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08 失われざるもの 中編

翌朝。


俺はいつものように、村の周辺を見回っていた。


朝露の残る草を踏みながら、森の入口へ向かう。


鳥の声が聞こえ、木々の間から差し込む光が地面を照らしていた。


いつもと変わらない朝だ。


そう思っていたのだが、村の入口に近づいたところで、見慣れた二人の姿が目に入った。


「……セリア?」


声をかけると、セリアが振り返った。


「ロイド!」


以前と変わらない笑顔だった。


その隣には、ユリウスが立っている。


「おはようございます、ロイドさん」


ユリウスは丁寧に頭を下げた。


「ああ。おはよう」


俺も軽く返す。


二人とも、昨日より荷物が増えていた。


セリアの背中には大きな鞄があり、ユリウスも腰に道具袋を下げている。


「今日は出かけるのか?」


「ええ。ちょっと森の方へね」


セリアが答えた。


「森?」


「ええ。実は、探しているものがあるんです」


ユリウスが代わりに説明した。


「この森の奥に、伝説の鉱石が眠る洞窟があるという話を聞きまして」


「伝説の鉱石……?」


「ええ。アモルディアという鉱石です。魔力を蓄え、それを淡い光へ変換する性質があるそうです。魔道具の素材としても価値が高いらしいですよ」


ユリウスはそう言って、セリアへ視線を向けた。


「いつか、セリアさんに贈りたいと思っていたんです。せっかくなら、自分で手に入れたものを指輪にしたいですから」


「もう、そんなこと言って……」


セリアは少し照れたように微笑んだ。


「本当のことですよ」


ユリウスは穏やかに答えた。


二人の様子を見ながら、俺は少し考えた。


 ……伝説の鉱石、アモルディアか


そんな話は聞いたことがない。


森には魔物がいる。


奥へ進めば進むほど、危険も増していく。


普段、村人が入るのは、せいぜい薪や薬草を採る程度の場所までだ。


「……その洞窟がどこにあるのか、分かっているのか?」


俺が尋ねると、ユリウスは頷いた。


「詳しい場所までは分かりません。ただ、森の奥にあるという情報は得ています」


「情報、ね……」


「はい。いくつかの話を集めて、場所を絞り込んでいくつもりです」


ユリウスは落ち着いた口調で答えた。


話し方に不自然なところはない。


だが、俺には気になることがあった。


この森の奥には、地元の人間でも近づかない場所がある。


危険な魔物が出るだけではない。


道が入り組み、方向を見失いやすい場所もあるのだ。


「森の奥は危険だぞ」


俺は二人を見た。


「特に、東側の深いところには大型の魔物が出る。道も分かりにくい。地図だけを頼りに進むのはやめた方がいい」


「ありがとうございます。気をつけます」


ユリウスが頭を下げた。


「セリアもいるんだ。危険な場所くらい、分かっているだろうが……」


「あら、ロイド。私を誰だと思っているの?」


セリアが笑った。


「Sランク冒険者よ。そう簡単にやられたりしないわ」


「……そうだったな」


俺は苦笑した。


確かに、セリアは強い。


俺が教えた頃から努力を続け、今では俺の知る限りでも、相当な実力を持つ冒険者になっている。


それでも、森の危険は腕前だけでどうにかなるものではない。


「強いのは知っている。だが、油断はするなよ」


「分かってるわ」


セリアは、少しだけ表情を和らげた。


「心配してくれてありがとう」


その言葉に、俺は一瞬、返事に詰まった。


昔も、こんなふうに笑っていた。


俺が無茶をすれば、セリアは怒った。


逆に、彼女が危険なことをしようとすれば、俺が止めた。


あの頃は、それが当たり前だった。


今は違う。


俺が何を言っても、最後に決めるのはセリア自身だ。


「……無事に帰ってこいよ」


俺は、それだけ言った。


セリアは一瞬だけ俺を見つめ、それから頷いた。


「ええ。帰ってくるわ」


ユリウスも穏やかに続けた。


「ご心配なく。彼女は僕が守りますから」


その言葉を聞いて、胸の奥がわずかにざわついた。


守る、か……ずいぶん簡単に言うものだ……


セリアがどれほど強いのか、俺は知っている。


同時に、どれほど無理をする人間なのかも知っていた。


けれど、今の俺には何も言えない。


「……そうか」


俺は短く答えた。


二人は森へ向かって歩き始めた。


セリアが一度だけ振り返る。


「ロイド、また帰ってきたら話そうね」


「ああ」


俺は手を上げた。


二人の姿が木々の向こうへ消えていく。


俺はしばらく、その場に立っていた。


伝説の鉱石、アモルディア。


森の奥の洞窟。


そして、結婚指輪。


セリアが幸せそうに笑っていたことが、頭から離れなかった。


「……余計な心配か」


自分に言い聞かせるように呟く。


俺は村の方へ戻ろうとした。


だが、数歩進んだところで足を止めた。


森の奥から、わずかに魔物の気配がした。


いつもなら気に留めるほどでもない、遠い気配だ。


それでも、今朝はなぜか気になった。


 ……様子だけ見ておくか


二人を追いかけるつもりはない。


ただ、森の入口付近を確認するだけだ。


そう自分に言い聞かせ、俺は木々の間へ足を踏み入れた。


 ♢♢♢♢♢


森の中へ入ると、村の音はすぐに遠ざかった。


木々の間を風が抜け、葉が擦れ合う音が聞こえる。


地面には昨日までの雨で湿った土が残り、ところどころに獣の足跡がついていた。


俺はセリアたちの気配を追いながら、周囲の様子を探っていた。


二人の位置は分かっている。


彼女の気配は、昔からよく知っているものだ。


ユリウスの気配も、その隣に並んでいる。


それとは別に、森にいる魔物の位置や数も把握できていた。


少し離れた場所に、小型の魔物が数匹。


さらに奥には、大型の魔物が1体いる。


今のところ、どれもセリアたちに気づいてはいない。


 ……この辺りは、まだ大丈夫か


セリアはSランク冒険者だ。


普通の魔物が相手なら、そう簡単に遅れを取ることはない。


それでも、森の奥には厄介な魔物がいる。


腕が立つからといって、何もかも安全というわけではない。


俺は少し距離を取りながら、二人の後を追った。


もちろん、セリア達に見つからないよう気配は殺している。


元恋人をこっそり追いかけているのだから、褒められた行動ではない。


だが、何かあってからでは遅い。


 ……様子を見るだけだ


そう自分に言い聞かせた。


しばらく進むと、セリアたちが足を止めた。


「……この辺りで合っているのかな?」


彼女の声が聞こえた。


「聞いていた場所から、大きくは外れていないはずです」


ユリウスが答える。


「もう少し東へ進んでみましょう。洞窟があるとすれば、そちらの方だと思います」


「そうね。分かったわ」


セリアが地図をたたむ。


その様子を、俺は木の陰から見ていた。


ユリウスは、アモルディアを結婚指輪にすると彼女に話している。


 ……結婚指輪か


俺は視線を落とした。


セリアが誰と結婚しようと、それは彼女が決めることだ。


俺には、もう口を出す権利はない。


それでも、気になるものは気になる。


「……余計なことを考えるな」


小さく呟き、俺は意識を切り替えた。


今は、森の様子を確かめることが先だ。


俺は気配感知を広げた。


セリアたちの周囲には、小型の魔物が数匹いる。


だが、まだ距離がある。


こちらへ向かってくる様子もない。


問題は、そのさらに奥だ。


大型の魔物が1体。


こちらの気配に反応したのか、ゆっくりと動き始めていた。


 ……そっちへ行くか


魔物の進路を読む。


このまま進めば、セリアたちの前方へ出る可能性がある。


俺は少しだけ距離を詰めた。


すぐに助けに入れる位置だ。


だが、まだ手を出す必要はない。


セリアなら、気づけるはずだ。


そのとき、セリアが突然足を止めた。


「……待って」


低い声だった。


ユリウスが振り返る。


「どうしました?」


彼女はすぐには答えず、周囲を見回した。


風に揺れる木々。


湿った土の匂い。


遠くから聞こえる鳥の声。


一見、何も変わったところはない。


それでも、セリアは剣の柄に手をかけた。


「……何かいるわ」


「魔物ですか?」


「ええ。こっちへ近づいている」


俺は、思わず目を細めた。


やはり気づいたか。


俺の感知には、すでに大型の魔物の気配がはっきりと捉えられている。


だが、セリアも自分の感覚で接近を察知したらしい。


ユリウスは彼女のそばから一歩下がった。


「分かりました。僕は少し下がっています」


「お願い」


セリアは大剣を抜いた。


その構えに迷いはない。


やがて、茂みの奥から大型の魔物が姿を現した。


体高は人間の倍近くあり、全身を覆う縞模様の毛並みと、鋭い爪や牙が目を引く。


グルガルだ!


魔物はセリアを見据え、低く唸った。


彼女が一歩前へ出る。


次の瞬間、グルガルが地面を蹴り、セリアに飛びかかった。


セリアは正面から受け止めず、横へ踏み込んで攻撃をかわす。


大剣を振り抜き、魔物の前脚へ深い傷をつけた。


グルガルが体勢を崩す。


その隙を逃さず、セリアは距離を詰めた。


次の一撃で、グルガルは地面に倒れた。


「……ふう」


セリアが剣を下ろす。


「大丈夫ですか、セリアさん?」


ユリウスが駆け寄った。


「ええ。問題ないわ」


「さすがですね。あの魔物を相手に、あんなに落ち着いて戦えるなんて」


ユリウスは感心した様子で彼女を見た。


「大げさよ。これくらいなら、何度も経験しているもの」


セリアは少し照れたように答えた。


「でも、ありがとう。心配してくれて」


「当然ですよ。あなたに何かあったら、僕は……」


ユリウスは、そこで言葉を切った。


少しだけ目を伏せてから、セリアを見る。


「……いえ。今は、先へ進みましょう」


彼女は、その言葉に小さく頷いた。


「そうね。日が暮れる前に、もう少し調べたいわ」


二人は再び歩き始めた。


俺は木の陰から、その後ろ姿を見ていた。


セリアの剣技は、昔と変わらず見事だった。


むしろ、昔よりも洗練されているように感じた。


魔物の接近を自分で察知し、相手の動きを見極め、無駄なく倒す。


さすがは現役のSランク冒険者だ。


ユリウスも、彼女の実力を信頼しているようだった。


俺は倒れた魔物を確認した。


まだ息は残っていたが、じきに動かなくなるだろう。


村の方へ向かわないことを確かめてから、俺は再び二人の後を追った。


 ♢♢♢♢♢

 

さらに進むと、木々の間から岩肌が見えてきた。


その先には、斜面に開いた暗い穴がある。


洞窟だ。


セリアが地図を取り出し、入口を見つめた。


「……ここかしら」


ユリウスも、洞窟を見上げた。


「おそらく。アモルディアがあるという場所は、この辺りのはずです」


セリアは、洞窟の奥を見つめた。


「……本当にあるのかな」


「見つけてみないと分かりませんね」


ユリウスは穏やかに答えた。


「でも、もし見つかったら……」


セリアが少し声を弾ませる。


「結婚指輪、作ってくれるんでしょう?」


「もちろんです」


ユリウスは、まっすぐにセリアを見た。


「あなたに贈るものですから。自分の手で手に入れたいんです」


セリアは頬をわずかに赤らめた。


「……楽しみにしてるわ」


その表情を見て、俺は目を伏せた。


 ……結婚指輪……か


俺は、セリアにそんな約束をしてやれなかった。


16年前、彼女を守ることばかり考えて、何も告げずに別れを選んだ。


あのとき、もし違う選択をしていたら。


そんな考えが、今さらになって頭をよぎる。


セリアが幸せそうに笑っている。


それは喜ぶべきことのはずだった。


それなのに、胸の奥がわずかに痛んだ。


 ……本当に、勝手な男だな


彼女を手放したのは、俺自身なのに。


俺は小さく息を吐き、洞窟の入口へ意識を向けた。


そのときだった。


 ……何か、違和感がある


洞窟の奥には、魔物がいてもおかしくない。


この森の深さなら、何かしらの気配があっても不思議ではない。


だが、何も感じられなかった。


俺は意識を広げ、周囲を探る。


二人の気配。


森にいる他の魔物たち。


どれも、いつもどおりに感じ取れる。


それなのに、洞窟の奥だけが妙に静かだった。


 ……おかしいな。


魔物がいないのか?


それとも、何かがいるのに気づけないのか。


今の段階では、判断できない。


俺は洞窟の入口を見つめた。


森の奥にある洞窟。


伝説の鉱石。


そして、気配が感じられない場所。


偶然にしては、気になることが重なりすぎている。


思わず、セリアの名前を呼びそうになり、口を閉じた。


気配を殺すスキルを解除すれば、二人に俺の存在を気づかれる。


今は、まだ姿を現すべきではない。


セリアに心配していることを知られたくないわけではない。


ただ、今の俺は、彼女の隣に立つ立場ではない。


俺は、もう一度だけ洞窟の奥へ意識を向けた。


やはり、何も感じない。


それが、かえって不気味だった。


 ……気をつけろよ


心の中でそう思い、俺はセリアたちの後ろ姿を見送った。


あの中に何がいるのか。


なぜ、気配が感じられないのか。


まだ、何も分からない。


だが――。


この森には、俺の知らない何かがいる。


そのことだけは、はっきりしていた。


 ♢♢♢♢♢


洞窟の入口を見つめたまま、俺はしばらく動けずにいた。


セリアとユリウスは、すでに中へ入っている。


二人の気配は、まだ感じ取れる。


意識を集中すると、洞窟の入口から少し進んだところに、セリアが先を歩き、ユリウスがその後ろについているのが分かった。


俺は意識を広げ、周囲の様子を確かめた。


近くにいる小型の魔物は、さっきと変わらない位置にいる。


ほかにも数体、森の奥を動き回っているが、今すぐこちらへ近づいてくる気配はない。


問題は、洞窟の中だった。


セリアたちの気配は分かる。


だが、その周囲に何がいるのか、はっきりとつかめない。


普通なら、洞窟の中にいる魔物の気配も、ある程度は感じ取れるはずだ。


それなのに、奥へ意識を向けても、何も返ってこない。


「……気のせいじゃないな」


俺は小さく呟いた。


魔物がいないだけなら、それでいい。


だが、何かがいるのに気づけないのだとしたら、話は別だ。


俺は弓を背負い直し、洞窟へ向かった。


セリアたちに気づかれないよう、気配を殺しながら進む。


入口をくぐった瞬間、外の風の音が遠ざかった。


薄暗い洞窟の中には、湿った岩の匂いが漂っている。


天井から落ちる水滴の音が、一定の間隔で響いていた。


俺は壁に手を触れながら、慎重に進んだ。


少し先に、セリアの気配がある。


その隣に、ユリウス。


二人とも、今のところは無事らしい。


 ……もう少し先だな


俺は距離を保ったまま、奥へ進んだ。


 ♢♢♢♢♢


「思ったより、広いわね」


セリアの声が聞こえた。


「ええ。これなら、奥に別の空間があっても不思議ではありません」


ユリウスが答える。


「アモルディアがあるのも、この先かしら」


「可能性は高いと思います。ただ、足元には気をつけてください」


「ええ、気をつけるわ」


セリアは足を止め、周囲を見回した。


俺は少し離れた場所から、その様子を見ていた。


彼女は慎重だった。


不用意に奥へ踏み込まず、足場や天井の状態を確かめている。


さっきの魔物との戦いでもそうだったが、状況を見極めてから動く判断力は、昔よりも磨かれているように感じた。


 ……さすがだな


そう思った直後、ユリウスがセリアの肩へ手を伸ばした。


「セリアさん、そちらは足場が悪いです。こちらへ」


「あ、ありがとう」


ユリウスは自然な動きで、彼女を自分の側へ寄せた。


「無理はしないでくださいね。あなたに何かあったら、僕は……」


そこで、言葉を止める。


「……いえ。今は鉱石を探すことに集中しましょう」


セリアは少し頬を赤らめて頷いた。


「そうね」


俺は、目を細めた。


 ……ずいぶん、気が利く男だ


セリアが危険な場所へ足を踏み入れないようにしているのは、確かに分かる。


ああして大切にされれば、彼女が心を許すのも無理はない。


 ……少し、妬けるな。


けれど、セリアがあんなふうに笑っていられるのなら、それは悪いことではない。


今の彼女が幸せなら、俺が口を挟むことでもないだろう。


俺は二人から視線を外し、周囲へ意識を戻した。


洞窟の奥には、まだ何かがある。


そう感じるのに、気配はない。


その矛盾が、どうしても気になっていた。


さらに進むと、通路が二手に分かれていた。


左は狭く、岩が張り出している。


右は少し広く、奥へ続いているようだった。


セリアは地図を取り出し、しばらく見比べていた。


「……地図だと、この先に空間があるはずなんだけど」


ユリウスが尋ねる。


「右の通路でしょうか」


「たぶんね。ただ、地図が正確とは限らないわ」


セリアは地図をしまい、右の通路へ目を向けた。


「まずは、こっちを調べてみましょう」


二人が歩き出す。


俺も、その後を追った。


右の通路は、進むにつれて少しずつ広くなっていった。


やがて、天井が高くなり、壁の一部が大きく開けた場所へ出る。


広い空間だった。


地面には大小の岩が転がり、壁際には、何かが引きずられたような跡が残っている。


セリアが足を止めた。


「……ここ、何かあるわね」


ユリウスも周囲を見回した。


「ええ。誰かが通った跡でしょうか」


「人か、魔物か……」


セリアはしゃがみ込み、地面に残った跡を確かめた。


俺も、少し離れた場所から周囲を探る。


やはり、何も感じない。


いや、正確には違う。


セリアとユリウスの気配は分かる。


洞窟の外にいる魔物の位置も、まだ把握できている。


それなのに、この空間だけが、妙に空白になっていた。


まるで、そこだけが世界から切り離されているようだった。


 ……何なんだ、ここは……


そのとき、セリアが立ち上がった。


「ユリウス、少し下がって」


「どうしました?」


「分からない。でも……何か変よ」


セリアは剣の柄に手をかけ、周囲を見回した。


俺も弓へ手を伸ばす。


何かがいる。


そう考えるのが自然だった。


だが、感知できない。


姿も見えない。


音も聞こえない。


セリアも、まだ何かを見つけたわけではないようだった。


ただ、経験からくる違和感を覚えている。


 ……気をつけろよ


胸の内でそう思い、俺は二人の後を追った。


 ♢♢♢♢♢

 

俺は物陰に身を潜めたまま、セリアたちの様子をうかがっていた。


二人は警戒を解かず、周囲を注意深く見回している。


だが、何も起きない。


気配もなければ、物音もしない。


それでも、俺は弓から手を離さなかった。


やがて、ユリウスが洞窟の奥へ視線を向けた。


「……まだ、奥に何かあるかもしれません」


「そうね。でも、これ以上進むのは危険かもしれないわ」


セリアが慎重に答えると、ユリウスは首を横に振った。


「ここまで来たんです。何も見つけられないまま帰るわけにはいきません」


「ユリウス……」


「大丈夫です。もう少しだけ調べましょう。伝説の鉱石アモルディアが見つかるかもしれません」


ユリウスは諦めきれない様子で、再び洞窟の奥へ目を向けた。


セリアは小さく息をついた。


「……分かったわ。でも、少しでも危険を感じたら、すぐに引き返すわよ」


「ええ、もちろんです」


ユリウスはそう答えると、セリアを促すように歩き始めた。


その姿を見て、俺はユリウスの様子が気になった。


伝説の鉱石の話になると、どうしても手に入れたいという思いが、言葉の端々から伝わってくる。


セリアの身を危険にさらしてまで、鉱石を探し続けたいのだろうか。


……何か、妙だな。


俺はユリウスの背中を見つめた。


だが、今はまだ、何が引っかかるのかをうまく言葉にできなかった。


俺は警戒を怠らず、二人の後を追った。


そのときだった。


遠くから、かすかな音が聞こえた。


――カツン。


石が何かに当たったような音。


俺は顔を上げた。


セリアたちも、同時に振り返っている。


「……今の音?」


セリアが呟いた。


「ええ。奥からでしょうか」


ユリウスが答える。


二人は、通路のさらに奥へ目を向けた。


俺も同じ方向を見た。


だが、何も見えない。


音がした場所も、特定できない。


ただ、空気が静かだった。


静かすぎるほどに。


俺は弓を握り直した。


この洞窟には、何かがいる。


だが、俺の感知スキルは何も告げない。


それが、何よりも不気味だった。


 ……無茶だけはするなよ


心の中でそう思った。


セリアは一度だけ深く息を吸い、剣を構え直した。


「行きましょう」


ユリウスが頷く。


「はい」


二人は、洞窟の奥へ進んでいった。


俺は距離を保ちながら、その後を追った。


まだ、何も分からない。


この洞窟に何がいるのか。


なぜ、気配が感じられないのか。


そして――。


この先にある伝説の鉱石が、どれほど危険な場所に眠っているのか。


俺は、答えを探すように暗闇を見つめた。


 ♢♢♢♢♢


洞窟の奥へ進むにつれて、天井から伸びる白い糸が増えていった。


俺は足を止め、頭上を見上げた。


岩から岩へ、細い糸がいくつも張られている。


最初は、ただの蜘蛛の巣かと思った。


だが、違う。


糸は天井の奥まで続いていた。


しかも、一本や二本ではない。


複雑に絡み合い、洞窟の暗がりへ消えている。


「……蜘蛛か?」


そう呟いた直後。


ギチッ!!


乾いた音が、頭上から響いた。


セリアたちが同時に振り返る。


「今の音……」


セリアが大剣を構えた。


ユリウスも武器を構える。


俺は弓に手をかけた。


そして、暗闇の奥で何かが動いた。


最初に見えたのは、長い脚だった。


一本。


さらにもう一本。


岩壁に張りついたそれが、ゆっくりと動いていく。


やがて、暗闇の中から巨大な蜘蛛が姿を現した。


人間の身体を軽く超える胴体。


長く伸びた脚。


硬い外殻に覆われた身体。


そして、こちらを見下ろす複数の目。


俺は、その姿を目にした瞬間、息を呑んだ。


 ――あいつは――!


深淵蜘蛛アラクネヴァ!!


特S級ネームドモンスター。


これまで討伐された記録のない、規格外の存在だ。


なぜ、こんな場所に……!


冒険者をしていた頃、俺もその名を何度か耳にしたことがある。


目撃情報は極端に少ない。


生息地も、詳しい生態も、ほとんど分かっていない。


そして、アラクネヴァについて知られている情報の中でも、特に厄介なのが固有スキルだ。


――《気配断絶》――


自らの存在を完全に隠し、感知能力に優れた者でさえ、その位置を察知できなくする能力だ。


 ……なるほどな


だから、何も感じなかったのか。


目の前にいる。


確かに、そこにいる。


それなのに、俺の感知スキルは沈黙したままだった。


未討伐の特S級ネームドモンスター。


ただ強いだけの魔物ではない。


こちらが存在に気づく前に、襲いかかる機会さえ与えない相手だ。


今、目の前で戦っているセリアも、相手の正体までは分かっていないはずだ。


だが、そんなことを考えている余裕はなかった。


セリアの動きは、明らかに鈍くなっていた。


何度も攻撃を受け、剣を振るうたびに身体が揺れている。


それでも、彼女は戦い続けていた。


 ……くそっ!!


俺は歯を食いしばった。


今すぐ飛び出したい。


だが、蜘蛛の動きが読めない。


下手に近づけば、セリアを巻き込む危険がある。


もう少しだけ、様子を見る。


そう考えた、そのときだった。


蜘蛛の攻撃を避けたユリウスが、洞窟の壁へ目を向けた。


岩肌の一角に、淡い光を放つ鉱石が露出していた。


ユリウスの目が、その鉱石に釘付けになる。


 ……何だ、あれは


ただの鉱石ではない。


そう思わせる何かがあった。


ユリウスはセリアの方を一瞬だけ見た。


彼女は蜘蛛に意識を向けていて、こちらの様子には気づいていない。


その隙に、ユリウスは岩壁へ駆け寄った。


岩肌に露出した鉱石へ手を伸ばし、持っていた道具で周囲の岩を手早く砕いていく。


やがて鉱石が外れると、ユリウスはそれを手に取り、迷うことなく踵を返した。


 ……何をしているんだ、あいつは!!


ユリウスは、セリアを助けようともしなかった。


声をかけることも、振り返ることもない。


ただ、鉱石を抱えて、来た道を必死に走っていく。


 ……あいつ!!


追いかけたい気持ちが、一瞬だけ頭をよぎった。


だが、その直後、蜘蛛の巨大な脚がセリアへ向かって振り下ろされた。


――今は、こっちが先だ!


俺は岩陰から飛び出した。


一気に距離を詰め、弓を構える。


蜘蛛の脚が、セリアに届く寸前だった。


「――そこだ!」


放った矢が、蜘蛛の脚の関節に突き刺さった。


衝撃で脚が弾かれ、蜘蛛の巨体が大きく傾く。


「ギィィィィッ!」


耳障りな叫び声が洞窟に響いた。


その隙に、俺はセリアのもとへ駆け込んだ。


「セリア!!」


彼女は膝をついたまま、かすかに顔を上げた。


「……ユリウス?」


セリアの視線が、俺の背後へ向けられる。


「……どこに……?」


言いかけた声が途切れた。


俺は答えられなかった。


そのとき、蜘蛛が体勢を立て直そうと、複数の脚を動かしていた。


俺は床に落ちていたセリアの大剣を拾い上げる。


両手で柄を握りしめた。


蜘蛛がこちらへ向き直る。


「……終わりだ」


俺は大剣を握り直し、蜘蛛との間合いを一気に詰めた。


巨体が反応するよりも早く、刃を振り上げる。


次の瞬間、渾身の一撃が蜘蛛の胴体を捉えた。


硬い外殻が砕け散り、刃はそのまま巨体を断ち割る。


蜘蛛は耳障りな悲鳴を上げる間もなく、大きく痙攣し、地響きとともに崩れ落ちた。


砕けた岩片と砂埃が舞い上がり、洞窟の奥まで轟音が響き渡る。


やがて、砂埃がゆっくりと晴れていった。


俺は大剣を下ろし、動かなくなった蜘蛛を見据えた。


もう、動く気配はない。


そう確認してから、すぐにセリアへ目を向けた。


 ♢♢♢♢♢


「セリア!」


彼女は膝をついたまま、かすかに顔を上げた。


「……ロイド?」


「ああ。もう大丈夫だ」


俺はセリアのそばに膝をつき、怪我の具合を確かめようとした。


そのとき、彼女の視線が俺の手元へ向いた。


「……その剣」


俺は、自分が握っている大剣を見下ろした。


「……ああ。お前の剣を借りた」


「ふふっ……。あなた、いつの間に大剣を使えるようになったの?」


かすかな笑みが浮かんだ。


「昔、一度だけ振ってみたことがあったわよね。全然扱えてなかったのに」


「あの頃は、重すぎてまともに振れなかったからな」


「そうそう。見ていて、少し面白かったわ」


「おい」


俺は苦笑した。


「あのあと、少し練習したんだよ」


「……私の影響?」


「ああ。お前の戦う姿に惚れていたんだ」


セリアは目を見開いた。


それから、困ったように笑った。


「……今さら、そんなことを言うのね」


「今さらだからな」


「……ふふっ」


彼女は笑った。


けれど、その笑顔はすぐに弱々しいものへ変わった。


呼吸は浅く、顔色も悪い。


よく見ると、腕に小さな傷があった。


周囲の皮膚が、わずかに紫色へ変わっている。


「……セリア、この傷は……?」


俺は傷口を見つめた。


ただの傷ではない。


まさか、毒か……?


「もう喋るな。すぐに手当てをする」


俺は彼女の身体を支え、傷口を確かめようとした。


「……無理よ」


「無理なものか! 俺が何とかする。だから、諦めるな!」


「ロイド……」


セリアは俺の腕に身を預けた。


俺は急いで道具袋を探り、解毒薬を取り出した。


「これを飲め。頼む、効いてくれ……!」


セリアに解毒薬を飲ませ、俺は彼女の顔色をうかがった。


だが、紫色に変わった皮膚は元に戻らない。


呼吸も、少しずつ弱くなっていく。


「……なんでだよ。どうして効かないんだ……!」


俺は、もう一本の解毒薬を取り出した。


しかし、何も変わらなかった。


「くそっ! 頼むから、効いてくれよ……!」


何度願っても、セリアの顔色は悪くなるばかりだった。


俺は彼女の手を握り、何とか意識を保たせようと声をかけた。


「セリア、しっかりしろ。俺がついているからな」


セリアは、かすかに俺の手を握り返した。


「……もう、いいわ。ありがとう、ロイド」


「何を言ってるんだ! まだ諦めるな!」


セリアは、ゆっくりと俺を見上げた。


「……ロイド」


「なんだ? どうした?」


「……ユリウスは?」


胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。


ユリウスは逃げた。


セリアを置き去りにして、鉱石を持って。


その事実を、俺は知っている。


だが、今の彼女に、それを伝えることはできなかった。


「……ああ。少し離れたところで、気を失っている」


俺は、彼女の手を握ったまま答えた。


「命に別状はない。心配するな」


嘘だ。


だが、今は彼女を安心させたかった。


セリアは、小さく息を吐いた。


「……そう。よかった……」


彼女は、かすかに微笑んだ。


「……あの人が無事なら、それでいいわ」


俺は何も答えられなかった。


彼女の目が、ゆっくりと閉じていく。


「……セリア?」


「おい、セリア!!」


俺は彼女の肩に手を添えた。


「目を開けろ。まだ、手当てが終わってないだろ!!」


「……おい。寝るなよ!!」


俺は、セリアの手を握り直した。


「まだ……話があるだろ……」


自分でも、何を言っているのか分からなかった。


ただ、言葉を止めてしまえば、本当にすべてが終わってしまう気がした。


セリアの手を額に押し当てた。


「……なあ……セリア……」


続きが出てこない。


ずっと伝えられなかったことがある。


もう一度会えたら、今度こそ伝えようと思っていた。


なのに、ようやく再会できた彼女に、何一つ伝えられないまま、失ってしまった。


「……頼むから……」


セリアの手を両手で包み込んだ。


「……目を開けてくれ……」


ついさっきまで、彼女は笑っていた。


大剣の話をして、昔のことを思い出して、少しだけ笑ってくれた。


あの笑顔を、もう一度見たい。


あの声を、もう一度聞きたい。


たったそれだけの願いさえ、もう叶わない。


「……嘘だろ……」


俺は首を横に振った。


「こんなの……嘘だろ……」


何度否定しても、セリアは目を開けなかった。


もう、謝ることもできない。


愛していると伝えることもできない。


もう一度、彼女と笑い合うことさえできない。


「……俺は……」


セリアの手を握りしめたまま、俺は動けなかった。

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