06 パン屋の娘 ミーナ
カイがルーデン村にやってきたのは、少し前のことだった。
森の近くで倒れていたところをロイドさんに助けられたらしい。
目を覚ましたときには、それまでの記憶をほとんど失っていたという。
そんな話を聞いたとき、私はカイのことが気になった。
……記憶がないって、どんな感じなんだろう
自分がどこから来たのかも、何をしていたのかも分からない。
私だったら、きっと不安で仕方がないと思う。
だからというわけでもないけれど、ロイドさんの家で暮らしていると聞いてから、なんとなく彼のことを気にするようになった。
それに……。
うん。
顔も、ちょっと好みだった。
これは本人には内緒。
別に、顔がいいから気になったわけじゃない。
記憶を失って困っているなら、誰かが気にかけてあげた方がいいと思ったのだ。
本当に、それだけ。
……たぶん
カイは、ときどきパンを買いに来るようになった。
最初の頃は、少し遠慮がちだった。
何を買えばいいのか迷っていたり、私が話しかけると、ちょっと困ったような顔をしたり。
だから、こちらから声をかけることが多かった。
「カイ、今日は何にするの?」
「うーん……おすすめは?」
「おすすめ? そうだなあ。これなんてどう?」
そう言って、新しく焼いたパンを見せる。
「最近、よく売れてるんだよ。外は少し硬めだけど、中はふんわりしてるの」
「へえ。じゃあ、それにしようかな」
「毎回それでいいの?」
「いや、せっかくだから、いろいろ食べてみたいし」
「それなら、こっちもおすすめ!」
「……ミーナ、商売上手だね」
「えへへ。褒めても何も出ないよ?」
「いや、今まさにパンを売ってもらってるんだけど」
「あっ、そうだった!」
そんなやり取りをして、二人で笑う。
気がつけば、カイが店に来ると、つい声をかけるようになっていた。
今日は何を買うのかな。
ちゃんとご飯を食べているのかな。
少しずつ、この人のことを知っていくのが楽しかった。
カイは記憶を失っているせいか、ときどき不思議なことを言う。
知らないはずのものを知っていたり、初めて聞く話なのに、妙に詳しかったり。
でも、本人に聞いても、困ったように笑うだけだった。
「……なんで知ってるんだろうね」
「私に聞かれても困るよ」
「だよね」
そんな会話も、いつの間にか当たり前になっていた。
カイがルーデン村に来てから、3か月ほど。
それだけ一緒に過ごせば、私たちはすっかり仲良くなっていた。
少なくとも、私はそう思っている。
ロイドさんの家に遊びに行くと、カイがいることもあった。
ロイドさんは口数が少ないけれど、カイのことを気にかけているのが分かった。
カイも、ロイドさんを頼りにしているようだった。
二人のやり取りを見ていると、なんだか親戚のおじさんと甥っ子みたいだなと思う。
……まあ、私がそんなことを言うと、ロイドさんには「誰が親戚のおじさんだ」と返されそうだけど
それでも、カイが村で少しずつ居場所を見つけているようで、私はうれしかった。
記憶がなくても。
過去が分からなくても。
これから、この村で楽しく暮らしていけたらいい。
そう思っていた。
♢♢♢♢♢
カイがルーデン村に来てから、半年ほど経った頃。
村の人が亡くなった。
知らせを聞いて、その人の家を訪ねたとき、私は何をすればいいのか分からなかった
家の中には、悲しみに沈んだ家族がいた。
泣いている人もいれば、何も言えずに座っている人もいる。
亡くなった人は、静かに横たわっていた。
そんな中で、カイが一歩前へ出た。
「……俺でよければ、身体を整えます」
最初は、私も驚いた。
カイに、そんなことができるのだろうか。
でも、本人は迷っている様子がなかった。
亡くなった人の身体を清め、衣服を整え、髪を直していく。
その手つきは、初めての仕事とは思えないほど自然だった。
そして、最後にそっと手をかざしたとき。
指先に、淡い光が浮かんだ。
ほんの一瞬だった。
けれど、そのあと、亡くなった人の表情が穏やかになった。
まるで、静かに眠っているみたいだった。
「……すごい」
思わず、そう呟いていた。
何が起きたのか、私には分からなかった。
カイ自身も、なぜ自分にそんなことができるのか、分かっていないようだった。
それでも、家族が故人のそばに座り、最後の時間を過ごす姿を見ていると、胸が温かくなった。
カイにしかできないことがあるのかもしれない。
そう思った。
それから、カイは亡くなった人の身体を整える仕事を始めた。
自分で「弔い屋」と名乗り、依頼があれば、その家へ向かうようになった。
しばらくして、カイはロイドさんの家を出て、一人暮らしを始めた。
自分の仕事を続けていくために、必要なことだったのだろう。
私は応援したかった。
カイが、自分にできることを見つけたのだから。
でも、ひとつだけ気になることがあった。
「カイ、ちゃんとご飯食べてる?」
「食べてるよ」
「本当に?」
「本当だって」
「じゃあ、昨日は何を食べたの?」
「……昨日?」
ほら、やっぱり。
私は思わずため息をついた。
「もう。仕事ばっかりしてないで、ちゃんと食べなきゃ駄目だよ」
「分かってるって」
「分かってる人は、そんなに考え込まないの!」
そう言いながら、私はパンを袋に入れて渡した。
カイは少し困ったように笑う。
「……ありがとう、ミーナ」
「どういたしまして。ちゃんと食べるんだよ?」
「はいはい」
「はいは一回!」
そんなやり取りをしながら、私はカイを見送った。
忙しいのは分かる。
カイの仕事は、亡くなった人と、その家族に向き合う仕事だ。
きっと、私には分からない苦労もあるのだろう。
それでも、食事くらいはきちんとしてほしい。
……だって、心配なんだもん。
♢♢♢♢♢
その日の午後、私はパン屋の仕事をひと段落させると、焼きたてのパンをいくつか選んで布に包んだ。
届け先は、カイの家だ。
カイが王都へ向かうことは知っていた。
旅の準備をしているはずだけれど、あの人は自分のこととなると、つい後回しにしてしまう。
ちゃんと食事を用意しているだろうか。
そんなことが気になって、パンを持っていくことにした。
私は包みを抱え、カイの家へ向かった。
「カイー?」
扉を叩くと、すぐに返事があった。
「ミーナ?」
「そう。開けて!」
「手がふさがってるのか?」
「そう。だから開けてって!!」
「何を持ってるんだ?」
「んー、ひみつ」
「……秘密なら、なおさら開けられないな」
思わず笑ってしまった。
もう、こんなときまで意地悪なんだから。
私は扉の前で、少しだけ口を尖らせた。
やがて扉が開き、カイが顔を出した。
私は抱えていた包みを差し出した。
「……何?」
「パン」
「また?」
「また」
カイは包みを見てから、私に目を向けた。
「この前ももらったぞ」
「知ってる」
「じゃあ、なんで?」
「王都まで行くんでしょ?」
「ああ」
「なら、持っていって。ちゃんと食べるんだよ」
「分かってる」
「本当に?」
「……たぶん」
「もぉ~、たぶんじゃないの!」
思わず声が大きくなった。
まったく、放っておくと何をするか分からないんだから。
カイは、そんな私を見ていた。
結局、ちゃんと食べると約束してくれたので、ひとまず安心した。
これで、旅先でお腹を空かせる心配は少し減ったかな。
そう思っていた、そのときだった。
「……あっ!」
突然、カイが声を上げた。
「どうしたの?」
カイは、何かを思い出したような顔をしていた。
「……ピザ……」
「ぴざ?」
聞き慣れない言葉だった。
カイは、少し驚いたような表情を浮かべていた。
「……俺、ピザが好きだった」
その言葉を聞いて、私はカイの顔を見つめた。
カイは、自分の過去をほとんど覚えていない。
それでも、何かをきっかけに、突然記憶がよみがえることがある。
今も、そうなのだろうか。
私は、カイの話に耳を傾けた。
「ピザって、どんなもの?」
「パンみたいな生地に、チーズとか具材を載せて焼くんだ」
「じゃあ、帰ってきたら作ってあげるよ」
思いがけず、そんな言葉が口から出ていた。
「作れるのか?」
「パン屋だよ?」
「……それもそうか」
そのやり取りが、なんだかおかしかった。
カイが好きだった食べ物。
それなら、私も作ってみたい。パン屋で働いているのだから、きっと何かできるはずだ。
どんな味がするのだろう。
どんな香りがするのだろう。
考えるほど、興味が湧いてくる。
それに、カイが好きだったものを作れば、彼の過去に少しだけ触れられるような気がした。
料理を作ったからといって、カイの記憶が戻るわけではない。
それでも、彼が思い出したものを、今度は私が形にできる。
そう思うと、なんだか楽しみになってきた。
♢♢♢♢♢
翌朝。
私は、いつもどおりパン屋の朝の仕込みをしていた。
生地をこね、焼く準備を整える。朝はやることが多い。手を止めている暇はないはずなのに、今日はどうにも気が散ってしまう。
カイは、もう出発しただろうか。
昨日、王都へ向かう準備をしていた姿を思い出す。
しばらく村を離れるのだから、忘れ物がないといいけれど。
そんなことを考えていたとき、窓の外に見慣れた姿が見えた。
カイだ!
荷物を持ち、村の外へ向かって歩いている。
私は思わず手を止め、窓越しにその姿を目で追った。
声をかけるには、少し遠い。
だから、心の中でそっと言った。
……気をつけてね、カイ
ちゃんとご飯を食べるんだよ。
そして、無事に帰ってきてね。
帰ってきたら、王都の話を聞かせてもらおう。
それから、ピザも作らなくちゃ。
まだ食べたこともない料理だけれど、カイが好きだったものだ。きっと、おいしく作ってみせる。
そんな楽しみを胸に、私はもう一度、窓の外を見た。
カイの姿は、少しずつ遠ざかっていく。
やがて見えなくなると、私は小さく息を吐き、仕込み台へと戻った。
今日も、いつもどおりパンを焼く。
カイが帰ってくる頃には、もっとおいしいパンを焼けるようになっていたい。
そして、約束したピザも、おいしく作れるようになりたい。
そう思いながら、私は再び手を動かし始めた。
♢♢♢♢♢
カイが王都へ旅立ってから、私はパン屋の仕事をしながら、ずっとピザのことを考えていた。
パンみたいな生地に、チーズや具材を載せて焼く。
カイの説明は、それだけだった。
でも、頭の中には、なんとなく完成した姿が浮かんでいた。
どんな生地にすればいいんだろう。
具材は何を載せよう。
チーズは、どれくらい使えばいいのかな。
考え始めると、次から次へと試したいことが出てくる。
「……よし、やってみよう」
私は、仕事の合間にピザの試作を始めた。
まずは、パンの生地を使ってみる。
生地を丸く伸ばし、トマトで作ったソースを塗る。そこへ具材を載せ、チーズを散らした。
あとは焼くだけ。
……のはずだった。
焼き上がったものを見て、私は首を傾げた。
「うーん……」
生地が少し厚すぎた。
具材も多かったのか、全体の味がまとまっていない。
食べられないわけではないけれど、思い描いていたものとは違った。
「次は、もう少し薄くしてみよう」
生地の厚さを変え、具材の量も調整する。
焼き時間にも気を配った。
そうして何度か試しているうちに、少しずつ形になってきた。
生地の表面に焼き色がつき、チーズがとろりと溶ける。
香ばしい匂いが広がった。
「……これ、いいかも」
ひと口食べてみる。
生地の香ばしさと、具材の味がよく合っていた。
まだ改良できそうだけれど、最初に作ったものより、ずっとおいしくなっている。
私は嬉しくなった。
カイが帰ってきたら、これを食べてもらおう。
そして、もっとおいしくできるように工夫しよう。
そう考えると、自然とやる気が湧いてきた。
♢♢♢♢♢
試作を続けているうちに、私は不思議なことに気づいた。
生地を触れば、どのくらい伸ばせばいいのか、なんとなく分かる。
具材を組み合わせるときも、こちらの方が合いそうだと、自然に考えが浮かんでくる。
以前からパン作りはしていたけれど、最近は、こういう感覚が強くなった気がする。
もちろん、何もかも思いどおりになるわけではない。
失敗することもあるし、思ったほどおいしくならないこともある。
それでも、失敗した理由を考えると、次にどうすればいいのかが、前よりも早く分かるようになっていた。
……なんだか、変なの
私は首を傾げた。
でも、できることが増えるのは嬉しい。
せっかくなら、もっとおいしいものを作れるようになりたい。
私は再び生地を伸ばし、具材を載せた。
カイが帰ってくるまでに、もう少し上手になっておこう。
そう思いながら、試作を続けた。
♢♢♢♢♢
カイが王都から帰ってきた日。
私は、いつもどおりパン屋で仕事をしていた。
しばらくして、カイが店へ向かってくるのが見えた。
……帰ってきた!
思わず顔がほころぶ。
カイが店に入ると、私は声をかけた。
「遅い!」
「……ただいま」
「おかえり」
顔を見たら、ほっとした。
無事に帰ってきてくれてよかった。
私は、王都の話を聞いた。
人が多かったこと。馬車も多かったこと。
それだけでは、せっかくの王都の話としては少し物足りなかったけれど、カイらしいといえばカイらしい。
ちゃんと食事をしていたかも確認した。
どうやら、パンだけではなく肉も食べたらしい。
それなら、ひとまず安心だ。
そして、私は思い出した。
「よし! じゃあ、今日はカイの好きなものを作ってあげよう!」
「……好きなもの?」
「王都から帰ってきたお祝い!」
カイは少し考えてから答えた。
「……ピザ」
「ピザ?」
「あー、好きって言ってたね」
私は、わざとらしく首を傾げた。
カイが思い出した、あの料理。
あれから何度も試作を重ね、ようやく自分でも納得できるピザが焼けるようになった。
実は、もう自信作ができている。
私は、心の中でこっそり笑った。
「じゃあ、作ってみようか」
「本当か?」
「うん。カイが好きなら、食べてみたいし」
そう言うと、カイは少しだけ笑った。
その顔を見て、私まで嬉しくなった。
せっかく帰ってきたんだもの。
今日は、私の自信作を食べてもらおう。
カイは、どんな顔をするかな。
そう考えると、早く作りたくて、うずうずしてきた。
♢♢♢♢♢
焼き上がったピザを皿に載せ、カイとロイドさんの前に置いた。
「はい、お待たせ!」
2人は、初めて見る料理をじっと見つめていた。
丸く焼いた生地の上には、赤いトマトソースと、とろりと溶けたチーズ、色とりどりの具材が載った生地から、焼きたての香ばしい匂いが店いっぱいに広がった。
「……これがピザか」
ロイドさんが呟いた。
カイは、どこか懐かしそうにピザを見つめていた。
「……なんだか、懐かしいな」
その言葉を聞いて、私は少しだけ胸が温かくなった。
カイの記憶は、まだ戻っていない。
それでも、この料理が、カイの中に残っていた何かにつながっているのかもしれない。
「さあ、冷めないうちに食べてみて!」
2人がピザを口に運ぶ。
そして――。
「……うまい」
ロイドさんが、目を見開いた。
「本当?」
「ああ。すごくうまい」
カイも頷いた。
「うん。おいしい」
その言葉を聞いた瞬間、胸が弾んだ。
よかった。
何度も試作した甲斐があった。
「ミーナ、これは売れるぞ」
ロイドさんの言葉に、私は目を丸くした。
「え?」
「店で出してみたらどうだ?」
店で売る。
考えたことがなかったわけではない。
でも、ピザはパンとは少し違う。
材料も作り方も工夫が必要だし、注文を受けながらうまく焼けるかどうかも分からない。
「でも、パンとは作り方も違うし……」
「だからこそ、面白いんじゃないか?」
ロイドさんは、もう一口ピザを食べた。
私は、皿の上のピザを見つめた。
せっかく作れるようになったのだから、ほかの人にも食べてもらえたら嬉しい。
お客さんが喜んでくれたら、もっと嬉しいだろう。
「……ちょっと考えてみる」
そう答えたものの、心の中では、少しだけ挑戦してみたいと思い始めていた。
♢♢♢♢♢
最初は、試しに売ってみるつもりだった。
パンを買いに来たお客さんに、チーズや具材を載せて焼いた新しい料理があることを伝えてみる。
どれくらい注文が入るのかも分からない。
だから、最初からたくさん用意することはせず、様子を見ながら焼くことにした。
ところが――。
「ピザ、まだあるかい?」
「こっちは2枚頼むよ!」
「この前食べたら、おいしかったんだ!」
思っていた以上に、注文が入った。
焼き上がったピザは、次々と売れていく。
最初は驚いていた私も、すぐに忙しさに追われるようになった。
生地を伸ばし、ソースを塗り、具材を載せて焼く。
その間に、次の注文を確認する。
母と協力しながら、ひとつずつ作っていった。
忙しい。
本当に忙しい。
それでも、お客さんがピザを食べて「おいしい」と笑ってくれるたび、嬉しくなった。
もっとおいしくしたい。
もっと喜んでもらいたい。
そんな気持ちが、自然と湧いてくる。
気づけば、私は新しい味の組み合わせまで考えるようになっていた。
具材を変えてみる。
生地の厚さを少し調整する。
焼き加減を確かめる。
試してみたいことが、次々と浮かんでくる。
以前なら、ひとつの作業を終えてから次のことを考えていたはずなのに、今は複数の作業を同時に進めても、前ほど迷わなくなっていた。
それが、どうしてなのかは分からない。
ただ、料理をするのが、以前にも増して楽しくなっていた。
♢♢♢♢♢
ある日、ロイドさんが店にやってきた。
「ミーナ、少し話がある」
「何ですか?」
「カイも呼んでくれないか」
少し改まった様子だったので、私は不思議に思いながらも頷いた。
店の片づけが終わる頃には、カイも一緒に席についていた。
ロイドさんは、私たちを見て口を開いた。
「ジョブとスキルについてだ」
「ジョブと……スキル?」
聞き慣れた言葉ではあったけれど、私は自分のジョブについて考えたことがほとんどなかった。
ロイドさんは、ジョブが人の適性を示すものだということ、スキルはその適性に結びついた力だということを説明してくれた。
ジョブを持っていても、最初から何でもできるわけではない。
経験を積み、力を使いこなせるようになることが大切なのだという。
私は、ふと自分の手を見た。
最近、料理の手際がよくなった気がしていた。
生地の扱いも、具材の組み合わせも、以前より迷わなくなった。
それも、経験を積んできたからだと思っていた。
「お前がピザを作り始めてから、手際がよくなっているのを見ていた」
ロイドさんが、私にそう言った。
「えっ、そうですか?」
「ああ。生地の扱いも火加減も、最初の頃より安定している」
言われてみれば、そうかもしれない。
私は少し考え込んだ。
「……そう言われると、前より迷わなくなったかも」
「経験を積んで、料理のスキルを使いこなせるようになってきたのかもしれないな」
料理のスキル。
そんなものが、自分にあるのだろうか。
私は、自分の手を見つめた。
パンを作ってきたこと。
ピザを試作してきたこと。
失敗して、考えて、また作ってきたこと。
その積み重ねが、今の自分につながっているのだろうか。
「じゃあ、もっと練習したら、もっと上手になるんですか?」
「ああ。新しい味を考えたり、生地を変えてみたりするのも経験になる」
「分かりました!」
思わず、声が弾んだ。
もっと上手になれる。
もっとおいしいものを作れるようになる。
そう考えるだけで、わくわくした。
自分にどんなジョブがあるのかは、まだ分からない。
でも、今できることを続けていけば、きっと何かが見えてくるはずだ。
私は、もう一度、自分の手を見た。
この手で、これからどんな料理を作れるようになるのだろう。
少しだけ、未来が楽しみになった。
♢♢♢♢♢
話が終わったあとも、私はピザのことを考えていた。
最初は、カイが好きだったという料理を作ってみたかっただけだった。
それが、今ではたくさんのお客さんに食べてもらえるようになった。
自分の作ったものを喜んでもらえる。
それは、思っていた以上に嬉しいことだった。
そして、ロイドさんから聞いたジョブとスキルの話。
まだ分からないことは多いけれど、料理をすることが、もっと楽しくなった。
これからも、いろいろ試してみよう。
もっとおいしいピザを作りたい。
新しい味にも挑戦したい。
そして、いつかカイに、今までで一番おいしいピザを食べてもらおう。
そう心に決めて、私は次の仕込みのことを考え始めた。
明日も、パンを焼こう。
そして、ピザも。
今まで以上に、おいしいものを作れるように。
♢♢♢♢♢
エドモンドさんは、パン屋の常連だった。
いつも決まったパンを買っていく。
店に来ると、穏やかな笑顔で挨拶をしてくれる。少し寂しそうな顔をすることもあったけれど、私にはいつも優しいおじいさんだった。
セシリアさんが亡くなってから、半年。
エドモンドさんは、それまでと変わらず店に来ていた。
いつものパンを選び、代金を払い、私と少し話をして帰っていく。
けれど、ときどき、ふと遠くを見るような表情をすることがあった。
そんなとき、私はなるべく明るく声をかけていた。
「エドモンドさん、ちゃんと食べてますか?」
「はは、食べているよ」
「本当ですか? 無理してません?」
「大丈夫だよ。娘が毎日、夕食を作りに来てくれるからね」
そう話すときのエドモンドさんは、少しだけうれしそうだった。
私は、その表情を見るとほっとした。
セシリアさんがいなくなっても、エドモンドさんには娘さんがいる。
気にかけてくれる人がいる。
それでも、長い間一緒に暮らしてきた人がいなくなるというのは、きっと寂しいことなのだろう。
私には、その気持ちがすべて分かるわけではない。
けれど、大切な人がいなくなる寂しさなら、私にも覚えがあった。
♢♢♢♢♢
私が3歳の頃、父は亡くなった。
村を襲ったスタンピード。
たくさんの魔物が押し寄せる、恐ろしい災害だったと聞いている。
父は、私を守るために命を落とした。
けれど、当時の私は、何が起きたのかも、なぜ父が帰ってこないのかも、よく分かっていなかった。
スタンピードという言葉の意味も知らなかった。
父が何と戦い、何を守ろうとしたのか。
どうして、もう会えなくなってしまったのか。
幼い私には、理解できなかった。
ただ、父がいなくなった。
それだけは、分かっていたのだと思う。
父がいないことが当たり前になっていく一方で、周りの大人たちが父の話をするとき、少しだけ表情を曇らせることがあった。
母がどんな気持ちで私を育ててくれたのかも、今なら少しは想像できる。
私は父のことを、はっきりと思い出せるわけではない。
一緒に過ごした時間も、覚えていることは多くない。
それでも、父がいない寂しさは、ずっと私の中に残っていた。
だからだろうか。
エドモンドさんが、セシリアさんのことを思い出しているような顔をすると、私は何となく気になってしまった。
本当は、もっと話を聞いてあげた方がいいのかもしれない。
でも、無理に聞き出すこともしたくなかった。
だから、私はいつもどおりに接することにした。
パンを渡して、少し話をして、笑ってもらう。
それくらいしかできないけれど、いつもの時間を変えずにいることも、何かの支えになるかもしれない。
そう思っていた。
♢♢♢♢♢
その日の深夜。
窓の外から、人の行き交う気配が伝わってきた。
こんな時間に、何かあったのだろうか。
気にはなったけれど、詳しいことは分からない。夜も遅かったので、私はそのまま休むことにした。
けれど、翌朝。
店を開けるために外へ出ると、村の様子がいつもと違っていた。
道を急ぐ人がいる。
何人かで集まり、心配そうに話している人たちもいる。
昨夜の騒ぎは、まだ続いているようだった。
何かあったのだろうか。
私は気になりながら、いつものように店の準備を始めた。
しばらくすると、常連のお客さんが店にやってきた。
「おはようございます」
挨拶をしながら、私は気になっていたことを尋ねた。
「……あの、今朝は村の様子が慌ただしいですけど、何かあったんですか?」
お客さんの表情が曇った。
「エドモンドさんが、行方不明になったんだよ」
「……え?」
思わず、聞き返していた。
「昨日の夜、川に落ちたらしい。夜通し探しているんだが、まだ見つかっていないそうだ」
頭の中が、真っ白になった。
エドモンドさんが?
昨日も、いつもどおり店に来ていたのに。
決まったパンを買って、穏やかに笑っていたのに。
「……まだ、見つかっていないんですか?」
「ああ。今も、村の人たちが探しているよ」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
どこにいるのかも分からない。
無事なのかどうかさえ、分からない。
私は、手にしていた布を強く握りしめた。
どうか、無事でいてほしい。
また、いつものように店に来てほしい。
いつものパンを買って、少し困ったように笑いながら、娘さんの話をしてほしい。
次に会えたら、ちゃんと食べているか、また聞こう。
無理をしていないか、確かめよう。
だから、お願い。
無事でいて。
私は、心の中で何度も願った。
♢♢♢♢♢
けれど、3日後。
エドモンドさんが、川で見つかったという知らせが届いた。
亡くなっていた。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返された。
いつも店に来てくれていた人が。
優しく話してくれた人が。
もう、いない。
父が亡くなったとき、私はまだ3歳だった。
何が起きたのかも、なぜ父が帰ってこないのかも、よく分かっていなかった。
けれど、大切な人がいなくなるということだけは、幼いながらに感じていたのかもしれない。
そして今、エドモンドさんも帰ってこない。
もう、いつものようにパンを買いに来てくれることはない。
私は、唇を噛みしめた。
そのうえ、3日間、川を流されていたらしく、身体もひどく傷ついているという。
家族は、最後に顔を見ることさえ難しい状態だと聞いた。
胸が苦しくなった。
どうにかできないのだろうか。
せめて、最後にもう一度、顔を見せてあげたい。
家族が、エドモンドさんの顔を見て、ありがとうと伝えられるように。
一緒に過ごした時間を思い出しながら、最後のお別れができるように。
私にできることは、何だろう。
考えるより先に、答えが浮かんだ。
カイだ!
カイなら、何かできるかもしれない。
亡くなった人の身体を整え、残された人が最後の時間を過ごせるようにしてくれる。
私が知っているカイの仕事は、そういう仕事だ。
今度も、きっと何かできるかもしれない。
できるかどうかは、分からない。
それでも、何もしないまま諦めたくなかった。
私は、落とした布を拾うことも忘れ、店を飛び出した。
エドモンドさんの家族に、最後に顔を見せてあげたい。
もう一度、あの穏やかな顔で眠らせてあげたい。
そんな願いを胸に、私はカイのもとへ走った。
♢♢♢♢♢
「カイ!」
勢いよく扉を開けると、カイが驚いた顔で振り返った。
「ミーナ? どうしたの?」
私は息を整える間もなく話した。
「エドモンドさんが……見つかったの」
カイの表情が変わった。
「……そうか」
「でも、三日間も川を流されていて、身体がひどく傷ついているって……」
言葉が詰まった。
思い出すだけで、胸が苦しくなる。
「家族が、最後に顔を見たいって……。でも、このままじゃ……」
カイは、黙って聞いていた。
私は、思わず彼の袖をつかんだ。
「カイ。お願い。なんとかして……」
カイは、私の手を見て、それから顔を上げた。
「……分かった。行こう」
その言葉を聞いて、少しだけ息ができた気がした。
カイなら、何かできるかもしれない。
そう思いたかった。
エドモンドさんのためにも。
残された家族のためにも。
私は、カイと一緒にエドモンドさんの家へ向かった。
第7話「まるで眠っているみたい」
エドモンドさんの家に着くと、マリアさんたちが玄関で待っていた。
「カイさん……」
マリアさんの目は赤く腫れていた。
「来てくださって、ありがとうございます」
「いえ。できる限りのことをします」
カイはそう答え、家の中へ入っていった。
私も、その後に続いた。
居間には、エドモンドさんの身体が安置されていた。
白い布が掛けられている。
そのそばには、ダニエルさんとフェリクスくん、ナタリーちゃんが立っていた。
いつもパン屋に来てくれていたエドモンドさんが、もう動かない。
その事実を改めて突きつけられ、胸が苦しくなった。
「……ミーナちゃんも来てくれたんだね。ありがとう」
マリアさんが、目元を押さえながら言った。
「うん。私も、エドモンドさんを見送るお手伝いがしたくて」
私はマリアさんの顔を見つめ、そっと続けた。
「何かできることがあればと思って。うまく言葉にできないけど……私も、ここにいますから」
「……ありがとう」
マリアさんは小さく頷いた。
私はそれ以上何も言わず、家族のそばに静かに立った。
今の私に、どんな言葉をかけられるだろう。
大切な人を失った悲しみを、簡単に慰めることなんてできない。
だからせめて、ここにいようと思った。
みんながエドモンドさんと最後の時間を過ごせるように。
♢♢♢♢♢
カイは道具を置き、白い布をそっとめくった。
その下に見えた身体に、思わず息が詰まった。
損傷は激しかった。
川に流され、三日もの間、冷たい水にさらされていた。
顔にも身体にも、元の姿をとどめていない部分がある。
家族が最後に顔を見ることさえ難しい状態だった。
私は、思わず目を伏せた。
昨日まで、いつもどおりにパンを買いに来てくれていた人なのに。
もう一度、あの穏やかな笑顔を見たかった。
けれど、今の状態では、それさえ難しいのかもしれない。
そんな思いが胸をよぎったとき、カイの声が聞こえた。
「……大丈夫だ」
誰に向けた言葉なのかは分からなかった。
カイはエドモンドさんの顔を見つめていた。
「できることはある」
その声には、迷いがなかった。
カイは両手を身体のそばに置き、静かに息を整えた。
指先に意識を集中する。
すると、いつも身体を整えるときに感じるものが、胸の奥から指先へと流れていった。
最初は、かすかな熱だった。
それが徐々に強くなり、指先から淡い光がこぼれ始めた。
「……え?」
思わず、小さく声が漏れた。
光はカイの指先を離れ、エドモンドさんの身体を包み込んでいく。
白い布の上に、細い光の筋が幾重にも広がった。
まるで、見えない糸が身体の輪郭をなぞっているようだった。
光が通った場所から、少しずつ形が整っていく。
損傷していた部分が、本来あるべき姿を取り戻していく。
ただ傷を隠しているのではない。
カイは身体の状態を確かめながら、少しずつ修復していた。
私は、目の前の光景から目を離せなかった。
どうして、こんなことができるんだろう。
亡くなった人なのに。
もう、生きているわけではないのに。
それでも、カイの手が触れたところから、少しずつ穏やかな姿へと変わっていく。
不思議だった。
そして、何よりも、エドモンドさんの顔が再び見られるかもしれないと思うと、胸の奥に小さな希望が生まれた。
「……すごい」
フェリクスくんが、思わず呟いた。
ダニエルさんも、目の前の光景から目を離せないようだった。
マリアさんは口元を押さえ、ナタリーちゃんは私の手をぎゅっと握っていた。
その小さな手には、強い力がこもっていた。
私は、そっと握り返した。
大丈夫だよ。
そう伝えたかったけれど、声にはできなかった。
やがて、光はさらに強くなった。
部屋の中が淡い白色に満たされる。
窓から差し込む夕日の色さえ、薄れて見えるほどだった。
それでも、不思議と熱さはない。
強い風が吹くわけでも、何かが壊れるわけでもない。
ただ、静かな力が、エドモンドさんの身体を包み続けていた。
私は、その光の中にいるカイを見つめた。
額には汗がにじんでいた。
それでも、手を止めることなく、最後まで丁寧に作業を続けている。
どれほど集中しているのだろう。
どれほどの力を使っているのだろう。
私には分からなかった。
ただ、カイがエドモンドさんのために、全力を尽くしていることだけは伝わってきた。
やがて、指先に集まっていた光が、ゆっくりと弱まっていった。
そして――。
すべての光が、音もなく消えた。
部屋に、いつもの夕暮れの光が戻る。
カイは、ゆっくりと手を下ろした。
「……終わりました」
声を出したカイは、少し息が乱れているようだった。
私は心配になり、そばへ近づいた。
「カイ、大丈夫?」
「ああ。少し集中しただけだ」
そう答えたカイの額には、まだ汗がにじんでいた。
無理をしていないだろうか。
そう尋ねたかったけれど、今は、まずエドモンドさんの姿を確かめたかった。
カイも、エドモンドさんへ目を向けた。
そこには、穏やかな顔があった。
傷ついていたはずの身体も、元の姿を取り戻したかのように整えられている。
まるで、静かに眠っているみたいだった。
私は、思わず息を呑んだ。
もう、目を開けることはない。
それでも、そこにいるのは、私が知っているエドモンドさんだった。
いつも穏やかに笑い、決まったパンを買っていく、あのおじいさん。
もう一度、その顔を見ることができた。
それが、何よりもうれしかった。
♢♢♢♢♢
「……こちらです。お顔を見ていただけますか」
カイに促され、マリアさんたちがエドモンドさんのそばへ近づいた。
そこには穏やかな顔をしたエドモンドさんが横たわっていた。
「……お父さん」
マリアさんが、そっと呼びかけた。
その声は震えていた。
いつもの顔に戻った父親を見て、マリアさんは、もっと話しておけばよかったと涙ながらに悔やんだ。
母親が亡くなってからも、毎日食事を作りに来ていた。それでも、父親が本当は何を思っていたのか、十分に聞けていなかったのではないか。
そんな後悔が、言葉になってあふれていた。
ダニエルさんは、泣き続ける妻の肩をそっと抱いた。
フェリクスくんも、祖父にもっと昔の話を聞きたかったと、悔しそうに顔を伏せた。
いつでも聞けると思っていた。次に会ったときでいいと思っていた。
けれど、その「次」は、もう来ない。
ナタリーちゃんも、祖父がまた来ると約束してくれたことを思い出し、泣いていた。
いつも約束を守ってくれたおじいちゃんが、もう帰ってこない。
幼い彼女の悲しみが、その言葉から伝わってきた。
私は、みんなの様子を見つめていた。
もっと話したかった。
もっと一緒にいたかった。
家族それぞれに、伝えられなかった想いがあるのだろう。
私には、その悲しみを消すことはできない。どんな言葉をかければいいのかも、分からなかった。
それでも、ナタリーちゃんのそばに寄り、そっと手を握った。
今は、ただ一緒にいることしかできない。
エドモンドさんの穏やかな顔を見つめながら、私は思った。
カイがしてくれたことは、ただ身体を整えただけではない。
家族が最後に顔を見て、伝えたかった想いと向き合う時間を作ってくれたのだ。
その時間が、みんなの心に残ってくれたらいい。
私は、静かに家族のそばに立ち続けた。
♢♢♢♢♢
そのとき、カイが窓際に置かれた揺り椅子に目を留めた。
古い椅子だった。
木の表面には細かな傷があり、脚には何度も修理した跡が残っている。
それでも、丁寧に手入れされてきたことが分かった。
マリアさんが教えてくれた。
その椅子は、若い頃のお父さんが、お母さんの誕生日に作って贈ったものだという。
上手な出来ではなかったらしい。
それでも、セシリアさんはとても喜び、長い年月、大切に使い続けていたそうだ。
壊れたところがあれば、エドモンドさんが何度も直した。
私は、椅子を見つめた。
二人が過ごしてきた時間が、今もそこに残っているような気がした。
カイはマリアさんに許可をもらい、そっと椅子に触れた。
すると――。
カイの表情が変わった。
「……?」
何かに気づいたように、目を見開いている。
「カイ……?」
声をかけようとした、その瞬間だった。
目の前の景色が揺らいだ。
「……えっ?」
部屋の中に、見知らぬ光景が広がっていく。
そこにいたのは、若いエドモンドさんだった。
慣れない手つきで木を削り、何度も形を確かめながら、椅子を作っている。
その隣には、若いセシリアさんがいた。
完成した椅子を見て、嬉しそうに笑っている。
エドモンドさんが何かを話すと、セシリアさんは楽しそうに笑い返した。
木を削る音も、笑い声も。
まるで、その場に二人が本当にいるかのようだった。
……な、何……これ……?
私は思わず後ずさりかけた。
どうして?
さっきまで、ここはエドモンドさんの家だったはずだ。
なのに、目の前には若い二人がいて、私はその姿を見ている。
夢でも見ているのだろうか。
いや、違う。
これは夢なんかじゃない。
二人の声が、こんなにはっきり聞こえるのだから。
そのとき、ロイドさんの言葉が頭をよぎった。
カイには、故人に関わるものから、声や過去の光景を感じ取ることがある。
そんな不思議な力があるのだと、以前聞いたことがあった。
でも、まさか――。
これが、ロイドさんの言っていたスキルの力なの?
私は、信じられない思いでカイを見た。
カイ自身も、驚いたような顔をしていた。
まるで、彼にも何が起きているのか分かっていないようだった。
それなのに、目の前の光景は消えない。
若いエドモンドさんが、不器用ながらも椅子を完成させる。
セシリアさんが、贈られた椅子に腰を下ろし、嬉しそうに揺れてみせる。
二人は顔を見合わせて笑った。
やがて、光景は少しずつ移り変わっていった。
年を重ねた二人。
椅子に座るセシリアさんと、その隣で修理をするエドモンドさん。
何年も、何十年も。
二人が一緒に過ごしてきた時間が、次々と目の前に現れる。
私は、息をするのも忘れて見つめていた。
ただ古い椅子だと思っていた。
けれど、そこには二人が共に過ごしてきた日々があった。
笑い合った日も。
何気なく言葉を交わした日も。
きっと、私たちには分からない二人だけの思い出も。
それが今、目の前に広がっている。
……すごい……
どうして、こんなことが起きるのだろう。
椅子に触れただけなのに。
そこに、二人の記憶が残っていたのだろうか。
それとも、カイの力が、椅子に込められた想いを呼び起こしたのだろうか。
分からない。
何も分からないけれど、目の前の光景が、二人の大切な時間なのだということだけは伝わってきた。
私は、胸がいっぱいになった。
エドモンドさんとセシリアさんは、こんなにも長い時間を一緒に過ごしてきたのだ。
そのことが、ただ、うれしかった。
やがて、二人の姿が淡くなり、声も遠ざかっていった。
気づけば、目の前には元の部屋が戻っていた。
窓際には、古い揺り椅子が静かに置かれている。
私は、しばらく動けなかった。
カイは椅子から手を離し、少し疲れた様子で息をついた。
マリアさんが、震える声で尋ねた。
「……今のは、カイさんが?」
マリアさんの問いに、カイは少し考えるように間をおいてから答えた。
「俺には、故人に関わる物に触れると、その人の声が聞こえたり、昔の光景が見えたりすることがあるんです。そういうスキルがあるみたいで……」
そう説明しながら、カイは窓辺の椅子に目を向けた。
「でも、今回のように、皆さんにも同じ光景が見えたのは初めてです。俺も驚いています」
カイの表情からは、本人も何が起きたのか分かっていない事が伝わってきた。
私は、もう一度、揺り椅子を見つめた。
さっきまで、ただ古い椅子だと思っていた。
けれど、あの光景を見た今は違う。
あの椅子には、エドモンドさんとセシリアさんの大切に積み重ねてきた時間があったのだから。
私は、そっと胸に手を当てた。
驚きは、まだ消えていなかった。
ロイドさんが話していた、カイの不思議な力。
あれは、本当に存在するものだったんだ。
そして、今の光景は、その力の一部なのだろうか。
考えても、答えは出なかった。
ただ、二人が一緒に過ごしてきた日々を、ほんの少しだけ見せてもらえたような気がした。
私は、もう一度、揺り椅子に目を向けた。
……大切にされてきたんだね。
心の中で、そっとつぶやいた。
そのとき、ふとカイの横顔が目に入った。
真剣な表情で、まだ椅子を見つめている。
何が起きたのか分からなくても、故人の想いに少しでも触れようとしている。
そんなカイの姿を見ていると、胸の奥がまた、くすぐったくなった。
……やっぱり、かっこいい。
こんなときに、何を考えているんだろう……。
私は、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
でも、仕方がない。
カイは、やっぱりカイなのだ。
♢♢♢♢♢
そのあと、カイがエドモンドさんの声を聞いたと話してくれた。
「あの人の席は、空けておいてくれ」
その言葉を聞いたとき、私は窓際の揺り椅子を見た。
セシリアさんが座っていた場所。
エドモンドさんが、何度も修理しながら大切にしてきた椅子。
そこには、二人が一緒に過ごしてきた時間が残っていた。
マリアさんは、涙を流しながら椅子を見つめていた。
そして、家族はその椅子を残すことにした。
これからも、セシリアさんの席を空けておく。
それは、亡くなった人を忘れないためだけではない。
二人が一緒に生きてきた時間を、大切にするためなのだと思った。
私は、静かにその光景を見守った。
亡くなった人は、もう戻ってこない。
それでも、残された人たちの中には、その人と過ごした時間が残っている。
椅子にも、家にも、思い出にも。
そして、ときには、カイの不思議な力によって、その想いが形になることもある。
私には、まだ分からないことばかりだ。
カイの力も。
自分にあるかもしれない力も。
でも、ひとつだけ分かったことがある。
人が亡くなったあとも、その人が誰かを大切に思っていたことは、消えないのだ。
それは、きっと、残された人たちがこれから生きていくための支えになる。
私は、窓際の椅子をもう一度見た。
空いている椅子。
けれど、そこには二人の時間が、確かに残っていた。
♢♢♢♢♢
エドモンドさんの家を出る頃には、気持ちが少し落ち着いていた。
悲しい出来事だった。
それでも、最後に家族がエドモンドさんの顔を見て、言葉を交わすことができた。
そして、揺り椅子に残されていた光景を通して、エドモンドさんとセシリアさんが過ごしてきた時間にも触れることができた。
帰り道、私はカイの隣を歩いていた。
「……カイ」
「ん?」
「今日は、ありがとう」
カイは、少し驚いたようにこちらを見た。
「俺は、仕事をしただけだよ」
「うん。でも、それだけじゃないと思う」
私は、少しだけ笑った。
「家族のみんな、最後にちゃんとお別れできたから」
カイは、しばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「……そうだね」
この人は、きっとこれからも、亡くなった人と、その家族に向き合っていくのだろう。
そんなカイを、これからも近くで見ていたい。
……もちろん、ちゃんとご飯を食べているかも確認しながら。
「ねえ、カイ。帰ったらピザを食べていかない?」
「……ピザ?」
カイが、ぱっと顔を上げた。
「うん。焼きたてを用意しておくから!」
「本当か? それは楽しみだな」
さっきまで真剣な顔をしていたカイが、嬉しそうに笑った。
その表情を見て、私も笑顔になる。
「ふふっ。じゃあ、たくさん焼いておくね」
「いや、そんなに食べられないぞ」
「そう? この前はおかわりしてたのに?」
「……あれは、うまかったからだ」
少し照れたように答えるカイを見て、思わず笑ってしまった。
いつものやり取り。
いつもの帰り道。
でも、今日見たものは、きっと忘れない。
私には、まだ分からないことばかりだ。
自分のジョブのことも、カイの不思議な力のことも。
それでも、今は自分にできることを続けていこう。
私はパン屋の娘として、おいしいパンを焼く。
カイは弔い屋として、亡くなった人を送り出す。
そして、いつか。
聖都にも行ってみたい。
カイと一緒に。
……なんてね
「……どうした?」
「ううん、何でもない!」
慌てて首を振ると、カイは不思議そうな顔をした。
「……ピザ、楽しみにしててね」
「ああ。期待してる」
カイは、嬉しそうに頷いた。
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