07 失われざるもの 前編
「……俺は、国を出る」
自分の声が聞こえた。
目の前には、セリアが立っていた。
彼女は、すぐには何も言わなかった。
ただ、俺の顔をじっと見つめている。
やがて、眉を寄せた。
「……どういうこと?」
「言葉どおりだ。ここを離れる」
「どこへ?」
「まだ決めていない」
「いつ帰ってくるの?」
答えられなかった。
彼女の表情が、少しずつ険しくなっていく。
「……ロイド。ちゃんと答えて」
「ああ」
「国を出るって、どういうことなの? 冒険者を辞めるってこと? それとも、しばらく遠くへ行くだけ?」
俺は、彼女の目を見た。
本当のことを話せば、きっと引き止めるだろう。
一緒に来ると言うかもしれない。
だから、言えなかった。
「……冒険者も辞める」
「……は?」
セリアが目を見開いた。
「ちょっと待って。急に何を言ってるの?」
「決めたんだ」
「いつ決めたの?」
「少し前だ」
「少し前って……私、何も聞いてない」
彼女の声が震えた。
「ずっと一緒にやってきたじゃない。仕事のことだって、これからのことだって……何か決めるなら、私にも話してくれたっていいでしょう?」
「……悪い」
「謝ってほしいんじゃない!」
セリアが声を荒らげた。
その声を聞いて、胸の奥が痛んだ。
彼女が怒るのも当然だった。
何の相談もなく、突然いなくなると言われたのだから。
「……私、何かした?」
「違う」
「じゃあ、どうして?」
俺は答えられなかった。
彼女は唇を噛み、しばらく俯いていた。
それから、顔を上げる。
「……一緒に行っちゃ、駄目なの?」
その言葉に、俺は一瞬、息を止めた。
一緒に来てほしい。
本当は、そう言いたかった。
だが、それだけは言えなかった。
俺がこれから向かう先に、彼女を連れていくわけにはいかない。
「……駄目だ」
セリアの目が揺れた。
「……どうして?」
「お前には、お前の生活がある」
「そんなの、理由になってない!」
彼女は一歩、俺に近づいた。
「私は、ロイドと一緒にいたいって言ってるの。どこへ行くかも決まってないのに、どうして勝手に私を置いていくの?」
何も言えなかった。
本当の理由を話すことはできない。
だから、俺は彼女から目を逸らさずに告げた。
「……俺が決めたことだ」
「……そう」
セリアの声が、急に静かになった。
その変化が、かえって胸に刺さった。
「……私のことは、もう必要ないってこと?」
「違う」
思わず、そう答えていた。
彼女が顔を上げる。
「じゃあ、何なの?」
俺は、言葉を失った。
違う。
そんな言葉で済ませられる話じゃない。
本当は、誰よりも大切だった。
一緒にいたかった。
これから先も、彼女の隣にいるつもりだった。
けれど――。
「……もう、決めたんだ」
結局、それしか言えなかった。
セリアは、しばらく俺を見つめていた。
やがて、目を伏せる。
「……分かった」
小さな声だった。
けれど、納得したわけではない。
そのことは、俺にも分かった。
「……ロイド」
彼女が最後に、もう一度だけ俺を呼んだ。
「本当に、それでいいの?」
俺は答えられなかった。
答えれば、きっと引き返してしまう。
だから、何も言わなかった。
セリアは、それ以上何も聞かなかった。
ただ、俺の横を通り過ぎていった。
すれ違う瞬間、彼女の肩がわずかに震えているのが見えた。
俺は、振り返らなかった。
振り返れば、追いかけてしまう。
そんな気がしたからだ。
――そこで、目が覚めた。
♢♢♢♢♢
俺は勢いよく上半身を起こした。
見慣れた天井。
窓から差し込む朝の光。
ルーデン村にある、いつもの家だ。
……またか
額に手を当てる。
あの日の夢を見るのは、これが初めてじゃない。
セリアと別れたのは、16年前。
俺が26歳で、彼女が20歳のときだった。
それから俺は国を離れ、冒険者を辞めた。
今ではルーデン村で、狩人として暮らしている。
森を見回り、魔物がいれば倒す。
村人に頼まれれば、できる範囲で手を貸す。
そんな毎日だ。
昔のように、何でもかんでも俺に仕事が回ってくることもない。
……いや、まあ
村の人間からは、相変わらずいろいろ頼まれることもあるが。
……それは、仕方ないか
俺は「ふっ」っと小さく息を吐いた。
困っている人間を放っておけないのは、昔から変わらない。
ただ、今の生活は嫌いじゃない。
静かで、気楽で、余計なことを考えずに済む。
少なくとも、あの頃よりはずっといい。
……そう思っていた。
けれど、あの日のことだけは、16年経った今でも夢に出てくる。
……ったく
俺はベッドから降りた。
いつまでも昔のことを考えていても仕方がない。
今日は森の見回りに行く予定だ。
さっさと準備を済ませよう。
そう思って顔を洗い、身支度を整えた。
けれど、セリアの顔は頭から離れなかった。
♢♢♢♢♢
16年前。
冒険者を辞めると決めた日のことは、今でも覚えている。
俺はギルドへ行き、受付で退会の手続きを頼んだ。
「……冒険者を辞めたい」
受付の職員は、最初、聞き間違いかと思ったようだった。
「ロイドさんが、ですか?」
「ああ」
「……本当に、よろしいんですか?」
「決めたことだ」
職員は困ったように眉を寄せた。
「分かりました。手続きを進めますので、少々お待ちください」
そう言って、奥へ引っ込んだ。
しばらくして戻ってきた職員は、先ほどとは少し違う顔をしていた。
「……ロイドさん。退会の手続きは進められますが、少し確認させていただきたいことがあります」
「何だ?」
「今後、この国を離れるご予定ですか?」
「そうだが」
職員の手が、書類の上で止まった。
「……そうですか」
「何か問題でもあるのか?」
「いえ。手続き上の問題はありません」
そう答えながらも、職員はどこか落ち着かない様子だった。
俺は少し眉を寄せたが、それ以上は追及しなかった。
「手続きが終わったら教えてくれ」
「……かしこまりました」
俺は受付から離れた。
ギルドの中は、いつもと変わらないように見えた。
冒険者たちが依頼書を眺め、仲間同士で話し合い、受付には順番を待つ人間が並んでいる。
ただ、妙な視線を感じた。
壁際に立つ男が、こちらを見ている。
目が合うと、すぐに顔を背けた。
別の男もいた。
そいつは仲間と話していたはずなのに、俺が近づくと急に口を閉じた。
「……何だ?」
小さく呟いたが、答える者はいない。
気のせいかもしれない。
長く冒険者を続けていれば、警戒心の強い人間に出会うこともある。
俺自身、Sランクという肩書きのせいで、妙な目で見られることは珍しくなかった。
だから、そのときも深く考えなかった。
……いや
正確には、考える余裕がなかった。
ここ数年、仕事に追われる毎日だった。
討伐、護衛、調査。
一つの依頼を終えれば、次の依頼が来る。
誰かが困っていれば、放っておけない。
気づけば、自分が何をしたいのかさえ、まともに考えなくなっていた。
もう疲れた。
ただ、それだけだった。
国を出て、誰にも頼られずに暮らしたい。
誰かの期待に応えるためではなく、自分のために生きてみたい。
当時の俺は、そればかり考えていた。
セリアなら、どう思うだろう。
正義感が強く、責任感もある。冒険者としての仕事にも誇りを持っている。
そんな彼女が、ただ「疲れたから国を出る」なんて理由で納得するとは思えなかった。
「……納得するわけないよな」
思わず呟いた。
それでも、話してみなければ分からない。
もしかしたら、一緒に来ると言ってくれるかもしれない。
そう考えた瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
けれど、すぐに別の考えが浮かぶ。
俺の都合で、セリアまで今の生活を捨てることになっていいのか。
彼女には、彼女の仕事がある。仲間もいる。ここで築いてきたものだってある。
それを全部置いて、俺についてこいと言う。
……そんなことを、俺が頼んでいいのだろうか
答えは出なかった。
ただ、今のまま冒険者を続けることには、もう疲れていた。
「ロイドさん、お待たせしました」
受付の職員が戻ってきた。
「退会の手続きは完了しました。こちらが、冒険者証です」
俺は差し出された証を受け取った。
長い間、持ち歩いていたものだ。
これを手放せば、今までの生活も終わる。
……そう思うと、少しだけ感慨深いものがあった。
「世話になったな」
「こちらこそ、長い間ありがとうございました」
職員は頭を下げた。
けれど、その表情は最後まで晴れなかった。
俺は首を傾げながらも、ギルドを後にした。
♢♢♢♢♢
外へ出ると、空は曇っていた。
通りを歩く人々の間を抜け、宿へ向かう。
その途中、背後から足音が聞こえた。
振り返る。
少し離れた場所に、さっきギルドで見かけた男がいた。
男は俺と目が合うと、何事もなかったように歩き去った。
……何なんだ、まったく
俺は小さく息を吐いた。
気にはなった。
だが、追いかけて問いただすほどのことでもない。
今の俺にとって大切なのは、国を出る準備を整えることだった。
セリアには、まだ何も話していない。
彼女にどう伝えるべきなのか。
それだけは、考えなければならなかった。
俺は歩きながら、何度も言葉を頭の中で組み立てた。
けれど、どれもしっくりこなかった。
本当の理由を話すわけにはいかない。
かといって、適当な理由で納得してもらえるとも思えなかった。
「……参ったな」
思わず呟く。
冒険者としての仕事なら、どんな難しい依頼でも何とかしてきた。
だが、セリアに国を出ることを伝える方法だけは、いくら考えても答えが出なかった。
一緒に来てほしい。
本当は、そう言いたかった。
けれど、彼女を危険に巻き込むわけにはいかない。
今の生活から逃れたいという気持ちと、セリアを危険に巻き込みたくないという思い。
その二つを抱えたまま、俺は答えを出せずにいた。
♢♢♢♢♢
国を出れば、すべてが終わる。
あの頃の俺は、そう考えていた。
だが、今思えば、あまりにも視野が狭かった。
セリアが何を感じているのか。
自分が何を失おうとしているのか。
そこまで目を向ける余裕がなかった。
俺はただ、今の生活から逃れたいと思っていた。
そして、自分一人で決めてしまえば、すべて片づくと思っていた。
……本当に、愚かな考えだった
この頃の俺は、まだ知らなかった。
自分が国を出ようとしたことが、すでに誰かの耳に届いていたことを。
そして、その決断を待っていたかのように、追手が動き始めていたことを。
国を出たのは、それから間もなくのことだった。
追手は、国境を越えた俺の前にも何度か現れた。
……まあ、相手をするのは大した手間じゃなかった
向かってくる連中を退けるだけなら、苦労はしなかった。
今思い返しても、戦いそのものに苦戦した記憶はほとんどない。
問題は、そこじゃなかった。
当時の俺は、目の前の追手を退け、自分の身を守ることばかり考えていた。
どうして自分が狙われているのか。
この先どう生きるのか。
そして、セリアに何を残してしまったのか。
そうしたことを、落ち着いて考える余裕はなかった。
長年、冒険者として働き続けてきた疲れもあったのだろう。
誰かに頼られることが当たり前になり、自分の限界にも、周囲の気持ちにも、きちんと目を向けられなくなっていた。
ただ、国を離れれば終わると思っていた。
セリアを巻き込まずに済めば、それでいいと思っていた。
……本当に、それだけでよかったのだろうか
今でも、答えは出ない。
俺は「……はぁ」と、小さく息を吐いた。
昔のことを考えても、過去は変わらない。
それでも、あの別れだけは、16年経った今でも夢に出てくる。
……そろそろ、仕事に行くか
俺は顔を上げた。
今はルーデンで暮らしている。
ここには、守りたい日常がある。
だから今日も、いつもどおり森を見回り、困っている人がいれば手を貸す。
そうやって過ごしていくつもりだった。
――あの日の別れが、もう一度自分の前に現れることになるとは、まだ知らずに。
♢♢♢♢♢
朝の森は、静かだった。
木々の間から差し込む光が、地面に細長い影を落としている。
鳥の声が聞こえ、少し離れた場所では小川の水が流れていた。
俺は弓を背負い、昨日見回った場所をもう一度確認していた。
村の近くに危険な魔物が現れていないか。
森に入る人間が、誤って危険な場所へ近づいていないか。
それを確かめるのが、最近の俺の日課だった。
……足跡は増えてないな
地面に残った痕跡を確認し、俺は小さく息を吐いた。
昨日見つけた足跡は、森の奥へ向かっていた。村の方へ戻ってくる様子もない。
ひとまず、問題はなさそうだ。
俺は周囲を見回し、来た道を戻り始めた。
冒険者をしていた頃なら、こんな見回りに時間を使うことはなかっただろう。
依頼を受け、目的地へ向かい、魔物を倒して報酬を受け取る。
次の依頼が来れば、また出発する。
それが当たり前だった。
けれど、今は違う。
森に異変がないことを確かめる。
村の人間が困っていれば、できる範囲で手を貸す。
それだけで、一日が終わることもある。
昔の俺なら、物足りないと思ったかもしれない。
今は、そうでもなかった。
「……悪くない暮らしだな」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
村へ戻る途中、畑のそばで荷車を押している男を見かけた。
車輪が、地面のくぼみにはまっているらしい。
「おい、大丈夫か?」
声をかけると、男が振り返った。
「ロイドさん。いやあ、参ったよ。ここから動かなくてな」
「ちょっと待ってろ」
俺は荷車の後ろへ回り、男と一緒に押した。
車輪がくぼみから抜け、荷車が動き出す。
「助かったよ。ありがとう」
「気にするな」
俺は手についた土を払った。
「荷物、重そうだな」
「村の外へ持っていく分があってね。最近は何かと忙しいんだ」
「それは何よりだ」
男は笑い、荷車を押していった。
俺はその背中を見送ってから、再び歩き出した。
こういうことも、今の暮らしの一部だった。
誰かに頼まれたからではない。
困っている人がいたから、手を貸した。
それだけだ。
♢♢♢♢♢
家へ戻ると、昼を少し過ぎていた。
弓を壁に立てかけ、手を洗う。
簡単な食事を用意し、椅子に座った。
静かな部屋だった。
窓の外から、村人たちの話し声がかすかに聞こえる。
俺は食事をしながら、ふと考えた。
この村へ来てから、もう10年以上が経つ。
それだけの時間があれば、昔のことを忘れてしまってもおかしくはない。
だが、忘れたわけではなかった。
思い出すことが減っただけだ。
セリアのことも、そうだった。
普段は考えないようにしている。
考えたところで、何かが変わるわけではないからだ。
あの日、俺は彼女に別れを告げた。
本当の理由を隠し、彼女を傷つける言葉を選んだ。
それが、彼女を守るためだと自分に言い聞かせた。
けれど、今でも、ときどき考える。
本当に、ほかに方法はなかったのだろうか。
………やめだ
俺は食事を終え、立ち上がった。
今さら考えても、答えは出ない。
それに、今日はまだやることがある。
使った道具を片づけ、午後の仕事に備える。
そうして、いつもの日常へ戻ろうとした。
♢♢♢♢♢
夕方、村の入口を通りかかったときだった。
村へ続く道の向こうに、見慣れない二人組が歩いてくるのが見えた。
一人は、旅慣れた様子の若い男。
もう一人は、背筋を伸ばし、周囲を確かめながら歩く女だった。
女の姿を見た瞬間、俺は足を止めた。
――まさか!?
距離が縮まるにつれて、顔がはっきりと見えてくる。
忘れるはずがなかった。
16年という時間が過ぎても、見間違えるはずがなかった。
セリアだ。
彼女も俺に気づいたらしい。
足が止まる。
隣にいた男が、不思議そうに彼女を見た。
「セリアさん? どうしたの?」
セリアはすぐには答えなかった。
ただ、俺を見ていた。
俺も、何も言えなかった。
会うことなど、もうないと思っていた。
この村で暮らしている限り、彼女と再会することはない。
そう考えていた。
それなのに――。
「……ロイド?」
セリアが、俺の名前を呼んだ。
懐かしい声だった。
何度も聞いた声。
冒険者だった頃、隣で戦い、笑い、ときには言い合いをした。
そして、最後に聞いた声。
あの日とは違う。
けれど、俺の胸の奥に残っていたものを、一瞬で呼び起こすには十分だった。
「……久しぶりだな、セリア」
ようやく、それだけ言えた。
セリアは少しだけ目を伏せた。
「……そうね。本当に、久しぶり」
隣の男が、俺とセリアを交互に見た。
「……セリアさんの知り合い?」
「ええ。昔、一緒に冒険者をしていたの」
「そうなんだ」
ユリウスは納得したように頷いた。
けれど、一瞬だけ俺に向けた視線には、探るような気配があった。
俺は、その視線に気づいていた。
だが、今は気にする余裕がなかった。
セリアが、ここにいる。
それだけで、頭の中がうまく整理できなかった。
「……この村に住んでいるの?」
セリアが尋ねた。
「ああ。今は狩人をしている」
「そう……」
彼女は少し驚いたように周囲を見回した。
「ここが、あなたの暮らしている場所なのね」
「そうだ」
短い沈黙が流れた。
16年。
長い時間だった。
その間に、俺たちは別々の場所で暮らしてきた。
彼女が何を経験し、どんな日々を過ごしてきたのか。
俺には分からない。
俺がこの村でどんな暮らしをしてきたのかも、彼女は知らないだろう。
それでも、目の前にいる彼女は、確かにセリアだった。
「……ロイド」
もう一度、名前を呼ばれた。
俺は顔を上げた。
「少し、話せる?」
その言葉に、胸の奥が静かに痛んだ。
断る理由なら、いくらでもあった。
だが、俺は彼女から目を逸らさなかった。
「……ああ……話そう」
そう答えた。
16年前に終わったはずの別れが、もう一度、俺の前に戻ってきた。
そして今度は――。
逃げずに向き合わなければならない。
そう思った。
「……どこか、座って話せる場所はある?」
セリアが尋ねた。
「ああ。俺の家でよければ」
そう答えてから、俺は隣の男へ視線を向けた。
「そちらの方も一緒でいいのか?」
男は、少しだけ口元を緩めた。
「いや、僕は構わないよ。二人とも昔の知り合いなんだろう? 積もる話もあるだろうし」
「……ユリウス」
セリアは、少し遠慮がちに彼の名を呼んだ。
「気にしなくていいよ。せっかく久しぶりに会えたんだろう? ゆっくり話してくるといい」
ユリウスはそう言って、俺に向き直った。
「セリアさんが昔、ずいぶんお世話になった方なんですね」
そう言いながら、ユリウスは俺の顔を一度見た。
「では、僕は宿を探してきます。また後で」
軽く頭を下げると、ユリウスは村の通りへ歩いていった。
俺は、その背中を少しだけ目で追った。
物腰は柔らかい。
話し方にも、妙なところはない。
それでも、どこか気になるものがあった。
だが、今はそれを考えている場合ではなかった。
「……行こうか」
「あ、ええ」
セリアは小さく頷いた。
俺たちは並んで歩き始めた。
♢♢♢♢♢
村の中を歩く間、俺たちはほとんど言葉を交わさなかった。
昔なら、沈黙など気にならなかったはずだ。
依頼の帰り道でも、宿へ向かう途中でも、俺たちはよく隣を歩いていた。
話したいことがあれば話す。
なければ、無理に言葉を探すこともない。
それが当たり前だった。
けれど、今は違う。
隣にいるのがセリアだというだけで、何を話せばいいのか分からなくなる。
「……静かな村ね」
先に口を開いたのは、セリアだった。
「ああ。大きな町と違って、夜になれば人通りも少なくなる」
「そういう暮らしをしているの?」
「まあな。朝は森を見回って、昼は村の人間の手伝いをすることもある。あとは、頼まれた仕事をしたり……」
「……そう」
セリアは、少しだけ俺を見た。
「あなたらしいわね」
その言葉に、俺は返事をしなかった。
俺らしい。
昔から、そう言われてきた。
誰かが困っていれば放っておけない。
頼まれれば、できる限りのことをする。
自分のことは後回しにする。
セリアも、そんな俺をよく知っていた。
だからこそ、彼女の口からその言葉を聞くと、胸の奥が少し痛んだ。
「……セリアは、今も冒険者を続けているのか?」
「ええ。ずっとね」
セリアは前を向いたまま答えた。
「今は、昔よりも大きな依頼を任されることが増えたわ。仲間もいるし、仕事には困っていない」
「そうか」
「あなたは?」
「さっき言ったとおり、今は狩人だ」
「冒険者には戻らないの?」
「……戻るつもりはないな」
そう答えると、セリアは少しだけ黙った。
「そう……」
それ以上、何も聞かなかった。
俺も、それ以上は話さなかった。
聞きたいことは、いくらでもあった。
16年の間、どこで何をしていたのか。
どんな依頼を受け、どんな仲間と出会ったのか。
そして――。
今、隣を歩いている男と、どういう関係なのか。
だが、どれも簡単には口にできなかった。
俺には、そんなことを尋ねる資格があるのだろうか。
16年前、自分から彼女を突き放したのは俺だ。
今さら、何もなかったように昔の関係へ戻ろうとすることなどできない。
「……ここだ」
俺は家の前で足を止めた。
セリアは、家を見上げた。
「ここが、あなたの家?」
「ああ」
「……そう」
小さく頷いたあと、セリアは俺を見た。
「お邪魔してもいい?」
「もちろんだ」
俺は扉を開けた。
「どうぞ」
セリアが家の中へ入る。
俺はその後に続き、扉を閉めた。
♢♢♢♢♢
家の中は、いつもどおりだった。
必要な家具だけが置かれ、余計なものはほとんどない。
仕事道具をまとめた棚。
壁に掛けた弓。
小さな机と椅子。
セリアは部屋を見回し、少しだけ目を細めた。
「……変わらないのね」
「何がだ?」
「あなたの部屋。昔から、必要なものしか置かないところ」
「物が多いと、片づけるのが面倒だからな」
俺が答えると、セリアは小さく笑った。
「そういうところも変わってない」
その笑顔を見て、俺は一瞬、言葉を失った。
懐かしかった。
何度も見た笑顔だった。
冒険者だった頃、依頼を終えたあとに見せてくれた笑顔。
俺が無茶をしたとき、呆れながらも最後には笑っていた顔。
そして、別れを告げたあの日。
最後に見た、傷ついた顔。
「……座ってくれ」
俺は椅子を引いた。
「あ、ありがとう」
セリアが腰を下ろす。
俺は向かいの椅子に座った。
しばらく、沈黙が続いた。
何から話せばいいのか分からない。
16年ぶりに再会した相手に、最初に何を尋ねるべきなのか。
そんなことすら、考えなければならなかった。
やがて、セリアが口を開いた。
「……まさか、こんなところで会うとは思わなかった」
「俺もだ」
「あなたがこの村にいるなんて、知らなかったから」
「ああ。俺も、セリアがここへ来るとは思っていなかった」
セリアは、膝の上で両手を重ねた。
「……ねえ、ロイド」
「何だ?」
「私たちが別れてから、16年も経ったのね」
その言葉に、俺は小さく頷いた。
「ああ」
「長かったわ」
セリアは、少しだけ目を伏せた。
「本当に……長かった」
俺は何も言えなかった。
彼女にとって、この16年がどんな時間だったのか。
俺には分からない。
俺自身も、あの別れを忘れたわけではない。
ただ、考えないようにしていただけだ。
「……あのとき」
セリアが、ゆっくりと顔を上げた。
「どうして、私と別れたの?」
胸の奥が、強く締めつけられた。
いつか聞かれるかもしれない。
そう思っていた。
けれど、いざその言葉を向けられると、何も答えられなかった。
……
俺は、視線を落とした。
あの日のことを思い出す。
本当の理由を伝えず、彼女を傷つける言葉を選んだ。
それが、彼女を守るためだと自分に言い聞かせた。
けれど――。
「……悪かった」
ようやく出てきたのは、それだけだった。
セリアは、俺を見つめていた。
「謝ってほしいわけじゃないの」
静かな声だった。
「ただ、知りたかった」
「私が、何か悪いことをしたのか。それとも、あなたの中で、何かが変わったのか」
セリアは一度、息を吸った。
「ずっと、それを考えていたわ」
俺は、拳を握った。
違う。
セリアは何も悪くなかった。
変わったのは、俺だ。
だが、本当のことを話せば、彼女を再び危険に巻き込むかもしれない。
今さら、どこまで話していいのかも分からなかった。
「……セリア」
名前を呼ぶ。
彼女は、静かに俺を見た。
「俺は……」
言葉が止まる。
そのとき、セリアの表情がわずかに変わった。
「……もう、いいわ」
「え?」
セリアは少しだけ目を伏せた。
「16年も経ったんだもの。あなたにも、いろいろあったんでしょう?」
俺は答えられなかった。
彼女は、ゆっくりと立ち上がった。
「今日は、会えてよかった」
「……セリア」
「また、どこかで会うこともあるかもしれないわね」
そう言って、彼女は扉へ向かった。
俺は、立ち上がることもできなかった。
引き止める言葉が見つからない。
あの日と同じだった。
彼女が離れていくのを、ただ見ていることしかできない。
扉が閉まる。
家の中に、静けさが戻った。
俺は、しばらく動けなかった。
16年前、彼女を突き放した。
そして今も、何も伝えられなかった。
「……何やってんだ、俺は」
小さく呟いた声が、誰もいない部屋に響いた。
もう一度、彼女と向き合う機会があるのかは分からない。
けれど、もし次があるのなら――。
今度こそ、逃げずに話したい。
そう思った。
♢♢♢♢♢
セリアが帰ったあとも、俺はしばらく椅子に座ったままだった。
閉じた扉を見つめる。
もう、足音は聞こえない。
家の中には、いつもの静けさが戻っていた。
「……はあ」
大きく息を吐く。
まさか、あいつがこの村に来るとは思わなかった。
しかも、男を連れて。
……ユリウス、だったか
別れ際に聞いた名前を思い出す。
セリアは、あの男と一緒に旅をしているようだった。
冒険者仲間なのか。
それとも、別の関係なのか。
気にならないと言えば、嘘になる。
だが、俺には関係のないことだ。
16年前、彼女との関係を終わらせたのは俺だ。
今さら、彼女が誰と一緒にいようと、口を出す資格はない。
……寝るか
俺は立ち上がり、部屋の明かりを落とした。
けれど、その夜はなかなか眠れなかった。
目を閉じるたびに、セリアの顔が浮かんでくる。
最後に会ったときの顔ではない。
今日、村の入口で俺を見つけたときの顔だ。
驚いたような表情。
何か言いたそうに揺れた目。
そして、俺の名前を呼んだ声。
「……まったく」
寝返りを打つ。
忘れたつもりだった。
もう過去のことだと、何度も自分に言い聞かせてきた。
それなのに、たった一度顔を合わせただけで、こんなにも心が乱される。
16年という時間は、俺が思っていたほど、何もかもを遠ざけてくれるわけではないらしい。
♢♢♢♢♢
翌朝。
俺はいつもより早く目を覚ました。
外はまだ薄暗い。
普段なら、朝食を済ませてから森の見回りに出るところだが、今日は少しだけ予定を変えることにした。
村の入口まで行ってみる。
昨日の二人が、まだ村にいるかもしれない。
……いや、別に会いに行くわけじゃない
ただ、村の様子を確認するだけだ。
自分にそう言い聞かせ、俺は家を出た。
村の通りを歩く。
朝の空気は冷たく、軒先では店を開ける準備が始まっていた。
何人かの村人と挨拶を交わし、入口へ向かう。
だが、そこに二人の姿はなかった。
……そうだよな
少しだけ、肩の力が抜けた。
同時に、胸の奥に小さな引っかかりが残る。
俺は首を振った。
何を期待しているんだ。
会ったところで、何を話すつもりだった?
昨日だって、結局、まともな話はできなかった。
……森へ行くか
俺は踵を返した。
今日も、やることは変わらない。
魔物の痕跡を確認し、村の周辺を見回る。
それが今の俺の暮らしだ。
過去に引きずられてばかりいるわけにはいかない。
そう思いながら、俺は森へ向かった。
♢♢♢♢♢
昼前、森の見回りを終えて村へ戻ると、通りの向こうから見慣れない声が聞こえた。
「すみません。この辺りに、武器を扱っている店はありませんか?」
足を止め、声のした方へ目を向ける。
見覚えのある顔に、思わず目が留まった。
そこに、昨日セリアの隣にいた男がいた。
昨日と同じように、身なりは整っている。
俺に気づくと、ユリウスは少し驚いた顔をしたあと、すぐに穏やかな表情に戻った。
「おや。昨日の方ですね」
「ああ」
「ロイドさん、でしたね?」
「そうだ」
「昨日は失礼しました。セリアさんから、昔の仲間だと聞いていたので、つい気になってしまって」
男は丁寧に頭を下げた。
「僕はユリウスといいます。今はセリアさんと一緒に旅をしているんです」
「……そうか」
俺は短く答えた。
旅の仲間。
その言葉だけでは、二人の関係までは分からない。
だが、少なくとも、セリアが一人で旅をしているわけではないことは分かった。
「武器を扱っている店を探しているのか?」
「ええ。少し装備を整えたくて。近くに店があると聞いたんですが、道が分からなくて」
「それなら、通りをまっすぐ進んだ先にある。看板に剣が描かれているから、すぐ分かるはずだ」
「ありがとうございます。助かりました」
ユリウスは、柔らかく答えた。
「……ロイドさんは、この村に長く住んでいるんですか?」
「ああ。もう10年以上になる」
「10年以上……。それは、ずいぶん長いですね」
「そうだな」
「冒険者を辞めて、ここに?」
俺は、わずかに目を細めた。
「……なぜそう思う?」
ユリウスは、少しも慌てる様子を見せなかった。
「セリアさんと昔、一緒に冒険者をしていたのなら、今は別の仕事をしているのかと思いまして」
もっともらしい説明だった。
確かに、そこまでは不自然ではない。
だが、俺は自分の過去を詳しく話すつもりはなかった。
「今は狩人だ。村の周りを見回ったり、頼まれたことを手伝ったりしている」
「なるほど。落ち着いた暮らしをされているんですね」
「まあな」
ユリウスは俺を見た。
その目は穏やかだったが、どこか探るようなものを感じた。
「……セリアさんは、昔からあなたのことを信頼していたんでしょうね」
不意に言われた言葉に、俺は返事をしなかった。
「昨日、あなたと再会したときも、少し驚いていたようでしたから」
「……そうか」
「ええ。昔の仲間と再会するのは、やはり特別なことなんでしょう」
ユリウスは、そこで話を切った。
俺の反応をうかがっているのか。
それとも、ただ世間話をしているだけなのか。
今の俺には判断できなかった。
「それじゃあ、教えてもらった店へ行ってみます」
「ああ」
「またお会いすることもあるでしょう。そのときは、よろしくお願いします」
ユリウスは一礼し、通りを歩いていった。
俺は、その背中をしばらく見送った。
……何なんだ、あいつは
悪い印象を受けたわけではない。
むしろ、礼儀正しく、話しやすい男だった。
だが、何かが引っかかった。
セリアと俺の過去を、どこまで知っているのだろう。
そして、あいつはセリアにとって、どんな存在なのだろう。
考えても答えは出なかった。
俺は小さく息を吐き、歩き出した。
余計なことを考えるな。
もう、俺には関係のないことだ。
そう自分に言い聞かせながら……
♢♢♢♢♢
その日の夕方。
家へ戻ろうとしていたときだった。
「ロイド!」
聞き覚えのある声に、足が止まった。
振り返る。
セリアが立っていた。
昨日よりも少し落ち着いた表情をしている。
「……どうした?」
「少し、時間ある?」
「ああ。どうしたんだ?」
セリアは一度、言葉を探すように視線を落とした。
「昨日は、急に押しかけてごめんなさい」
「いや。気にすることじゃない」
「……ありがとう」
短い沈黙が流れた。
セリアは、俺の顔を見た。
「ねえ、ロイド」
「何だ?」
「あなたは……今、幸せ?」
予想していなかった問いだった。
俺は、すぐには答えられなかった。
幸せか。
この村での暮らしに、不満はない。
誰かのために動くことも、自分で選んでいる。
穏やかな日々を過ごせている。
それを幸せと呼ぶのなら、そうなのだろう。
「……ああ。今の暮らしには満足している」
俺が答えると、セリアは少しだけ目を伏せた。
「そう……」
その声には、安心したような響きと、どこか寂しそうな響きが混じっていた。
「それなら、よかった」
セリアは、静かに答えた。
「私も、今はちゃんとやれているわ。冒険者としても、生活のことも」
「ああ」
「だから……心配しないで」
俺は、少しだけ眉を寄せた。
「心配なんかしていない」
そう答えたあと、自分の言葉が思った以上に冷たく聞こえたことに気づいた。
セリアの表情が、ほんの少しだけ固まる。
「……そう」
彼女は目を逸らした。
「ごめんなさい。変なことを聞いたわね」
「いや……」
言葉が続かなかった。
本当は、心配していた。
16年前に別れてから、彼女がどう暮らしてきたのか。
どんな思いで冒険者を続けてきたのか。
何度も考えたことがある。
けれど、今さらそれを口にすることはできなかった。
俺は、彼女を自分から突き放したのだから。
「……セリア」
名前を呼ぶと、彼女は顔を上げた。
「何?」
俺は、言葉を探した。
謝りたい。
あの日のことを、少しでも説明したい。
だが、何から話せばいいのか分からなかった。
16年前、俺は自分の判断だけで彼女との別れを決めた。
本当の理由を話せば、彼女はどう思うだろう。
許してくれるのか。それとも、今さらそんな話を聞かされても困ると思うのか。
そもそも、俺には彼女に真実を話す覚悟があるのだろうか。
考えれば考えるほど、言葉が出てこなかった。
「……いや。何でもない」
セリアは、しばらく俺を見つめていた。
やがて、小さく頷いた。
「……そっか」
それ以上、彼女は何も聞かなかった。
「じゃあ、またね」
「ああ」
セリアは背を向け、歩き出した。
俺は、その後ろ姿を見送った。
今度は、あの日のように彼女を傷つける言葉を口にしたわけではない。
それでも、伝えたいことを伝えられなかった。
16年前と、何も変わっていないのかもしれない。
「……本当に、何やってんだろうな」
俺は小さく呟いた。
セリアは、もう一度振り返ることなく、村の通りへ消えていった。
俺はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
彼女と再会できた。
それだけで十分だと思おうとした。
だが――。
胸の奥に残ったものは、簡単には消えてくれなかった。
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