葉に耳を貸すつもりはなかった。
これから先、ユリウスがどう裁かれるのか。
どのような罰を受けるのか。
それを決めるのは、俺ではない。
法に委ねる。
それが、俺の選んだ決着だった。
ギルドを出ると、空は夕暮れに染まり始めていた。
俺は足を止め、茜色の空を見上げた。
セリアが残してくれたものは、確かに俺の中にある。
剣に込めた想い。
最後まで譲らなかった強さ。
そして、俺に託してくれた願い。
……セリア
もう、ただ後悔に囚われているだけではない。
これからは、彼女が歩んできた道を胸に刻み、託されたものを大切にしながら生きていこう。
いつか、自分の歩んできた道を振り返ったとき、彼女から託された想いに応えられたと、胸を張って言えるように。
俺は夕暮れの空から目を離し、静かに歩き出した。
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